平成24年6月11日 月曜日
「礼に始まり礼に終わる~礼節…2012」
『とかく近頃の若い衆は礼儀を知らん!』とは…まさに
いつの時代においても年配者のセリフでしょう。
ところで、その礼の根っこにあるのが『礼節(レイセツ)』だと思うのですが、
この礼節とは、何なのでしょうか?
「礼」と「礼節」…何が違うのでしょうか?
日本人はみんな、所作(ショサ)としての「おじぎ」をします。
漢字では「お辞儀」と書きます。
これは、頭を下げて「礼」をすることです。
ここでいう「礼」とは、相手を認め、自分を謙遜する…という心を形にしたものです。
この「礼」を相手と出会った時に、
そのちょうど良い時期(時宜:ジギ)に、場所と場合に応じた所作を行えるように、
いつも、わきまえておく事が「節」だと言います。
人は、相手を敬い、自分を謙遜する「礼」と、
その礼を行う時期、場所、所作という「節」を知り、
礼節を行えることで、一人前の大人になると思います。
みなさん、子供の頃に思いませんでしたか?
まわりの大人達が、正月やお盆などの時にそれぞれ出会ったときに、
お辞儀をして挨拶している姿を見て、何か…いつもの父や母とは違う偉さを感じたことを、
この大人達の所作を見て、子供達は、それを真似て、学び、「礼節」を身につけていくものでした。
「お辞儀」が、この「礼節」の形です。
日本人はみんな、「おじぎ」をします。
その有りようは、心を澄まし、姿を正し、静かに腰を曲げ、頭を下げます。
その形に込めた心は、相手を敬い、相手の状態に配慮し、相手を気遣い、相手を心配し…
その状況と場所に気を配り、それに応じた「礼」という行動ができること。
そして「礼」という行動には、必ず言葉が伴います。
その状況と場所に応じた言葉です。
それは発するものもあれば、「黙礼」といって、
神仏などに対して、心に念じるものもありますが…、
人に対して行う「礼」は、必ず、その心を表す言葉を発することが大事だと思います。
これが「礼節」を知るということでしょう。
そして今の世の中…というと、また説教をたれるオヤジみたいですが、
あのQちゃんこと、高橋尚子選手を育てた小出義雄さんが、
「挨拶といっても、黙礼だけの挨拶では意味がない。ちゃんと顔を上げて、頭を下げて声を出すことが肝心なのだ。」…と言われています。
黙礼は神仏などに対して畏怖の念をもって、敬い、頭を下げて心に念じて祈願することです。
もうひとつ「目礼」というのがあります。
これは、目で簡単なあいさつや、会釈(エシャク)をすることです。
会釈はかるく頭を下げることです。
これは「礼節」に則(ノット)れば、「礼」ではないでしょう。
さて、今の世の中、人に対する礼が、誤った意味の「黙礼」であったり、「目礼」であったりすることが多すぎると思うのですが、
「礼」にはじまり、「礼」に終わる。
日本という、精神性を重んじる文化では、それは、当然の美徳でした。
この「礼節」によって…日本という社会が欧米とは違う、人間関係を節度あるものにしていると思うのです。
「礼に始まり礼に終わる~礼節…2012」
『とかく近頃の若い衆は礼儀を知らん!』とは…まさに
いつの時代においても年配者のセリフでしょう。
ところで、その礼の根っこにあるのが『礼節(レイセツ)』だと思うのですが、
この礼節とは、何なのでしょうか?
「礼」と「礼節」…何が違うのでしょうか?
日本人はみんな、所作(ショサ)としての「おじぎ」をします。
漢字では「お辞儀」と書きます。
これは、頭を下げて「礼」をすることです。
ここでいう「礼」とは、相手を認め、自分を謙遜する…という心を形にしたものです。
この「礼」を相手と出会った時に、
そのちょうど良い時期(時宜:ジギ)に、場所と場合に応じた所作を行えるように、
いつも、わきまえておく事が「節」だと言います。
人は、相手を敬い、自分を謙遜する「礼」と、
その礼を行う時期、場所、所作という「節」を知り、
礼節を行えることで、一人前の大人になると思います。
みなさん、子供の頃に思いませんでしたか?
まわりの大人達が、正月やお盆などの時にそれぞれ出会ったときに、
お辞儀をして挨拶している姿を見て、何か…いつもの父や母とは違う偉さを感じたことを、
この大人達の所作を見て、子供達は、それを真似て、学び、「礼節」を身につけていくものでした。
「お辞儀」が、この「礼節」の形です。
日本人はみんな、「おじぎ」をします。
その有りようは、心を澄まし、姿を正し、静かに腰を曲げ、頭を下げます。
その形に込めた心は、相手を敬い、相手の状態に配慮し、相手を気遣い、相手を心配し…
その状況と場所に気を配り、それに応じた「礼」という行動ができること。
そして「礼」という行動には、必ず言葉が伴います。
その状況と場所に応じた言葉です。
それは発するものもあれば、「黙礼」といって、
神仏などに対して、心に念じるものもありますが…、
人に対して行う「礼」は、必ず、その心を表す言葉を発することが大事だと思います。
これが「礼節」を知るということでしょう。
そして今の世の中…というと、また説教をたれるオヤジみたいですが、
あのQちゃんこと、高橋尚子選手を育てた小出義雄さんが、
「挨拶といっても、黙礼だけの挨拶では意味がない。ちゃんと顔を上げて、頭を下げて声を出すことが肝心なのだ。」…と言われています。
黙礼は神仏などに対して畏怖の念をもって、敬い、頭を下げて心に念じて祈願することです。
もうひとつ「目礼」というのがあります。
これは、目で簡単なあいさつや、会釈(エシャク)をすることです。
会釈はかるく頭を下げることです。
これは「礼節」に則(ノット)れば、「礼」ではないでしょう。
さて、今の世の中、人に対する礼が、誤った意味の「黙礼」であったり、「目礼」であったりすることが多すぎると思うのですが、
「礼」にはじまり、「礼」に終わる。
日本という、精神性を重んじる文化では、それは、当然の美徳でした。
この「礼節」によって…日本という社会が欧米とは違う、人間関係を節度あるものにしていると思うのです。