たわいもない話

かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂

深夜のたわごと

2015年01月30日 12時08分49秒 | 雲雀のさえずり

夜中にふと目が覚めた。

時計を見ると午前三時十五分だった。

すぐに頭に浮かんだのが、イスラム国に拉致された後藤健二さんの生死の事だった。

新聞、テレビ等で連日報道され始めてかなりの日数がたつ。

彼の生死はいったいどうなるのだろうか?

無事に解放されるのか、それとも、ヨルダン、日本、ならびに支援各国政府の懸命な努力にもかかわらず、彼の存在はこの世から消滅され「無」になってしまうのか。

「無」とは、一体とういう状態の事なのだろうかと考え始めた。

無念・無能・夢想・無上・無情・無常・無想・無心・無届・無頓着・無敵・無動・無知・無恥・無茶・無尽蔵・無礼講、無い、「無」のつく言葉は、まだまだ多くある。

この「無」の意味するものは一体どういうことだろう?

「無」について考えた。

「・ないこと ・存在しないこと ・欠けていること ・いかなる有でもないこと

・万有を生み出し、万有の根源となるもの」

「無」は「無」であり、ほかの何物でもない、極限の「無」と言うことか?

「無」とは、水も空気も、文字も言葉も、人間の心も生命も、地球や宇宙の存在も、「無い」状態なのか?

こんなことすら考えることのできない状態が「無」かも知れない。

「無」すなわち「無」すらない状態なのかも?

こんな、馬鹿げたことを考えているうちに朝を迎えてしまった。

「お父さん、御飯ですよー」妻の声がする。

今日も未知の時間「無」の一秒から一日が始まる。

後藤健二さんが無事で解放されますよう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小学一年生の相撲大会に寄せて

2013年09月29日 17時13分20秒 | 雲雀のさえずり

 

 青空が広がり、すいこまれそうな空の下で行われた、みなさんにとっては初めての小学校の相撲大会。

ぼくも行司として、みなさんといっしょに土俵に立たせていただきました。

 

見合って。

 

いち、に、さん。

 

はっけよい、のこった、のこった。

 

はっけよい、のこった、のこった。

 

東、○○山の勝。

 

みなさんの、無心の立ち合い、一生懸命に相手を土俵際に押す姿、土俵際で必死に踏ん張る姿、みんなの一番一番の相撲に、ぼくは感動を受け元気をもらったような気がします。

そして、小学生のわんぱくだったころ、いっしょに遊んだ友達や先生のことを懐かしく思い出して、子供のころに帰ったようなすがすがしい気持ちになりました。

 相撲にはどうしても、勝つ人、負ける人ができます。

勝った人は、勝った喜びで楽しい思い、負けた人は、負けた悔しさでほろ苦い思いが、心にきざまれたのではないかと思います。

 でも、お父さんやお母さんは、必死になって、力いっぱい相撲をとった、成長したみなさんの姿に目を細め、感動の眼差しで見守っていてくれたに違いありません。               

みなさんは、これから一年生から二年生へ、二年生から三年生・・・・・・そして、中学、高校大、大学へと進み大人になっていくでしょう。

しかし、今の先生、友達と一緒にいられるのは今しかありません。

先生、友達との出会いを大切にして、一人でも多くの仲間を作り、健康で、明るく、楽しく、夢の持てる一年二組にするようみんなで頑張って下さい。

 ぼくもみんなが元気で、優しく、たくましく成長するのを楽しみに見守っています。

 

  平成二十五年九月二十六日

        一年二組 行司役のおじさんより

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どうする、どうなる、原子力行政。

2013年09月22日 17時45分13秒 | 雲雀のさえずり

沖合から数百キロの幅で押し寄せた津波は、大河を流れ落ちる濁流のような勢いで、人々を、家々を、田畑を一瞬のうちに呑み込んだ、あの忌まわしい東日本大震災から2年半以上が過ぎようとしている。

