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思い立ったが吉日

たぶん魂の叫び

ヴェルダン国が支配されていない理由

2013年11月26日 | (FE)創作日記
○問題点の整理。
 どうして今までヴェルダンはグランベルに支配されなかったのか。
 イザーク遠征を可能とする強国グランベルであれば、距離的にも(面積的にも)、それこそイザーク遠征よりも容易に進軍・征服できるのではないか。
 単純な疑問である。

○宣戦理由の有無
 宣戦理由の有無を問題とするならば、しかしヴェルダンは過去、なんどか国境侵犯を行っている。「たびたび国境を荒らしたヴェルダンをグランベルの人々は蛮族と呼んでいる」(一章)とある。
 それこそ、自国ではない(と思われる)、あくまでも「友好」都市の住民が虐殺されたことで報復遠征を行うのであれば、自国の国境を荒らす=付近の住民に迷惑のかかる行為=略奪等を行ったヴェルダンに対して報復を行わなかったのは、行動原理として一貫性を欠く。

○口実のタイミング
 結果論的には、イザーク遠征は王子暗殺の陰謀に使われた感が大きい。たまたま、ヴェルダンではなくイザーク方面で軍事行動の口実が作れたから。
 しかし、イザーク遠征は、それこそ距離的な意味でかなりの遠征である(と思われる)。出費・および準備期間はかなりの規模になるのではないか。それこそ、王子暗殺の舞台をお膳立てするためというには、あまりにも話が大きすぎる。
(出費はともかく、準備期間は中世的に考えると、それほどの問題にならないかもしれない。綿密な計画性等の問題ではなく、現代とは違う「時代性」の問題として)
 王子を暗殺したいだけなら別の方法も取れたはずである。
 その意味では、王子暗殺の問題以外で、イザーク遠征を可能ならしめたなんらかの理由があることになる。(そもそも王子暗殺がいつ計画されたのか、という問題があるにしても)

 少なくとも上述宣戦理由におけるように、ヴェルダンに対しては制圧行動をとらなかった。それが何故なのかという部分に、イザーク遠征とヴェルダン問題の差異があるのかもしれない。

○バイキング・異民族問題
 中世西欧におけるバイキング、および古代中国における異民族のようなイメージはどうなのか。
 しかしこれは、中世西欧もしくは古代中国に、強大な力=国力がなかったために報復等、反攻ができなかった事実がある。力がないために攻められるがままだった。
 もちろん詳しくは勉強をする必要があるが、少なくともグランベル王国は大陸一の強国である。
 強国が小さな勢力の言いなりになるわけがない。それこそグランベルはイザークに遠征したのだから。

○問題の整理
 聖戦における蛮族の侵攻についてのイメージは、それこそ歴史事実における異民族等の侵略にあるのだと思う。これは上述、中世西欧や古代中国等、実は「国力が弱い」ために起こった事実である。この「国力が弱い」という事実を検証することなく、たんに異民族等に侵略された事実のみを取り出して設定したイメージでしかない。ゆえに矛盾が生じてしまう。
 大陸一の強国であるグランベルは、仮にヴェルダンが国境侵犯の愚に及んだとしたら、報復行為にでる。しかもそれは単純に面積の違いから来る国力の違いから、圧倒的な結果に終わる。
 これが普通、ではないか。

迷路館の殺人を読んだ。

2013年11月26日 | もののあはれ
 あまり書きたくない。
 と、素直に思った。

 が、記録することを優先したい。


 さて。
 話をまったく覚えていなかった。嬉しい誤算というのか。鹿谷が誰なのかというトリックについては覚えていたが、最後になるまで犯人がわからなかった。劇中外の話も、その存在を覚えていなかった。
 素直に初見のように楽しめた。

 おもしろいものは2度読む。
 迷宮館を何度読んだかは覚えていないが、自分の行動原理を考えると、少なくとも2度は読んでいる。ただ、迷宮館は、そこまでおもしろくないので、せいぜい3回ぐらいしか読んでいないかもしれない。

 迷宮館は、そこまでおもしろくない。

 あとがきを読んでいると、いろいろと、フェア・アンフェアな話で文章表現に気を遣っているとある。
 だから、
 というのも少しあるかもしれないが、たとえば京極夏彦に比べたら、文章に重みがない。

 もちろん、文章単体を取り出して考えるのはよくない。物語の雰囲気という曖昧なモノの影響もある。暗い話であれば、文章も暗くなっている、と。

 が、どうにも、いやいや、もちろんイメージであるが、暗黒館はどうだったのか。一度しか読んでいないし、すでにまったく覚えていないが、とにかく、文章的な重みがない。気がする。

 うむ。
 これ以上は同じことしか出てこない気もするので終える。

 ただ、初めてまともによんだミステリは京極夏彦だったと思う。
 次が綾辻で、ほかをちょろちょろ、それから島田。
(迷路館1992年初版・1999年1月の22版購入)
(うぶめの夏は中古購入の模様。480円のシールがついているので購入時期不明)

 重さ軽さで言うなら、どうだろう京極と島田が等しく5,6歩後ろに綾辻か。
 あくまでも個人の趣味かもしれないが、しかし、3者の中で一番どれが好きか、親しみやすいか、と言われたら、綾辻になる。

 現実的な作品と幻想的な作品と、どちらを好むかといわれて後者を選択するのと、同じ意味で。

百器徒然袋 を読んだ。

2013年11月24日 | もののあはれ
 総論ではないので適当に。
 適当に。


 おもしろい小説を読みたいなと思った。
 この本棚のどこにそんなものがあるのだろうか。

 京極夏彦は、いわゆる血どばーとかのひとくくりでいうにぐろへの抵抗力がなくなったと自覚してから、とても耐えられないと思っている。
 数年前、もうりょうのはこがアニメになったが、一応、見た。
 覚えていないが。

