回遊草(KAI YU SO)

さすらいの乙男妄想オヤジの妄想ブログ。あらゆるジャンルのカワイイを中心に浮気中?でも、惚れてるのはやっぱり「ミク」かな?

おやつの買い出し

2008-11-09 22:24:53 | my favorite(お気に入り)
今日の『サンジャポ』にも、「上原美優」(「大家族貧乏アイドル」)ちゃんが出ていました・・・♡ がんばれ! 家の裏の『穴』を塞ぐためにも・・・w

ちょっと「贅沢」をして、「おやつ」を買ってきました。【チョコ】です。

とりあえず、「1週間」くらい持たせたいです。定番は「ロッテ」の「ガーナ」です。一番、くせのない味で値段もリーズナブルだからです。ちょっと浮気して、「明治」の「ミルク」を1つ買ってみました。

そしたら、棚に見慣れない、でも「見覚え」のある「商品」が・・・!

ぶ・ぶ・ぶらっく・さんだー?!

確か、「北京オリンピック」の「体操銀メダリスト」「内村航平」くんの「好物」の・・・!

ミーハーな私は、すぐにかごに入れました・・・w


そう言えば、3連休明けの11/4にやった「秋の健康診断」で、春には「84.5cm」(-0.5cm)でギリギリセーフだった腹囲が「86cm」(+1cm)でアウトでした・・・w

でも、それは3連休でゴロゴロしていたせいだと思っています。

それにしても『ブラックサンダー』ってネーミングは、「体操選手」というより【プロレスラー】みたいじゃん・・・!

“黒い雷神”とか“おいしさイナズマ級!”とか・・・。

進化する「ショップ店員」たち~『東京カワイイTV』~②

2008-11-09 17:07:29 | my favorite(お気に入り)
さて、「109」で「8年連続売り上げNo.1」を誇る『CECIL McBEE』の女性店員は、およそ「30人」です。

ショップ店員「軍団」とも言える、彼女たちの姿を追ってみました・・・。

身長150cmから170cmまで、服装もバラバラで「ギャル系」から「お姉さん系」まで、〝バラエティに富んだ”「店員軍団」こそが多くのお客さんを引き付ける秘密なのです。

店長の「馬場真理子」さんの話ですと、数年前までは(少数の)「カリスマ店員」が多くのお客さんを抱えていたのが、今は

〝自分に合った「体型」の子がいたりとか、自分の「好み」に合ったスタッフが選べたりとか、【マイ・カリスマ】的なスタッフをいっぱいご用意できればいいかな、と考えています…”

お客さんの声も、〝いろんなギャルラインの服装をして「被ってない」ところがいいと思う。参考になる。”と好評のようです。

この店長の「馬場」さんは25歳ながら、さすがしっかりした人です。

ある日の朝礼で、接客の「シミュレーション(ロールプレイ)」をしました。

ジャケットとインナーの2枚セットの秋冬物?のトップスについて、お客様からの「デメリット」の指摘に対応する「訓練」でした。

店員さん:2枚セットになっていますので、冬など2枚重ねて着ていただくとかなり温かく着ていただけますよ。

馬場店長:今の時期ですと、ちょっと暑くないですかねぇ…?

店員さん:そうなんですけど、取り外しできますので、今の時期でしたら外側だけ1枚で着ていただくと、ちょうどいいかと…。

馬場店長:はい!ありがとうございます。


さて、この接客に対しての馬場店長の「指導」は、

・・・。そうですねと言って、自分の意見が先走っちゃったよね。〝そうですよね。今まだちょっと気温が温かかったり寒かったりで、ちょっと困っちゃう時もありますよね。でも、その時でしたら”って言うような感じで、ちょっと間を置かないと、お客様が全く批判されているという風になってしまう・・・。

これは、「イエスバット法」という重要な接客法ですね。まず相手の主張(意見)を「認めて」、それから「けれど」とこちらの主張(反論)をする方法です。

実は、馬場店長は先ほどの指導の言葉の「・・・。」の中で、最初に次のように言っているんです。

今のは、ストレートでとてもキレイだったと思います。見本になるような感じだったと思うんだけれど、(そうですねと言って、・・・)

つまり、この時の「指導」そのものが「イエスバット法」になっているんですね。

さすが、「店長」さんです!!!(「ギャル(の話し)ぶり」も見事でした!w)


この業界では。店員さんの「離職率」は「5割」もあるのだそうです。

しかし、『CECIL McBEE』では、「定着率」を30%上げることに成功したのだそうです。

その「秘密」は・・・、なんとなんと【男性スタッフ】なのだそうです。

アイテムの在庫管理や「雑用」などは、「メンズスタッフ」が専門に担当し、「女性ショップ店員」さんが「接客」に集中できる環境を作り出しているのです。

男性スタッフと女性店員さんがコミュニケーションを取り合って、「チーム」として動いているのだそうです。

そして、もうひとつ「男性スタッフ」には、売り場で〝ちょっと元気がないかな?”と思った女性店員さんに積極的に「声かけ」をして、また気分↑↑にさせるという大切な役目もあるのだそうです。(女の子も、そうなんだ・・・!w)



