蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

羅甸語事始(三)

2005年03月28日 21時43分26秒 | 羅甸語
膠着語、屈折語という言い方がある。膠着語とは文字通り「くっ付く」ということで、日本語はこれにあたる。『私が学ぶ』という文は主語である一人称代名詞「私」に主格助詞「が」がくっ付くことで人称代名詞の主格を形成する。一方屈折語とはくっ付くのではなく語そのものが変化してしまう言語のことであり、印欧語族はその代表なのであって、例えばドイツ語で『私が学ぶ』はIch lerne.となる(この場合はlernenを自動詞として使用している)。ここで注目すべきはichでありつまりichで一意的に「わたしは」の意味となる。仮に「私に」とする場合にはmirとなる、つまり語自体が変化(屈折)するのである。蛇足ながら「わたしは」ichはnominativ(主格)であり「私に」mirはdativ(与格)である。1格とか3格という呼称は最近では使用しない。
などと偉そうに書いたがもちろん言語学の本からのパクリです。さて、ラテン語も印欧語族の言語なので性、数、格変化や時制、法、態による語の変化がある。前述の一人称代名詞でいうならばego,mei,mihi,me,meでそれぞれ主格、属格、与格、対格、奪格に対応する。さらにlernanに対応するdisco(伝統的に不定詞discereを見出語には使用しない)はdisco,discis,discit,discimus,discitis,discuntでこれは現在時制、直説法、能動態の場合の変化で「私は学ぶ」「あなたは学ぶ」「彼(彼女)は学ぶ」「私たちは学ぶ」「あなたたちは学ぶ」「彼ら(彼女ら)は学ぶ」という意味だそうだ。
確かに規則はあるのであって、まったく滅茶苦茶な変化はしないのではあるけれども、それにしてもいろいろな規則を覚えこまなきゃならないのが明らかとなった、まさに詰込み教育でもやらないことにはとても物になる言葉ではないなあ。古典語の勉強に怨念を抱いたヨーロッパ人たちの気持ちが判るような気がする。ところで彼らにとってのラテン語は日本人にとっての漢文のようなものだという人がいるが、それもちょっと違うのではないだろうか。だってそうでしょう、漢文ってのは文字は漢字だけれども読む際には明らかに日本語で読むのだから。
amo,amas,amat,amamus,amatis,amant,「私は愛する」「あなたは愛する」「彼(彼女)は愛する」「私たちは愛する」「あなたたちは愛する」「彼(彼女)は愛する」か、前途洋々だなあ。

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