蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

羅甸語事始(二)

2005年03月23日 23時11分24秒 | 羅甸語
さあ、さっそくラテン語の勉強だ、まずは発音から。どんな言葉でも発話が基本だから。そこで買ってきたのが白水社のCDエクスプレスラテン語。書名は勇ましいけど、なんの事はない普通の言語学習書、ただ違うのはCD付き(もっとも最近はこの手の入門書が結構出まわっている)。実はラテン語の発音が知りたくてこの本を選んだのだ。ラテン語の発音はイタリア語に近く(あたりまえだ。何しろ紀元ころのローマ辺りの言葉なのだから)したがって注意すべきはLとRの発音の違いくらいかと思っていたら、とんでもないことにかなり日本語とは違うのだ。例えばシ(S音)とかチ(chi音)とか。まあこれは予期していたところだ。よくバイリンガルの話す日本語に違和感を感じるがその典型は口蓋鼻音にある、つまりガ(ga音)。硬口蓋鼻音か軟口蓋鼻音かの違いですね。わたしたち日本語を母語とするものは間違いなく軟口蓋鼻音でガ(nga音)を発音するが、いわゆるくバイリンガルは硬口蓋鼻音のガ(ga音)を発音する。それで彼らの発音が刺々しく耳に響くのである。とはいうものの近頃では日本語を母語とする兄ちゃん姉ちゃんまでもがガ(ga音)を発音するから困ったものだ。
さてそれはそれとして、とにかく発音が簡単なのは嬉しいこと。フランス語の母音や、ドイツ語のR音、はたまたアラビア語に及んではついて行けないからなあ。と、ここまではなんとかクリアできた。しかし発音だけマスターしてもしようがない。わたしは演歌歌手になりたいのではないから。しかしそれにしても白水社のCDエクスプレスラテン語のCDに発音を吹き込んだのがどうもドイツ人らしいので(つまり名前からそう判断するのだが)やはりドイツ訛のラテン語といった感じがする。いっそのことイタリア人のほうが適任ではなかったのか。例えば日本の飛鳥地代の言葉を発音するのにはアメリカ人の専門家より日本人の国語学者のほうがそれらしい発音をするのではないだろうか。もちろんアメリカ人のほうがきれいな飛鳥言葉を発音できる可能性だって否定はできないのだが。
そんなわけで、今日はCDで発音を聞くところまで進んだ。

爾作麼生

2005年03月23日 18時24分09秒 | 彷徉
『アール・デコ』(Arts Deco)が1960年代後半になって様式史の用語として定着した、という事を最近刊行された吉田鋼市の著作「アール・デコの建築 合理性と官能性の造形」で知った。そうなのだ、1925年にパリで開催された『Exposition internationale des arts decoratifs et industriels modernes』(現代装飾芸術・工業美術国際博覧会)のときにはアール・デコは少なくとも様式史的には存在しなかったのだ。わたしはてっきりカッサンドラ自身がアール・デコという言葉を使っているものとばかり思い込んでいた。やはり本は読んでみるものだなあ。
実はこのような思い込みでとんだ間違いをしていることが偶さかある。例えばBWV、J.S.バッハの作品番号だがこの出現は意外と最近の出来事だ。Wolfgang SchmiederのThematisch-systematisches Verzeichnis der musikalischen Werke J.S.Bachs. Bach-Werke-Verzeichnis, Leipzicg 1950によって発表されたのは高々55年前のことだから。まあBWVがいつ出来たかよくわからなくとも、そのことで問題が生じることは先ずないだろうと思う。しかし次のような例は考えさせられる。
これはユングに関するある著作の中の記述だったが、「無原罪の御宿り」をイエズス・キリストの教義として論じられているのを見たことがある。カトリック教徒、いやキリスト教徒だったら「無原罪の御宿り」が聖母マリアについての教義であることは間違えようもない事柄なのだから、この著者がクリスチャンでないことは明白だが、それよりなによりユングの専門家という看板を掲げているこの人物が、確実に把握しておかねばならないキリスト教の教義について、どれほどお粗末な知識しか持ち合わせていないか、ということがさらけ出されたということは問題ではないだろうか。著者の名前はここで挙げないが件の本は朝日新聞社から出版されている。

汗牛充棟

2005年03月23日 05時32分32秒 | 古書
正当恁麼時で書いたのだが、宗教辞典七巻揃がまだ店頭に出ている。あれはわたしに買われたがっているのだろうか。実は数ヶ月前にやはりわたしに買われたがっていた群書索引三巻を十何年ぶりに購入したばかりなのだ。古書というのは不思議なもので、自分を買う客を選ぶことがある。まるでむかしの吉原の花魁みたようなのだ。たとえばこちらが気になっていた本が突然店頭から消えてしまうことがある。ついに誰かに買われてしまったのかと諦めていると、或る日突然棚に並んでいたりする。もちろんあの消えていた本が。いったいおまえは何処に行っていたのだと聞いてももちろん答えてはくれないのだが、わたしとしては少々安心する。そして何日か後、あるいは何年かのちにわたしの書架に納まることとなる。古書を買うには気合が必要なのだ。少々懐具合が寂しくとも、あるいは家計が火の車でも、ここ一番の決断をもって購入しなくてはならないときがある。もしその機会を逸すれば、恐らくその本を買う機会は二度とやっては来ない。
そこでいまわたしは大いに迷っている。宗教辞典七巻揃を買うべきか否か。もしまたあの店の前を通りかかったとき例の七巻揃がまだあったなら、それを買ってしまうかもしれない。

