たわいもない話

かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂

「2011山陰豪雪」100時間の葛藤(Ⅰー7)

2011年03月01日 17時54分12秒 | 「2011山陰豪雪」100時間の葛藤
インターチェンジ付近は水銀灯の青白い光に照らされ、雪は水銀灯に群がるカゲロウのように、何時止むとも知れず降り続いていた。

私がETCレーンに入ろうとすると、係員が一般レーンの方にから顔を出して手招きをした。

「ETCレーンは止めています。ETC扱いにしますからカードを見せて下さい」

私は係員の指示に従ってETCカードを渡す。

係員はETCカードを機械に通し、精算を済ませると窓から顔を出しながら言った。

「山陰道はこの大雪で通行止めになっています」

山陰道が通行止めになるくらいなら、当然9号線も通行止めになっていてもおかしくない、不安を抱きながら私は係員に尋ねた。

「国道9号線は通れますか?」

係員は窓から身を乗り出して9号線の方に眼をやり、気の毒そうな眼差しで車の中を覗き込むように言った。

「今のところは通れるようですよ!」

係員は私の安堵した様子を察したように言葉を続けた。

「9号線は除雪しているそうですから、大丈夫だと思いますが、運転には気を付けてください」

私たちが係員の言葉に送られ米子インターチェンジを後にしたときは、すでに午後の10時半を過ぎ、冷え込みは次第に厳しくなり始めていた。

米子インターチェンジのバイパス道を抜けてようやく9号線にたどり着くと、9号線は除雪された痕跡は残っていたものの、その後に降り積もった雪が車の轍で凸凹になり、それが凍結し、まるで小石で覆われた河原のようになっていた。

少しでも気を緩めれば轍にハンドルを取られ、車輪が雪に埋まり動けなくなり、また、除雪されて道路の両側に、うず高く積まれた雪の中に突込そうにもなる。

暫く走って行くと雪で動けなくなったのか、屋根に小山のような雪を載せて放置された車がところどころに停まっていた。

凍結した雪道に悪戦苦闘しながらガソリンスタンドのところまで来ると、轍に嵌り“ブルブルーン、ブルブルーン”とエンジンを吹かし、車輪を空回りさせ動けなくなった軽自動車に遭遇した。

私はその軽自動車の横を通り抜けることもできたが、高速道路で助けてくれた二人の若者の恩返しの気持ちも手伝って、妻と車を降りて軽自動車の後ろに回り押した。

軽自動車は私たちの手助けで難なく轍から抜け走り出したが、その後、1kmも走らない間に2度も止まり、その度に妻と車を降りてその車を押した。

4度目に止まったのは登り道の途中、妻と二人で押しても動かない、裕子にも手伝わせるがそれでもスリップして動かない、このまま見捨てて帰るわけにもいかず三人で立ちすくんでいると、後の車から50歳前後のガッチリした体格の男性が降り、車を押すのを手伝ってくれた。

