たわいもない話

かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂

橋姫物語秘話 (2)

2013年04月25日 17時01分29秒 | 橋姫物語

私たちが橋姫さんの話しを母から訊いたのは六十年以上も昔のことである。

昔話や伝説というものは伝言ゲームのようなもので、人から人に語り継がれるうちに話し手の裁量や聞き違いなどによって、内容が少なからず変えられていることは容易に想像できる。

「おばあさん、毎年、盆の墓参りの帰えりに橋姫さんに参って線香を立て、お祈りするって不思議だと思ったことはない?」

洵子はチラッと私を見て、居住まいをただすと一升瓶を両手で抱えた。

「まあぁぁお兄さんどうぞ、そう言えば不思議な習慣ですねぇ」

と言って話に加わってきた。

「神様を参拝する時は、出雲大社の二礼四拍手一礼は例外として、二礼二拍手一礼が通例だと訊いているよね」

洵子が言うと、すかさず兄嫁が

「私もそんなことくらい知っていたけど、村のお年寄りたちが線香を立てて焼香されていたけん、そんなものだと思って何の疑問も感じたことはなかったよ」

古希を迎えようとしている私たち夫婦、喜寿を迎えた兄夫婦の老い先短い爺婆の四人が、雁首をそろえて子供の頃の話に夢中になっている異様さ、他人の目にはどう映るのだろうか、ふと、そんなことが頭をよぎりおかしくなった。

一本目が空になり、二本目が三分の一くらい空いたころには、兄も私も舌がもつれてはいたが、兄はますますヒートアップし絶好調、女性のような甲高い声はさらに高くなっていく。

「江戸の中頃と言うから、天明から文政にかけての頃かなあぁぁ、米子町に坂江屋という大きな廻船問屋があった。坂江屋では多くの舟子や奉公人が働き、蝦夷から日本海・九州・瀬戸内海諸国にかけて北前船を走らせ手広く商いを営んでいたそうな」

「兄貴、ちょっと待った。僕が訊いた話とちょっと違うわ!」

「何処が違う」

「僕は坂江屋のあった場所は、出雲の国の美保関だったと訊いていたよ。第一、江戸時代に北前船のような大型船が、美保湾から境水道・中海を通って米子に入港できたとは到底考えられん、入港できたとしてもせいぜい百石船くらいまでだと思うよ」

昔の記憶をたどって話を組み立てようとすると、矛盾する箇所や道理に合わない場面などが次々と浮き彫りになり、その都度、酔っぱらった二人で、ああでもないこうでもないと話をしていると、なかなか物語が前に進まない。

「兄貴、実は去年の12月に、美保関隕石落下二十周年記念セレモニーが七類のメテオプラザで宇宙飛行士の山崎直子さんを迎えて開催され講演を聴きに行った時、早く着きすぎて時間つぶしに美保関港や美保神社・地蔵埼などを回って、たまたま立ち寄った青石畳通りの観光案内所で訊いた話では、美保関港は江戸時代には出雲・伯耆の玄関口として、北前船や運搬船などの多くの船が行き交う港として大いに繁栄していて、今もその名残として青柴垣神事や諸手船神事という勇壮な祭りが残っていると言うことだった。そんな事を考えると坂江屋は美保関港に有ったと言うのが真実じゃないかなぁ」

「んんん・・・・そうか。米子に入港するとすれば、加茂川河口の立町か灘町・内町あたりにしか船は着けられないが、川幅は狭いし、今の米子港のように護岸も整備されていなかったろうから、坂江屋は美保関港に有ったというのが本当かもしれないなぁぁ」

もともと頑固者の兄弟同士、その後も些細なところで物語の内容が対立して、話は行ったり来たりしたがどうにか折り合いがついてまとまったような気になっていた。

そして数日後、いざ物語を書こうとペンを握ると、ようやく出来上がっていたはずの物語が、酒のせいか老いのせいか頭に浮かんでこない。

はて、いったい、この物語をどう展開させるべきか、苦慮しながらも何としてもこの物語だけは書き残しておきたいものだと思いつつも、時間だけが無情に過ぎていきます。

 

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橋姫物語秘話 (1)

