バスケ青春の詩

平成25年12月22日をもって33年9か月ほど勤務した仕事を定年退職をしました。これを機会にまた想いを綴ります。

筋(スジ) …2012

2012-06-13 05:20:40 | やっぱりミニバス!
平成24年6月13日 水曜日
 
「筋(スジ)…2012」


「無理をとおせば、道理が引っ込む」と言います。

これは、「道理に外れたことが世の中に行われれば、正しいことがなされなくなる。」…ということです。


「無理」とは、

「①道理のないこと。理由の立たないこと。

②強いて行うこと。行うのが困難なこと。」…を言います。


「道理」とは、

「①物事のそうあるべき筋道。ことわり。

②人の行うべき正しい道。道義。」…を言います。


いいたいのは、「筋」や「筋道」のとおらない事や話しは、第三者を説得できないということです。


自然界においてみた場合、樹木には、毎年、創られていく「年輪」という「筋」があります。

石や岩にも、気の遠くなるような年月を経て、形成された「筋」があります。

この「筋」にそって、打撃を加えれば、苔むす岩も、その「筋」のとおりに裂けるのです。

「筋」を読まなければ、「筋」を見つけられません。

「筋」以外のところを打撃しても、さっくりと見事に割れないでしょう。

多分、石や樹木は無惨な形でバラバラになるだけでしょう。

それは「無理」という「圧力」を強引にかけたがゆえの結果です。

ある物事、たとえば、バスケットの練習について考えてみたとき、

その練習を行う「筋」が明確でなければ、選手達はその練習の意味が理解できなくて、

練習させられているという意識ならば、身につくことは無理ですから、そういった練習では意味がないのです。

コーチ自身が、第三者の立場で、その「筋」を明確に理解できていなければ、

選手に対してその練習をやらせることはできないのです。

コーチ自身が、単なる受け売りで、強引に選手に圧力をかけても、

選手は、やる気を無くすだけです。


さらに言います。

コーチが子供達を叱るときは、コーチ自身と子供達が理解できる「筋」がなくてはならないと思います。

もっと言えば、よく子供達のプレーの結果に対して怒り、怒鳴り、子供を威圧する指導者を見掛けます。

『そこはシュートだろう!』

『そこはシュートじゃないだろう!』

『そこはパスだろう!』

『そこはパスじゃないだろう!』


子供達の中には、教えられたことを意識して、

自分なりに判断してプレーしていることがあります。

結果だけを怒り、そのプレーを頭ごなしに否定しては、子供達はコーチに怒られないようにプレーすることになっていくでしょう。

子供達のプレーには、子供達なりの筋があるかもしれません。

特に高学年になるほど、自分達で考えてプレーを造っていきます。

当然、失敗することもあります。

その失敗を頭ごなしに怒るのではなく、そのプレーを判断した理由を問い、そして指導するべきでしょう。

私が子供達を叱りつけるのは、明らかにゴールに向かっていない、ボールに執着していない、気持ちのこもったプレーをやろうとしていないのが明らかに見えた時です。

それが、私のバスケをプレーする時の最低限の「筋」です。

高学年の子供達になればなるほど、子供達は自立し自律していきます。

そのように指導しているつもりです。

だから、子供達が自分達のプレーに「筋」を持って、試合に臨んでいることは正しいことだと思います。

その「筋」が、指導者から見て、ずれていると思うならば、

子供達と会話しながら、しっかりとした「筋」を教えるべきでしょう。


「筋」をとおさない人を、「傲慢この上ない」と私は言っています。

もしくは、「天上天下唯我独尊」(この世の中に自分より尊い者は存在しない。)

…つまり、自分がすべての「筋」であると思っている人を言います。

…と言いつつ、自分も、そうならないように戒めなければと思う今日この頃です。