私たちが軽自動車を押していると、横を掠めるように黒塗りの乗用車が追い越した。

「危ないじゃぁないか、バカヤロウー」

男性が叫んだ。

その男性は道の中央をまたぐようにして車を押していたので、服の一部にでも接触したようであった。

「手伝いもせず、こんな処で追い越しをかけるなんてロクな奴じゃぁあるまい」

私もその運転手に怒りを感じたが、車は左右に蛇行しながら降りしきる雪の中を遠ざかって行った。

軽自動車は男性の助太刀の甲斐もあってようやく轍から脱出して、また雪道を“ノロノロ”と走り出した。

私は軽自動車を追い越す訳にもいかずしかたなくその後に続いて走った。

自宅まで残り1km位の交差点まで帰った処で、軽自動車は右側の方向指示器を出しながらまたしても止まってしまつた。

その交差点は、正面に雪に覆われた歩道橋が水銀灯に照らされ、右折方向は山陰本線の踏み切りになっていた。

右折しようとする軽自動車の前には、4、5台の車が雪の埋まり立ち往生してとても動けるような状態ではなかった。

私は妻と軽自動車を踏み切り方向に押してやって、直進方向の車線を確保して車に帰ろうとしたとき妻が囁いた。

「お父さん、あの軽自動車の中に若い女性が乗っていたよ!」

私は妻の言葉を一概に信じることが出来なかった。

車に乗ってからも妻はしつこく言う。

「だって、水銀灯の明かりで運転席側の窓から車の中が見えたもの」

あまりにも妻がしつこく言うので、軽自動車を追い越しながら車内を覗き込もうとしたが、左側の窓は雪で覆われ確認することは出来なかった。

走り始めてからも、妻は私の同調を求めるように何度も言った。

「本当に乗っておられたら、降りてお礼に一つも言われたと思うよ!」

私は妻の言葉を信じない訳ではなかったが、あんなに何度も車を押してもらい世話になっていて、自分ひとりが車の中で他人事のように過ごし、礼の一つも言えない、そんな人間がいるとは思いたくなかった。

私たちはようやく我が町にたどり着いたが、家は町の高台にあるため急な坂道を100mくらい登らなくてはならない。

しかし、家に帰る道は全く除雪されていない、しかたなく車を町中の空き地に停めて歩いて帰ることにした。

「汐里、沙織、歩いて帰るから車から降りて」

私は車のトランクを開けて荷物をそれぞれに振り分け、人気のない雪の坂道を孫に気遣いながら家路に向かった。

Ⅱ―1に続く

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「2011山陰豪雪」100時間の葛藤(Ⅰー6)

2011年02月17日 17時21分03秒 | 「2011山陰豪雪」100時間の葛藤
前方には米子ICのゲートが水銀灯の青白い明かりに照らされ霞んで見え、雪は相変わらず降り続いていたが、それでも平地に下がってきたせいか少しは和らいでいた。

「ICの出口は直ぐそこなのに、何故こんな処で止まるのだろう」

前に止まった車の真意を測りかねていると、二人の男性が降りて、雪を被って真白になった車の横にしゃがみ込んでタイヤチェンの装着を始めた。

「こんな処で着けなくても、もう少し広い場所で着ければいいものを」

作業は手間取っている様子で、5分過ぎ、10分経っても終わる気配はない。

「いったい、いつまで待たせる気だ!」

両腕をハンドルに乗せ、フロントガラスに頭を着けるようにして、囚人でも監視する刑務員のように作業を見守った。

作業をしている二人の先からは車の姿は消え、寒々とした雪道が真空地帯のようにゲートに向かって延びていた。

「くそ、もう我慢できない!四輪駆動だ、少々の雪なら大丈夫」

私は作業をしている二人の反対側が通り抜けられるように思えたので、エンジンを吹かしハンドルを右に切った。

“ググー グ、グ、グ・・・・・ ”

「しまった!」

車はものの見事に雪の中に埋まり動かない、一瞬、血の毛が引き動転した。

「ああ、もう少し待てばよかった。孫たちを乗せたままこんな処で立ち往生したらどうしよう」

四輪駆動車だから少々の雪なら大丈夫だろうと過信したのが大間違いだかもしれないと思いながら、後退、前進を何度も繰り返す。

最初は少し動く気配もあったが、後退前進を何度も繰り返しているうちに、車は次第に深みにはまり込み、運転席の窓の辺りまで雪に埋まり、全く動かなくなってしまった。

私は助手席のドアーを妻に開けさせ二人で外に出た。その時、前の車はタイヤチェンの装着を終え走りだすところだった。

「畜生、あの車さえ止まっていなければこんな目にあわずに済んだのに!」

自分の失態を棚に上げ、他人の性にするこの哀れな根性にさえ気づかない惨めさ。

雪はまた激しく降りだし、瞬く間にジャンバーに積り白くなる。

後続車は今までの渋滞のうっぷんでも晴らすかのように“スイスイ、スイ”と私の目の前を通り過ぎて行く。

上り車線を見ると、何時通行止めになったのか車の姿は全く見えない。

出発直後に妻(誠恵)から言われ言葉が頭を掠める。

「お父さん、スコップは積んだの」

「ああ、あの時、引き返してでもスコップを積んでいれば、何とか出来るかもしれないのに」

頭に浮かぶのは反省ばかり。

家に連絡して迎えを頼んだとしても、上り車線が通行止めではどうしようもない。いくら考えてもこの窮地から脱出する方策は頭に浮かばなかったが、孫を乗せたままこの場で夜明かしする訳にはいかない。

