平成24年6月13日 水曜日
「筋(スジ)…2012」
「無理をとおせば、道理が引っ込む」と言います。
これは、「道理に外れたことが世の中に行われれば、正しいことがなされなくなる。」…ということです。
「無理」とは、
「①道理のないこと。理由の立たないこと。
②強いて行うこと。行うのが困難なこと。」…を言います。
「道理」とは、
「①物事のそうあるべき筋道。ことわり。
②人の行うべき正しい道。道義。」…を言います。
いいたいのは、「筋」や「筋道」のとおらない事や話しは、第三者を説得できないということです。
自然界においてみた場合、樹木には、毎年、創られていく「年輪」という「筋」があります。
石や岩にも、気の遠くなるような年月を経て、形成された「筋」があります。
この「筋」にそって、打撃を加えれば、苔むす岩も、その「筋」のとおりに裂けるのです。
「筋」を読まなければ、「筋」を見つけられません。
「筋」以外のところを打撃しても、さっくりと見事に割れないでしょう。
多分、石や樹木は無惨な形でバラバラになるだけでしょう。
それは「無理」という「圧力」を強引にかけたがゆえの結果です。
ある物事、たとえば、バスケットの練習について考えてみたとき、
その練習を行う「筋」が明確でなければ、選手達はその練習の意味が理解できなくて、
練習させられているという意識ならば、身につくことは無理ですから、そういった練習では意味がないのです。
コーチ自身が、第三者の立場で、その「筋」を明確に理解できていなければ、
選手に対してその練習をやらせることはできないのです。
コーチ自身が、単なる受け売りで、強引に選手に圧力をかけても、
選手は、やる気を無くすだけです。
さらに言います。
コーチが子供達を叱るときは、コーチ自身と子供達が理解できる「筋」がなくてはならないと思います。
もっと言えば、よく子供達のプレーの結果に対して怒り、怒鳴り、子供を威圧する指導者を見掛けます。
『そこはシュートだろう!』
『そこはシュートじゃないだろう!』
『そこはパスだろう!』
『そこはパスじゃないだろう!』
子供達の中には、教えられたことを意識して、
自分なりに判断してプレーしていることがあります。
結果だけを怒り、そのプレーを頭ごなしに否定しては、子供達はコーチに怒られないようにプレーすることになっていくでしょう。
子供達のプレーには、子供達なりの筋があるかもしれません。
特に高学年になるほど、自分達で考えてプレーを造っていきます。
当然、失敗することもあります。
その失敗を頭ごなしに怒るのではなく、そのプレーを判断した理由を問い、そして指導するべきでしょう。
私が子供達を叱りつけるのは、明らかにゴールに向かっていない、ボールに執着していない、気持ちのこもったプレーをやろうとしていないのが明らかに見えた時です。
それが、私のバスケをプレーする時の最低限の「筋」です。
高学年の子供達になればなるほど、子供達は自立し自律していきます。
そのように指導しているつもりです。
だから、子供達が自分達のプレーに「筋」を持って、試合に臨んでいることは正しいことだと思います。
その「筋」が、指導者から見て、ずれていると思うならば、
子供達と会話しながら、しっかりとした「筋」を教えるべきでしょう。
「筋」をとおさない人を、「傲慢この上ない」と私は言っています。
もしくは、「天上天下唯我独尊」(この世の中に自分より尊い者は存在しない。)
…つまり、自分がすべての「筋」であると思っている人を言います。
…と言いつつ、自分も、そうならないように戒めなければと思う今日この頃です。
「筋(スジ)…2012」
「無理をとおせば、道理が引っ込む」と言います。
これは、「道理に外れたことが世の中に行われれば、正しいことがなされなくなる。」…ということです。
「無理」とは、
「①道理のないこと。理由の立たないこと。
②強いて行うこと。行うのが困難なこと。」…を言います。
「道理」とは、
「①物事のそうあるべき筋道。ことわり。
②人の行うべき正しい道。道義。」…を言います。
いいたいのは、「筋」や「筋道」のとおらない事や話しは、第三者を説得できないということです。
自然界においてみた場合、樹木には、毎年、創られていく「年輪」という「筋」があります。
石や岩にも、気の遠くなるような年月を経て、形成された「筋」があります。
この「筋」にそって、打撃を加えれば、苔むす岩も、その「筋」のとおりに裂けるのです。
「筋」を読まなければ、「筋」を見つけられません。
「筋」以外のところを打撃しても、さっくりと見事に割れないでしょう。
多分、石や樹木は無惨な形でバラバラになるだけでしょう。
それは「無理」という「圧力」を強引にかけたがゆえの結果です。
ある物事、たとえば、バスケットの練習について考えてみたとき、
その練習を行う「筋」が明確でなければ、選手達はその練習の意味が理解できなくて、
練習させられているという意識ならば、身につくことは無理ですから、そういった練習では意味がないのです。
コーチ自身が、第三者の立場で、その「筋」を明確に理解できていなければ、
選手に対してその練習をやらせることはできないのです。
コーチ自身が、単なる受け売りで、強引に選手に圧力をかけても、
選手は、やる気を無くすだけです。
さらに言います。
コーチが子供達を叱るときは、コーチ自身と子供達が理解できる「筋」がなくてはならないと思います。
もっと言えば、よく子供達のプレーの結果に対して怒り、怒鳴り、子供を威圧する指導者を見掛けます。
『そこはシュートだろう!』
『そこはシュートじゃないだろう!』
『そこはパスだろう!』
『そこはパスじゃないだろう!』
子供達の中には、教えられたことを意識して、
自分なりに判断してプレーしていることがあります。
結果だけを怒り、そのプレーを頭ごなしに否定しては、子供達はコーチに怒られないようにプレーすることになっていくでしょう。
子供達のプレーには、子供達なりの筋があるかもしれません。
特に高学年になるほど、自分達で考えてプレーを造っていきます。
当然、失敗することもあります。
その失敗を頭ごなしに怒るのではなく、そのプレーを判断した理由を問い、そして指導するべきでしょう。
私が子供達を叱りつけるのは、明らかにゴールに向かっていない、ボールに執着していない、気持ちのこもったプレーをやろうとしていないのが明らかに見えた時です。
それが、私のバスケをプレーする時の最低限の「筋」です。
高学年の子供達になればなるほど、子供達は自立し自律していきます。
そのように指導しているつもりです。
だから、子供達が自分達のプレーに「筋」を持って、試合に臨んでいることは正しいことだと思います。
その「筋」が、指導者から見て、ずれていると思うならば、
子供達と会話しながら、しっかりとした「筋」を教えるべきでしょう。
「筋」をとおさない人を、「傲慢この上ない」と私は言っています。
もしくは、「天上天下唯我独尊」(この世の中に自分より尊い者は存在しない。)
…つまり、自分がすべての「筋」であると思っている人を言います。
…と言いつつ、自分も、そうならないように戒めなければと思う今日この頃です。