平成24年6月16日 土曜日
「敦盛~人間五十年…」
私も、五十五の歳を刻もうとしています。
下天とは、天界の最下層における、一日をいい、
人の世の五十年をいいます。
ですから、私は、下天のうちの、一日と1/10を生きて来ました。
アッと言う間のことのように思われ、
それは、考えてみれば夢幻のようです…が、
その間のすべては、やはり現実にあったことに違いありません。
自分が、五十五の歳を刻むと言うことが、不思議でなりません。
ハタチのころの記憶が、昨日のことのようです。
まさに、下天のうちの一日のようです。
人生の不思議と、空しさを感じずにはいられません。
下天のうちの半日しか、生きられなかった娘に…私の半日を与えてやればよかったと思います。
以下は、ネットにあった『敦盛』のエピソードです。
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【あつもり~無官大夫敦盛~】
戦国の武将、織田信長が好んで舞ったと伝えられる能に『敦盛』があります。
「人間五十年下天のうちを・・・」という謡を一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。
敦盛とは平家物語にその名が見える、平氏方の若き侍です。
奢る平家は久しからず、押し寄せる坂東武者に西に、西にと逃げのびる他ありません。
一の谷の合戦で敗れた平家は汀へと逃れ、源氏方は逃すまじと追い立てる。
源氏の熊谷次郎直実は手柄を上げるべく、
良き敵を探して見渡すうちに、海に乗り入れたる馬上の武者を見つけます。
こは良き敵、逃さじものと大音上げ、
「そこに落ちさせ給ふは平家方の御大将と見受けたり。かへさせ給へ」
武者、それを聞きて、敵に後ろを見せまじと馬首を返します。
そして馬上にて組み合えば、屈強の熊谷、この武者を汀にて取り押さえ、首を取らんと兜を取り去ります。
ところが見れば歳十六、七ばかりの容顔まことに美麗なる若武者、
思わず我が子を思い出し、哀れの身に沁みて、
この方おひとりの命のために源氏が負けることもあるまいと助けようとしますが、
後ろの山から味方の軍の声。
「熊谷は敵を組み敷きながら、今、おめおめと助くるは必定逆心と覚えたり。
二心あらば熊谷ともども討ッ取れ」
熊谷、これを聞きて是非もなしと、
「許させ給へ」
といえば若武者、
「ただ疾く疾く首を取れ」
こうして熊谷は涙ながらに首を取ったのです。
後にこの若武者は平経盛の第三子、敦盛と知れました。
このエピソードは幾分後世の創作が混じって史実の通りではありませんが…、
それはここではどうでも良い事とします。
熊谷に呼び立てられたとき、何故敦盛はそのままに逃げずに取って返したのでしょうか。
おそらく戻れば命のないことも判っていたことでしょう。
敦盛は散ることを望んで、そして望むままに散ったのではないでしょうか。
生き恥をさらしてでも命を繋ぎ、生き続けることこそ真に勇気の要ることかも知れません。
それでも敦盛のように誇りの中に華と散る姿に憧れるのもまた事実です。
『思へばこの世は常の住み家にあらず。
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。
きんこくに花を詠じ、栄花は先つて無常の風に誘はるる。
南楼の月を弄ぶ輩も月に先つて有為の雲にかくれり。
人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり。
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。
… 敦盛 』
「敦盛~人間五十年…」
私も、五十五の歳を刻もうとしています。
下天とは、天界の最下層における、一日をいい、
人の世の五十年をいいます。
ですから、私は、下天のうちの、一日と1/10を生きて来ました。
アッと言う間のことのように思われ、
それは、考えてみれば夢幻のようです…が、
その間のすべては、やはり現実にあったことに違いありません。
自分が、五十五の歳を刻むと言うことが、不思議でなりません。
ハタチのころの記憶が、昨日のことのようです。
まさに、下天のうちの一日のようです。
人生の不思議と、空しさを感じずにはいられません。
下天のうちの半日しか、生きられなかった娘に…私の半日を与えてやればよかったと思います。
以下は、ネットにあった『敦盛』のエピソードです。
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【あつもり~無官大夫敦盛~】
戦国の武将、織田信長が好んで舞ったと伝えられる能に『敦盛』があります。
「人間五十年下天のうちを・・・」という謡を一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。
敦盛とは平家物語にその名が見える、平氏方の若き侍です。
奢る平家は久しからず、押し寄せる坂東武者に西に、西にと逃げのびる他ありません。
一の谷の合戦で敗れた平家は汀へと逃れ、源氏方は逃すまじと追い立てる。
源氏の熊谷次郎直実は手柄を上げるべく、
良き敵を探して見渡すうちに、海に乗り入れたる馬上の武者を見つけます。
こは良き敵、逃さじものと大音上げ、
「そこに落ちさせ給ふは平家方の御大将と見受けたり。かへさせ給へ」
武者、それを聞きて、敵に後ろを見せまじと馬首を返します。
そして馬上にて組み合えば、屈強の熊谷、この武者を汀にて取り押さえ、首を取らんと兜を取り去ります。
ところが見れば歳十六、七ばかりの容顔まことに美麗なる若武者、
思わず我が子を思い出し、哀れの身に沁みて、
この方おひとりの命のために源氏が負けることもあるまいと助けようとしますが、
後ろの山から味方の軍の声。
「熊谷は敵を組み敷きながら、今、おめおめと助くるは必定逆心と覚えたり。
二心あらば熊谷ともども討ッ取れ」
熊谷、これを聞きて是非もなしと、
「許させ給へ」
といえば若武者、
「ただ疾く疾く首を取れ」
こうして熊谷は涙ながらに首を取ったのです。
後にこの若武者は平経盛の第三子、敦盛と知れました。
このエピソードは幾分後世の創作が混じって史実の通りではありませんが…、
それはここではどうでも良い事とします。
熊谷に呼び立てられたとき、何故敦盛はそのままに逃げずに取って返したのでしょうか。
おそらく戻れば命のないことも判っていたことでしょう。
敦盛は散ることを望んで、そして望むままに散ったのではないでしょうか。
生き恥をさらしてでも命を繋ぎ、生き続けることこそ真に勇気の要ることかも知れません。
それでも敦盛のように誇りの中に華と散る姿に憧れるのもまた事実です。
『思へばこの世は常の住み家にあらず。
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。
きんこくに花を詠じ、栄花は先つて無常の風に誘はるる。
南楼の月を弄ぶ輩も月に先つて有為の雲にかくれり。
人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり。
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。
… 敦盛 』