 しかし、タイトル作品は、たしか殺人なかったよなぁ、それでいておもしろいやつだよなぁと。
 思ったわけだ。

 記憶どおり、殺人は、まあ、基本的にほとんどない。まったくないわけではないが、まあ、なんというか、範疇内。

 で、素直に普通におもしろかった。
 ただし、文量が多い。
 それがいい、と言う人もいるが、たんにおもしろがる、だけであれば、流し読み・・・というか、おもに京極堂の長話をすっとばせばいいだけである。

 さて。
 薔薇十字探偵の憂鬱
 薔薇十字探偵の鬱憤
 薔薇十字探偵の憤慨

 題名。
 ここで悲しいかな。
「ああ、ハルヒのパクリか」とか一瞬思ってしまった。
 苦笑。

 当時から15年近くなのか。
 いやいや、うぶめの夏を考えるなら、それこそファーストインパクトから20年になるのか。
 個人的な出会いは99年ごろなわけだが、だとしても15年近く、という意味で。

 あまり覚えていないが、当時、偉大なる先輩が、今で言う婦女子向けでもあるんだよ、とか言っていた。まあ、当時はまだ婦女子をよく理解していなかったので、単なる女オタクかぁ、みたいな認識でしかなかったが、それなりに市民権を得て? 得たのか? 少なくとも、オタク=犯罪者みたいな風潮から(未だに視聴していないのだが)電車男が映画になるような、みたいな意味合いで、婦女子を知った今、振り返って考えるに、ああ、ぞっとする。

 まあ、そういった見方はできないので、そういった意味合い以外の部分を、おもしろいと思っているわけだ。
 別段言い訳とかじゃなく。

 関係ない話ばかりしているな。


 朝方、というか、朝。
 なんだろう、ギターの動画を見ようと思っていたが、まあ、見ていたが、そこからなぜか将棋・・・の動画も見てしまった。

 固有名詞忘れたし再度調べるのもなんだかなぁ、なのだが、NHK杯・・・というか、まあ、将棋や囲碁は基本日曜にテレビ放映されるぐらいが、せいぜいの情報源だろう。一般人にとって。というか、一般人は将棋や囲碁は見ない。
 とか、そういう話ではなく。

 13年今年時点で8段のなんとかっていう棋士が、去年になるのか? ハゲているがかつらをかぶった当時6段? の、なんというのか、知らない人に簡単に説明するなら、なんだろう、ともかく、自分としては固いイメージのNHKで、勝負に挑む意気込みを語る場所で(そもそもそういった局前のインタビューをするようになっていたのすら知らなかったぐらい、長い間見ていないのだなぁとは思ったが)、なんとも、チャライ雰囲気でバカにしたような発言をした、そのマネをした。

 あはは。文章長すぎて意味わかんないね。
 とある棋士が、固いイメージのあるNHKでチャライ態度で対局前インタビューに臨んだ。その後、別のとある棋士が彼を真似てインタビューに応えた。それこそ文字通りの意味で、セリフで噛んだところまでも真似た。
(さらにその名言?が他でも使われることになる)

 まあ、詳しくはかってにぐぐってくれればいい。
 
 問題は、そういったことを普通に抵抗なく受け入れてしまっている自分にある。
 いやいや、もちろん、そういったことを(中略)している世間一般に対する思いでもあるのだが。

 タイトル作品だったか、別作品だったか、解説者が京極夏彦の作風についてリアリティの話をしていた。

 まあ、「当時」としてはリアリティの問題はとくに考えられたことだとおもう。ただし、この解説者が「いつ」解説していたか、まあ一応記載しておくか。これぐらいならものすごい手間ではないだろう。

 文庫版 百鬼夜行 陰 2004年初版 購入物は10版2006年 講談社ノベルスは1999年

 たぶん2004年当時になるのか。

 また、以前、最近の風潮はまじめなことをちゃかす傾向にある、みたいなことをどこかで書いたと思うが、将棋の件は、そういった具体例だと思った。
 まあ、今回は思い付きを記録しておく程度なので、真面目に考えないが。

 おおむかし、土俵に女が上がるのは云々で、どっかのお偉いさんになった女のひとが云々という話があったと思う。大昔だ。今以上に、世の中に関心のなかったころの話だ。
 土俵の問題は、まあ、たしかに、今で言う女性蔑視の雰囲気の中で生じたことなのだろうが、伝統という意味でとるなら、伝統を破るという、なんというのか。

 なんというのか。
 
 別に伝統とか、確固たる形のあるものではなく、それこそ日本が滅んでしまえば、どうでもいい話とも言える。少々極端だが。

 さて、ほかの話題はともかく、何が京極と繋がるのか。

 つまり、さきほどハルヒとか出したが、タイトル作品は、今でも十分に通用するというのか、普通に最近作られた作品だといわれても違和感がまったくない。せいぜい文量が多いのが問題ぐらいなもので。

 当時、99年当時、になるが、まあ99年に自分は読んでいない。上述からすれば、2006年が最初なのだろう。
 なお、うぶめの夏については、タイトル作品から印象をうけてこうやって長々と思うところを書き散らすような、いわゆる、現代的なおもしろさは感じていない、と思う。