あの時の情景を映し出したテレビの受像機を瞬きさえ忘れて、これは現実か、夢か、それとも幻か、我が目を疑い震える思いで見入った。

東北太平洋側海岸線の津波被害と、東京電力福島第一原子力発電所事故の映像は自然の驚異のすさまじさと、人間社会の脆弱さを強い衝撃と喪失感とともに鮮明に私の脳裏焼き付けられた。

しかし、あの地獄のような映像も、被害を受けられた方々の気持ちとは裏腹に、時の流れとともに私の脳裏から次第に薄れようとしている。

世界中を恐怖に陥れた東京電力福島第一原子力発電所の復旧作業についても、当時の緊迫感・緊張感から解放され、復旧スケジュール・復旧状況・放射線量などの報道が次第に少なくなり、一見、廃炉作業などが順調に進んでいるかのよな錯覚に陥っている。

しかるに、原子力発電所の汚染水の処理さえ満足に解決できない現状では、到底、原子炉の廃炉作業の目途などたつはずもなく、原子力行政の将来展望はますます混迷、深刻化するばかりで将来の原子力発電所の再稼働問題の議論することさえはばかられるような現状にある。

そこには、これまで自民党政権が主導してきた原子力行政に対する国民の不信があり、また、民主党政権下での福島第一原子力発電所事故時対応の不手際と、情報開示の不足、不明確さに起因する事は誰の目にも明らかであろう。

資源小国日本、新たな電力確保に向けて、再生可能エネルギーや自然エネルギーを導入すべきとの論評が、学者・評論家・知識人等から発せられ世論もこれに同調しつつある。

しかし、これらのエネルギーの開発には膨大な資金と、短・中・長期にわたるエネルギー基本計画に基づく国民的合意と、継続的な取り組みが必要となる。

現在の日本社会は、交通・情報通信のライフラインはもとより、上下水道・ガス・空気に至るインフラ設備までもが電気なしでは機能しなくなっており、電気に対する依存度は極めて高まっている。

今は日本中が東京オリンピックの話題で沸き返っているが、仮に、電力政策の将来に向かっての方向性が的確に示せずに、時間だけが無駄に浪費され、電力不足が現実のものともなれば、日本経済は失速し、東京オリンピックの開催さえ危うくなり、国民の窮乏生活は避けられなくなるだろう。

過去、戦後の一時期と、昭和48年・昭和52年の、二度にわたる原油高騰時期を除いて、電力は電力会社が責任を持って供給するものと誰もが信じ、電力会社もその信頼に応えてきた。

しかし、東京電力福島第一原子力発電所の事故を境に、日本の電力需給は逼迫し、特に、夏季の電力供給力は、各電力会社の自主努力、電力会社間の融通だけでは到底乗り切れない危機的状況に陥り、政府・国民を巻き込んだ重要課題となっている。

人間が集団で生命の危機に立たされたとき、人々は、一体どんな行動を起こすだろうか?

人によっては、明日の命より、今、その瞬間の命を死守しようと必死でもがき、一億二千七百万人分の一人より、一分の一億二千七百万人分の一人を選択する者も現れるかもしれない。

現在の日本の置かれた立場から考えると、原子力発電を再稼働することがベストの選択でないことは、多くの国民の一致した意見であろう。

しかし、原子力発電の再稼働なくして、現状レベルの国民生活の維持が難しいとするならば、私は、原子力発電の再稼働は、安全対策・体制を十分に講じた上、新エネルギーの開発の目途がつくまで期間を限定して稼働することはやむを得ないと考える。

ただし、その期間は原子力発電所を国有化し、原子力行政、原子力発電の運転・維持・管理は防衛省で一元化するのがベストの方策ではないかと考える。

防衛省に原子力発電の運転・管理、原子力行政を移管することには、国内外から多くの異論・反発が予想されが、今の東京電力、日本政府のつぎはぎ的な対応で果たして解決するだろうか。

自衛隊は東日本大震災での人命救助・復旧作業・東京電力福島原子力発電所の事故時対応などに命を賭して活躍してくれ、自衛隊員は日本の誇りであり、多くの国民がもっとも信頼を寄せる組織であると考えるからである。

