歩かない旅人

 彼がなした馬鹿げたこと・・・彼がなさなかった馬鹿げたことが・・・人間の後悔を半分づつ引き受ける。ヴァレリー

日本語で書かれた憲法を持つのは当然だ!

2016-06-24 07:08:25 | 私の好きな歌です。

 

 

 石原慎太郎都知事の退任式は素晴らしい見ものでした。都庁の正面両側に都庁職員がずらりと並び、警察のプラスバンドが、都知事のリクエストによる、「マイウェイ」を奏で、両手に抱えきれないほどの花束が次々と渡されました。石原都知事の晴れやかな誇りに満ちた顔が印象的でした。

  

 しかも車に乗り込む寸前に、アメリカのボクシング映画の主題歌「ロッキー」これも都知事のリクエストだと言いますが、都知事を辞めて国政に挑戦する、はなむけにも取られる、出来すぎたセレモニーでした。

 

 それに比べて舛添氏の都庁を去る最後のセレモニーは、誰も見送らず、警視庁のシークレットに囲まれ、険悪な目つきを最後まで押し通した、実に寂しい退任式でした。まさに不徳の至りですが、これで済むのでしょうか

 

 

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【石原慎太郎 日本よ】 2016・6・20付

   

間違った国語で綴られた憲法のどこに独立した国家民族の意思がこめられているというのか?

 

 私が戦時中通っていた旧制の湘南中学は海軍兵学校への合格者が日本一の名門校だった。私もまた海兵に進むつもりでいたが一年生の時に敢えなく敗戦となった。その意味で私は遅れてきた少年ともいえた。下校の途中首都を襲った帰りの艦載機に子供と知りながら麦畑の中で兎か狐を狩るように追い回され射撃もされたものだった。

  

 そしてそれなりに敗戦なるものの屈辱をいろいろ味わわされもした。傍聴にいった市谷での戦犯裁判での二階の席に上がる途中の階段の踊り場でいきなりアメリカの憲兵にはいている下駄の足音がうるさいと突きとばされ、仕方なしに濡れた階段を裸足で上がりもした。

 

 敗戦の翌年の夏前に町の商店街で酒を飲みアイスキャンディーをしゃぶりながら闊歩してくる若いアメリカ人が小癪でわざとその真横を真っ直ぐに歩いて行ったら、いきなり手にしていたアイスキャンディーで顔を殴られたりもした。

 それがやがて学校に伝わり教師たちに呼び出され、そんなことをしたら学校に迷惑がかかるとひどく叱責された。

 そうした屈辱は戦にやぶれた者として我慢は出来ても、その相手が恫喝しながら押しつけた現憲法なるものには、日本語を愛しそれをたつきの元にしている物書きの一人として、かつて被った肉体的な屈辱以上に我慢がならない。

  かつて文壇を通じて知り合った吉田茂総理の側近中の側近だった白洲次郎氏が謗っていたように氏も同行したサンフランシスコでの講和会議で吉田は何故占領憲法の返却を明言しなかったのだろうか。

 

 安倍晋三総理は次の参議院選挙でも憲法の改正を悲願としてかかげているが、日本人の卓抜な感性とそれを踏まえた我々の文化と文明の絶対値の高さを誇りとするなら、誰しもが今もう一度『平和憲法』なるものを読み直してみたらいい。あの日本語として醜悪な前文なるものには文章の要ともなる助詞の誤りが数多くあるのに気づくだろう。

 私は議員としての最後の予算委員会での質問で、憲法の総合理念なるものを導き出す前文の中の一行『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して』を引用してこの『信義に』の『に』なる助詞はどう見てもおかしい、人が誰かに金を貸す時『君に信頼して』と言いはしまい。

あくまで『君を』信頼してだろう。蟻の一穴というがせめてこの『に』の一字だけでもまず変える訳にはいくまいかと質したものだった、総理は首を傾げ『それは忍の一字ですな』とうまくかわしたものだったが。

 その時私はすぐれた叙景歌人だった永福門院の名歌『真萩散る庭の秋風身にしみて、夕日の影ぞ壁に消え行く』を例に引いて、ある日本文学の無類の翻訳家が英語に翻訳しての英文を読まされてなるほどと思ったが、

その当人が「でもあそこだけはとても無理なんですよねえ」と慨嘆したのを聞いて「あああそこは無理でしょうな」と同感した事例を披瀝(ひれき)したものだったが。

 

  この一見禅問答のような会話の鍵は、この歌の中の間投助詞『夕日の影ぞ』の「ぞ」なのだ。この「ぞ」の一字によるまさに、ぞうっとするような、寵(ちょう)を失った女の秋の庭を眺めてのしみじみした哀感が伝わってくる。

 これは何も日本語に関してのことだけでありはしない。古く深い文化を持つ国家民族にとっても同じことだ。例えばシェイクスピアの芝居の中にもこれに類似した事例が沢山ある。わずか一字の助詞も含めて国語というものはその国家民族の伝統とその誇りを表象するものに他ならない。

  

 間違った国語で綴られた憲法のどこに独立した伝統ある日本という国家民族にとっての意思がこめられているというのだろうか。

 

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  二度と立ち上がれないようにしなければ、アメリカは日本と言う国にまた脅かされる恐怖を持ったことは確かです。厚木に格好をつけて日本と言う国に勝った戦勝国の代表として、土を踏んだマッカーサー元帥のズボンは、怯えたかの如く失禁していた事実は知れ渡っています。

  

 全く無茶苦茶な、憲法と称するものを日本に押し付けたものですが、日本の美学ともいうべき、負けっぷりも潔すぎました。何しろそれまで負けた事がなかったためか、負けたら何でも勝った者たちに従うことが日本に美学だったのでしょう。

 国際的に言えば、負けた国は数多くあり、勝ったり負けたりは時の常です。日本人は真面目なせいか、言われたことは守ります。とうじGHQに言われたプレスコードを、未だに守って居る位ですし、それを直そうとする勢力も、今まで少数派扱いでした。

 今でこそ、安倍政権が憲法を新しく作り直そう、そして青山繁晴氏は我々の言葉で、日本語で我々の日本のための憲法を作ろうという、強い意識を持った人が参院に出ています。こういう事はたった一人の強い意識が国を動かすことがあり得ます。

  

 時代は、ある時は一人の人間が奇跡を起こすのを歴史は教えてくれます。そういう人が現れるのもやはり時代のバックがいるのでしょう。どういう奇跡が起こるか、それは歴史が教えてくれています。