たわいもない話

かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂

死を悼む姪からの手紙

2011年03月07日 13時39分23秒 | 余命1年「がん」闘病記

 

     『  養 父 の 死 を 悼 む姪 か ら の 感 謝 の 手 紙  』

淡雪の朝です。

新雪にであうとおじ様を想い出します。

考霊山の頂まで新雪はまばゆく輝き、お陽さまに従い走るバスの車窓一面まっ白。

おじ様のお人柄を忍びました。

お別れの日

軍靴がお棺に入れられ蓋をされました。

緊張がなければ、もう少しで大泣きしていました。

黙して語らぬ軍靴「これだ~!!」と胸をうたれました。

  崖っぷちに立たされ、窮地の暮らしと変わった時、築いてきた未練や怒りや恨みが、堂々めぐりでわめき散らし、ののしりたいマグマや金銭の恐怖と、一人ぼっちになった              

  怖さにおじ気づき涙しかない私に静かに言われました。

 忍耐だけ。

「ガマンですか?」と尋ねました。

「ガマンとはちがう」と言われました。

「忍耐」とは、終始一貫、泣くこともわめくことも余計なことを言うこともいけん。

誠意がなければ何をやってもダメなんだけ、と平明に話されました。

足もとの暮らしを守り余計なことは言わんで、時をつくるんだと言ってお帰りになりました。

  不幸になれば親でも、きょうだいでも、ましてや親せきも逃げてしまいました。

  未来もない生活などこれ以上できない、終りにしようとまで思いつめていた私です。

おじ様の言葉を「守り神にしよう」と迷いからさめ,心が定まり毎日を生きてゆく「灯台」にして閉居を暮らし始め墜落した人生にならずにこれたことは、厚く感謝を申し上げなければと思います。

軍国主義の軍靴は、戦地から生きて帰る「忍耐」だったのでしょう。

命をかけた軍靴。

今度は私に授けていただき、見守り続けて下さいましたのですね。

お目にしたとたんそう信じました。

頑張れとお声がしたように思えました。

あんなにつらい切ないと思っていた、あのころが人生の土台になりました。

おじちゃん ありがとう。

 ありがとう。

 本当にありがとうございました。

春とはいえ、まだ寒さが残ります。


皆様お体をお大切にご自愛くださいますよう願っております。

ご法要のご案内を頂戴いたしましてありがとうございます。

こころよくお受けさせていただきますのでよろしきお願いします。

                                  かしこ

  平成二十三年やよい三月 
                         ○ ○ ○ ○ ○ より

  皆 さ ま へ

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余命一年「がん」闘病記

2011年03月05日 14時07分50秒 | 余命1年「がん」闘病記

            『義 恕 (よしゆき) の 死 』 

     

“ビュービュー”外が見えなくなるほどに荒れ狂う吹雪、窓ガラスはバリバリに凍りつき、庇には氷柱が簾でも立てたように垂れ下がっていた。

この冬、二度目の大寒波が山陰地方を襲った1月29日午後3時15分、余命一年と宣告されていた養父、義恕(よしゆき)は荒れ狂う、外の天候とは裏腹に、自宅のベッドの上で、妻、子、孫、曾孫たち、多くの家族に見守られながら90年の人生の幕を静かに閉じた。

義恕はこれまで殆んど病気らしい病気はしたことは無かったが、昨年の2月に突然自宅で倒れ、救急車で医大に搬送され精密検査を受けた。

病名は末期癌、癌は内臓の数カ所に転移し、その上、かなり進行し義恕の年齢から考え、手術で癌を取り除くことは体力的に難しく、手術をした場合、かえって体力の衰弱を招き、寿命を縮めるのではないかとの診断を医師は下した。

養母、勇子(ゆうこ)が、この診断結果を医師から聞き帰ったことから、義恕の一年に亘る闘病生活が始まることになった。

義恕の余命は残り一年、この医師の所見は直ちに、勇子から私の妻、誠恵(まさえ)そして高校の養護教諭の二女、礼香(あやか)名古屋で看護師をしている三女、仁美(ひとみ)の直系親族の三姉妹に知らされ、礼香と仁美は日本海沿いの古い町並みの残る、我が家に慌ただしく帰郷することになった。

