goo blog サービス終了のお知らせ 

思い立ったが吉日

たぶん魂の叫び

バブルへGOを見た。

2015年09月01日 | 「おもしろいとは何か」を探す旅路
 タイムトラベル系が好きなのは前からよく書いていた通りである。
 さて。
 タイトル作についてだが、

 たいへん面白かった。
 
 まあ、言い出したらいろいろキリがないわけだが、楽しむ楽しめないという区別でいえば、断然楽しめた。うーん。
 なんというのか。
 逆説的に言えば、自分が無条件でおもしろいと思うジャンルであるタイムトラベル系の作品として、それでもおもしろくないだろこれは、と言うところが一切なく、普通におもいしろいと、普通に純粋に思えた作品である。

 まあ、どういうオチにするのかな、という点では、タイムパラドックスを抱えるのでまじめにその部分を突き詰めるのは酷な話で、そこは、勢いで終わらせるという、なんというのか、暗黙の了解みたいな部分としていいわけで。

 忘れないうちに書いておく。
 タクシー止めるのに、ほんとに札束ちらつかせていたのか。バブルの時代を知らない。90年当時中学生だ。なお、当時高校生、大学生だったねえちゃんに(帰省中)聞いても、少し年代上の人の話ではそうらしいよ、という返答で。
 
 広末涼子。
 2015年当時、どのような評価を受けているのか、知らない。2007年当時も。
 阿部寛は、テルマエロマエもおもしろいし、たぶん15年現在でも活躍しているのだろう。
 ラモスはともかく。亡くなった方もいました。

 なお、当時中学生当時、両親公務員だった田舎すなわち鳥取だが、うちはびんぼーびんぼーと言い聞かされて育ってきたわけだが、バブル的な雰囲気をどのように、自分は受け取っていたのか。
 これについては、そもそも自分がいかなる存在だったかというところから始めなければならないが、この年齢になって、いかに自分が普通ではないものであったか。それは今でも現在進行形だが、たとえば、アニメで例えるのも変な話だが、ボッチ系が妙にしっくりくるような、つまるところは、そういう、団体行動の苦手な存在として、そういったものとして、とりあえず、他に関心がないような本質として、当時何を思っていたのか。

 世の中のはぶりがよかった、というような、そんな気は全くしない。子供にとっては、そこまで世の中の雰囲気が浸透していなかったのだろうか。それとも。別の要因なのか。
 結局は世の中のことに触れないような、そういう世界の中でしか生活していなかった、ということになるのだろう。

 世の中のことを知らず、ただだらだら、あほうな子供が生活している中で、せいぜい思うのは、もー見なくなった、ベジータ編が終わったあとのドラゴンボール、フリーザ編は、なかなか話が進まないし、もーアニメ見るのもあほらしいと思うような。
 まあ、フリーザ編は高校のときだが。

 と、話が変わってくるかな。
 バブルがはじけた、と言われていたのは知っていたが、そこで特段、それまでの生活と変わったとは思わなかったのは、両親しょせん公務員だったからなのだろうかな、と思った。

 そういう、境遇が、今の自分の人間形成に、やっぱりかかわりがあるのだろうな、とは思う。
 他人のせいにするのは、よくないのだが。

 ともかく。
 好景気を知らない。ただ、好景気を知っているもしくは、好景気を知らないまでも体感している世代の子供であり、しかもそれは、景気で上下するようなものではない公務員の子供としての、自分である。

 なお、もはやタイトルとは離れてしまうが、30日?31日だっけ、9条関係・・・直に9条の話ではなく、ああ情けない。わからない。ともかく。
 デモがあったらしい。
 らしい、とか。

 鳥取でも宣伝カーではないが、何かがしゃべっているのを仕事中に聞いた。全国的に●●日。それが30日か31日だったか忘れたが、すでに。で、デモすると言っていた。数週間前に。

