玄文講

日記

生産性(1)「その定義」

2004-11-07 17:13:11 | 経済
経済において重要な概念は「生産」である。
なぜなら生産性を高めることが国力の増大と国民の福祉に直接つながるからであり、一国の経済力、進歩、生活水準の豊かさは生産力によって測られるからである。

つまり生産性が高まれば景気が良くなり、人々が豊かになり、私たちは綺麗な服を着て、うまい飯を食べて、快適な家で暮らし、娯楽に興じることができるようになる。

つまり生産性が高まれば、阿鼻叫喚の苦悶にのたうちまわる亡者どもの住むこの汚泥にまみれた畜生界は、天空から一条の光が射し込み、世界は天使たちにより祝福され、小鳥が歌い、美しい花が咲き乱れ、亡者の魂は昇華して行き、人々が笑顔と寛容の心で互いに慈しみあう美しきエルドラドとなるのである。

幸せは「生産性の向上」の中に詰まっているのだ。
マジメな方は、「精神の充足こそが幸せにつながり、お金は必ずしも人を幸せにしない。貧しくとも人情味にあふれ、のんびりと生を楽しみながら生きている人たちがいる一方で、時間に追われ競争に心身ともに疲れ果てた金持ちたちは何て不幸そうなことか」なんておっしゃることだろう。
しかし、である。衣食住足りて礼節を知る。生活に困るほどの貧しさは人の心を荒廃させるということも確かな事実である。

飢えて人肉さえ食べざるをえない北朝鮮、平均寿命がわずか40歳のシエラレオネ、内紛と飢餓に苦しむサブサハラアフリカ。これらの貧しき人々は生を楽しむ人々と呼べるだろうか?

もしこれらの国々の生産性が向上すれば、かの国の人々に衣食住を与え人間らしく生きることを可能にさせられるのである。
だから「パンがなければ聖書を読めばいいじゃない」というような考え方は傲慢でさえある。彼らに最も必要なのは精神の充足でもなければ、神の愛でも民主主義でもない。
生産性の向上!生産性の向上!生産性の向上!ただひたすらにそれだけである。

紙面を派手に飾り、世の一大事として議論される貿易や金融投資も「生産」という概念に比べれば一段劣るテーマでしかない。

はた目にはまるで理解できない複雑怪奇な財政政策も、その最終目的は生産性の向上という単純なものである。

ではこの生産性はどのような仕組みで向上したり停滞したりするのだろうか?それさえ分かれば、生産性を高めて世界をバラ色の未来に案内する方法も分かるかもしれない。

低すぎる生産性を高める方法はある程度分かっている。
それは物理的資本(機械設備)と教育への大規模な長期的投資、自由な開放経済、そして政治の安定である。
しかし20点の答案を50点にするのは簡単でも、80点の答案を100点にするのは難しい。
アメリカや日本のような先進国の生産性の伸び率は低下していて、しかもその停滞の理由も回復の方法もまったく分かっていない。
だから「生産性の向上は大事だけれども手の施しようがない」ということになっているのである。

ならば私たちは生産性について何を議論できるだろうか?
とりあえず、するべきことは定義することである。今まで何の説明もなく「生産」という言葉を使ってきたが、それを数値化したり、統計を取ったり、科学的な因果関係の分析を行うためには明確に「生産」の中身を定義しなくてはいけない。
その定義こそが{GDP(国内総生産)}である。そして一定期間のGDPの統計を取ったものが、一国の経済力を測る{国民経済計算(SNA)}http://www.amy.hi-ho.ne.jp/umemura/main.htmである。

GDPとは読んで字のごとく国内で生産されたモノの総数である。
このモノの中身は具体(車、本などの財)も抽象(給仕、レジ係、受付などのサービス)も含む。
また市場で取り引きされた財やサービスは含むが、市場の外での行為である家事や麻薬取り引きは含まない。
政府の提供する行政サービスは市場とは関係ないが含める。
自分の店や畑で生産したものを自分で消費した場合、それは自分に購入された市場へ出た生産物とみなしGDPに含める。
持ち家は自分が自分から借りている借家とみなしてGDPに含める。しかし土地は国内でどれだけ売買されたとしても新しい土地が生産されたわけでもないのでGDPには含まれない。
日本人が海外で生産したものは含まないが、外国人が国内で生産したものは含む。

こうして見ると、私たちの労働の少なくない部分がGDPからはじかれてしまうことが分かる。
国連によると世界の「生産」の三分の一が非公式なもので、そのうちの三分の二が女性の家事や育児労働であるという。
また地下経済や副業も公式の生産には含まれず、アメリカでは9%、イギリスでは11%、ナイジェリアは公式のGDPの四分の三に等しい生産が地下でなされている。

GDPはこのように取りこぼしの多い統計ではあるが、それでも現実の富の度合いを測るには適していることが分かっている。

また総生産数は新たに生み出された付加価値の総和でなくてはいけない。
例えば5万円の材料でパソコンを作り、20万円で売れたとする。この場合、新しく生産された価値は材料費を除いた15万円である。つまり付加価値は15万円である。5万円は中間投入物と呼ばれ、それは部品屋の生産した付加価値となる。

総生産数 = Σ(付加価値) = 最終生産物

以上をまとめるとGDPとは「国内で生産された全ての付加価値を市場価格で評価して合計した金額」ということになる。

GDP(国内総生産)はもちろん生産を表現する唯一の手段ではない。
GNP(国民総生産)は「国民が生産した全ての付加価値を市場価格で評価して合計した金額」、つまり日本人が生産した付加価値の総和であり、日本人が海外で生産したものは含めるが、外国人が国内で生産したものは含めない。
しかしこの2つの差はGNPの0.8%でしかなく、ほとんど同じと言える。

また機械設備の消耗は生産の低下とみなし「固定資本減耗(げんもう)」と呼び、それをGDPから引いたNDP(国内純生産)というものもある。

(続く)