防衛省に「仮称・原子力庁」を新設し、電力会社等の原子力発電に係る各機関・要員を移転移籍させ、全国17カ所に点在している、原子力発電所を一元的に管理させることで、情報の共有化・運転の信頼性・安全管理・事故時の対応能力の格段の向上が期待できる。

また、自衛隊は国内で唯一、戦闘能力・重装備を備えた最強最大の武力集団であり、原子力災害・テロ・侵略等の非常事態にも即応しうる能力を有している。

仮に、不測の事態が発生して、住民の避難・誘導等の必要な事態が発生した場合でも、避難体制・避難誘導・復旧体制・復旧要員の確保などを迅速に行う組織力を有しており、危機管理能力・危機管理体制が大幅に強化されるものと信じるからである。

今後の原子力行政は、原発の再稼働・廃炉、どちらの道を選ぶにしても、使用済み核燃料・廃棄物は、後世にわたって厳重に管理・保管しなければならない最重要な課題である。

しかるに、現在の原子力行政を見ていると、これらの諸問題を民間企業である各電力会社等に丸投げし、政府は責任を民間企業である電力会社に転嫁させているに等しい状態であように感じられる。

東京電力福島第一原子力発電所の事故以降、次々に表面化した情報の隠ぺい・報告漏れなどの諸問題が国民の信用・信頼を失墜させたのも、原子力行政の無責任体質が潜在的要因の一つになった可能性は否定できない。

日本国民の命運と共に自衛隊があり、核問題が存在するとするならば、一民間企業である電力会社に日本の将来の命運をも左右しかねない原子力発電事業を委ね、処分方法の目途さえ立たない使用済み核燃料の、未来永劫続く保管・管理まで委ねようとしている日本政府は、北朝鮮以上に無法・無責任国家だと批判されてもしかたがないかもしれない。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

橋姫物語秘話 (2)

2013年04月25日 17時01分29秒 | 橋姫物語

私たちが橋姫さんの話しを母から訊いたのは六十年以上も昔のことである。

昔話や伝説というものは伝言ゲームのようなもので、人から人に語り継がれるうちに話し手の裁量や聞き違いなどによって、内容が少なからず変えられていることは容易に想像できる。

「おばあさん、毎年、盆の墓参りの帰えりに橋姫さんに参って線香を立て、お祈りするって不思議だと思ったことはない?」

洵子はチラッと私を見て、居住まいをただすと一升瓶を両手で抱えた。

「まあぁぁお兄さんどうぞ、そう言えば不思議な習慣ですねぇ」

と言って話に加わってきた。

「神様を参拝する時は、出雲大社の二礼四拍手一礼は例外として、二礼二拍手一礼が通例だと訊いているよね」

洵子が言うと、すかさず兄嫁が

「私もそんなことくらい知っていたけど、村のお年寄りたちが線香を立てて焼香されていたけん、そんなものだと思って何の疑問も感じたことはなかったよ」

古希を迎えようとしている私たち夫婦、喜寿を迎えた兄夫婦の老い先短い爺婆の四人が、雁首をそろえて子供の頃の話に夢中になっている異様さ、他人の目にはどう映るのだろうか、ふと、そんなことが頭をよぎりおかしくなった。

一本目が空になり、二本目が三分の一くらい空いたころには、兄も私も舌がもつれてはいたが、兄はますますヒートアップし絶好調、女性のような甲高い声はさらに高くなっていく。

「江戸の中頃と言うから、天明から文政にかけての頃かなあぁぁ、米子町に坂江屋という大きな廻船問屋があった。坂江屋では多くの舟子や奉公人が働き、蝦夷から日本海・九州・瀬戸内海諸国にかけて北前船を走らせ手広く商いを営んでいたそうな」

