三次市布野町の風景や自然など

布野にゆかりのある人で暇な人はみてください。
コメントも遠慮なくください。

昭和30年頃の田植え

2023-05-30 14:32:52 | 昔の布野村から

村史に農作業の移り変わりというコラムがありました。

その中から引用します。

昭和3,40年代にほとんどの農家に耕運機が普及してつらい代掻きなどの重労働も大幅に軽減された。その一面、牛を飼育する農家が激減した。腰をかがめての田植えは、女性の重い負担であったが、昭和44年ごろから歩行型二条植田植機が普及し、50年ごろには、四条植になり、さらに、53年頃からは乗用型も登場し施肥も同時に行うようになった。

とありました。今は、もっと大型の機械ですね。

同じところだと思います。今日の様子です。

 

 


田植え歌:2

2023-05-29 14:30:22 | 昔の布野村から

布野の田植え歌には、2種類の流れがあるそうです。戸河内地区、上布野下布野には、君田村や三次地方からの流れが歌われ、君田村の藤兼で伝承されてきた藤兼調子といわれるもの。横谷地区、奥の迫では、高野山ぶしと言われる唄調子で、比婆、庄原、木島、赤名の地方に伝わり、中国山地の骨子である大万木山や琴引山の山麓から、人的交流とともに流れてきた。

以上、布野村史からでした。

 


昭和28年生の小学校

2023-05-27 09:53:09 | 昔の布野村から

昭和28年生まれの子どもが、小学生1年生は、昭和35年です。その時の村報をみてみると、上の画像がありました。以前にも一度載せたことがあります。

まずまずの松の木がありましたし、なにやら石碑もありました。左の木は、覚えていません。

下は、倉庫です。消石灰の匂いがしていました。

昭和の学校にあって、今はないものの中に、ラインを引く消石灰があります。目にはいって危険だとのこと。ほかには、アルコールランプ、焼却炉などがあるそうです。チョークもかなり使われなくなったそうです。

卒業年度は、昭和41年になるのでしょうか。おそらくこれが、卒業記念作品になったのだと思いますが、計算が間違っていたら、私がバカでした。

私たちのころ、このいろいろな石を見て、勉強したものです。ちょっとレベルは高い感じでした。布野の石なのでしょうか?

上の画像も下の画像のもの、布野小学校のどこかに残っているのでしょうか。

私たちの卒業作品は、道後山に遠足に行った絵を描きました。


昭和28年布野村

2023-05-26 14:48:27 | 昔の布野村から

この前書いた、私より4学年早い学年の人達は、早生まれでないかぎり、昭和28年生まれです。その年の布野村報から記事を見つけてみました。

まずは、7月、約20年ぶりの豪雨災害になったようです。橋の流失が15か所は、すごいです。

その年は、布野分校が、新設された年でもあります。当時は、塩町高校の名前です。

最後は、胡子講牛市のにぎわいです。牛2000頭は、すごすぎます。今の布野の人口よりもはるかに多いのですから。

さて、昭和28年の人口は、掲載されていません。資料によると昭和27年が3443名にあるのに対して、昭和30年は、4079名(布野で一番多い時)になっていました。

村長は、有馬四郎村長です。

2000頭と書いていますが、本文は200頭になっています。修正はありませんでした。

 

 

 


布野中学校旧校舎:昭和40年

2023-05-24 15:32:25 | 昔の布野村から

この前の文集に掲載されていた写真です。私が、布野中学校1年生の春(昭和45年)は、ほぼこの状態であったと思います。春から工事が始まってあっという間に2年生から新しい校舎になったと記憶しています。

私たちのころ、卒業アルバムがなかったので、校舎の写真はなくさみしい思いです。

この写真を見て、懐かしく思います。校舎前の木々は、ポプラ並木だったようです。

校舎の右のほうの建物は、当直室だったでしょうか。和室があった記憶があります。

校舎自体、戦後に建てられたわけですから、20年くらいで、役目を終えたようです。今の校舎がもう50年以上ですから、そんなに古くないのに、建て替えられたわけです。

今聞いた話では、私より4学年上の方の同窓会がこの土曜日に行われるとのことです。30名弱が参加予定だそうです。

どんな思い出がでてくるでしょうか。そんなことあったかなあという人がほとんどでしょう。

面白い話がでてくると、ここで、紹介させてください。お願いします。