そして勇子と三姉妹はこれからの義恕の治療方法について、手術か投薬治療にするのか重大な決断を下す話し合いをすることになった。

義恕の生死に関わる重大な決断の話し合い、私が加わらないのは非情な夫と妻に誤解されかねない、しかし私はあえて話に加わるのは控えた。

「養父の生死を決める話に、たとえ夫であろうと口出しは出来ない。血を分けた親族で決断しないと後で後悔することになる、貴方たち三姉妹とお母さんとで話合って決断しなさい」

私は誠恵に自分の本音を素直に伝えて話には加わらず、勇子たちがいかなる決断を下すのかを陰ながら見守った。

一日や二日で結論が出るはずもなく、礼香と仁美は仕事をいつまでも休むわけにもいかず、しかたなく結論が出せないまま一旦帰ることになった。

二人が帰ってからの数日間、礼香と仁美は幾度となく誠恵との電話で、義恕のその後の経過やら容態を聞きながら勇子を交え、長い話し合いを続けていたが二週間くらい過ぎた或る夜、ようやく結論を導き出したようであった。

無論、私たち三人の連れ合いも義恕の容態は知っていたが、勇子と三姉妹の出した結論には全面的に協力することだけを約束して、一切の口出しは控えることにしていた。

日の経つのは早いようで遅いようで早いもの、この事実が昨日の事のようでもあり、また数十日も前の出来事にも感じられ、すっかり時間の感覚が麻痺してしまっていた。

そんな或る日、私たち家族三人の食事が終わるのを待って、誠恵がテーブルに眼を落しながら“ぽっり、ぽっり”と重い口を開いた。

「お父さんも、もう89と歳だし手術しても治る見込みは薄い、それなら手術して体を衰弱させるよりは薬で治療にし、少しでも長生きしてもらいたいと思う」

誠恵のひとこと一言は、胸を突き刺すような寂しげな声、自分たちの決断を自らも確認するかのように話を続けた。

「それに、仮に手術して胃に管を通したり、人工呼吸器を付けるようになったら、本人を苦しませるだけで何も良いことはないと思う、それよりは残りの人生、体力のあるうちに好きなことをさせてあげた方が幸せではないかと思う」

瞼には薄っすらと涙を浮かべて話す誠恵の傍らで、85歳になる勇子もうな垂れて聞いていた。

「それであなた達は後悔することはないよなー」

私が誠恵と勇子に眼をやると、老いの目立ち始めた勇子の頭には地肌が見え、ふんわりとした産毛のような白髪の中に僅かに黒髪が残っていた。

「これからお父さんがいろいろと世話になり、苦労を掛けると思いますがよろしくお願いします」

勇子は顔を上げると、私の顔色を窺うように直視した。

その年輪を重ねた眼差からは、深い悲しみの奥に得体のしれない慈愛に満ちた光を放って私の胸に突き刺さった。

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「2011山陰豪雪」100時間の葛藤(Ⅰー7)

2011年03月01日 17時54分12秒 | 「2011山陰豪雪」100時間の葛藤
インターチェンジ付近は水銀灯の青白い光に照らされ、雪は水銀灯に群がるカゲロウのように、何時止むとも知れず降り続いていた。

私がETCレーンに入ろうとすると、係員が一般レーンの方にから顔を出して手招きをした。

「ETCレーンは止めています。ETC扱いにしますからカードを見せて下さい」

私は係員の指示に従ってETCカードを渡す。

係員はETCカードを機械に通し、精算を済ませると窓から顔を出しながら言った。

「山陰道はこの大雪で通行止めになっています」

山陰道が通行止めになるくらいなら、当然9号線も通行止めになっていてもおかしくない、不安を抱きながら私は係員に尋ねた。

「国道9号線は通れますか?」

係員は窓から身を乗り出して9号線の方に眼をやり、気の毒そうな眼差しで車の中を覗き込むように言った。

「今のところは通れるようですよ!」

係員は私の安堵した様子を察したように言葉を続けた。

「9号線は除雪しているそうですから、大丈夫だと思いますが、運転には気を付けてください」

私たちが係員の言葉に送られ米子インターチェンジを後にしたときは、すでに午後の10時半を過ぎ、冷え込みは次第に厳しくなり始めていた。

米子インターチェンジのバイパス道を抜けてようやく9号線にたどり着くと、9号線は除雪された痕跡は残っていたものの、その後に降り積もった雪が車の轍で凸凹になり、それが凍結し、まるで小石で覆われた河原のようになっていた。