「兄貴、ちょっと待った。僕が訊いた話とちょっと違うわ!」

「何処が違う」

「僕は坂江屋のあった場所は、出雲の国の美保関だったと訊いていたよ。第一、江戸時代に北前船のような大型船が、美保湾から境水道・中海を通って米子に入港できたとは到底考えられん、入港できたとしてもせいぜい百石船くらいまでだと思うよ」

昔の記憶をたどって話を組み立てようとすると、矛盾する箇所や道理に合わない場面などが次々と浮き彫りになり、その都度、酔っぱらった二人で、ああでもないこうでもないと話をしていると、なかなか物語が前に進まない。

「兄貴、実は去年の12月に、美保関隕石落下二十周年記念セレモニーが七類のメテオプラザで宇宙飛行士の山崎直子さんを迎えて開催され講演を聴きに行った時、早く着きすぎて時間つぶしに美保関港や美保神社・地蔵埼などを回って、たまたま立ち寄った青石畳通りの観光案内所で訊いた話では、美保関港は江戸時代には出雲・伯耆の玄関口として、北前船や運搬船などの多くの船が行き交う港として大いに繁栄していて、今もその名残として青柴垣神事や諸手船神事という勇壮な祭りが残っていると言うことだった。そんな事を考えると坂江屋は美保関港に有ったと言うのが真実じゃないかなぁ」

「んんん・・・・そうか。米子に入港するとすれば、加茂川河口の立町か灘町・内町あたりにしか船は着けられないが、川幅は狭いし、今の米子港のように護岸も整備されていなかったろうから、坂江屋は美保関港に有ったというのが本当かもしれないなぁぁ」

もともと頑固者の兄弟同士、その後も些細なところで物語の内容が対立して、話は行ったり来たりしたがどうにか折り合いがついてまとまったような気になっていた。

そして数日後、いざ物語を書こうとペンを握ると、ようやく出来上がっていたはずの物語が、酒のせいか老いのせいか頭に浮かんでこない。

はて、いったい、この物語をどう展開させるべきか、苦慮しながらも何としてもこの物語だけは書き残しておきたいものだと思いつつも、時間だけが無情に過ぎていきます。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

橋姫物語秘話 (1)

2013年04月24日 17時16分35秒 | 橋姫物語

橋 姫 物 語 秘 話

                                                                                進   紀  恕

 私の故郷は、伯耆富士とも呼ばれている中国地方一の高山、大山の麓の谷合にある。

村は大山道路を挟んで左手が大原千町と呼ばれる田んぼが広がり、右手には竹藪の中から十数本の欅がひときは高く突き出ている。

、村の進入路は、老木の松のかたまりが目印になっていた下の口と、火の見櫓が目印となっていた上の口とが蛇のように細く曲がりくねった道でつながっていた。

下の口の老松の下は微細で灰色の大山砂が敷き詰められた墓地に、数十基の石碑と石灯籠が建てられていた。

私の子供の頃はほとんど土葬だったので、村で死人が出ると火の球が飛ぶと噂されて薄気味がられていたものである。

石碑と石碑の間を抜けて下の口の狭い急な坂を降ると、道の上手の斜面に生えた真竹がトンネルのように覆いかぶさって薄暗くなっており、谷側の斜面を少し降りた僅かな平地に生えた杉の大木の根元に橋姫大明神の幟が立てられている。