残月影徘徊

2005年03月21日 07時14分16秒 | 彷徉
福岡で地震があった。震度6弱というから、これは大きい。佐賀県唐津にはむかしむかし仕事でいったことがある。仕事でいったので名所旧跡を見物して回るひまは無かった。まあ。落ち着いた静かな町といった印象しかない。博多にも何度かいった。こちらは仕事もあったけれど、純粋に娯楽でいったこともある。夜の中洲などよい思い出だ。
一概に感じるのは、地方都市の夜の繁華街はなんとなくノスタルジックだということ。路地から路地へと永久に迷いつづけたくなるようなあの雰囲気には引かれるものがある。つまりどういうことかというと、一歩先、十メートル先、いや百メートル先を越えてその向こうには自分のまったく知らないロケーションが広がっていることに対する、不安そして期待。これは普段行動している圏内ではまず体験できない心的状況といえる。あの交差点の先にあるコンビニが何の謎もなくわたしの意識に広がるような、四方八方からのあらゆる視界が倦怠感とともに目の前に立ち現れるような、そんなところではあの昂揚感を味わうことはむずかしい。
飲み屋街の路地を抜け、国道を横断すると、そこには荒涼としたロンバルディアの平野が開けている。そんな世界を探しにわたしは夜の街に出かけて行く

羅甸語事始(〇)

2005年03月19日 20時51分03秒 | 羅甸語
自分が普段使っていない言葉を学ぶということは、別の世界を学ぶということなのだ。むかしむかしわたしが学校に通っていた頃、ある講義の先生が、どの言葉でもよいから学生のうちにひとつでも外国語を習得するようにと口を酸っぱくして言っていた事を思い出す。そうなのだ。何処の言葉でもよい、英語でもよければ、ヘブライ語、スワヒリ語、ケチュア語、とにかく何でもよいのだ。肝心なのは母語ではない言葉を学ぶという一点に在る。いままでの数少ない外国語学習の経験から言えることは、外国語が母語に翻訳できないということ、これに尽きる。例えば"This is a Pen"
これをたとえば正確に日本語に置き換えることができるだろうか。"This"は「これ」、ここまではよい。しかし"is"や"a"をどのような日本語に置き換えたらよいのだよいう。そもそも"This"は「これ」でよいのだろうか。"Pen"はもちろん筆ではない。今日では"Pen"の現物を手に取ることができるので直感的把握に支障をきたすことはないだろうが、しかし"This"、"is"、"a"については直感的把握はまず不可能だ。とすればここで構想力を駆使することになるきわめて主観的判断に頼らざるを得ない世界が開けてくる。そしてその時この新しい言語世界はわたしの主観において開けてくるのである。そうなのだ、翻訳とはこのようにかなりきわどいものなのである。そこでは翻訳者はこれら両世界にどれほど通暁しているかが鍵となる。
そこで今日からわたしはまったく別の世界の、それも死に絶えてしまった言語を学ぶことにした。とりあえずラテン語など、どうだろうか。古典ギリシャ語に比較すれば圧倒的に簡単だし、ヨーロッパ諸語の文法がそもそもラテン語文法に基づいて構築されているのであれば、これは入って行くのが楽である。そんなわけでこの後逐次わたしの学習状況を報告していこうと考えている。

古書巡礼

2005年03月18日 18時22分13秒 | 古書
藤沢の有隣堂で「第7回湘南フジサワ古書まつり」を開催していると聞いて、性懲りもなく出かけてしまった。散々期待を裏切られつづけているのに、またしてもいってしまうのだからこれはもう病気としか言いようがない。そしてまたしても不漁。とにかく品揃えが貧弱なくせに値段は結構高め。デパートなどの大型店舗内で催されるこの種の即売展が概して値が高いのは、いわゆるショバ代が加算されるからだと聞いている。駿河台下の東京古書会館、高円寺の西武古書会館、五反田の南部古書会館の古書展が安いのはショバ代が無いからか。でも最近はやや高めになってはきているようだ。「第7回湘南フジサワ古書まつり」に話を戻すと、古書というより古本を探すような客層とみうけた。それよりなにより近頃はこうした地方都市での古書展そのものに魅力がなくなっている。並んでいる商品は神保町でも見掛けるものばかりで、しかも神保町より高めとくれば、ほかにどんな魅力があるのだろう。残っているのは地方史資料かあるいはその土地のいわゆる文化人にまつわる資料くらいだが、それさえも在ればよいほうなのだ。地方色を打ち出すということは、なにも餃子や焼きソバで有名になることではないのであって、各地の古書店が商いできる経済的文化的環境を整えることが、いわゆる地方の本当の意味での活性化につながるのじゃあないだろうか。などと、ひさかたぶりにまじめに考えてしまった。

