つむじ風通信

「信州うらの畑」へようこそ!松代町は長芋の産地で歴史の山、妻女山(斎場山)は我が里山です。

歴史講座で地域を知る

2008-02-24 13:52:51 | 気まぐれ雑記


週末となると決まったように天気が悪く、今回は風と雪の大荒れ模様でせっかくそこまできていたはずの春がまた遠のいてしまった感じです。いつもは鳴き声がうるさく人間よりも早く「春がきた~」と騒いでいた鳥達も昨日、今日は何処かへ避難しているようです。

そんな昨日に千曲市屋代にある「長野県立歴史館」に信州ふれあい歴史講座があり、興味深いテーマだったので午後に出かけてみました。1月から3月までの間2回ずつほどテーマ別の講座があり(当日受付、無料)昨日は「土地や建物の顔」で前半が「古代の地名の話」で後半が「看板建築」についてでした。

時間に余裕をもって行ったのですが、駐車場はすでにほぼ満車状態でやっと停めてから受付をし会場入りしました。聴講者は全体で70~80人ほどでしょうか?予想通りその殆どは中・高齢者の方達で、自分もしっかり中年の仲間ですが見渡したところ一番若いようでした。

さて話しの内容ですが、古代といっても奈良から平安時代までのシナノの国の地名の呼び名の変換についてで、それが大宝律令によって整備が進められていったこととそれが後に木簡などにより確認され、その時代の呼び方、書き方が判明することなどを学んできました。又税を納めたときに押された印を見てもその時の地名の呼び名を特定する証拠になることも分かりました。

720年頃には今の行政地名の大元になる郷名が全国的にほぼ定まり、今に至っているそうです。合掌造りで有名な白川郷などはまさにその時の呼び名であるそうです。実際はその前の古墳時代に興味があったのですが、昨日の講義でもそれ以前の地域の様子、特に勢力範囲がどこにあったかが推測されました。最後の質問タイムで埴科郡イソベ郷の礒部とはどのような意味があるのかと聞いてみましたが(現在の自分が住んでいる地域)その答えが・・自分の様な(講師)考古学をやっているような変った人?や他は郷名が決まっていてその他の場所という意味・・でその名があるそうです。(はい~?)残念ながらかつては埴科郡の北のはずれで、その後何回かの編入合併があり、今は長野市の南のはずれとなっている我が集落、その時どきの時代に振り回されていた歴史はなんとすでに700年代からだったのですか・・・。(想定外の答え、説明に大分ガッカリしてしまいました)私がすでに持っていた地名の史料にはイソベ郷とそこだけカタカナで書いてあり、磯部か磯辺だと思っていたのですが、礒部だと分かりました。

屋代遺跡群は高速道路を造るにあたり発掘作業が行われたそうですが、そういえば以前私が若かりしころ勤めていた会社(屋代)が移転する際に、その時の建物を壊した後その土地を発掘調査した話を思い出しました。又、今の松代町内の道路拡張工事の前にもそういえば発掘調査が行われていました。私の住んでいる地域は古代にはどの位の集落があったのでしょうか?うらの畑では毎年長芋の収穫の為に土を1M以上深く掘り返していますが、戌の満水の頃流れてきたであろう茶碗のかけらしか出てきません。歴史はすでに時間が過ぎてしまったことで変えることは現実に不可能ですが、今を知ることは昔を知ってこそ今に至ると考えられるので色々な意味で歴史をさかのぼるのは興味深いものです。

後半は別の講師でしたが、専門はやはり考古学だそうですが今回は「看板建築」について講演をされました。なんの事かと思いきやこれがなかなか面白い内容で、いままで町並みを見てそういえばあんな建物あったなぁ~と、一種時代背景も想像させるユニークで笑える(建てた本人は本気)建築方法でした。

3月にも興味深い講座がひとつあるのですが、仕事の都合で行けないので又来年の歴史講座に参加しようと思いつつ、冬も終わりに有意義な半日を過ごしました。


(川柳)戻れない  時をひも解く  歴史学     FUKI