 新聞に書いてあったが、前の安保闘争は、戦前の体感も含めて、だったが、今の抗議は、若者の、平和維持を基に。

 説明不足なのは知識アンド理解不足による。

 憲法改正の問題と、9条の問題と、軍隊保持の問題と、いろいろ、本来的には別個のものとして考えるべきだとは思うが、それをごちゃまぜにしている感があるとは自分も思うが、まあ、それはなんというのか。知識人が知識をひけらかすような、そういった優越感的な発言になるので、不要だと思う。問題は簡単でいいわけで。
 という話をしだすと、もはやタイトルとは無関係になるのでそろそろやめる。 

 
 とにかく。素直に。タイトル作はおもしろかった。
 いずれもう一度見直して、爆酔していたらから錯覚していた、というわけではなかったというのを実証したい。

ロードス島伝説一巻を読んで。

2015年08月04日 | 「おもしろいとは何か」を探す旅路
 途中からは日を跨いで酔った状態だったせいなのか、最後まで「うお、これおもしろ!」と全身に力を入れるようなところはなかった。
 が、タイトル作はおもしろいと言える。あるいは、これは好きだ、ということになるのか。

 たとえば、先日読んだきめん館は、事件が起こって推理が始まってきたところで「ん、おもしろくなってきたな」という感覚があった。
 タイトル作についても、淡々と物語が進むが、そのうち「おもしろくなってきたな」と思える場所があるだろう。だからそれをしっかり覚えておいて、こうやって検討しよう、とおもっていたわけだが、酔ったことが原因なのか、一向に「おもしろくなってきたな」という感覚を受けなかった。

 しかし、読み終わって面白かったと思う。
 数行かけて同じことを2度続けて書いていると思ったが。まあいい。

「うお、これおもしろい!」という感覚はなかったにしても、読後および読中、おもしろい、というよりは好みだなという感覚はある。しつこいが、ちわきにくおどるような感覚はなかったが、しかし、読み捨てたり破りたくなるような、いや、そこまではいかないにしても、そっと本を閉じるという気持ちはなかった。

 だからこれが何故なのか。
 今までにもあるように、同じことを何度も書いているが、数ページで読むのを止めたり、読むのが嫌になるものがあるのに、なぜ、なぜ。

 という思いでこれを書いているが、ただ、くどいが、「うお、これおもしろい!」という吼えるようなおもしろさは感じていない。そういった展開をしていない、ということなのだろう。ラストのほうで魔神と戦い始めるが、めんどくさくて読み飛ばした。どちらかというと、気持ち的に加速してどんどん先に進みたい気持ちになったので、もっとさくっとさらっと読める程度の文章量でいいんじゃないかなと思いながら斜め読みしたが、それはつまるところ、自分にとってそういった戦闘シーンは興味の対象外になっているのだろう。

 登場人物が活躍するシーンが見たい、楽しみたい、わけであるが、いざ戦闘シーンに入ると読むのがタルイ。
 読みたくなるような表現ではないから、といえるのかもしれないが、他と比較するしか立証できない。

 しかし、くどいが、楽しく読めるのも事実だ。
 ここは比較のために、手元にある過去読めなかった、そっと閉じた作品を読むべきなのか。
 だが、すでに自分にとってはおもしろくないものという色眼鏡のついた状態で読むには、冷静な判断が云々。

●「空気系」の解釈について 1-2

2013年03月18日 | 「おもしろいとは何か」を探す旅路
○勘違いの経緯3
「そういえば、こなたってオタクだよな」
 発想の転換が必要だったわけだが、なんとも、この思いつきは一瞬にして閉塞感を打破してくれた。
 たとえば女子高生が歴史の話、「波多野の籾井とか、絶対漢字読めないよねぇ」みたいなことを話していたら、自分は必ず興味をもつ。一方で歴史に興味のない人には、自分におけるチョココロネと同じになるのではないか。
 会話の内容、その方向性に興味がもてるかどうか。
『らき☆すた』をおもしろく思ったのは、おそらく「こなた」を介した「オタク談義」に興味をもったからである。

