かつて「権力」が個人とは比べものにならないくらいに「強大」だった時代、「冤罪」は決して稀とは言えないものでした。
その時代、裁くのは力を持った「権力者」の側で、裁かれるのは「弱者」であると決まっていました。
だから、罪なき者に「濡れ衣」を着せるのは容易なことでした・・・。
そうした背景から、近代になって「司法制度」が確立してくる時に、(過去の教訓から)「弱者」を守るために
“疑わしきは「罰せず」(「被告人」の利益に)”
ということが、「大原則」になりました。
“推定無罪(「有罪」が“証明されない限り”、【無罪】である)”
と言うのも、同じ考えからです。
それは今も生きています。
けれど、時代の変化は加速度的に大きくなってきています。
「絶対的」だった権力は「民主化」によって、相対的にその力を失ってきました。
絶対的でなくなった「権力」は、時には裁かれる立場になることも珍しくなくなりました。
それは、「法律」によって「合理的」「客観的」に裁くようになったからとも言えるかもしれません・・・。
「合理的」「客観的」な【証拠】を重視することも、大原則です。
しかし、そうした法律の「網の目」をくぐる悪知恵を働かせるのも「人間」なのです・・・。
“証拠さえ残さなければいいだろう!”
と、「巧妙化」する犯罪が増えていると思います。限りなく「黒」に近い【灰色疑惑】と呼ばれる事件たちです。
今、巷(ちまた:世間)を賑わせているふたつの【疑惑】があります。
ひとつは、元民主党代表の「小沢一郎」を取り巻くものです。
もうひとつは、「大相撲」の【八百長】問題です。
【八百長】の方は、携帯電話の「メール」という明白な「証拠」が出たことによって、にわかに「黒」化してきました。
それでも、再調査に対して携帯の提出を渋っている力士たちがいるそうです。
その理由が、あきれます。
★妻に踏まれて壊れた
★携帯そのものを替えた
それは、明白な【証拠」を押さえられたくないからに他なりません。
証拠が挙がれば、「処罰」が下ることは明らかです。
最悪、力士の身分を失うことは誰にも容易に想像がつきます。
そういう処分を下された力士は、地位保全の申し立てをし、明白な証拠に基づく処分であるか(処分の正当性)を争うに違いありません。
だからこそ、「見え見え」でありながら、恥ずかしげもない行動を取っているのです。
「推定無罪」の「恩恵」に浴するために・・・。
「相撲協会」」は、ずっと「疑惑」そのものを否定してきました。「協会」は、大いなる「権力」でした。
元小結「板井」が「週刊現代」に告白し続けてもずっと否定して、無罪を勝ち取っています。明白な証拠がなかったからです。
そんな証拠など残すはずはないからです。
そこに、現代の便利な機器である「携帯」の「メール記録」という明白な証拠が出てきて、事態が急変したに過ぎません。
それでも、この期に及んでも「放駒理事長」は、”未だかつて無かった”と白々しく言いました。
「ガチンコ」や「中盆」という【隠語(業界用語)】が存在するのは、なぜでしょう・・・?
また、「小沢一郎」の疑惑の構図も明らかです。
特に「西松建設」の「献金問題」は、単純です。
“魚心あれば水心あり”
「共謀」についても、明らかです。
何が明らかかと言うと、そんなことの“証拠は残さない”ということです。
要するに、“有罪を証明する”ということは、とても困難なことだということです。
彼は、「無罪」を確信していることでしょうが、それが「無実」であることの証明とは限りません。
(法的には、そう看做されるでしょうが・・・)
もちろん、「冤罪」は起こしてはいけません。
☆「冤罪」を起こさないようにする。(「無実」を有罪とすることは、絶対にしない)
(けれど、「有罪」を見逃すかもしれない)
★「有罪」を見逃すことは、絶対にしない。
(けれど、「無実」を有罪とするかもしれない 「冤罪」を起こすかもしれない)
後者は、乱暴な論理に思えるかもしれませんが、「時には」アリなんじゃないの・・・?