超現実主義

2005年03月16日 18時33分41秒 | 言葉の世界
久しぶりに、砧公園の世田谷美術館にいった。『瀧口修造:夢の漂流物』展が2月の5日から開催されているので観にいってみたのだ。瀧口修造自身、詩人・美術評論家なのだが、今回の展覧会は主に彼が生前所蔵していた現代芸術家達の作品で構成された展覧会となっている。ダリやデュシャンの作品にはいまさら驚きはしなかったものの、武満徹のクレパス画には少々見入ってしまった。小さな作品で暗く重々しいものだった。でもそのような絵を書く人間は、往々にして対人関係では明るいということを聞いている。会場には英語とフランス語と日本語がジャムセッションする書斎で椅子に腰掛けている瀧口の写真が展示されていたけれど、いかにも仕事をしているって感じの書斎で、それに比べて例えば「男の隠れ家」なんかで紹介されている「書斎」のなんと白々しいことか。
わたしの貧しい書架にも瀧口の「シュルレアリスムのために」があるのだけれども、まだ読んだことがない。ナドーの「シュルレアリスムの歴史」は読んだんだけどね。ひまを見つけて読んでみよう。

八衢彷徨

2005年03月15日 18時28分31秒 | 彷徉
裏道というからには、表道があるのであって、今されこんなことを聞かされる覚えは無いと、憤慨されるかもしれない。もちろんそのとおりなのだが、しかしこの表通りが盛っていないと実は裏通りの妖しさが引き立ってこない。最大公約数的人気を誇る表通りの喧騒にたいする、裏通りの玄人ぶった落ち着きがなんともたまらない。しかしこのような魅力的裏通りがどこにでもあるかとなると話は違ってくる。

我的自由人

2005年03月14日 21時33分18秒 | 言葉の世界
2005年1月15日に集英社新書から『懐かしのアメリカTV映画史』なる一冊が刊行された。わたしはこの中で取り上げられた作品すべてを浴びて育った人間だから、それぞれの番組に思い入れがある。
で、ここでわたしの個人的な嗜好に即して述べるならば、『プリズナーNo6』への言及がきわめて少ないのはなんとしたことか。このような名作はもっと言葉を尽くして、画像を尽くして議論されるべきである。この作品の何処がよいかというと、何よりも視聴者を納得させる結論がまったく無い点にある。簡単に言ってしまえば何がなんだかわからないのだが、そこがいいのですね。心地良いブレーンス・ストーミングといたところ。もちろんストーリーはある。しかもまったく単純なストーリー。なにやら政府の諜報部門と思しき所に所属する職員(パトリック・マグーハン)が、これもなにやら上司と思しき人物のデスクに、これもなにやら辞表と思しき書類を叩きつけて、粋なスポーツカーで自宅に帰ったところ、なにやら睡眠ガスで気絶させられ、気が付いたらなにやらリゾートホテルみたいな所にいて、何不自由なく暮らせるのに「I am a Free Man 」何ぞといってそこから逃げ出そうとするお話なんですなあ。この番組を始めてみた子供の頃は、囚われのの身から自由になろうとする英雄談くらいにみていたのだけれども、最近ビデオで見返してみると、どうもそれほど単純でもなさそうだな、と思えてきた。

運運命命

2005年03月13日 15時48分07秒 | 占術
昔々のあるひととき、わたしと同じ職場で働いていた人物が、いまプロの占い師になっている。当時は四柱推命が趣味の変わり者程度に見ていたのだが、まさかプロになるとは思わなかった。もっとも彼自身はその当時からプロになることを視野において、生活のすべてを営んでいたと、今となっては思い当たる節が多々ある。なにしろ職場のパソコンやプリンタを使って占い本の原稿を作っていたのだから。当然ながら、しばらくして彼は職場を去っていった。去っていったのか、去らされたのか、いずれにせよ、それも彼の覚悟の範囲だったのだろう。
ところでここから一般論になるのだが、占い師としての資質とはなんだろうか。恐らく最も必要なことが強烈な思い込みだということは、容易に納得できる。もっともこれはあらゆることについて言えるのではないか。それでは占い師固有の資質とはなにか。宝捜し、金鉱掘り。山師根性。風水でも四柱推命でも奇門遁甲でもよいが、彼らはこれらの正しさをその歴史性に還元する。しかしそのどれもが今の今まで有効であることが明白にはなっていない。この事実こそがあらゆる占いのナンセンスであることを証明しているではないか。