「誠恵、車を運転してくれ、裕子と俺とで押してみる」

私と裕子は雪に足を取られながら必死で押すが、車はビクとも動かない。

「誠恵、運転代わって俺が運転する。誠恵と裕子で押してみて」

かよわい女性二人の力、車は動くはずもなく途方にくれていると、二つの黒い影が私の車に近づき、誠恵と何か二言三言話していたが、スコップで前輪の雪を撥ね始めた。

私が大急ぎで車から降りて二つの影の傍に駆け寄ると、大学生風の男性が雪で真白になりながら“テキパキ”とした動作で雪を撥ねてくれていた。

「すみません、本当に申し訳ありません」

私は二人の若者と共に作業に加わりたかったが、何の道具も無くその場で作業を見守る事しかできなかった。

後ろを振り返ると、白いワンボックスカーが雪道の真中に止めてあり、あの車の二人が私たちを助けてくれているのだと直ぐに分かった。

後方を見渡すと、花吹雪のように舞い散る雪の中に、無数のヘッドライトの光が“ぼんやり”と霞んで見えていた。

「もう大丈夫だと思います。後ろから押しますから車を動かしてみてください」

頭をもたげ振り返った若者の顔には、まだどことなくあどけなさが残っていた。

私は車に乗り込み、アクセルを軽く踏んでハンドルを左に切った。すると車は“スゥー”と、あっけないほど簡単に雪の中から抜け出し元の車線に戻る事が出来た。

若者にお礼を云おうと大急ぎで車から降りると、二人の姿はすでワンボックスカーの中に消えていた。

私が白いワンボックスカーに向かって深々と頭を下げていると、急に目の前がかすみ、胸の辺りから熱い感情が湧きあがってきた。

「ありがとう、ありがとう、ありがとうございました」

何度お礼を言っても、土下座してお礼を言っても足りない。

車まで行って名前を尋ねよという感情にも襲われたが、後方で渋滞している車をいつまでも待たせておくわけにもいかずしかたなく車に乗り込んだ。

「あの人たち関西弁のようだったけど何処の人かなー、本当、地獄で仏とはこの事かも知れない。一生忘れられないと出来事になると思うよ」

私がこんなことを言うと裕子が

「お父さんなら、あんな所に車を止める勇気もないし、きっと、見て見ぬふりをして通り過ぎていると思うよ」

「うーん、その通りかも知れないなぁー」

ようやく雪の中から脱出し家に帰れる喜びと、若者たちの好意で笑顔が戻った私たちは、二人の若者の話に熱中しながら米子ICのゲートに近づいていった。

「BUuuu・・・・・」

「誰だ、今、オナラをしたのは、汐里か沙織?」

「早く窓を開けなさい!」

暖房で生温かくなっていた車内に、冷たい空気が“サァー”と流れ込むとあの二人の若者の勇気ある行動の清々しさが、身に沁みて感じられるようだあった。

Ⅰ―7に続く
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「2011山陰豪雪」100時間の葛藤 (Ⅰー5)

2011年01月26日 15時31分52秒 | 「2011山陰豪雪」100時間の葛藤
時間は瞬く間に経ち、6時を過ぎ、7時になっても渋滞が解消する気配は全くなく、辺りはすっかり暗くなってしまった。

ヘッドライトに照らされた雪は風もなく静かに降り、まるで白い葦の簾でも立て掛けたように、視界を遮り、ワイパーを全開に作動させてもフロントガラスの両端に積る。

それでも時折小降りになることも有り、その合間を縫って外に出、フロントガラスに積った雪を落す。

車の前後に目をやると、雪に反射したやわらかなライトの光で、辺りは白夜のような幻想的な景色を醸し出し、私と同じようにフロントガラスの雪を落し、前方の渋滞を心配そうに見入っている数人の人影が見えた。

路肩には除雪車が撥ねた雪がうず高く積り、これまで経験したことないほどの積雪となっていたが、車の中は暖房がよく効いて温かく、この渋滞さえ抜ければ何とかなるだろうと考え、それほどの危機感は抱いていなかったが、この時、これまでにも見たことのない異常な大雪に気づき、事態の深刻さを感じ不安に襲われた。

「おい、大変、すごい雪だ、この状態ならいつ家に着くか分からないよ!」

溝口ICを過ぎて、まだ2kmも進んでいない。いったい何時になったらこの状態から解放されるのだろうか?

