玉川上水 花マップ

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残堀川後日談

2024-01-16 22:08:36 | 観察会
12月の観察会の後日談です。観察会の記録では、残堀川と玉川上水が交差する場所を見て、どうして工事をしたかが想像できないと書きました(こちら)。

これについて、加藤嘉六さんが、このことを詳しく調べている小坂先生に問い合わせてくださいました。情報源は以下です。

小坂克信『用水を地域資源として活用するための水利用の歴史ー砂川用水を例にしてー』東急財団 2020年 URL.東急財団 研究助成、一般研究 G247.pdf (tokyu.co.jp)

 それによると、「立体交差」になったのは1963年のことで、残堀川の底を掘って玉川上水を流し込んだということです。その工事がどれだけ大変で、どういう段取りで行ったかは今でもわかりませんが、1960年代であればコンクリートはあるし、重機もあるので、おそらく残堀川の底を箱形に固定し、その後で玉川上水が流れ込むトンネル状の部屋のようなものを作り、ポンプの原理で流したのだろうと思います。

 重要なのはその前の段階で、それにも2段階があります。
 まず、もともとの玉川上水ができる前の自然の流れの残堀川は狭山池から今の橋より下流の砂川3番に流れて多摩川に流れ込んでいたということです(添付図の①)。玉川上水を作るとどうしても残堀川とぶつかるので、その水を取り込むわけですが、砂川地域は低いために、そこで玉川上水を低くすると江戸に流れませんから、残堀川のルートを上流に曲げて玉川上水と同じ高さの位置で合流させたのだそうです。だからこの時、残堀川は玉川上水より下流には流れていなかったのです(②)。
それで明治になると、残堀川の水が汚れるようになり、また水量が不安定だったために、分離することにし、1908年(明治41年)に、立体交差にしたとのことです(③)。

 
加藤様、ありがとうございました。
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