○「会話」であること。
「物語性」という言葉を適切に捉えられなかったところに問題があった。とはいえ、現時点でも正確に捉えているとは思っていない。だとしてもここに至って、「空気系」における「物語性の排除」とは、まさにWiki前文にある通り、「たわいもない会話や日常生活」をアニメで言えば12話や26話分かけて、「延々と描く」ことであると言うことに納得ができる。
「ただの会話」なのである。
 たとえば、大昔のドラマとか「この物語はある不良少女が幾多の困難をくぐりぬけて更正していく姿を描いたものである」みたいな? とか、それこそ水戸黄門にて「おい、助さん角さん、わしゃ平凡な生活に飽きたんで、ちょっくら全国行脚に出かけたいんだが」というような動機? にて全国各地で行われる勧善懲悪な毎回同じような話。
 いわゆる物語の基本軸もしくはストーリー方針とでも表現しておけばいいのか、それが「たわいもない会話や日常生活」を描くことである。「物語性が希薄化された」結果としての作風、「物語性の排除」はこのことを指しているのではないか。というような理解に至ったわけである

○勘違いの出所
 さきにも書いたとおり「物語性」という言葉の意味を捉え間違えているのだと思う。
「物語性の排除」であるにもかかわらず、たとえば、父子家庭のこなたには物語性があるし、ラストにいたる経緯にも物語性はあった。あるいは『みなみけ』に興味をもったのは、○○(名前忘れた)君が、最初女だと思って視聴していたが、どうも会話を聞く限り男らしい。だとしたら、どうして女装しなければならなくなったのか、それが知りたい。と思ってしまったことは、物語性が大きく関係している。
 上記のような使い方、「物語性」という言葉はこのように理解しているが、Wiki内の「物語性」とは少しずれていたのだろう。Wiki内での「物語性」とは、(おそらく)作品全体を通した広義の意味で、一方の自分は広義の意味も持ちながら、同時に各一話ずつの話の作り方という狭義の意味でも考えていた。

◇物語性が希薄化された結果。では原因は?
 自分の理解度、方向性が間違っていたために、「空気系」の理解が遅れたと思っている。が、こうやって考えていたことを文章化することで、文字通り見えてしまったこともある。さきにもこれと同じような表現をとった箇所があるが、当初の構想どおり前項目をもって一旦まとめに入るには、どうしても書き足しておかなければならないことがある。
 ごく単純な疑問である。
 「物語性が希薄化された」結果に「空気系」の特徴である「物語性の排除」が成立しているという説明は納得しえるが、では、なぜ「物語性の希薄化」、「物語性の排除」をしなければならなかったのか。
「しなければならなかったのか」という表現で疑問を投げかけるのはやや大仰かもしれないが、この疑問を思いついたときに以下の文面が目に入ってしまった。
 「これは、原作が4コマ漫画であるという形式上の理由による面“も”ある」(“”表記は筆者)
 これは、「物語性の排除」の理由について、4コマ漫画以外の理由も示唆している以上に、その別の理由を主原因にした表現だと思う。
 実際のところ、「物語性の排除」の原因については、やや下った「発生・流行までの経緯」や「他の作品類型との関係」の「セカイ系」といったところに概要程度の表現がある。(めんどくさいが)Wiki内の注記を確認したところ、上記引用を含め、Wiki説明の多くが他の出典にあった。(本来ならここでもそういった明記はしなければならないのだろうが)
 以下は完全な推測であるが、だとしても的を得ていると思う。
 もともとの出典では、「物語性の排除」の問題は、「セカイ系」との関係から導き出したものだと思う。そういったもともとの流れがあるにもかかわらず、Wiki内で効率よくまとめようとした結果、少々無理な形になってしまったというところか。
「物語性の排除」について、これが難しい問題であるにもかかわらず、Wikiではやや配慮を欠いたまとめ方をしている。
 理解不足の責任転嫁をするような気もするが、文章化することではっきりと、「空気系」が何であるかを思索するに妙に付きまとっていた違和感の、真なる正体をあばきだしたのかもしれない。
 いずれにしろ、「空気系」をしっかりと理解するには、ここで多用されている原文に直接あたらなければ・・・めんどくさい。

