墓の方へ、行って見ました。以前から、ここに、古い墓があることは知っていました。周りにには、篠竹の生えているので、それなりに、定期的に管理されているのだとは思います。
私のシックスセンスでは、残念なことに、物の怪の気配などは、まったく感じませんでした。
さて、画像真ん中の一番の生きな墓で、右側には、享保と書かれていました。徳川吉宗が活躍した時代ですね。
布野村史に平林の名前が記載されていないか調べてみました。するとありました。
359ページにのっています。
生徳2年(1712年)の春、広島本藩は、地方政治の改革に乗り出し「郡方新格」を実施し、これまで地方支配の中心になっていた各郡の郡代官を廃止し、地方政治を郡代の下に一元化した。三次藩でも本藩に倣って、上布野村の平林勘四郎ら、領内の有力農民4人を所務役人(郷代官ともいった)に任命し、さらにその下に頭庄屋を任命し、村々の統制強化をはかった。さらに所務役人は武士身分とし、頭庄屋とともに扶持米と役料を支給した。有力農民を班の支配機構の中に組み込んで、農民支配を強めようとしたのである。
さて、記載は、以上です。このあと、村誌には、享保時代には、三次を中心にこの地方では一揆が起こっていることが記載されています。
布野では一揆のことは、書かれてはいませんが、私の浅なる考えでは、当時、平林家と上布野農民たちと対立は、あったと思います。
後年になって、そのことをふまえて、昨日の民話が後の人々の中で生まれて広まっていったのではないでしょうか。
まったく違うほうが、大きいと思いますが、そんな想像をしてみました。
水戸黄門のファンの私です。
黄門さんの代わりに、名前を明かさない武士がきてくれたことにしたのでしょう。
平林家の子孫の方には、申し訳ない解釈で、許してください。