次に飛んだお店は、ガラリと変わって「銀座」の『Lois CRAYON』でした。このお店の店員さんも、かなり「ユニーク」でした。

つづく・・・

天にツバする者

2008-11-09 09:45:42 | 愛と世界平和と神の存在について
それは、私のことかもしれません。なんせ、“天国には、神様なんていない!”と声高に叫び続けているからです・・・w

けれど、私は“神様がいてもいい♡”と思っているのです・・・w

えっ? 矛盾してるって?! いいいえ、神様に「差別」なんかしなければ、いいんです。

神様に「差別」をする人たちがいるのが「問題」だと言っているのです。

私が「キリスト教」(=「一神教」)を糾弾するのは、彼ら(神父などの「聖職者」)が、単に「嘘つき」「偽善者」だからではないのです。

むしろ、それよりも悪い、一番の理由は、彼ら(聖職者)が「独善的」「攻撃的」だからです。

「キリスト教」というと、“右の頬を打たれたら、左の頬を出す”とか、「殉教者」といったイメージがおありかと思いますが、実はそれは「隠れ蓑」に過ぎないのです。

彼らから「勧誘」を受けたり、彼らの言葉(文章)を読んだことがある方はご存知だと思いますが、彼らは必ずある「キーワード」を繰り返します。

”イエス(と父である神)様「だけ」が救ってくださる。”“イエス(と父である神)様「だけ」が本物である。”

そして、時には「他の神様(宗教)」を「否定」するようなことさえ口にすることもあります。

それが、他者(他の宗教)との「衝突」を起こし、人々を苦しめているのです。

今、世界の上に広がる「テロ」という「黒雲」の湧いている所には、必ずと言っていいほど「キリスト教」の影があるのは、そのためです。

だから、私は「キリスト教」を糾弾するのです。



それでは、実例をお見せします。今日の「テキスト」は、例によってw「usagi」神父氏のブログからです。

10月24日の『秋は祭りだ』からです。

例によって、前半は祭りの「描写」で、後半にそれにちなんだ氏の「お説教」があります。例によって、私が重要と思ったところを「赤字」にしてあります。今回、【まとめ】は、ありません。



先頭の大提灯には、
           神威を畏み
           不敬な振舞い
            有るべからず

とある。
 多くの山車には、必ず「五穀豊穣」の提灯がある。それは、村人の素朴な願望、ご利益の祈りである。
 ここで言う「神」は氏神であり、田の神であり、自然宗教の神である。五穀豊穣に関係するもろもろの自然現象の背後に神を想定、人間が考え出した神に祈りと神楽と供え物を捧げて、天災を遠ざけ、恵みを引き出そうという人間の思惑の産物である。
 八百万の神は、人間が考えて、人間が想像して、自然の力を擬人化してそれぞれに割り当てたもので、人間が祈祷と供物でその力を制御しようとした、ときに荒ぶり人間に災いをもたらす自然の力に過ぎない。
 自然科学の力で大自然を制御することを学んだ現代人には八百万の神は無用の長物である。牟礼の農家の人々も、祖先から受け継いだ祭りを、伝統として守っていても、神々の存在を真面目には信じていないことが、祭りの雰囲気から伝わってきた。しかし、個がばらばらになった現代社会で、祭りが連帯とアイデンティティー確認のために役立っていることは素晴らしい。

 振り返って、カトリックの祭りにこの祭りを待つ心、この連帯感、帰属感、陶酔があるだろうか。
 欧米の伝統的キリスト教文化の国は別として、今日の日本のカトリック教会には残念ながらそれがない。
 私の魂には、熱心なプロテスタントの母が、家庭で、戦時中の灯火管制下にも、クリスマスツリーを美しく飾りつけ賛美歌を歌った思い出が焼きついている。
 ターミナル駅ではクリスマスケーキが飛ぶように売れ、デパートはクリスマスセール、クラブやキャバレーでは乱痴気騒ぎで日本文化に「インカルチュウレート」したかもしれない。お金の神様に魂を抜き取られることが文化への融合の美名の下に浸透している。皮肉な話だが、クラブのホステスが、酒の匂いを漂わせながら、あら、教会でもクリスマスやるの?と言う程度の土着化である。クリスマスはもともと異教文化の影響のもとに発展したといわれるから、それもいいだろう。
 キリスト教固有の祭りは復活祭だ。ユダヤ教の過ぎ越しの祭りにルーツを持つこの祭りこそ、キリスト教徒が一年かけて待ち焦がれるべき祭り、連帯感、帰属感、魂の高揚と陶酔の原点でなければならない。これこそ、他のいかなる宗教とも、いかなる文化とも溶け合わないキリスト教固有の祭りだ。その証拠に、サンタクロースやバレンタインなどの聖人はもてはやされても、キリストの受難と、死と、復活を記念して祝う異教徒は決して現れることはない。
 その復活の徹夜祭を、教会の古き正しい伝統に根ざして夜を徹して徹底的に喜び祝うことを、教会の司牧者が公式命令文書で禁じる今の日本のカトリック教会はどこか狂っている。
 冴え渡る星空と半月よりやや痩せた明るい月のもと、追放の司祭は湖畔の小屋に向かって夜道を急いでいた。  



・・・・・・・・・・・・・

赤字部分の終わりに「素晴しい」と結んでいるのは「祭り」のことであって、「宗教(神道)」に対してではありませんね。

彼が「八百万の神(神道)」について“人間が考えたもの”と考察している部分は、正に私の考えとも一致しています・・・w 
ただし、それに「キリスト教」も「含めて」ですが・・・www

しかし、私は彼のように“・・・に過ぎない”と切り捨てたりはしません。そこにこそ、「キリスト教」の「独善」性と「攻撃」性が、羊の皮の下の「狼」の本性が、見事に透けて見えるのです。


今では、子供たちでさえ「雷」が「電気」の力であることを知っています。

そうは言っても、「雷」に出遭ったことがある方なら(いくら「仕組み」が分かっていても)、「恐ろしい」ですよね。

ましてや、「科学」の発達していない昔の人々にとっては、人間の力ではどうしようもない「神」的なものの存在を考えるのは「当然」のことです。

だから、この地球上に住む様々な人々(民族)は、それぞれみんな「固有の神様」を持っています。「固有の神話」を持っています。

日本の「イザナギ・イザナミの命」の「国造り」の神話もそうです。「旧約聖書」の「アダムとイブ」の物語なども、そうした「ローカル」な神話のひとつでしょう。

そうした、「神話」と人としての生き方「倫理」が結びついて「宗教」になったのだと思います。

頭が8つもある「ヤマタノオロチ」という怪物がいたとか、「アマテラスオオミカミ」が「天岩戸」に隠れた話とかを誰も信じていませんね。私も、そうです・・・w

でも、私の家にも「天照皇大神宮」の「お札」があります。たま~にですが、「家内安全」とか祈ったりしますし、初詣にも行きます。

ちょっと前まで、日本の「お百姓さん(農民)」は正月になると、「田」の一角で「他の神」に豊作や家内安全などを祈りました。

また、漁師さんなども、出漁前に船に「お神酒」をかけて清め、豊漁と安全を祈りました。

山に入る「猟師」さんたちも、同じように祈ったものでした。

そういう「敬虔」な気持ちこそ、「尊い」ものではありませんか?

どうして、そうした気持ちを「切り捨て」るのでしょうか?

実は、先日、イタリアの漁師さんも、全く同じように船を清め、祈る姿を見ました。

なぜ、イエス(とその父である神)様「だけ」が、「本物」とか言い張るのでしょうか?

「usagi」神父氏は、日本の八百万の神々を「人が考えた神に過ぎない」と切り捨てていますが、正にそれが「天にツバする」行為であることに、哀しいかな、気がついておられないようです。

キリスト教も、また、人が考えた宗教の1つなのです

もうひとつ、上の「usagi」神父氏の文からは、「供え物」に対しても、「否定」「蔑み(さげすみ)」の心が漂っているようにも感じます。

そりゃあ、中には「生贄」を捧げる極端な宗教もありました。それは、私も行き過ぎだと思います。

しかし、「海や山の幸」を捧げる「お供え物」という習慣には、ひとの神に対する「おもてなし」の心が表れていると思うのです。

それは、ひと同士でも「お客様」をもてなすということは、とても美しいことだと思います。

そういう、ひととしての優しい「美しい心」まで否定しているのは、「教義」に拘るからではないのでしょうか?


私は、「宗教」は文化だと思います。

平和に仲良く暮らすには、それぞれの文化を尊重することが不可欠だと思います。だから、いろんな神様がいて当然だと思っています。それが、冒頭の言葉の意味です。

それに対して、“自分たちの「文化」だけが正しい、本物だ、他は間違っている”みたいな態度では、仲良く暮らすどころか「争い」が起こるのは、当然ではないでしょうか?


朝、パンを食べる人たちもいれば、ナンやピザやご飯や…、いろんな「朝食」があります。

それが、「文化」です。ある「ひとつ」だけしかダメと言われたら、どうですか?