○まとめ
 ある意味で前項がまとめになったのかもしれないが、思いつきのままの思索をそのまま文章化することで、ある程度の完成品としようという当初の考えがあったわけだが、読み返しながら文章化していく過程で、思索段階では見えなかった、あまりにも初歩的な間違いをしていることを、それでもあえて気づかないふりをして書き上げるには抵抗があったわけだ。あるいはもう一度構想を練り直す方法も取れたわけだが、素直な感想、文章を作成するのは疲れる。これ以上の無理は、今回は控えようと思った。
 なお、前文で「空気系」の再定義を図ると表現したが、そのためには、いま少しの検討が必要で、今回は素直にあきらめる。
 今回は、Wikiにおける「物語性の排除」についての解釈を、「物語性」の理解を自身が勘違いしていたことから導き出した結果としての、「空気系」とは「会話」を目的とする作品であること、この程度の理解をもって終わることにする。

●「空気系」の解釈について 1-1

2013年03月17日 | 「おもしろいとは何か」を探す旅路
○前書き
 改めて、『みなみけ』をおもしろいと思った理由を考えていきたいわけだが、その前に、自分なりの「空気系」の解釈および再定義をしておきたい。どこそこから(この場合はWikiからだが)持ってきたそのままの状態で使い慣れない用語を使用するには、いささか抵抗があるわけだ。ただし、現在進行形で思考中という意味では、「空気系」について、今後考えが変わる可能性は大いにある。あくまでも一時的になるのかもしれない。
 だとしても今回の、Wikiの説明を初めて読んだときに生じた些細な違和感、しかしそれが、咀嚼していく中で素直に飲み込めない要素であったと判明したことは、個人的な理解度不足による問題であったにしても、「空気系」を理解していく上では必要な話題ではないかと思う。
(以下、引用とか、しっかりやったほうがいい気もするが、省く。Wiki外の文章をもってきたときだけ表記する)

○「空気系」の概要
 Wikiの前文を読めばこと足りるが、一応まとめておく。
「空気系」とは、
「ゼロ年代以降の日本のオタク系コンテンツに」みられる「美少女キャラクターのたわいもない会話や日常生活を延々と描くことを主眼とした作品群」であり、「その作品世界での「空気」を描いている」ことから命名されている。
 なおWikiでは「空気系」と「日常系」の作品傾向を特に区別しない方針である。

○すっきりしなかった「空気系」のある特徴。
 空気系作品の特徴として、Wikiでは、形式的な面で「萌え4コマ(漫画)」とし、内容面で3つの傾向性を上げている。
・「物語性の排除」
・「萌え系の美少女に絞ったキャラクター配置」
・「虚構への現実の混入」

 今回「虚構への現実の混入」と「萌え系の美少女に絞ったキャラクター配置」については無視する。
 メインは「物語性の排除」である。
 この部分の理解が悪かったため、例えば前々回の混乱であったり、その後の停滞であったりと弊害が生じた。
 なお、言い訳であるが、「ドラマツルギー」がなんであるのか、未だに理解していない。なんとなく程度である。が、今回に限れば特に問題ないと判断した。

○「物語性の排除」について
 そもそも「ドラマツルギー」なる難しげな用語を無理に入れているから、わかりにくいのではないか。とも思う。以下、Wiki内の説明をさらに短くまとめるが、
「困難との対峙や葛藤・極端に不幸な出来事・深刻な家族関係の描写・本格的な恋愛」を排除した、すなわち「物語性が希薄化された」結果、「とりとめのない会話の繰り返し」が行われるだけであるとして、『らき☆すた』の一話にあった、チョココロネの喩えをもってきている。
 また、「物語性が後退」した結果、話を見逃しても「ストーリー展開についていけなくなるといった事態が起こらない」としている。