2013年04月24日 17時16分35秒 | 橋姫物語

橋 姫 物 語 秘 話

                                                                                進   紀  恕

 私の故郷は、伯耆富士とも呼ばれている中国地方一の高山、大山の麓の谷合にある。

村は大山道路を挟んで左手が大原千町と呼ばれる田んぼが広がり、右手には竹藪の中から十数本の欅がひときは高く突き出ている。

、村の進入路は、老木の松のかたまりが目印になっていた下の口と、火の見櫓が目印となっていた上の口とが蛇のように細く曲がりくねった道でつながっていた。

下の口の老松の下は微細で灰色の大山砂が敷き詰められた墓地に、数十基の石碑と石灯籠が建てられていた。

私の子供の頃はほとんど土葬だったので、村で死人が出ると火の球が飛ぶと噂されて薄気味がられていたものである。

石碑と石碑の間を抜けて下の口の狭い急な坂を降ると、道の上手の斜面に生えた真竹がトンネルのように覆いかぶさって薄暗くなっており、谷側の斜面を少し降りた僅かな平地に生えた杉の大木の根元に橋姫大明神の幟が立てられている。

その橋姫大明神には悲しい伝説が語り継がれていたのだが、今では村で語り継ぐ者は殆どいなくなり忘れ去られようとしている。

この伝説を残したい。

私はこの物語を書き残そうと何度も挑戦したが、その都度途中で筆が折れ完結することができないでいる。

 お前には神の領域まで侵しかねないこの伝説を語る資格はない、と、宣告されているような気持にさえなって諦めかけていた。

十月二十八日、この日は奇しくも父の命日と私の誕生日が重なるという不思議な因縁の日であった。

「おい、洵子、今日はおやじの命日だ、天気も好いし久しぶりに墓参りに行かないか?」

「いいけど、行くなら何かお供えを持っていかんといけんよ!」

「それなら、お魚センターでイカでも買って行くか」

「お父さん生ものは駄目だよ、それにお魚センターは九時からだからまだ開いてないよ」

「それなら、途中でカステラでも買って行くか!」

私と洵子は、両親の墓参りを兼ねて久々に実家に顔を出すことにした。

空いっぱいに青空が広がり大山の山頂付近には真綿のような雲がぽっかりと浮かび、中腹から山麓は紅葉に染まり、道沿いの櫨や紅葉や山桜もわずかに色づきはじめていた。

父は私が十六歳、母は四十一歳の時に亡くなり、実家には兄夫婦と甥夫婦が同居している。

「こんにちわぁぁ、こんにちわぁぁ、」

白木の玄関の引戸を開けると、白髪が目立ち頭髪も薄くなり始めた兄嫁が腰をかがめながら姿を現した。

「紀恕さん久しぶりですねー、おじいさんもおおなあけん上がってごしなさい」

兄嫁はいつ頃からか兄のことをお爺さんと呼ぶようになっていたのだった。

「おぉぉー紀恕か、久し振りに一杯やらんか!」

私も久しぶりに兄と飲みたい衝動に駆られたが、まだ、朝の十時を少し回ったばかり。

「洵子さんに運転してもらって帰ればいいがん」

久々の出会いに酒好きな兄は、好いカモが来たとばかりにもう飲む気満々である。

「洵子、帰り運転してくれるか?」

私と兄は父の血を引き継いだのか日本酒が大好で、人からはワニだのフカだのと言われているらしかった。

兄は酔いが回ると多弁になり、仕事の話から先祖や家系・昔話などを雄弁に語るのだが、酔いが過ぎてくると同じ話を何度も繰り返す癖があった。

兄の話に熱が入るに従って、反対に私は無口になって聞き役に回るのだが最後には

「もう、その話は何回も聞いた、しつこい、うるさい、もう帰る」

と毒ついて里を後にすることが度々あったので、洵子は私が兄と酒を飲むのをあまり快く思っていなかった。

そんな二人の酒盛り、馬の鼻先にニンジンをぶら下げたようなもの、盃にお猪口などという上品な飲み方では到底間尺に合うわけがない。

常温の一升瓶の酒をお互いのガラスコップにドクドクドクと満たして、キューウーと一杯目を飲みは干すと、一升瓶の口が勢いよく互いのコップを往復したちまち空になってしまった。

「お父さん、もう、それ位で止めたら」

洵子が心配そうに言うと、兄は聞こえない振りをしたのか聞こえなったのか、兄嫁にもう一本持ってくるようにと言った。

兄嫁は、兄の言葉が聞こえなかったのか聞こえない振りをしたのか、気を逸らそうとしたのか、

「お爺さんお茶にしようよ、洵子さんも飲むでしょう」

と言って台所に向かおうとして

「あぁぁ、そうそう、裕美がこのあいだ小学校から頼まれて講演した原稿を紀恕さんに見てもらったら?」と言った。

裕美は兄夫婦の一人娘で、神戸で美容院を営んでいたが、平成七年の阪神淡路大震災で被災して地元に帰ってオニックス美容院を再開していた。

郷土の歴史とか民話に興味を持っていて、休みになると神社仏閣を回るのをライフワークの一つにもしている。

兄嫁が渡してくれた原稿の冒頭には“美容師という職業は、究極の接客業と言われています・・・・・・・・・挨拶はお互いの信頼関係を深める上でとても大切ですよ”と、言うような内容のことが書いてあり、最後に村に伝わる橋姫伝説を紹介していた。