 ただ、99年当時、タイトル作品のような、今読んでも、ふつうに今風と思うような作品が作られていたのか、と思うと、なんだろう。

 なんだろう。
 うまくいえないので、あえて悪口を言う。

 定義知らないが、つまるところ「日常系」だよな、これ(京極夏彦の作品全般ではなく、あくまでもタイトル作品に限る)って。
 

(同日追記。現実を茶化すという意味合いで言うなら、自分が子供のころは、そういったことがいわゆるタブー的であったと思っている。もちろんタブーを犯す人はいた。たとえば「俺たちひょうきん族」とか。そういった意味合いで、だ。が、しかし、それらはあくまでも「タブー」だという意識があった、のではないだろうか、という意味において、現代的にはこの「タブー感」がない、という風潮である、と。
 ま、適当な意見かもしれないが)

酔っている状態だからこそ書けること。

2013年11月19日 | (FE)創作日記
 自主規制の入る余地はでかい。

 というよりも、かなりのストレス発散でしかないのだろう。
 本日。いろいろあった。
 たぶん。


 まあ、Lainの話を書いたので、そのことは重複しないようにしよう。
 以下はほんと、たんなる愚痴だろう。
 読むだけ無駄な時間である。

 ↑は昨日書いた。

 ↓は本日。
 久しぶりにものすごくいい感じで酔った。
 ほんと、こんなにいい感じなのは久しぶりだ。

 なお、飲みながら見ていたのは略称「俺がいる」。

 また、カテゴリ創作日記にしているので、一応念頭に入れておく。

 あはは。


 先日、ネットでカレカノの感想で、ああいう高校生活を夢見たという表現があった。
 カレカノ時代、すでに大学末期だった自分としては、そういう考えがなかった。
 そういう考え、とは・・・

 東京大学物語は高校時代だったか。あれをみて大学生活を夢見る、みたいな、そういう意味で。

 そういう意味で、俺がいる、を見ると、いいのか、いや、まあ、深夜アニメだし、大きい子供は問題ないとして、高校生は、まあ、まあ。
 中学生や小学生や、そんな夜中にアニメ見るようなやつは、しょせんそんなもんだろ。

 問題ないんだろうな。
 いやいや、問題は深夜の時間帯のものが、普通にいつでも見られる状況にある、というのが問題なのだろうが。
 まあ、それでも問題ないのか?

 問題ないと思う。思っているが、まあ、世の中がわからないのでどうなのだろう。

 gdgd書いているな。

 まあ、さて。
 どういう経緯でこれを書いたのか。数日は覚えているかもしれないが、一年後、覚えていられるだろうか。たぶんというか、絶対忘れている。
 
 なぜこんなことを記録しようとしたのか、直接的なことを書きたくないわけだが、1年経ってしまうとヒントもなければ、確実に忘れるだろう。

 まあいい。

 ようは、俺がいる、はなんだかんだ、好きだな。

 なんでだろうね。
 はっきりと考えたい気もするが、辛い気もする。
 

 

Lainを見た 2

2013年11月18日 | もののあはれ
 記録しておく。

 最後まで見た。
 なお、2010年だったかに、ぶるーれい版が出ていたらしい。
 DVD版も同じく発売されていて、けっこう安いので購入しようかどうか、今、悩んでいる。
 それこそ万単位ではないので、ぽちっと押してもいい気がする。
 経験上、今押さないと、たぶんどうでもよくなって時間がたって、タイミングが悪く売切れてしまうのだろう。

 今回はアニメの内容ではなく、自分がいかにLainから影響を受けていたのか、を反省してみる。
 というか、玲音は可愛い。
 
 これ、本当に影響を受けている。

 そもそも、今回2を書くとか、よっぽどだと思った。と記録しておく。

 2000~2002年当時、とある小説を考えていた。まあ、その後もいわゆるニート時代にひきずって結局頓挫してしまったが、メインは00~02年だろうか。
 主人公がいて、その妹がいた。

 この妹がめちゃくちゃLainの影響を受けていたのだなと、分析できた。分析とか。
 瞬時に判断した。

 あまり詳しくは書かない。

 同じく、その小説では自分とは何か、記憶とは何か、コミュニケーション・意思伝達とは何か、言語とは何か、・・・

 日本思想というゼミ室にいて、哲学っぽいことをしていたから、上記のような問題を考えていたのかと思っていたが、Lainを見直すに、まんま影響をそのまんま。受けているだけなんだなと思った。
 98年だっけ? 
 まあ、いちおうストレートにあれだな。
 あれ、とか。分かりにくいな。

 丁度ゼミ室を選んだ時期だ。3年生。で、3年生のころは、とくに哲学に興味はなかった。
 吹き溜まりという表現に釣られてゼミ室を選んだだけだから。
 そう、もともと、信長の野望が好きで、歴史が好きだからという安直な行動原理で、勉強するなら歴史かな? という程度で大学で勉強する方向性を考えていただけだ。
 歴史を大学で勉強したかったわけではない。
 大学に行けと言われたから、じゃあ、大学で何をしようかなぁと取捨選択しただけの話だ。

 どうでもいい話だ。たんなる回顧か。

 ともかく、哲学っぽいゼミ室を選んだちょうどそのタイミングでLainに出会っていると思う。
 今思うと劇的なのかもしれないが、ほんと、タイミングがよかったのだろう。

 哲学っぽいことをしようとしていた(していたわけではないところがミソなのかもしれないが)、だからこそ、Lainをおもしろそうだと判断したわけだ。

 表面的にいろいろと哲学っぽいことを並び立てていた。

 さて、ここまでで記録を終えて、Lainの感想に変わる。いままでとは無関係で、Lainを見た3で構わない。

 昔の覚えがないので、むかしLainをどのように考えていたか覚えていない。
 とりあえずネットで探してみるに、なんとかとかいう「神」が、「玲音(Wikiを見るにれいんは4人?いるらしいが、とりあえず、漢字でうっておく)」に、「じゃあ、あんたを存在させたのは誰よ?」的な論破で打ち崩した、みたいな説明があって、ああ、そういうことだったんだ、と思った。
 むかしは覚えていないが、「ほお、そういうことか」と今回素直に思ったということは、そういう見方をむかしはしなかったことの根拠になりえると思った。

