布野村誌(通史編)の526ページに、戦争と布野村という項目の中で次のような記述があります。
本土空襲に備えて昭和18年9月から、村内便坂の多幸太山に防空監視哨が設けられ、青年団が交代で詰めて昼夜対空監視にあたった。
先週の金曜日に東地区のAさん(今年で90歳)が、あの山をみるたびに思い出します。とはなされていました。
昭和18年から、2年間、私は、監視哨にいっていたのです。作木からの人もいました。建物は、牧場のサイロのようなものでした。なにかあったら、電話で、広島に連絡するのです。1回ほど連絡したことがあります。
詳しい、聞き取りをしたのではないので、以上のことでしたが、私は、軍の秘密で公のものでなかったと思っていましたが、ちがっていました。
作木の堰堤を爆撃したということも話をされていました。今日、村誌をみると、上の記事の次に作木で爆撃があり、7人の死者がでたというのがのっていました。
小学校や中学校で、原爆のことは、習っても、こういうことは、教わっていませんでしたね。