「兄貴、橋姫さんの伝説、裕美がよく知っていたなー」

橋姫さんの伝説?、それは、わしが子供の頃にお袋が話してくれたのを思い出して、はしりの部分だけを書いてやったのだと兄は言った。

「兄貴、橋姫さんの話のほかに他にお袋からどんな話を訊いた」

「ウーン・・・・曾我兄弟や石童丸の話、それに、爺さんが米相場で大損した時に隠岐の黒見権兵に助けてもらったとか、こんな話を何度も聞かされたものだ」

「僕も、同じような話を何度も聞いた記憶はあるけどもう殆んど忘れてしまった」

兄嫁も洵子も、久々に共通の話題で盛り上がっている私たち兄弟の姿に安心したのか、兄嫁は台所から一升瓶を提げてくると、

「おじいさん、私はお母さんからそんな話一度も聞いたことないのよ、私にも訊かせてよ」

と言って兄と私のコップを満たすと、シャム猫とじゃれていた洵子を呼び寄せた。

「今日はなぁー 兄貴、おやじの命日で僕の誕生日、親父やお袋から訊いた話をみんなで語り合えば好い供養にもなるかもしれんなぁぁ」

赤ら顔の兄は一瞬真顔にもどると

「それにしても、みんなでこんな話をするのは初めてかもしれんなぁぁ」

と神妙な顔で言った。

 

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築山庭造傳 (下篇)

2013年04月19日 14時13分46秒 | 神社・仏閣・庭園

下編を掲載します。

他の蔵書につきましては後日機会があれば掲載します。

家の物置を整理していたら、江戸享保年間の築山庭造傳の蔵書の他、茶庭、造園と茶室等の古い蔵書を発見しました。
蔵書の中で、築山庭造磚は上・中・下の三篇から成っており、中編、下編には版画で刷られたと思われる、お寺や茶室の庭園の図面も多く載っています。
個人的にはかなり興味をそそられているのですが、内容が十分に理解できません。
順次掲載しますので興味をお持ちで解読していただける方がいらっしゃいましたら、お知らせいただければ幸いです。

 

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築山庭造傳 (中篇)

2013年04月13日 17時39分32秒 | 神社・仏閣・庭園

中編を掲載します。

下編につきましては後日掲載します。

家の物置を整理していたら、江戸享保年間の築山庭造傳の蔵書の他、茶庭、造園と茶室建築等に古い本を発見しました。
蔵書の中で、築山庭造磚は上・中・下の三篇から成っており、中編、下編には版画で刷られたと思われる、お寺や茶室の庭園の図面も多く載っています。
個人的にはかなり興味をそそられているのですが、内容が理解できません。
順次更新しますので興味をお持ちで解読していただける方がいらっしゃいましたら、お知らせいただければ幸いです。

 

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築山庭造傳 (上ー2)

2013年04月11日 16時48分11秒 | 神社・仏閣・庭園

上編の残りのページを掲載します。

中編・下編につきましては後日掲載します。

家の物置を整理していたら、江戸享保年間の築山庭造傳の蔵書の他、茶庭、造園と茶室建築等に古い本を発見しました。
蔵書の中で、築山庭造磚は上・中・下の三篇から成っており、中編、下編には版画で刷られたと思われる、お寺や茶室の庭園の図面も多く載っています。
個人的にはかなり興味をそそられているのですが、内容が理解できません。
順次更新しますので興味をお持ちで解読していただける方がいらっしゃいましたら、お知らせいただければ幸いです。

 

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築山庭造傳 (上ー1)

2013年04月10日 16時23分33秒 | 神社・仏閣・庭園

家の物置を整理していたら、江戸享保年間の築山庭造傳の他、茶庭、造園と茶室建築等の古書を発見しました。
蔵書の中で、築山庭造磚は上・中・下の三篇から成っており、中編、下編には版画で刷られたと思われる庭園の図面も多く載っています。
個人的にはかなり興味をそそられているのですが、内容が理解できません。
順次更新しますので興味をお持ちで解読していただける方がいらっしゃいましたら、お知らせいただければ幸いです。

 

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