 話を理解していなかった。ということでもあるが。
 ほんと、覚えていない。
 たぶん、都合のいいところを、都合よく解釈して記憶に残していただけなのだろう、と思う。

 なお、話は変わるかもしれないが、ネット・・・仮想現実的な、なんというか、インターネットを介した仮想現実的な話・・・現代的に言うならソードアートオンライン的な、そういった雰囲気? を時代を先取りした雰囲気で評価する意見も多い。

 が、あくまでも、自分は哲学的な意味合いでおもしろいと捉えている。
 ただし、人間とは何か、意思疎通とは何か等、そういったことを、ネット社会、コミュニケーションの方法論?として、こういう風に考えるというのか、こういう風に物語として作り上げるのは、しごくまっとうなことだと思う。

 ああ、酔っているので、いやいや、いつもの逃げ口上か。
 酔っていなくてもまともなことは書けない。

 しごくまっとう、とかではなく、もっともわかりやすい方法論ではないか、と。

 しかしなんだかんだ、わからないのだろう。
 アリスの○○シーンがえろいというのには大賛成で、1でアリスが好きと書いたが、その理由は、やっぱり玲音の友達・・・玲音にとっての特別な存在者だから、で、さらに自分が玲音の立場から見て構ってくれる理想的な良い友達としての相手、だからこそ、好きというのか。
 ああ、でも、先生好きとか、いややめて、以下自主規制。

 いまどきで言うなら、いわゆる「はがない」やら「俺がいる」やら、あるいは「氷菓」のような、そういったものにプラス方面でつながるのかもしれないというか、マイナス方面は考えたくないのだが、いわゆる「ぼっち」、の問題でもある。
「こういう立場にならないように」的な表現があった。
 そういった意味では、今では当たり前な表現というのか、引き篭もりのコミュ力0のニートみたいな、そういった人物を主役にして描いた作品、ということになるが、まだまだ時代性が許してくれなかったので、上記「はがない」等のような、なんというか、事実を茶化して表現できる時代ではなかった、ゆえに、どうしても、社会性やらなんやら、理由をつけて、哲学っぽいとか、そういったエッセンスを加えた状態でしか表現できなかった。

 みたいな?

 みたいな? なの?

 どうなの?

 長々と書いたが、とにかく、最後まで見て思い出した。
 実はLainからの影響がものすごく大きい比率をしめている。
 たしかにエヴァからの影響も大きいが、このエヴァに影響を受けている(表現の多い)Lainからは、いろんな意味でさらに大きな影響を受けている。

 のではないか? という記録を残しておく。

Lainを見た。

2013年11月15日 | もののあはれ
 できるだけ無駄な発言は控えよう。

 ブギーポップのアニメをみたら、どうしても見たくなった。
 現時点で5話である。
 時間的な制約で寝るまでに全部は見られないだろう。

 去年ぐらいか、それとも一昨年か。
 どうしても見たくなって一度見たが、まあ、なんというか。
 
 覚えていない。
 まじで悲しい。
 ほんとで覚えていない。

 印象に残らなかったのではなく、
 ただ単に、覚えていることができない。

 むむ。
 無駄な発言があるな。


 改めてこうやってみていると、やっぱりいろいろ、カタチにはしづらいが、いろいろ思う。
 それこそ、自分の中における可愛い女の子って、たぶんレインが一番影響を与えているんだなぁと思った。
 同じく、いわゆるイミフな物語雰囲気が好きなのも、これに影響を受けている。
 

 うーん。しかしどうだろう。
 ミステリーを当時知らなかったが、サスペンス的である。
 ?
 当時、Xファイルにはまっていた。
 そういった意味でのサスペンス的である。
 ?

 哲学的である。というのは誰も否定しないと思う。
 どうだろう。

 昨今のこういう雰囲気の作品は、たとえばそれこそ、エヴァの影響だ~とか言えるわけだが、じゃあ、このLain・・・は一応エヴァの影響にあるといえる年代に作成されているから、じゃあ、エヴァはなんの影響を受けているのか?
 になると、正直なにも挙げられない。

 ただ、このLainの不思議な感覚、雰囲気は、うる星やつらの、異様な世界観を舞台にしたときの話から受ける印象に似ている。

 なんだろう。ブギーポップの絵は古いと思ったが、Lainの絵は古いとは思わなかった。さっきも書いたが、Lainは可愛いと素直に思える。
 なお、動きをみていると、なんとなくカウボーイビバップに似ている気もした。

 まあ、同時代性を考えればいろんなものが似ていてもおかしくないわけだが。

 Lainは可愛い。
 で、あまり覚えていないがこの当時、ネットがどの程度普及していのか。
 あの、声でアクセスするとか、あのインターフェイスとか、いいなぁと思った。

 なお、こういう電脳世界的な話としては、しかし、女神転生系のほうが先だったのではないかとは思う。SSでのデビルサマナーが95年の12月発売となっていた。真旧はさらに前だろう。
 ただ、ネットダイブ的な感覚はソウルハッカーのほうが強いと思う。こちらは97年4月なのでほとんど同時期か。だからこそ、印象深く覚えているのかもしれない。
 
