玄文講

日記

怪談批判

2004-11-16 20:23:09 | 怪しい話
私は怪談話が好きである。科学を学んでいるくせに幽霊や怪奇現象が好きだと言うと、矛盾していると思われるかもしれない。
しかし私は幽霊を信じているわけではない。私は、死は永遠の闇であると予想している。
(正確に言えば幽霊が人間の魂であるという説を信じていない。「幽霊」という現象ならば私も何度か観測している。)

私が怪談話を好きなのは「怪しいもの好き」ゆえである。つまり私が求めているのは娯楽としての怪談話なのである。

ところで、これは私見なのだが、幽霊を信じていない人ほど面白い怪談話を語れるという傾向があるような気がする。
ネクロノミコンなどの出てくる暗黒神話シリーズを書いたラブクラフトという怪奇小説家も神秘現象を一切信じておらず、「怪奇を信じていないからこそ面白い怪奇小説が書けるのだ」と豪語していたという。

逆にひどくつまらないのは「自称・霊感のある人間」の語る怪談話である。
それが何故つまらないかをうまく表現している文章があったので、以下に引用したいと思う。

■『霊能力肯定形』■

…これを「系」としてくくるのは、
その「該当作品の多さ」から適切では無いか?
とも悩んだのだが、あえてくくってみることにしました。

宗教系、女子中高生を中心に人気があり、幅広い作品群を誇ります。
…が、その根底には、
自分が霊能力を持っていると思い込むことによる
「他人との擬似的差別化による優越感」
「ゆがんだ選民思想」しか無く、 実生活の中で自分の生き方・役割を見つけられなかった連中の逃げ場所である『霊能力』というものを肯定し、いつわりの安心感を得る(与えている)に過ぎない、「怪談」と呼ぶのもはばかられる代物ばかりです。

…この手の怪談の発信者の特徴として、
『霊能力』を否定する人間に対する攻撃的なまでの反論・反撃があげられます。
これは当然のことで、彼らは言わば「霊能力」というロープのみにしがみついて崖っぷちに立っている状態なのです。

強風が吹き荒れる現実社会の中で、このロープから手を離してしまえば、もはや自分には何も残らないという危機感・焦燥感が彼らを吼(ほ)えさせます。

…彼らに求められるのは、ロープからちょっと手を離してみる勇気です。
風は、自分達が恐れていたほどは強くないかも知れないし、そもそも、自分達が立っていた所は本当は崖っぷちではないのかも知れないのですから。


「うへーい」http://www.alpha-net.ne.jp/users2/uheei/Hihyou_G/G_学校であった怖い話.html

呉智英という評論家はこういう霊感人間が芸術系の大学生に多いことを指摘している。
氏によると、自分の能力の限界を知ったエリート学生が霊感人間になりやすいと言う。
しかし理系や法律、経済系の学生は、めったに霊感人間になったりはしない。なぜなら理系の人間は社会で役に立つので、彼らは挫折感も経験したエリートとして実社会で活躍できるからである。しかし芸術系の学生にはそんな社会の受け皿はない。ミューズの女神に好かれてこそ彼らの存在には価値があるのだ。
だから挫折した芸術家は自分の存在意義を「幽霊を見ること」で回復しようとする。
そんな幽霊の見えるエリート能力者様が、無能な者どもにご高説をのたまう話が面白いわけがないのである。


もう一つ私が嫌いなのはオウム事件のあとに急に増えた「良い話し系」の怪談である。
あのオウム事件は雑誌、テレビから一時期、完全にオカルト話を追放した。しかしそれ以降、何故か「感動できる話にすればいいでしょう」とでもいった感じに「良い話し」でオチをつけてくる怪談話がやたらと流布しだしたのである。
これも先のサイトで次のように批判されている。


■『あったかぽかぽか系』■

…昨今の日本の怪談でけっこう幅をきかせているジャンルです。
話の特徴としては、

「悪霊に襲われたけど、『南無阿弥陀仏』と唱えたら死んだおばあちゃんのお守りが光って助けてくれた」
とか

「幽霊に取り付かれて散々恐ろしい目にあったけど、彼らがこの世に残した未練を断ち切れるように手伝ってあげたら、暖かい光となって天に帰っていった」
といった感じです。

…「死んでたって人間なんだから信じあえるはずだ」
という薄汚い理想にまみれた博愛主義は、さすがは幼少のみぎりより、 ТVの安っぽいお涙頂戴バラエティに感動して暖かい涙を流して喜んでいるお国柄だけのことはありますね。

…前者は怪談ではなく、ただの「ご都合アクション」です。

この手の話の決まり事は、『お守り』は最終アイテムであり、『南無阿弥陀仏』はアイテム発動呪文。

この2点だけです。

…それまで、どんなに恐ろしく不可解な災難に見舞われていても、『南無阿弥陀仏』と唱えるだけで後腐れなく万事解決してしまう手軽さは、 無能作家が、頭の悪い読者をだましてメシ代を稼ぐのに最適怪談小説家初心者にはお勧めです。

…それにしても『南無阿弥陀仏』で『お守り』発動とは、さすが神仏混合の国「日本」と言えましょう。

「コウモリさん助けて」と言ったらスーパーマンが飛んで来たり、クシャミをしたら壺から「アパラパー」とか言って大魔王シャザーンが出てきたのと同じぐらい、両者の関連性が無いのにねぇ。
例えが古くて申し訳ないですけど。


…で、後者は単なる「安っぽいヒューマニズム話」です。

『信頼』とは両者の付き合いの中から少しずつ築かれるものなのに、 「最初から相手を信じろ」という、「超」のつく平和ボケ国家ぶりが、 この手の話から滲み出ています。
…また、人間でないものに「真実の信頼」を求める心理の中に、つよい幼児性と現実逃避が見て取れます。

「霊」という (ありもしない) 特殊な存在と心を通わせる主人公を描くことによる、「(ありもしない) 自己の特別性」を満喫させるような話作りは、前述の『霊能力肯定型』と同じ部類と言えるかも知れませんね。


私ごときが追加するべきことの何もない素晴らしい批判である。


怪談話の持つ唯一絶対の価値は「怖い」ことにある。
「自意識の充足」や「感動」などは不要である。できれば「教訓」なんてものもないほうがいい。


ただし怖いと言っても、「この話を聞いた人はその夜に死ぬ」という類の怪談話は好きではない。
死という絶対的な恐怖を直接刺激するのは、子供だましである。
ちなみに一般のドラマなどでも「誰かが死ぬことで感動を呼ぶ話」が多いが、あれも私は嫌いである。
死というのは感情を激しく揺さぶる効果の強い題材だけに、安易に使うのは話し手としては2流である。
私が感じたいのは腹の底から悪寒が走るような恐怖であり、私はそういった堅実な怪談話が少なくなったことを悲しく思っている。