その橋姫大明神には悲しい伝説が語り継がれていたのだが、今では村で語り継ぐ者は殆どいなくなり忘れ去られようとしている。

この伝説を残したい。

私はこの物語を書き残そうと何度も挑戦したが、その都度途中で筆が折れ完結することができないでいる。

 お前には神の領域まで侵しかねないこの伝説を語る資格はない、と、宣告されているような気持にさえなって諦めかけていた。

十月二十八日、この日は奇しくも父の命日と私の誕生日が重なるという不思議な因縁の日であった。

「おい、洵子、今日はおやじの命日だ、天気も好いし久しぶりに墓参りに行かないか?」

「いいけど、行くなら何かお供えを持っていかんといけんよ!」

「それなら、お魚センターでイカでも買って行くか」

「お父さん生ものは駄目だよ、それにお魚センターは九時からだからまだ開いてないよ」

「それなら、途中でカステラでも買って行くか!」

私と洵子は、両親の墓参りを兼ねて久々に実家に顔を出すことにした。

空いっぱいに青空が広がり大山の山頂付近には真綿のような雲がぽっかりと浮かび、中腹から山麓は紅葉に染まり、道沿いの櫨や紅葉や山桜もわずかに色づきはじめていた。

父は私が十六歳、母は四十一歳の時に亡くなり、実家には兄夫婦と甥夫婦が同居している。

「こんにちわぁぁ、こんにちわぁぁ、」

白木の玄関の引戸を開けると、白髪が目立ち頭髪も薄くなり始めた兄嫁が腰をかがめながら姿を現した。

「紀恕さん久しぶりですねー、おじいさんもおおなあけん上がってごしなさい」

兄嫁はいつ頃からか兄のことをお爺さんと呼ぶようになっていたのだった。

「おぉぉー紀恕か、久し振りに一杯やらんか!」

私も久しぶりに兄と飲みたい衝動に駆られたが、まだ、朝の十時を少し回ったばかり。

「洵子さんに運転してもらって帰ればいいがん」

久々の出会いに酒好きな兄は、好いカモが来たとばかりにもう飲む気満々である。

「洵子、帰り運転してくれるか?」

私と兄は父の血を引き継いだのか日本酒が大好で、人からはワニだのフカだのと言われているらしかった。

兄は酔いが回ると多弁になり、仕事の話から先祖や家系・昔話などを雄弁に語るのだが、酔いが過ぎてくると同じ話を何度も繰り返す癖があった。

兄の話に熱が入るに従って、反対に私は無口になって聞き役に回るのだが最後には

「もう、その話は何回も聞いた、しつこい、うるさい、もう帰る」

と毒ついて里を後にすることが度々あったので、洵子は私が兄と酒を飲むのをあまり快く思っていなかった。

そんな二人の酒盛り、馬の鼻先にニンジンをぶら下げたようなもの、盃にお猪口などという上品な飲み方では到底間尺に合うわけがない。

常温の一升瓶の酒をお互いのガラスコップにドクドクドクと満たして、キューウーと一杯目を飲みは干すと、一升瓶の口が勢いよく互いのコップを往復したちまち空になってしまった。

「お父さん、もう、それ位で止めたら」

洵子が心配そうに言うと、兄は聞こえない振りをしたのか聞こえなったのか、兄嫁にもう一本持ってくるようにと言った。

兄嫁は、兄の言葉が聞こえなかったのか聞こえない振りをしたのか、気を逸らそうとしたのか、

「お爺さんお茶にしようよ、洵子さんも飲むでしょう」

と言って台所に向かおうとして

「あぁぁ、そうそう、裕美がこのあいだ小学校から頼まれて講演した原稿を紀恕さんに見てもらったら?」と言った。

裕美は兄夫婦の一人娘で、神戸で美容院を営んでいたが、平成七年の阪神淡路大震災で被災して地元に帰ってオニックス美容院を再開していた。

郷土の歴史とか民話に興味を持っていて、休みになると神社仏閣を回るのをライフワークの一つにもしている。

兄嫁が渡してくれた原稿の冒頭には“美容師という職業は、究極の接客業と言われています・・・・・・・・・挨拶はお互いの信頼関係を深める上でとても大切ですよ”と、言うような内容のことが書いてあり、最後に村に伝わる橋姫伝説を紹介していた。