 なんというのか。
 相変わらず同じような発言で恐縮するが、世の中のことは何も知らない。
 Windowsが95で普及したという点で、1995年が一般人への普及の始まりだと思っている。自分は多分、前に書いたか? 97,98年ぐらい。ああ。98だったから、そのまんま98年か。もしくは99年。HDは3Mだった。たぶん。そのくせ15万ぐらいしたのではないか。
 ただし、95年以前にもパソコンはあったわけで、信長の野望の話で少し書いたかもしれない。
 そもそものメガテンもDDSネットとか、ただし自分はよくわかっていない。
 わかっていないそのような同時代性の文化を土台としてLainが出来ていると思う。Lainは決してWindows95を、直接的な原因にしているとは思えない。単語が違うか?
 95によってよりネットの世界が広がるという雰囲気があった、のだと思う。そのイメージを原動力にしてLainは作られたのかもしれないが、しかし、基本の土台は95以前だと思う。
 ということだ。

 こうやって見ていると、.hackって、ものすごくLainに似ているなと思った。

 ただ、基本は人の繋がり、人の関係性という問題なんだろう。
 擬似的な世界を媒介しての関係性。
 その究極はヴァーチャルリアリティになるのだろうが、さすがにまだその次元にいたってはいないようだ。
 にしても、ネット世界の社会に与える影響は、ほんと、しょせん予想の範囲内だったのではないか? と思う。まあ、今だからこそ言える結果論なわけだが。
 だとしても、想像外の技術革新は、そんな為されていない気がする。
 あくまでも便利になった、という程度であって。それこそ、Windows95が一般人もネット世界に誘ったみたいなデカルチャーがない。

 ああ、あと、まだまだバブル後の雰囲気を残していると思った。
 それから、レインはかわいいが、アリスもいい娘だ。

ブギーポップは笑わないを見た。

2013年11月15日 | もののあはれ
 今回はアニメである。
 
 さて。


 あまりに大昔なので記憶違いはありえるが、多分、全部見たことがない。もしくは、見たのかもしれないが、すっかり忘れている。
 いや、たぶん見ていないと思う。
 たぶん。
 いや、ぜったい。


 少なくとも、ビデオに録画したことはない。
 むかしのビデオテープはほとんど処分したが、ブギーポップは録画していなかった。それだけは覚えている。
 これがどういうことかといえば、当時、アニメを毎週見るとか、地味にうっかり忘れていたり寝過ごしたりとか。

 夕方アニメを寝過ごすとか、まあ、よくあった。深夜アニメは、普通にまだ起きていなかったり。
 ? おかしくないよ。
 当時の生活は太陽と疎遠だった。
 日没後に起きて、大学に行って、ゼミ室のパソコンでいろいろして、7時ごろに帰って寝ていた。
 ときどき授業に出るために昼間起きていたりすると、起きるのが遅くなる。
 ほんと不規則。
 
 なのでどうしても見たかったものはビデオ録画していた。
 そういった意味で、ブギーポップは・・・。いや、たぶん普通にタイミングが悪かったのだろう。時期的に。

 2000年1月~3月。
 まあ、ちょっと前に小説版の感想というか、いろいろ書いたが。2000年当時で12話構成とかは、珍しいのではないか。どうなのだろう。

 
 今、丁度12話を見始めた。
 これが書き終える頃にはとっくに見終わっているだろう。

 なんだろう。
 辛いと思った。

 いや、当時しっかり見ていて、覚えていて、久しぶりに見直した。というのであれば、ここまで辛いとは思わなかったかもしれない。

 いやしかし、どの程度見ていたのか気になる。
 あるいは、小説を3,4冊ほど持っているが、まったく覚えていないが、その内容がどこかに残っているから、アニメを見ていて、見たような覚えがある状態になっているのか。

 うーん。はっきり言っておこう。

 ものすごく近しいものを感じる。
 当時、こんな雰囲気の物語が作りたかった。
 しかし、その思いは、決してブギーポップに影響を受けたからではないと言いたいためである。

 まあ、覚えがないので、もはやどうでもいい・・・とは言えないのが悲しい。
 ただ、実際のところは確定できない。
 見ていたのか、見ていなかったのか。

 なんにしろ、当時はこういう雰囲気のものが流行った気がする。
 あくまでも気がする、という程度で、実際具体例を出せない。

 たぶん、アニメの問題ではなく、社会全般、ドラマとか、映画とか、時代の雰囲気とか・・・。

 ああ、書いていて思い出した。
 二重人格系とか、そういった精神異常系が話題になっていたのではないだろうか。
 もしかしたら違うかもしれないので調べるのが怖い。

 ただ、辛いと思う部分は時代の雰囲気とは別のところにある。

 過去、記憶、の問題である。

 どうでもいいこと、自分勝手な解釈だよ、と言い訳をしておく。あえて。

 いや、やっぱり辛い。
 が、あえて書いておこう。

 転生物がすきなのは、どこかで書いたかもしれない。なので詳しくは省く。
 自分とはなんなのか、当時、無駄にいっぱい考えた。
 記憶とは何か。

 いやいや、実はそんなに考えていなかったが。

 なんにしても、そんなことをした覚えはあるが、実際何をしたのか、「覚えていない」。

 単純に、過去とか記憶とか、そういった意味で、今、辛い。

 はあ。
 ぐだぐだとした前置きを終わる。

 なんとなくらぶひなを見た。おもしろくないので4話目でやめた。当時は漫画も買った程度にはまっていたものだが、やっぱり駄目なのだろう。は、おいといて。
 らぶひなが古いと思った。絵的な意味ではなく、作り具合というのか、なんというのか。

 逆説的に言えば、らぶひなから発展した系統のアニメを現在いろいろ見てしまうと、原典はまだまだ熟し切れていない、なんというか。おもしろい要素を別個に把握できていない混沌というのか。
 まあ、いい。