それは、「裁判」では無理だろうから、もっと「別の手段」があるかもしれないと思っています。
これからも、上の2つの案件は私にとっては【推定有罪】です。
その時代、裁くのは力を持った「権力者」の側で、裁かれるのは「弱者」であると決まっていました。
だから、罪なき者に「濡れ衣」を着せるのは容易なことでした・・・。
そうした背景から、近代になって「司法制度」が確立してくる時に、(過去の教訓から)「弱者」を守るために
“疑わしきは「罰せず」(「被告人」の利益に)”
ということが、「大原則」になりました。
“推定無罪(「有罪」が“証明されない限り”、【無罪】である)”
と言うのも、同じ考えからです。
それは今も生きています。
けれど、時代の変化は加速度的に大きくなってきています。
「絶対的」だった権力は「民主化」によって、相対的にその力を失ってきました。
絶対的でなくなった「権力」は、時には裁かれる立場になることも珍しくなくなりました。
それは、「法律」によって「合理的」「客観的」に裁くようになったからとも言えるかもしれません・・・。
「合理的」「客観的」な【証拠】を重視することも、大原則です。
しかし、そうした法律の「網の目」をくぐる悪知恵を働かせるのも「人間」なのです・・・。
“証拠さえ残さなければいいだろう!”
と、「巧妙化」する犯罪が増えていると思います。限りなく「黒」に近い【灰色疑惑】と呼ばれる事件たちです。
今、巷(ちまた:世間)を賑わせているふたつの【疑惑】があります。
ひとつは、元民主党代表の「小沢一郎」を取り巻くものです。
もうひとつは、「大相撲」の【八百長】問題です。
【八百長】の方は、携帯電話の「メール」という明白な「証拠」が出たことによって、にわかに「黒」化してきました。
それでも、再調査に対して携帯の提出を渋っている力士たちがいるそうです。
その理由が、あきれます。
★妻に踏まれて壊れた
★携帯そのものを替えた
それは、明白な【証拠」を押さえられたくないからに他なりません。
証拠が挙がれば、「処罰」が下ることは明らかです。
最悪、力士の身分を失うことは誰にも容易に想像がつきます。
そういう処分を下された力士は、地位保全の申し立てをし、明白な証拠に基づく処分であるか(処分の正当性)を争うに違いありません。
だからこそ、「見え見え」でありながら、恥ずかしげもない行動を取っているのです。
「推定無罪」の「恩恵」に浴するために・・・。
「相撲協会」」は、ずっと「疑惑」そのものを否定してきました。「協会」は、大いなる「権力」でした。
元小結「板井」が「週刊現代」に告白し続けてもずっと否定して、無罪を勝ち取っています。明白な証拠がなかったからです。
そんな証拠など残すはずはないからです。
そこに、現代の便利な機器である「携帯」の「メール記録」という明白な証拠が出てきて、事態が急変したに過ぎません。
それでも、この期に及んでも「放駒理事長」は、”未だかつて無かった”と白々しく言いました。
「ガチンコ」や「中盆」という【隠語(業界用語)】が存在するのは、なぜでしょう・・・?
また、「小沢一郎」の疑惑の構図も明らかです。
特に「西松建設」の「献金問題」は、単純です。
“魚心あれば水心あり”
「共謀」についても、明らかです。
何が明らかかと言うと、そんなことの“証拠は残さない”ということです。
要するに、“有罪を証明する”ということは、とても困難なことだということです。
彼は、「無罪」を確信していることでしょうが、それが「無実」であることの証明とは限りません。
(法的には、そう看做されるでしょうが・・・)
もちろん、「冤罪」は起こしてはいけません。
☆「冤罪」を起こさないようにする。(「無実」を有罪とすることは、絶対にしない)
(けれど、「有罪」を見逃すかもしれない)
★「有罪」を見逃すことは、絶対にしない。
(けれど、「無実」を有罪とするかもしれない 「冤罪」を起こすかもしれない)
後者は、乱暴な論理に思えるかもしれませんが、「時には」アリなんじゃないの・・・?
それは、「裁判」では無理だろうから、もっと「別の手段」があるかもしれないと思っています。
これからも、上の2つの案件は私にとっては【推定有罪】です。
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