「物語性の排除」の結果、チョココロネ回のような展開が基本となり、毎回そういった日常的な会話なので、2,3回見逃しても気にならないわけである。

○勘違いの経緯。
 「物語性の排除」を読むことで、「ドラマツルギー」の意味合いがわからないにしても、ある程度、「空気系」の特徴が把握できたような気になった。前々回はこの段階で見切り発進をしたわけだが、その後、さらに迷走した。
 問題はチョココロネの喩えである。
「空気系」を理解するにわかりやすい喩えだと思った反面、これをもって「空気系」の特徴とするのだとしたら、果たして自分はこれら「空気系」をおもしろいと思うのか?
 チョココロネの話ゆえに、知人に薦められた『らき☆すた』をそれ以上見ようとしなかった事実がある。
 面白いとは思わない。
 なのに「空気系」といわれる『みなみけ』や、そもそも『らき☆すた』をおもしろいと思ったのも、また事実である。
 チョココロネの喩えをもって理解した「物語性の排除」におもしろさを感じないのに、なぜ「空気系」をおもしろいと思うのか。

○勘違いの経緯2
 少しだけ横道に逸れるが、上述、思考を文章化することで見えてくる問題点がある。「チョココロネの喩えをもって理解した」という表現であるが、「物語性の排除」といった難しげな問題を、あくまでも喩えでしかない段階で安易に理解しようとしたことは、自分らしい傾向ではあるが、そもそもの間違いである。すぐに気づきそうなことではあるが、頭の中で考えているときには思い至らなかった。他にもいくつか、気づく点はあるのだが、あえて無視する。

 さて、ここで間違えたのは、チョココロネの喩えをもって「物語性の排除」とした場合の「空気系」を、しかし何故おもしろく思ったのか、それを考えてみようという方向性をとってしまったことにある。Wikiの傾向性以外に、「空気系」には何か別のおもしろい要素があるのではないか、「物語性の排除」について何か誤りがあるのではないか。
 さらには、「物語性の排除」とはあくまでも「空気系」の「傾向性」であって、「おもしろい要素」を取り上げているわけではないという考えに至り、おもしろいおもしろくないという判断基準で考えるのは間違っているのではないかと気づいてもなお、「物語性」を好む「自分」にとっては、「物語性を排除」した「空気系」を面白いと思うはずはないのだから、「空気系」にも「物語性」があるのではないか、というように「物語」という言葉に囚われてしまって身動きができなくなっていた。

●前回の整理

2013年03月04日 | 「おもしろいとは何か」を探す旅路
 随分と日数が経ってしまった。長い言い訳は省く。前回の内容を削除するか修正するか、悩んでいたら疲れてしまった。挙句にゲーム・・・。

 なんにせよ、文章力がない。センスも悪い。
 こんなものを衆目にさらすのが、ただただ恥ずかしい。
 そんなわけである。

 が、結論としては、初回時の前文を尊重(?)して、そのまんま放置。
 恥は書き捨て。それによって得るものもあるだろう。


 さて、そういう理由で、今回は超下書きを載せる。
 そもそも前回にて「カオス」とか、ちょっとかっこよさげな(今風に言うと中二病的な)表現を使ってしまった理由にもなるが、まったくもって頭の整理ができていなかった。
 思い浮かぶ様々なものを適当につまみとって、それこそ闇ナベのように、よくわからない内容を作り上げてしまった。
 自分でも何が言いたかったのかわからない。それが・・・これでは冒頭、長い言い訳を省いた意味がなくなってしまう。

 以下では前回に、自分が何をしたかったのか、何を思ったのか、それを時系列にて整理しておく。これによって今後の思索方針の助けにもなる、と少し思う。
 なお今後一切に関わるが、ウィキペディアについてはWikiと表記する。