「兄貴、橋姫さんの伝説、裕美がよく知っていたなー」

橋姫さんの伝説?、それは、わしが子供の頃にお袋が話してくれたのを思い出して、はしりの部分だけを書いてやったのだと兄は言った。

「兄貴、橋姫さんの話のほかに他にお袋からどんな話を訊いた」

「ウーン・・・・曾我兄弟や石童丸の話、それに、爺さんが米相場で大損した時に隠岐の黒見権兵に助けてもらったとか、こんな話を何度も聞かされたものだ」

「僕も、同じような話を何度も聞いた記憶はあるけどもう殆んど忘れてしまった」

兄嫁も洵子も、久々に共通の話題で盛り上がっている私たち兄弟の姿に安心したのか、兄嫁は台所から一升瓶を提げてくると、

「おじいさん、私はお母さんからそんな話一度も聞いたことないのよ、私にも訊かせてよ」

と言って兄と私のコップを満たすと、シャム猫とじゃれていた洵子を呼び寄せた。

「今日はなぁー 兄貴、おやじの命日で僕の誕生日、親父やお袋から訊いた話をみんなで語り合えば好い供養にもなるかもしれんなぁぁ」

赤ら顔の兄は一瞬真顔にもどると

「それにしても、みんなでこんな話をするのは初めてかもしれんなぁぁ」

と神妙な顔で言った。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

築山庭造傳 (下篇)

2013年04月19日 14時13分46秒 | 神社・仏閣・庭園

下編を掲載します。

他の蔵書につきましては後日機会があれば掲載します。

家の物置を整理していたら、江戸享保年間の築山庭造傳の蔵書の他、茶庭、造園と茶室等の古い蔵書を発見しました。
蔵書の中で、築山庭造磚は上・中・下の三篇から成っており、中編、下編には版画で刷られたと思われる、お寺や茶室の庭園の図面も多く載っています。
個人的にはかなり興味をそそられているのですが、内容が十分に理解できません。
順次掲載しますので興味をお持ちで解読していただける方がいらっしゃいましたら、お知らせいただければ幸いです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

築山庭造傳 (中篇)

2013年04月13日 17時39分32秒 | 神社・仏閣・庭園

中編を掲載します。

下編につきましては後日掲載します。

家の物置を整理していたら、江戸享保年間の築山庭造傳の蔵書の他、茶庭、造園と茶室建築等に古い本を発見しました。
蔵書の中で、築山庭造磚は上・中・下の三篇から成っており、中編、下編には版画で刷られたと思われる、お寺や茶室の庭園の図面も多く載っています。
個人的にはかなり興味をそそられているのですが、内容が理解できません。
順次更新しますので興味をお持ちで解読していただける方がいらっしゃいましたら、お知らせいただければ幸いです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

築山庭造傳 (上ー2)

2013年04月11日 16時48分11秒 | 神社・仏閣・庭園

上編の残りのページを掲載します。

中編・下編につきましては後日掲載します。

家の物置を整理していたら、江戸享保年間の築山庭造傳の蔵書の他、茶庭、造園と茶室建築等に古い本を発見しました。
蔵書の中で、築山庭造磚は上・中・下の三篇から成っており、中編、下編には版画で刷られたと思われる、お寺や茶室の庭園の図面も多く載っています。
個人的にはかなり興味をそそられているのですが、内容が理解できません。
順次更新しますので興味をお持ちで解読していただける方がいらっしゃいましたら、お知らせいただければ幸いです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

築山庭造傳 (上ー1)

2013年04月10日 16時23分33秒 | 神社・仏閣・庭園

家の物置を整理していたら、江戸享保年間の築山庭造傳の他、茶庭、造園と茶室建築等の古書を発見しました。
蔵書の中で、築山庭造磚は上・中・下の三篇から成っており、中編、下編には版画で刷られたと思われる庭園の図面も多く載っています。
個人的にはかなり興味をそそられているのですが、内容が理解できません。
順次更新しますので興味をお持ちで解読していただける方がいらっしゃいましたら、お知らせいただければ幸いです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

からす天狗の恩し (最終回)

2012年04月06日 12時14分36秒 | カラス天狗の恩返し

 

