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思い立ったが吉日

たぶん魂の叫び

あまり言いたくはないのだが。

2025年02月22日 | もののあはれ
 あまり書き残したくないと思うが、今の思いとして、忘れたくはないとも思うので、書き残す。
 結局は利己主義、後々忘れてしまう自分に対して、そのために、自分のために記録しておこうという、自分のことしか考えてない行為であるので、自己嫌悪にもなるが。

 おそらく、ではなく確実に、飼っている猫がもうすぐ死ぬ。

 今年に入ってからか、それとも去年の12月だったのか、急にやばいと感じるようになった。
 いっとき持ち直したような感もあったが、あきらかに、悪化の一途をたどっている。
 見ていてつらい。

 いっそ、早く死んでしまった方が気が楽になるとも思ってしまう。

 あまり詳細を書くのも、いろいろ複雑な思いなので何とも言えないが、記録として残す意味で。
 いつごろか忘れた。多分、2011年前ぐらいかあるいは2009年か2010年か、一匹の(メス)野良猫と連れ子が、うちの庭に顔を出し始めて、親がえさをやって、さらには去勢もして、野良猫として飼い始めた。
 最初は外で餌をやっていたが、いつの間にか、家に入れるようになった。
 それこそ、今、大雪だが、雪が積もって寒かろうと、とうとう家に入れてしまったと、なんとなく思い出す。

 どこそこのショート動画の黒猫主人は、野良猫を飼うのはよくないみたいな話をしていた(飼い猫は外に出すな、だったかな?)。
 都会ではそうなのだろうと思うが、なんというか。
 自分が飼っているわけではなく、親の責任において、という責任転嫁であるが。

 あえて言うなら、猫アレルギーだというのが、このことで判明した。
 子供のころにアトピー性皮膚炎がひどくなったのは、その当時に姉が拾ってきた猫がいたころ、大学のときに再発したのも、猫を飼ったとき、仕事を始めて、喘息で医者に通い始めたのも、結局のところ、今回の猫たちを飼い始めたからである。
 自分の部屋には入れない程度に、猫と接してきた。
 その程度の、情のない性質である。

 数年前、もう忘れた。5年ぐらいになるのか?
 ゴールデンウィーク頃だったのは覚えているが、仕事が終わって帰宅した矢先、連れ子のほうの猫が死んだ。
 俗に、猫はひっそりと死ぬとか言われている。
 子供のころに飼っていた猫は、いつの間にか別の家で餌をもらうようになって、いつ死んだかもわからない。
 今回初めて、家の中で猫が死んだ。
 息をしなくなるその最後まで、鳴いていた。
 それだけは、忘れられない。

 両親ともに、大泣きしていたのは、正直、今でも覚えている。
 父親が泣いたところなんて、初めて見たので、大変衝撃的だった。

 今回死にゆく猫は、先二匹を飼い始めて1年ぐらいしてからか、おそらく近くの誰かが引っ越しして捨てられた家猫じゃないかと話していた。野良感が薄かった。

 先の連れ子が死んでから、その猫に遠慮していたんだというのがわかった。自己中心的な性格だった。先(メス)野良猫にマウントとって、なんでもかんでも自分が先、自分が先と、飯をくったり甘えてきたり。
 そもそも鳴き声を聞いたことがなかった。甘えて鳴いてくることがなかったのに、鳴くようになった。それも、鳴きなれていないというのか、普通の猫の鳴き声とは違って、あまり鳴きなれていない鳴き声だった。
 にゃあ ではなく、ナあ。

 我先に我先にという性質だったのに、こうなりはてるのを見ても、悲しくなる。
 ずっと見てきただけに、ガを張る彼がこうなってしまったのを見るに、辛さもひとしお、である。

 なにより、つらそうに泣いているのがわかるのに、それに対して、何もできないのが、何をすればいいのかわからないのが、情けなくて悲しい。
 水を飲むたびに、言いようもない、助けてくれという感の鳴き方をする。
 おそらく片目も見えなくなっているのだろうか、勝手にガラス戸を引いて外にでていたのに、戸に指をひっかけるのに、スカスカとひっかけられないのを見るに、悲しい。

 前の猫もそうだった。
 まだ鳴ける力があるのに、まだ、動こうとする意志があるのに、どうしてもダメであるという現実が突きつけられてしまう。
 安らかな大往生とか、人間が勝手に望む理想なんだなと、つくづく思わされてしまう。
 そんな都合よく、世の中はできていないんだなと。

 きれいな死に方なんて、人間の勝手な欲望である。

 

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