1 『みなみけ』のようなアニメを「空気系」と分類するのを知った。
2 Wikiにて「空気系」の説明にいろいろと納得する。
3 ふと、「空気系的要素」なる何かを閃いた。
4 同時に、最近のアニメは「空気系的要素」ばっかりだという根拠のない思いつきが浮かぶ。
5 3と4と、それらがどういうことか検証しよう! いや、めんどくせぇ・・・
6 簡単に言い換えてみよう。「(本筋から離れた)日常パート」?
7 以下、まとまりもなく「空気系的要素」についてa、b、c、dを思いつく。
 a 最近のアニメの代表として「ソードアートオンライン」とか「イクシオンサーガDT(現時点放送中)」とか、挙げやすいな。
 b しかし例えば「ドラゴンボール」とか、むかしからそういう部分あったよな。亀仙人とかブルマとか。
 c ちなみにaの対比として、むかしの代表は「機動戦艦ナデシコ」か。「天地無用」とか「スレイヤーズ」もあるかなぁ。
 d しかし実際検証するとか、アニメを見直す時間なんてないわ!
8 とくにbを考えると、思いついた「空気系的要素」は最近に限らず、ひいては「空気系」も最近に限らないのでは、とか思ってしまった。
9 深く考え始めようともせず、ただダラダラと同じことを悩むだけでは前に進まない。とにかく何か書け!
10 ふと、「空気系」の説明における「物語性」という表現から、そういえば自分は……。

 の結果が前回ラストの慨嘆にいたる。

 しかし逆に、慨嘆せざるをえないほどのインパクトがなければ、焦って中途半端に書き上げなかったのかもしれない。
 アンチ「萌え」だったんだよな。確か。

 以上、他人が見たら、ナニコレ見ルキシネー状態の下書きリストだが、もやもやっとしたまま時間だけが経過していた自分としては、

 ふうっ。
 すっきりした。

●自分の求めていたものを思い出した

2013年02月13日 | 「おもしろいとは何か」を探す旅路
 前回、『みなみけ』をおもしろいと思った理由を、「可愛い女の子がでてきてとりとめてマイナス要素のないアニメだから」と表現した。
 この表現の意味するところを少しだけ深く考えてみようと思ったわけだが、こういった4コマ漫画的な日常を描いたアニメが「空気系」などと呼ばれることを知りえた。
 今更、という気もしないではないが、ウィキペディアのなんと便利なことか…というよりもインターネットは本当に凄い。
 おかげで最近のアニメに対する気持ちの整理がついた。とはいえ、それはあくまでも感覚的にであって、はっきりとした形…文章で表そうとすると、あっという間にカオスと化してしまうので困る。

 以下にウィキペディアの空気系を読んで思ったことを簡潔にまとめてみた。

「一見日常系ではないアニメにあっても最近は、物語的に一貫性のないその場限りの(代替のきく)日常的な展開で構成されているものが多いと思った。しかも、そういった構成にいつのまにか、自分は慣らされていた。
 こうではなかったむかしの自分は何を求めていたのか。
 ずばり「一貫性のある物語」である。
 なお、上記の日常的な展開云々は最近に限らず、むかしから普通にあったと思う。ただし、むかしといまでは違いがある。」

 直線的な表現だが、文章力が足りないのでこれ以上の修正は諦める。

 なお、「萌え」が流行しだした当時は強い抵抗感があった。それに慣れて『みなみけ』やらなんやらが普通に、というよりも楽しく見られるようになっていく中で、「一貫性のある物語」に対する熱い思いが忘れ去られてしまったのだろうと慨嘆したい。

●趣旨および最初の話題

2013年01月27日 | 「おもしろいとは何か」を探す旅路
 自分はどんな物語をおもしろいと思うのか。
 何故その物語をおもしろいと思うのか。
 それらを考えてまとめてみたい。

 はじめてそんなことを思いついてから、いったいどれだけの年月が流れたのだろうか。ようやくにして重い腰を……いや、心理的にはその程度の表現では解消しきれないほどの強い思いがある。
 重く冷たく、身体をがんじがらめにしていた停滞という名の鎖から、ようやく解放されようとしている……は、いまいち、か。