車列は亀の歩みのように遅い、それでもようやく前方に大山PAの水銀灯の明かりが見え始めた。

すると車の横を足早に通り過ぎて行く人影が見えた。

「あの人、トイレにでも行くのかな?」

たまに車で遠出すると、決まって2時間おきにはトイレに駆け込む妻が、通り過ぎる人影に同情するかのように呟き。

「裕子、汐里と沙織はトイレに行かなくても大丈夫かな」

裕子は喋り疲れエビのように丸まって、シートに横たわっていた汐里と沙織を起こした。

「汐里、沙織、トイレに行かなくて、大丈夫!」

二人は暖房の効いた車の中で、夢でも見ていたかのように寝ぼけ眼で“ゆっくり”顔をもたげ「まだ、大丈夫よ!」と言う。

大山PAの入口が近づくと、PAの駐車場は満杯状態になっていた。

「トイレに行かなくてよかったな、ここを過ぎると渋滞が少しは緩和すると思よ。もう少しの我慢だ」

私は自分に言い聞かせるように、孫たちを宥めた。

PAの出口付近では、本線側の車とPAから出てくる車で輻輳しなかなか進めなかったが、PA出口を過ぎると、一車線からまた二車線へとまた道が広がり、車の流れが少し速くなった。

「やれやら、ようやく流れがよくなった!」

カーナビに目をやり、米子道の出口までの距離を見ると、残り6kmと表示していた。

道路側壁には車のライトに照らされた、衝突防止の標示と思われるポールが10m間隔に整然と立ち、それに雪が積っていた。

「ほら、あれ見て!人がポールに覆いかぶさっているみたいだろー」

「あ!かわいいー」

汐里と沙織が歓喜の声を上げる。

「赤ちゃんが産着を着てポールに“おんぶ”されているみたいだねー」

裕子も妻もこの情景に感動したように叫ぶ。

重い空気に包まれて車内は、一瞬、桜でも咲いたように華やぎ、私たちに一服の安らぎと心のゆとりを与えてくれた。

よくよく観察してみると、真綿でも被せたような雪が、1.5m位のポールに規則正しく降り積もり、それがライトの光に反射し神秘的な光景を醸し出していた。

車は、老人が重い荷物を背負って坂道でも登るような“ゆっくり”した速度で進み、出口まで2km位のところまで帰ると、また二車線から一車線へと道は狭まり渋滞が始まった。

「あれ、何か落ちている」

前方に、車列と除雪され高くなった雪の間に、黒い手提げカバンのような物が雪に埋もれ、わずかに顔を出していた。

停まって拾おうか、このまま進もうか、外は寒そう、停まる・進む、・・・どうしよう、等と思案している間に、その場を通り過ぎてしまつた。

しばらく走っていると、前の車が突然止まり、前方の車から黒っぽい服を着た男性が降りて、私の車の横を通り過ぎ後方に歩いて行った。

「あの人、いったいこの雪の中、何しているのだろう」

前方の車は、停車したまま一向に動き出す気配はなく、前方の車から先の車の距離がしだいに離れていくのが見え、イライラが募る。

「一体何してるんだ!!何故、速く走らないのだ!」

怒りにも似た感情が沸々と湧き、車を降り、停車している車の運転者に訳を正そうとした時、黒っぽい服を着た男性が雪で真白になりながら、タイヤチェンを片手に提げ、足早に引き返して来て車に乗り込んだ。

「ああ、さっきの黒っぽい落し物は、あの車から外れたタイヤチェンだったのか」

雪の中でタイヤチェンを探すのも大変だったろうに、私は黒っぽい服の男性に多少の同情の念を抱きながら、前車に追随して走ると、今までの渋滞が嘘のようにスムースに進み、米子IC出口200m付近までたどり着いた。

IC出口付近は道幅が広くなっていたが、除雪し、確保された車線は一車線、ここで前車がまた突然に停止した。

Ⅰー6へ続く
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[2011山陰豪雪]100時間の葛藤 (Ⅰー4)