 なお、ブギーポップに関して言えば、らぶひなのような思いが薄い。
 ただ、このアニメを見ていると、その後のいろんなアニメにこれの影響があるんじゃないかなぁと思えてしまう。
 ハルヒは確実にいえる気がする。ただ、ハルヒは日常物でもあるから難しいが。
 といっても、ハルヒすらすでに大昔といえるのか。

 まあ、長くなったしこのあたりでやめておく。
 単なるストレス発散である。無駄である。

 なお、多分、ではあるが、らぶひなが古いと思ったのは、同じ形式が以後何度も使いまわされているからだろう。一方のブギーポップが古いと思えなかったのは、同じ形式を使いまわすと、おまえブギーポップ真似てるだろ、と言われるから使えなかった、からではないだろうか。
 エヴァンゲリオンも、そういった意味で難しいが、ブギーポップは独特すぎる。独特すぎるから、エヴァのような、おまえエヴァ真似てるだろ、と言われても真似ようとしていたが、ブギーポップは・・・(ただしブギーポップのアニメの作りに関しては、当時のガイナックスを真似ているというか、同時代的な影響性の中にあると思う)

 いやいや、単純にウケが悪いからだろう。
 コアなファンはつくが、大衆にうけなければお金が入らない。
 大人な話だ。
 いやな話だ。
 

魔界転生を見た。

2013年11月14日 | もののあはれ
 前置きは省く。
 単なる記録。

 2003年版を見た。
 まあ、なんか途中で飽きたし、2,3時間経った今、すでに内容を忘れている。その程度のものだ。

 まあ、べつにむかしがよかったとか、いわゆる回顧が云々ではないが、むかしのほうがおもしろかったよなぁと、1981年版も見た。

 まあ、実際とりとめておもしろくなかった。
 単に、今日は身体の調子が悪いから、かもしれない。


 ただ、こうやって同タイトルを2作見たという、かなりの時間の無駄をしてしまったことに対して、せめて何かを残しておこうと・・・あれ、省いたはずの前置きが。


 今回気づいたのは、自分の中の時代劇のイメージだ。以前も少し話題にしたが、なんだろう。単に時代性の違い、と言うのは簡単すぎる。
 81年版を見ていて、しかも始まってすぐ、この雰囲気は、いわゆる歌舞伎? 浄瑠璃? くわしく知らないが、いわゆる古い伝統芸能みたいな、そういったセリフ回しだと気づいた。

 冒頭澤田ケンジ漢字忘れたの恨み言を見ていて、いやいや03年版は確かもはや島原の恨みとは関係ないみたいな作りだったので単純比較できないが、ただ、冒頭の訴えかけるもの? としては、沢田けんじのほうが、役者として「役者」らしかった。
 続いて女優忘れたガラシャや、武蔵やら、彼らが出てくると、沢田けんじも下手だなと思った。
 で、この沢田けんじよりくぼうちはめちゃくちゃ下手だと。
 この感想は、役者ではなく「役者」。カッコつきとか、意味深みたいにしたが、どうということはない。自分の中における役者のイメージである。
 くぼうちやら、他だれいたっけ? 覚えなしより、沢田けんじのほうがましで、このじゅりーより他が云々。

 で、以下はカッコつきにしないが、この役者というもののイメージは、時代性のなかではぐくまれたものという、また同じことを言っている。


 ほんと、詳しく知らないので適当になって申し訳ないが、ただ、大学のときの同期が浄瑠璃を論文にしていたので、勝手に思っているだけなのかもしれないが。

 81年版はものすごく浄瑠璃っぽかった。


 ああ。
 さすがに適当すぎるのは良くないと思って調べたらやっぱり違った。
 浄瑠璃ではない。
 普通に能だ。

 まあでも、どちらでも大差ないだろう。多分。
 そういうことだ。

 81年当時は、そういったいわゆる伝統芸能的な雰囲気があった。
 こういった雰囲気をもって、時代劇を感じていた。そもそも、水戸黄門やら必殺仕事人とか、そういった類は見たことがないので。

 で、03年版、に限らず、いつぐらいだろうか、役者全体に演技の重みを感じなくなったわけだが、これは別段演技の上手下手の問題ではなく、ただ単に時代性によってはぐくまれていく土台の違い=伝統芸能的雰囲気がないこと。でしかない。のではないか。

 慣らされる。という意味では、現代を扱った普通のドラマや映画ではそれほど気にしなくなった。が、こういう時代物をされるとどうしても気になってしまう。
 それこそ昨日のテルマエロマエではないが、うえとあやは、むかし、あずみがあったが、あれもかなり抵抗があった。ほかにいま、ぱっと思い出したのが、あれなんだっけ、藪の中を書いたのはだれだっけ。太宰か、芥川か。芥川だ。
 めんどうだが仕方ない。調べよう。
 たじょうまる というタイトルか。2009年小栗旬。
 これは結構おもしろかった覚えがある。が、しかしちょっとした違和感はあった。というよりも多大にあった。ようは話がおもしろかったので違和感を気にする必要がなかったというだけだ。

 演技の上手下手は関係ない。
 自分の好むところは、つまるところ、80年代以前に育まれていた同時代性である。
 いやいや表現が難しい。

 もちろん当時はわからなかった。
 それは当然のことで、比較対象がなかった。あの当時に比較しようと思ったら、それこそ50年代60年代のものを見なければならないわけで、しかし小学生がわざわざ大昔の作品を探してみるか? 
 受動的に年月を重ねることで、いつの間にか比較対象が生じていた。で、比較したら前のほうがよかった。理由は伝統芸能的な雰囲気があるから。
 
 これは回顧厨なのか。

 しかしなんだろう。例えば最近(ここ数年内)に見た80年代の映画として、七日間戦争はともかく、たとえば里見八犬伝、時をかける少女、ほかは見ていないか。
 伝統芸能的な雰囲気あるか? といわれたら、どうかなぁ、と答えてしまう。