 ともかく以下、「おもしろいとは何かを探す旅時」と称して思うところを、思いつくままに気楽に書き上げていく。
 それによって素材が整えば、見栄えの良い論文形式にまとめてみたいところではあるが、一朝一夕に終わるものではないだろう。
 しかし少なくとも、こうやって「今」思っていること、「今」考えていることを形にすることは大切である。逆に言えば、これまでの年月において、考えていたことをしっかりとした形で残さなかったことに深い後悔の念が生じているわけであるが。


 さて、それでは記念すべき最初の話題として、『ガンダムUC』(以下本文内UC)と『みなみけ』、および『7都市物語(田中芳樹)』をあげる。
 それは何故か。
『みなみけ』は、記憶に残る程度にリアルタイムといえる最近で「おもしろいな」と思わせてくれたアニメである(UP現在は視聴当時から2週間ほどすぎてしまったが)。
『UC』は(ひとまず一話に限定しておくが)、近年まれにみる「背中がぞくぞくするほど」おもしろいと思ったことを未だにはっきりと覚えているアニメだからである。なお見たのは去年か一昨年である。
 最後の『7都市物語』を選んだ理由は『みなみけ』に似ている。最近久しぶりに読んだ、むかしに「おもしろいと思って何度も読んだ」小説である。なお、はっきりと覚えていないが最低でも6回は読んでいると思う。

 ただし、いきなり3つをいっぺんに考えはじめるのは難しいというより無理である。だからといって一つ一つを詳しく取り上げていくとしたら、『UC』や『七都市物語』はともかくとして『みなみけ』に関しては「記憶に残る最近」の範囲を超えてしまうだろう。
 そのため、あくまでも簡易に、今思ったことを書き連ねておくにとどめる。

『みなみけ』をおもしろいと思った理由は、可愛い女の子が出てきて、とりとめてマイナス要素のないアニメだから、である。
 なお、知りえる範囲で挙げるとしたら、こういった系統の最初に『あずまんが大王』が思い浮かぶ。が、基本は『サザエさん』、もしくは『ちび丸子ちゃん』といったところか。『サザエさん』の画風が今風だったらどうなるのか、考えてみる余地はある。

『UC』をおもしろいと思った理由は簡潔に説明しづらい。
 ファーストガンダムの歴史に連なる正統な続編であること。初見時につい古臭いと思ってしまったが、昭和臭を残しつつもそれでいて現代的な作品であること(あるいは、現代的ではあるが、昭和臭い)。
 単純にミネバが可愛い。
 また、物語的な部分を否定することになるかもしれないが音楽がとてもいい。
 そういった各種漠然とした思いの総意になるのだろうが、一言でまとめると下記。
 音楽がとてもよくて、可愛い女の子も出てくるロボットアニメの続き物だから。
 身も蓋もない。

 ただし『みなみけ』と『UC』との違いは確実にある。それをここではっきりと記しておく。
「UCはDVD買ってもいいが。みなみけは絶対買わない」
 この基準が個々人の興味の方向性になるのだろう、か?

『七都市物語』については上記二つをリストアップしたことと意味合いがやや異なる。
「むかしに「おもしろいと思って何度も読んだ」小説」という微妙な表現をしているが、ようは、最近読んだときにおもしいと思ったかどうか、がポイントになっている。
 おもしろいと思って読んでいれば、おそらく現時点ではここにリストアップされなかった。作者が同じという意味以上に、自分にとってバイブル的な『銀河英雄伝説』を考えるほうが先である。逆に、つまらないと思ったのであれば、そもそもここに名前はあがらない。
 とりとめておもしろいとおもったわけではないのに、4時間ほどかかる文量を一気に読みきったのはなぜか。
 その意味では『みなみけ』と『UC』を止揚したことになるのかもしれない。
「とくに不可もなく。ただしむかしおもしろいと思った記憶があるので」


 以上が次へと繋がっていくであろう最初の問題提起群でもある。
 再度記しておくが、これは雑文である。次回はまったく違う話をしているかもしれない。ただ、今現在思ったことを記しているに過ぎない。

(H25/2/20に修正。作成当初の方向性が曖昧だったため、無駄に増量していた内容を削減した。ちなみに560文字程度の削減)