少しでも気を緩めれば轍にハンドルを取られ、車輪が雪に埋まり動けなくなり、また、除雪されて道路の両側に、うず高く積まれた雪の中に突込そうにもなる。

暫く走って行くと雪で動けなくなったのか、屋根に小山のような雪を載せて放置された車がところどころに停まっていた。

凍結した雪道に悪戦苦闘しながらガソリンスタンドのところまで来ると、轍に嵌り“ブルブルーン、ブルブルーン”とエンジンを吹かし、車輪を空回りさせ動けなくなった軽自動車に遭遇した。

私はその軽自動車の横を通り抜けることもできたが、高速道路で助けてくれた二人の若者の恩返しの気持ちも手伝って、妻と車を降りて軽自動車の後ろに回り押した。

軽自動車は私たちの手助けで難なく轍から抜け走り出したが、その後、1kmも走らない間に2度も止まり、その度に妻と車を降りてその車を押した。

4度目に止まったのは登り道の途中、妻と二人で押しても動かない、裕子にも手伝わせるがそれでもスリップして動かない、このまま見捨てて帰るわけにもいかず三人で立ちすくんでいると、後の車から50歳前後のガッチリした体格の男性が降り、車を押すのを手伝ってくれた。

私たちが軽自動車を押していると、横を掠めるように黒塗りの乗用車が追い越した。

「危ないじゃぁないか、バカヤロウー」

男性が叫んだ。

その男性は道の中央をまたぐようにして車を押していたので、服の一部にでも接触したようであった。

「手伝いもせず、こんな処で追い越しをかけるなんてロクな奴じゃぁあるまい」

私もその運転手に怒りを感じたが、車は左右に蛇行しながら降りしきる雪の中を遠ざかって行った。

軽自動車は男性の助太刀の甲斐もあってようやく轍から脱出して、また雪道を“ノロノロ”と走り出した。

私は軽自動車を追い越す訳にもいかずしかたなくその後に続いて走った。

自宅まで残り1km位の交差点まで帰った処で、軽自動車は右側の方向指示器を出しながらまたしても止まってしまつた。

その交差点は、正面に雪に覆われた歩道橋が水銀灯に照らされ、右折方向は山陰本線の踏み切りになっていた。

右折しようとする軽自動車の前には、4、5台の車が雪の埋まり立ち往生してとても動けるような状態ではなかった。

私は妻と軽自動車を踏み切り方向に押してやって、直進方向の車線を確保して車に帰ろうとしたとき妻が囁いた。

「お父さん、あの軽自動車の中に若い女性が乗っていたよ!」

私は妻の言葉を一概に信じることが出来なかった。

車に乗ってからも妻はしつこく言う。

「だって、水銀灯の明かりで運転席側の窓から車の中が見えたもの」

あまりにも妻がしつこく言うので、軽自動車を追い越しながら車内を覗き込もうとしたが、左側の窓は雪で覆われ確認することは出来なかった。

走り始めてからも、妻は私の同調を求めるように何度も言った。

「本当に乗っておられたら、降りてお礼に一つも言われたと思うよ!」

私は妻の言葉を信じない訳ではなかったが、あんなに何度も車を押してもらい世話になっていて、自分ひとりが車の中で他人事のように過ごし、礼の一つも言えない、そんな人間がいるとは思いたくなかった。

私たちはようやく我が町にたどり着いたが、家は町の高台にあるため急な坂道を100mくらい登らなくてはならない。

しかし、家に帰る道は全く除雪されていない、しかたなく車を町中の空き地に停めて歩いて帰ることにした。

「汐里、沙織、歩いて帰るから車から降りて」

私は車のトランクを開けて荷物をそれぞれに振り分け、人気のない雪の坂道を孫に気遣いながら家路に向かった。

Ⅱ―1に続く

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