『説郛』についての説明が『漢和大辞典』(学研)に有りました。
どうやらこの『説郛』は、抄録ということで「呉録」も一部分の記載だけのようです。
漢籍データベースで「呉録」を検索し、収めているという以下の三種の漢籍を見てみました。
『説郛』には100巻本・120巻本がありますが、どちらの本にもやはり契沖が引用している部分はなく、『玉函山房輯佚書続編三種』の補編にもありませんでした。
現在講座で使われているテキストの材料は『太平御覧』から採った、と先生から伺っていたのを思い出しテキストデータで検索をかけてみました。
契沖が「火ねすみのかはきぬは〈呉録云・・・〉」と言っている部分の「火鼠」で検索をかけて見ると、見事にビンゴ
以下のようにあり、契沖の『河社』に引用されていた文章とほぼ一致します。
『河社』で曰が云、績が精になっているだけです。
卷八百二十
○火浣布
《呉録》曰:日南北景県有火鼠,取毛爲布,焼之而績,名火浣布。
但、『日本国見在書目録』(891年ころ成る)に『呉録』の記載はなく、『太平御覧』が間接的に集録したのではないかとされる『修文殿御覧』は記載されています。
成立は、『呉録』は晋代、『竹取物語』は900年ごろ、『修文殿御覧』』は北斉(550~557)の頃、『太平御覧』は984年。
『竹取』の作者が『呉録』を見たかどうか?
契沖が見たのは『修文殿御覧』か『太平御覧』の可能性もあり得るわけで・・・
となると、『河社』で〈呉録云・・・〉の部分が朱書きになっているらしいが、なぜ朱書きなのか気になります。
河契沖書き入れ本『竹取物語』を見てみたい!
『修文殿御覧』に該当部分が集録されているかどうかの確認は難しいかも・・・・
なんだか頭の中の情報を少し整理する必要があるようで・・・