 まあ、わからない。
 わからないが、いわゆる誰もが納得するだろう、80年代的なもの。

 そういった意味で、確実に時代について行ってないのかもしれない。むかしに輪をかけてテレビをみなくなったが、世の中から取り残されている感は増した。流行はわからないし、芸能人やら役者やら、久しぶりにテレビを見ても、知らない人が多い。

 話が逸れたので終わる。
 ただ、そういった時代性を考えると、81年版と03年版はなんだろうコンセプトといえばいいのか、なんだろうか、根本的に違う気もする。それこそ乱の恨みのために行動しているわけではないという03年版は、かなり現代的だと思った。もはや10年前のことではあるが。

テルマエロマエを見た。

2013年11月13日 | もののあはれ
 映画ね。

 おもしろかった。
 大変おもしろかった。


 正直、それだけで終わりたい。
 というか、感想これだけなので書く必要ないな、と思っている。 

 よくもわるくも、おもしろかった。だけである。

 なお、アニメを以前、数話見たが、よっぽどおもしろかったのは、しょせんアニメだからというべきなのか。いわゆるシュールギャグで貫かれたアニメはおもしろかった。覚えていないが。
 映画は、どちらかというとシュールギャグの影が薄かった。
 まあ、ぶっちゃけ、全体的に間が悪い気がしたが、とくに序盤は、原作は知らないが、アニメを知っていただけに、単純比較でシュールギャグとしては作りが悪いと思った。
 メリハリが薄いし、舞台変更のいわゆるなんだろ、場面転換の劇的変化がものすごく淡白で地続きな気がした。
 あえてそういう演出をとったのかもしれないが、アニメではもっと、劇的な雰囲気がした気がする。

 悪いように書いている気もするが、まあ、しかしおもしろかった。

 ほかになにも書くことがない。
 なので別のことを書いておく。

 ラストの拍手シーンは、どうしてもスターウォーズ第一作を思い出す。
 多分。記憶に残る洋画の最初は、スターウォーズなのだろう。子供心、話はよくわからなかったわけだが、とくにラスト、なんでみんな拍手みたいな、いわゆるハッピーエンドというのか、幸せそうなのか、わからなかった。

 まあ、普通に考えれば、捕らわれたお姫様(この場合元老院だが)を救い、さらにいわゆる悪者の悪巧みを阻止したという功績を評価されたラスト、ということになるのだが、子供心には、くどいが、詳しいところまでわからなかった。
 多分、この記憶は記憶違いではないと思うが、悪いダースベーダーが死んだわけではないのに、なんでルークとか、賞賛されてんだ? と思ったと思う。ラスボス倒していないのに、みたいな。

 ああいう無理やりラスト構成的な雰囲気を、この作品の最後にも感じた。
 そういった意味も含めて、よくもわるくも、おもしろいと表現するしかない。


 ともかく、今回はとにかく、テルマエロマエ映画版を見た初見の感想を素直に残しておこうという意図のもとにある。


 で、北なんとか。天地人で上杉景勝の役だが、なんか好きだなと思ったが、こうやってほかの作品で出会って理解した。
 声がとてもいい。
 いい声でものすごく好きだ。

 それから上と綾。誤植直すのめんどくせぇ。
 可愛いな。
 今、何歳なんだろう。

 ほんと、テレビ見ないからまったく世間様のことはわからないが、なんだろう。
 ちょいと方向違いかもしれないが、0083のヒロインみたいな気がした。
 まあ、あっちよりはいらない感は少ないかもしれないが、正直、いらないと思った。
 が、それでは「映画」が成り立たないのだろうから、そういう方面の補強のためにも入れたんだろう。という気がする。
 なお、テルマエロマエについては、一度作者の対談を何かの番組で見知ったこともあるが、原作者のイメージが重なった。いやいや詳しく知らないからアレだが、作者は漫画なんか描いたこともなかったとかあるし。
 
 これ以上書いても題目とは無関係に進みそうなのでここで切る。

 大変おもしろかった。おもしろいと本当で思う部分もいくつかあった。
 しかし、とりあえず記録しておこうという目的がなければ、とくになんらかの感想を残しておこうというほど、なにか感銘を受ける事もなかった。

 よくもわるくも、ただおもしろかったという作品である。
 

ガンダムスターゲイザーを見た。

2013年11月11日 | もののあはれ
 まだ昼なので酔っていない。
 
 2006年製作か? めんどうなので細かいことは調べない。
 当時、ほんの少しだけガンプラに手を出していたので、プラモの本で名前は知っていた。
 なんというか、SEEDの世界観を利用していわゆるアナザーワールドというか、他エピソードを作ってさらなるガンプラの種類を増やしてた、みたいな。ストライクダガーとか。あれダガーは本作でもでたか。


 当時は簡単に見れらなかった。
 世の中は進歩した、というよりも、おかしくなっているよな、と思う。

 まあ、なんとなく、見なかった。
 ダブルオーが始まったり、以後は深夜アニメ見始めて、それからAGEがあったり、ユニコーンがあったりと。
 忘れていた。
 前置きおわり。

 今でも覚えているし、前にも書いたが、ああ、忘れた。思い出せない。
 あーはっはっはっ

 アルマゲドンと勘違いしていた。
 インディペンデンスデイだ。調べるのに苦労した。その途上で出てきたスターゲイトもおもしろかった覚えがある。

 で、インディペンデンスディ。
 最後のほうで、おっさんが特攻して死ぬところがあるが、あれだけで感動できる。
 よほど好みなんだろう。ああいうシーン。

 で、スターゲイザーでもうるっとしてしまった。
 頭ん中では冷静にあほらしいとか思いつつも、やっぱり涙が出てきてしまう。ほとんど条件反射的だ。
 でも、それだけ好きなんだろうな、と改めて思った。

 なお、うるッときたのは、スターゲイザーがノワールを捕まえてなんとかビーム打てよおらとかいうシーンである。
 まあ、単純な自己犠牲シーンだからうるっときたわけではない。スターゲイザーに乗っていたお姉さんの心境を勝手におもんぱかった所以もある。
 早い話が、なんというのか。男が死んで、弟みたいなヤツにもなんか言われて、ついでにファントムペイン側のいろんなこともあって、とくにバスター系のやつがヤラレルところとか、そういった連続の結果だったから。

 うーん。

 詰め込みすぎだよな、というのが一番の感想だが、一話15分ほどの全3話。
 ユニコーンの一話分よりなおすくない時間ではないか。
 逆に言えばこれだけ短い時間でよくあれだけの作品を作れたものだ、と素直に思う。
 とくに1話を見た後は、ものすごく長い時間見た気がしたが、あれ、16分? と思ったのだし。
 しかしだからこそ、詰め込みすぎという意味と、45分制限という意味で、ノワールパイロットの過去回想シーンがやたら長い気がした。ついでにというか、こっちがメインだが、テンプレート的な、しっかり描かれているようで、どこかでありげな域を出ないという。
 しょうがないけど。
 
 あと思ったのは、これはディスティニーの話になるが、ユニウス7の落下後、物語展開があって結局戦争になるが、どうにもこうにも、SEEDも含めて、憎しみ合う心の原動力が薄い感じがした。説明が悪いかな? もしくはあまりにも昔のことで記憶違いを起こしているかもしれないが。

 夕方番組だったので、とくに90年台末以降なのか? 過激な描写ができなかったこともあるのだろうか。
 現在への恨み等の原因になる過酷な状況。
 ぱっと思い出したディスティニーのシンアスカのあれとか。
 何度も何度もフラッシュバックさせてくれるが、一向に共感が得られない。
 なんでだろうね。
 という問題だ。

 地上放送用ではないし、短い時間だからこそ、スターゲイザーでは、あるいみうまく印象づけられたのかもしれない(追記:ようは明らかに大量の人が死んだ直接的なシーンがあること。遠目で隕石が落ちて沢山の人が死にましたって言われても印象が薄いということ)。
 ただし、あくまでもディスティニーよりマシという意味でしかない。短い時間だからこそ、あざとい手法を選んだ部分もかなり見受けられる。子供のテロとか。

 ちょろっと評価が気になってぐぐったところ、シードやディスティニーなんかよりはるかにおもしろいという意見のある場所に当たった。
 まあ、放送枠、対象の違いなんだろう。なんだかんだ、スターゲイザーは仮に50話とれて夕方放送枠になったとしても、シードほど売れなかったと思うし、逆にそうなってしまうと話の展開が結局のところシード・ディスティニー的になってしまうと思う。
 歴史のIFのおもしろいところか。

 そもそも、シードやディスティニーがあるからこその世界観・展開なわけで、前提があるからこそ45分という短い時間で、世界観等の説明をしなくても、おもしろい部分だけを選んで構成できたというのもある。しょせんは二次創作、というのは変な言い方なのかもしれないが。

 で、そうやって考えると思い出したことがある。ただし調べるのめんどうだし、記憶違いかもしれないが、SEED当時、ガンダムはどうだったのか。
 まあ、リアルタイムでは見ていないからアレだが。仮にシードがなかったらガンダムは終わっていたんじゃないだろうか、と思うぐらい、当時、アニメ的には何もなかったのではないか?
 打ち切りXのあとはコアなターンAで、まあ、ゲームではGジェネやロボット大戦や、シューティングやギレンの野望などが出ていたのでお金の面では問題なかろうが。
 そういった点で、シードは大変おもしろかった。
 Gガンダムはおくとしても、W、X(両方好きだけどね)、世界観の同じVでさえ、これガンダム?という気がしていた自分にとっては、(ファースト崇拝ではないけど)初代ガンダムの現代版=リメイクとして楽しく見られた。

 まあ、今となっては、ガンダムっぽいのが出てさえいれば、もう全部ガンダムシリーズだね、とか強弁されても、そのとおりだよね、と返す程度の心境にある。
 あるいみどうでもいいし、逆に、今やってるビルドだっけ? みたいなガンプラバトルという世界観設定の中で、歴代のMSが出てきてうはうは、という楽しみ方のほうがよっぽどマシというか。

 無駄に長くなった。
 ただ、スターゲイザーについては、大変もったいない話だと思う。
 うん。ほんとうにもったいないと思う。
 せめて25分×3回であれば、初見でわかりにくい部分がもう少しすんなり入ってきて、より楽しめたんじゃないだろうか。
(技術者側がコーディネーターだというのをWikiで知った。なんでファントムペインのバスター野郎が恨み晴らせるみたいなセリフをはいたのか、彼が死ぬぐらいまで気づかなかった。しかもなんとなく、もしかして技術者側ってコーディネーター? ぐらいしか。そういえば最初に死んだ男もコーディネータですら2年で、とか言ってたな。なんでコーディネータの比較を出すのかわからなかった覚えがある。彼女がコーディネーターだからか。まあ、自分の読解力も悪いかもしれないが、ナチュラルとコーディネーターの争いを軸にしている展開なので、技術者側とファントムペイン側の立場は最初のうちにしっかりと印象付ける必要があったと思う。少なくとも、自分は両方をナチュラルとして見ていた。それでいて不都合はバスター野郎の発言以外なかったわけである。部署違いの機関からMSを奪うみたいなもんだと思っていた)