2011年01月21日 17時03分59秒 | 「2011山陰豪雪」100時間の葛藤
久しぶりの里帰りに娘は声を弾ませ、孫たちも最初は恥かしそうにしていたが直ぐに慣れ、島での出来事や、学校、保育園などの話を夢中になって語り始め、そんな話を聞きながら運転していると、時間は瞬く間に過ぎ、いつしか岡山道へと入っていた。

岡山道から中国道にさしかかると、車内の和やかな雰囲気とは裏腹に雪がちらつき始め往路での出来事が頭に浮かんだ。

「おい、米子道の道路状況を確認して!」

妻は家にいる次女に電話を掛け、テレビで道路情報を確認するよう頼んでいたが

「お父さん、米子道は通行止めにはなっていないが、米子ICの出口で少し渋滞が有るみたいよ」

「まあ米子道が通さえすれば、多少の渋滞が有っても18時頃には家に着けるな」

私は山陽側の天候のあまりのよさに慣れ、米子道は通行止めになっていない、即ち、山陰側の吹雪は治まっていると勝手に思い込んでしまっていたのだ。

実は、昨年も大晦日に娘を迎えに行ったのだが、その日の帰りも吹雪で、米子道の最初のインター久世から米子側が通行止めになってしまい、しかたなく中国道を新見ICまで引き返して、国道180号線を経由し、岡山と鳥取の県境、積雪の多い明地峠を越えて夜の8時頃に家に着いたのだった。

この時の経験から、明るいうちに米子道さえ抜ければ大丈夫だろうと考えたのだった。

「米子道に入ったらもうトイレ休憩は取らないから、みんなここで用を済ませておいて」

私は中国道の真庭PAに車を止め、忙しなく、軽い食事を済ませ急いで出発した。

米子道に入ると路肩に積雪は有ったが、久世IC辺りから除雪車が道路の雪をかいており、渋滞することもなく湯原ICまで進んだ。

湯原のタイヤチェン装着場に着くと、多くの車がタイヤのチェクを受けていた。その中には、普通タイヤでチェンを着けていない車も多く有り、雪の中に屈み込むようにしてチェンを装着している者、また、チェンが無く、やむなく引き返す車などもあり、この様子を気の毒そうに見ながら妻が言った。

「あそこでチェンを売ったらいくら高くても買うよな、それと、チェンを着けてくれる人がいたら助かるのに」

「そう言えば昔、大山スキー場に通じる有料道路が開通した頃、有料道路の入口でそんな仕事をしていた人がいたなー。アンタ、幾らまでならお金を払って着けてもらう?」

「そうねー、タイヤ一本1000円として2000円、いや一本2000円として4000円、少し高いかな、3000円位ならお金を出して着けてもらうかも?」

すると娘が「私はチェンの着け方が解らないし、説明書を読みながら着けるのも大変だから5000円を払ってでも着けてもらうと思うよ」

「何の元手も掛らないし、良い商売かも知れんが寒くて大変だろうなー」

私は二人の話を聞きながらそれなりに説得力はあると思ったが、そんな仕事はとうてい私には出来まいと思いながら、タイヤチェクを済ませ再び米子道に戻った。

“他人の不幸は蜜の味”こんな不謹慎な会話を交わせていたのも、ここまで順調に帰れた証であろう。

雪は絶え間なく降り続いていたが、往路のように先が見えないほどの吹雪にはならず、心に余裕を持って運転することができ、蒜山SAを午後5時前頃には過ぎ、米子IC出口まで残り33km付近まで帰った。

「もうここまで帰れば大丈夫、6時頃には家にたどり着くことができる。家族も心配しているだろう」

帰宅予定時間を家に連絡するよう妻に電話をさせると、米子ICの出口付近で6kmの渋滞があると知らせてきた。

6kmくらいの渋滞ならこれまで何度も経験している。通過するのにそんなに時間は掛らないだろうと思いながら、蒜山ICを過ぎ、三平山トンネルを抜け、江府ICに近づいた。

道路は片側二車線から一車線へと狭まり、大きな結晶のボタン雪が絶え間なく降り初め、視界を遮って車が混み始めた。

江府ICを過ぎ、5kmくらい進んだ辺りから渋滞が始まり“のろのろ”運転。

溝口ICの手前まで、ようやく帰った辺りから大渋滞に巻き込まれ、一分間に5m、10mといった速度でしか進めなくなった。

「おい、このままではいつ家に帰れるか分からないぞ、溝口ICを降りて地道を帰ろうか?」

「お父さん地道の方がもっと渋滞して危険かも知れないよ。このまま高速を帰ろうよ!」

私は妻の言葉に従い、そのまま高速を帰ることにしたのだが、数台の車は高速を降りて一般道へと回って行った。

この渋滞、いったい何キロ続いているのだろう。私がカーナビを米子道ICの出口に改めてセットし直すと9.2kmと表示した。

Ⅰー5に続く

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「2011山陰豪雪」 100時間の葛藤(Ⅰー3)

2011年01月15日 14時03分46秒 | 「2011山陰豪雪」100時間の葛藤
長い三平山トンネルを抜けても吹雪は治まるどころか、さらに激しさを増し、フロントガラスの外側に薄く凍ったようにはりついた。

私は前屈みになりながら、絶え間なくフロントガラスにウオッシャー液を噴きかけ、かろうじて視界を確保しながら運転を続けた。

夢中になって運転しているうちに吹雪も少し和らぎ、いつしか下りに向かって走っているのに気付き妻に声をかけた。

「蒜山サービスエリアをいつ頃過ぎた?」

「もう、とっくに過ぎたよ。もうすぐ湯原ICが近いかも?」

いつの間にか前を走っていたはずの観光バスの姿は見えなくなり、蒜山IC~湯原IC間の玉田山トンネル(1.6km)を過ぎ、湯原IC~久世IC間の摺鉢山トンネル(4.1km)を過ぎた頃には、ざらめ雪が“うっすら”道路に残っているだけになっていた。

普段なら40分程度で通過できる米子道に2時間以上もの時間をついやし、中国道の真庭PAに到着したのは11時を過ぎていた。

真庭PAでトイレ休憩をとり、中国道から岡山道そして山陽道に入ると、これまでの天候がまるで嘘のように青空が広がり、途中、渋滞もなくスムースに笠岡に向かうことができた。

娘は岡山の大学を卒業し地元の銀行に就職していたが、一年くらい経った、ある日、突然、私が耳を疑うようなことを言い出した。

「お父さん、私、結婚したい人がいるの」

「裕子、おまえ、そんな人がいるなんて、お父さんに一言もいっちょうへんがな」

「もう少し仕事に慣れたら言おうと思っていたけど、その人が横浜に異動になったの」

娘の話によると、学生時代、アルバイト先で知り合った男性と交際していたが、その彼が横浜に異動になるとのこと。彼曰く、仕事をやめてどうしても横浜について来てもらいたいと強く望んでいるというのだ。

娘は彼と結婚し藤沢に住むようになっていたが、彼が7年前に突然会社を依願退職したため、彼の故郷である瀬戸内の笠岡諸島の或る島で暮らすようになっていた。
(この話の顛末ついてはまたの機会に記すこととする)

「山陽側に来ると、山陰の天気が嘘みたいだね。裕子も早く親離れして一人前にならんと、いつまでも親に甘えていたっていけないのに」

妻は毎日のように娘から掛ってくる電話の声を聞くたび、たまには楽しい話題で電話をして来ればいいのにと、いつも顔を曇らせ気を病んでいた。

「もう来年は迎えに来ないかも?それでも孫たちが小さい間は、迎えに行ってやらんと可哀そうだしな~」

「しかたないか、親が生きている間はいつまで経っても子供は子ども、親が亡くなって初めて親になれるのかも知れない、親が生きている限りは親が何歳になっても、子供にとって親は天皇陛下みたいな存在かもしれないなー」

こんなたわいもない会話を交わしながら、山陽道の笠岡ICを降り13時過ぎにようやく笠岡港に着いた。

復路は子供も乗せて帰らなくてはならない、米子道が猛吹雪だったら無事に越えることができるだろうか?

そんなことを考えていると不安がよぎり、フェリー到着までの一時間余りの間、仮眠をとろうとするがなかなか眠ることができなかった。

「もうすぐフェリーが着く頃だよ」

妻の声に“うとうと”まどろいでいた私が目を覚ますと、フェリー到着の10分前であった。

「着いたらすぐ出発するよ、フェリーの中でトイレを済ませておくよう裕子に連絡しておいて!」

私は妻に言い残しフェリーの待合所に向かった。

白い大きな船体が桟橋に接岸し多くの下船する客に交じって、両手にボストンバックを提げた裕子と、リックサックを背負った孫たちも下船し“コニコ”溢れんばかりの笑みを浮かべながら私に近づいてきた。

「お帰り、汐里、沙織、元気だった!」

「おじいちゃん、お迎えありがとう」

孫は人目には、とても可愛いいとは言い難い容姿だろうが、そこは数カ月ぶりに会う我が孫、やはり可愛いく目が潤む。

この一瞬のために186キロの雪道を、遠路車を飛ばしてきたようなものである。

「裕子、久しぶりだなー、荷物を持つから出しなさい」

私は娘たちの荷物を車に積み、助手席に妻、後部座席に娘と孫を乗せ、これが悲惨な事態の始まりとも知らず青空の広がる山陽路を後にした。



Ⅰ―4へ続く
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「2011山陰豪雪」100時間の葛藤 (Ⅰー2)

2011年01月10日 11時50分20秒 | 「2011山陰豪雪」100時間の葛藤
淡いオレンジ色の明かりは、苦境に喘ぐ私の心を和ませ、一時の安らぎを与えてくれ、 “ふと”マイカーで四国の金刀比羅宮に旅した時のことが脳裏に浮かんだ。

それは昨年の7月の暑い日のこと、私と妻は午前10時頃に金刀比羅宮に到着して、さっそく本宮を目指し石段を登り始めた。

ところが、体長の芳しくなかった妻は途中の旭社でダウンしてしまった。

「お父さん、私、もう歩けん、ここで待つちょうけん一人で参拝してきて」

「そげか、ほんなら30分位で戻ってく~けん、ここでまっちょうだぞ」

私は妻が社の休憩所の椅子に掛け休んでいるのを見届け、本宮に参拝し休憩所に帰ってみると妻の姿がない。

それから30分待っても1時間待っても妻は帰ってこない。

「ひょっとして後を追って本宮に参拝したのかも?まさか救急車で病院にでも運ばれたのでは?」

などと考えると心配になり、再度本宮に登ってみるが姿がない、もしかしたら先に車に帰っているかも知れないと思い、大急ぎで車まで引き返してみるがやはり姿がない。

「こりゃー本当に病院にでも担ぎ込まれたのでは?」

妻は携帯電話を持っておらず連絡のとりようもない、しかも見知らぬ土地での出来事、対応すべき方策もなく、待つしかなかった。

「もしも何かがあったら、携帯に電話があるかも知れない」

それから30分、携帯がメロヂーを奏でた。

私の心に一瞬不安がよぎり “ドキ、ドキ”しながら携帯を耳にあてると、電話の向こうから妻の声。

「あんた、どこにおおて、休憩所で待つちょれ~て言ったが」

私は“ホッ”するのと同時に怒りがこみ上げ、まくし立てるように妻を責めた。

「ゴメン、ゴメン、後を追って本宮まで行こうと思って、間違えて奥宮まで行ってしまって、心配しちょうなぁーと思って、今、人から電話を借りて掛けちょうだがん」

それから30分くらい、ようやく車に帰った妻に、詳しい事情を聴くと、休憩所で待っている間に体調も回復し、本宮に向かって登り始めていると、二人連れの若い女性と一緒になり、後をついて奥宮まで行ってしまったと言うのである。

石段が多く心臓は“バク、バク”息苦しくなるし、お父さんの姿は見えない。心配になり女性に事情を話し、電話を借り連絡したのだと言う。

この話を聞いていると妻への怒りも次第に治まり、可哀そうにさえ感じられるようになっていく思いがしたものであった。

その日の宿を、高知市内のホテルの予約していたため、その後二三の観光地を巡り、高知道を通って高知市にと向かった。

高知道を走っているとトンネルの多さが妙に気に掛り、米子道も多いが高知道も多い、帰りにどちらの道の方がトンネルが多いのか数えてみようなどと、たわいもない話をしながら、いくつものトンネルを潜り高知市内のホテルに着いた。

次に日、午前中に物産館で土産物の買い物を済ませ、一般道から高知道に乗り帰路に着くと、妻は昨日の約束を覚えていたのか、トンネルを潜るたび“いち・にい・さん・・・・”と数え、米子道に入って、また、“いち・にい・さん・・・・”と数えた。

「お父さん、高知道と米子道、同じ23カ所だよ!」

金毘羅宮での出来事をすっかり忘れたかのように、さも自慢げに言ったものだった。

前を走る観光バスの“ガチャ、ガチャ”響くチェンの音を聞きながら、トンネルを抜けたら、吹雪よ、治まっていてくれと願いながら、淡いオレンジの光の中を出口へと向かった。

Ⅰ―3へ続く
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「2011山陰豪雪」100時間の葛藤(Ⅰー1)

2011年01月07日 17時18分02秒 | 「2011山陰豪雪」100時間の葛藤
元旦を翌日に控えた大晦日の午前9時、私は娘と孫の二人を迎えに岡山に向かうため妻を伴って車に乗り込んだ。

気象情報では大晦日から元旦にかけ、山陰地方に暴風波浪大雪注意報が発令されており、
天候が多少気にかからないでもなかったが、この時点では積雪も10cm程度、雪も小康状態を保っており、愛車はトヨタ・マークⅡの四輪駆動。

私は雪国育ち、雪道には慣れているし運転は人並み以上に巧い。

「この程度の雪なら大丈夫!」

これまで雪道では一度のも事故を起こしたことはない。

何の根拠もない、自負と自信をいつの間にかもつようになっていた。

この自信が木っ端微塵に打ち砕かれ、自信が過信で有ったことを嫌というほど思い知らされる事態が発生しようとは、この時は夢にも思わなかった。

車にキーを差し、カーナビをセットすると、自宅から岡山県笠岡市まで186kmと表示した。

道路にはアスファルト上に、パウダーの粉をまいたように雪がうっすらと積もっていたが、運転には全く支障がない。

私は近くのスタンドでガソリンを満杯にすると一般道から山陰道を経由し、米子道の入り口で、冬用タイヤのチェックを受け米子道へと入った。

米子道は中国山脈越え、標高650メートルの高地を通る高速道路で、蒜山サービスエリア辺りは特に雪も多く難所である。

米子道に入って20分、最初の溝口インターを過ぎたあたりから雪が急に激しく降り始め、江府インターを通る頃には、ぼたん雪が風にあおられ、花吹雪のようにフロントガラスに吹き付け、視界を遮るようになってきた。

江府インターから蒜山サービスエリアまでは急激に標高が高くなり、それに伴って雪もますます激しくなってきた。

視界も40mから30mそして20m、10mと狭くなり、速度も50kmから40km、30km、20km、そして10kmで走るのさえ難しく、まるで煙幕を張られた煙の中でも走っているような状態になった。

そのような状態の中でも、私の車を尻目に数台の車が追い越して行く。

「お父さん、あの車、前が見えちょうだ~か」

フロントガラスに額をこすり付けるようにして、前方を見入っていた妻が、心配そうに呟くのが耳に入ると人ごとながら気にかかる。

「事故でも起こさなければいいが」

“カチ、カチ、カチ、カチ” ワイパー全開、忙しなく動く、暴風に煽られた雪がフロントガラスに吹き付け速度はさらに遅くなる。

前方にタイヤチェンをかけ、亀のように“のろのろ”走る、大型観光バスの姿が蜃気楼のように見えてきた。

「しめた、あの観光バスの後ろについて走ろう!」

私が追突しない程度に観光バスに“ピッタリ”車を着けると、猛吹雪も心なしか弱くなったように感じられた。

急に猛吹雪が治まり、淡いオレンジ色の光が射して、今までの吹雪が嘘のように視界が広がり“ほっ”胸をなでおろす。

鳥取と岡山の県境にまたがる、米子道では二番目に長い三平山トンネル(2.2km)に入ったのだった。

観光バスが急にスピードを上げる。

「こんな大雪になるのだったら、電車で帰らせればよかった」

反省の念が頭をよぎるが、もう引き返すという選択肢はないし出来もしない。

何としても米子道を走り抜け、中国道までたどりつかなくてはと観光バスの後を追う。

観光バスから離れることは、即、猛吹雪の中、更なる悪条件での運転を余儀なくされるからだ。


Ⅰ―2に続く
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