仁翔と勇翔の唱える易経は、時には高く、また低く、靄のように湖面を流れて、大野池を取り囲んだ山々に吸い込まれるように消えて行った。

太陽が山影に沈んで西の空が茜色に染まり、辺りが次第に暗くなると、夜空に耀いた星の光が、仁翔と勇翔の上に降り注いだ。

一日過ぎ、二日たっても村には何の変化もなく、村人の中にはカラス天狗さんはいったい何をしようとしているのだろと不審を抱く者も現れ、カラス天狗の様子を探りに大岩に行って見ようと言う者も現れたが、義助はこれを強くたしなめた。

そして三日目、辺りが夕やみに包まれる頃になって、急に大野池の周りの山の峰々から黒い雲が “ムクムク”と狼煙のように湧き上がりはじめ、それまで静だった湖面から“ブクブク、ブクブク”と白い泡が立って、水面に小石でも投げ込んだような波紋があちらこちらで起こってきた。

すると、仁翔と勇翔は湖面の変化に機を合わせるかのように、大岩から腰を上げて立ち上がると、両手を天に向けて大きく広げ、雲に向かって語りかけるかのように、一段と声を張り上げて易経を唱え続けた。

峰々から湧き上がった雲は、渦を巻くように大野池の上に集まると、まるで厚い絨毯でも敷き詰めたような塊となって池を覆っていった。

“ド、ド、ド、ドン”大地震でも起きたかのような地鳴りと共に、雲間から蒼白い閃光が走って大野池に突き刺さった。

湖面に突き刺さった閃光が、激しい水しぶきを噴きあげ、竜神さまが翼龍から飛龍へ変身して、天上に駆け登って行くかのように湖面を高く盛り上げた。

黒い雲の塊から、耳を劈くような雷鳴が轟き、蒼白い閃光が無数に飛び散る様は、天上に駆け登った飛龍が行き場を失い、雲間で荒れ狂っているようでもあった。

大野池が閃光に照らされて、真昼のような明るさになると“ポトリ、ポトリ”と大粒の雨が落ち始めたかと思うと、次の瞬間、一寸先も見えないほどの豪雨となって、滝のような雨が仁翔と勇翔に襲いかかっていった。

そんな豪雨に耐えながら、仁翔と勇翔が一心不乱に易経を唱え続けていると、大野池はみるみる水嵩を増すと、堰を切り、濁流となって大岩に押し寄せてきた。

村人たちは豪雨の中を、大岩のカラス天狗の安否を心配し、義助の家に集まると無事を願って一心不乱に祈り続けた。

次の日、山影から太陽が姿を見せると、昨夜の雨が嘘のように晴れ、山々の草木は息を吹き返したように新緑の香りを漂わせていた。

村人が義助を先頭に、大急ぎで大岩に向かっていると、村人が掘った水路に、水が“ゴォーゴォー”と溢れるように流れ込んでいた。

「これは、どうしたことだ。 カラス天狗は無事だろうか?」 と義助が言った。                     

誠輝はカラス天狗の安否が心配で、居ても立ってもいられない気になり、大岩に向かって駆け出して行った。

誠輝は大岩に着いて頂を見上げたが、カラス天狗の姿は見えない、はやる気持ちを抑えながら頂に駆け登ったが、仁翔と勇翔の姿は何処にもなく、大野池の湖面だけが、大岩に迫り、これまでの数倍もの大きさに広がっていた。

村人が水路に沿って、ようやく大岩の下までたどり着くと、岩の裂け目から、水が滝のように噴き出して水路に流れ込んでいた。

「この滝は、カラス天狗さんが、我々に授けて下さったのだ!」村人は、口々に叫んだ。

義助は懐から鹿笛を取り出し“ヒュルル~ヒュルル~”と吹き続けたが、カラス天狗が姿を現すことはなかった。

村人は天狗に授けてくれた滝を、天狗滝と名付け、村の宝として大切に祀ることにした。

それからは、この村が干ばつに襲われることはなくなり、四季折々の山の幸、豊かな自然、美味しい水、素朴で優しい人々が暮らす村は、世間から隔絶された幻の桃源郷として、子々孫々の今日まで続いています。

【長らくご拝読いただきありがとうございました】

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする