たわいもない話

かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂

人生慕情

2019年05月23日 18時24分15秒 | 負け犬の遠吠え
序章

中国地方で一番の高山、大山は伯耆富士とも呼ばれ、日本の三名山の一つにも選ばれる霊山である。
春は新緑、夏は登山、秋は紅葉、冬はスキーと四季折々に変貌した顔で多くの人々から愛されている。
平成30年には開山1300年を迎えたのを機に、参道の整備や数々の記念行事が行われ、県内外はもちろん海外の人も集い大いに賑わった。
往時の大山寺には多くの寺院が建っており、僧兵も三千人もいたと言われている。
大山の麓に広がる大原千町は、黒土の肥沃な大地に拓かれた一大穀物地帯で、丸山、半川、大原、真野、番原、久古、福岡、須村の八つの集落の総称として八郷と呼ばれている。
戦国時代にはこの地を治める豪族が変わるたびに、大山寺との間で領地の覇権をめぐって戦が絶えなかったという。
その後、八郷を含む伯耆の国一帯は、覇権争いに勝利したこの地の豪族、紀成盛によって制圧された。
成盛は大原千町と日野川を挟んで大山が一望できる、会見村長者原の高台に居を構えた。
成盛は、日野川から採れる豊富な砂鉄を原料に、たたら製鉄をはじめて大いに財を成して隆盛を極めた。
大山への信仰心が深かった成盛は大山祭りの前夜祭には、長者原から大山までの五里の道に松明を燃やして、道標としたとも言い伝えられている。
戦国の覇権争いが激しさを増してくると、隆盛を極めていた成盛の平穏な時は長くは続かず、広瀬の月山に居を構えていた尼子氏に滅ぼされ、紀一族は美作や播州の地に落ち延びたとも言われている。
尼子が毛利に一掃されると、紀一族の一部は大山の麓に帰り、人目を避けるように暮らしたと言われている。
代々、我が家に引き継がれている言い伝えによれば、進野一族も紀成盛の末裔と言われ、美作の国に落ち延びていた先祖が会見村の日吉津に帰り、七代前に八郷村の須村に居を構えたと聞かされている。
紀一族は後に進とも名乗ったらしく、また、戦に敗れて野に下った一族は、姓に野をつけて名乗ることもあったようで、進野姓は紀一族が野に下り、進に姓を改め、進野と名乗るようになったと思われる。
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