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思い立ったが吉日

たぶん魂の叫び

福翁自伝を読んで

2025年04月04日 | もののあはれ
 前に書いたか? 書いてないか?
 気持ちよく酔っているので何か書こうと思った。

 忘れるに久しい。
 何をしてもすぐに忘れる。
 8割ほど読み直して、あと2割については、何を書いていたか覚えていない。

 ああ、情けない。

 福翁自伝は、これ、どれほどおもしろいか筆舌に尽くしがたい。

 という「筆舌に略」という表現は、いわゆる漢文に由来する定型文であろう。

 前に書いていないという前提で以下。
 これほどおもしろい自伝はない。
 対して何か読んだわけではないが、自伝と銘打つものとして、おもしろいと思ったのは唯一これのみである。
 ま、自伝と称する作品はたいてい小学生むけの、キューリー夫人とか、エジソンとか、子供向けだから、子供心にはおもしろいのかもしれないが、ある程度成長した身分としてはうんぬんかんぬん。

 ま、そうはいいつつも、まともに読んだ自伝とか、せいぜい内村鑑三か。覚えていないが。
 せめて世の中にあるある程度の自伝を読んでから、福沢の自伝おもれ、というべきなのだろうが、なんともかんとも。

 という自伝については何も知らないよと説明したうえで。

 なんでこれほど福翁自伝はおもしろいのか。
 口語文だからだろう。

 当時、口語と文語と、違いがあったのか。
 現代的には口語的な主観的表現の作品は当たり前だろうが、さてはて。
 云々。

 それがわからない。当時を知らない。調べればすぐにわかるのかもしれないが、わからない。

 福翁自伝は口語であって読みやすい。これが一番の理由だろう。
 比較としての内村鑑三の、自伝ではないのだろうが、おもろない。硬すぎる。

 以後は福翁自伝のみにして。

 一番思ったのは、藩主に対しての思いである。
 なんだかんだといろいろ書いてある。書いてあるということは、何も思っていないという表現とはうらはらに、やはり思うところがあったのだと思う。
 同じく、新政府に対して官僚たらなかったことに、やはり思うところはあったのだと思う。

 人間、なんだかんだ理由をつけて「そうでない」というのは、そうであることの証明である。

 お金に興味ない。権力に興味ない。女に興味ない・・・Yotubeでハードゲイのショートがあがっていたが。

 ・・・・・・・・・・・・・
 やはり、このキーボードはなんだかんだ、あってないのだろう。誤が多すぎる。
 テクニカルキーボードは自分にはあわない。
 買い換えよう・¥・・

 s
 ti
 知人Fに福沢さんの簡単な説明として、九州のとある臣下で、英語を学んで幕臣に取り立てられて(自伝から読み取れる限りはあくまで陪臣として)、当時の国際状況を、「翻訳」仕事によっていろいろ知った、開国主義者であったと、述べた。
 他、学問の進め等、著作作業にて、有名になったあげく、なんだか1万円札になったと。
 聖徳太子と並んで一万円にふさわしいと思う。

 樋口一葉とか、野口五郎とか、うん、5千円や千円であってなんらかまわない。
 福沢は一万円にふさわしい。聖徳太子とならんで。

 なにが言いたかったのか。
 品位の話か?

 福沢さん私大は、表向き、権威どうでもいいである。
 そういうところが、なんか、自分は好きだと思った。
 封建的思想が嫌いだという、そういうところ。
 まあ、突き詰めれば、それ封建的でしょ? みたいなところはあるとしても。いろいろなところ、マメなところ以外、なんとなく自分に似ている、みたいな。

 まあ、マメなところ、といおうところが、一番人間を分けるところだとは思う。
 布団で寝たことがないとか思い返すほど、勉強していたところ。
 タイミングを失せず、留学のために人を頼ってアメリカに行こうとする気合。

 そういうことができなかったところが、自分と福沢さんの違いだということを、読めば読むほど思い至って涙が出る。

 福沢さんの自伝はおもしろい。

 1901年死去ということで、日露戦争を知らないようだ。
 日清戦争は結果を知っているのだろうが、この自伝のころは、知らなかったのか?

 大政奉還を30代付近で生き抜いて、いた人は、誰がいる?

 知らないが。
 もし、仮に、ありえないが、自分がそうだったとして。

 いつの間にか世の中、変わってたね、と思う程度だろう。

 その時代、とりあえず今できることをしようという福沢さんとか。
 すごいなぁと素直に思う。
 
 銅でもいい話だが、どっかの国で選挙でえらばれてない誰かが、なんだかんだど国の方針にあれこれ口をだしている人がいるらしい。2025年現在、とりあえず、世界最強と言われて、数百年後に理解できる国の話である。
 選挙制度を無視した云々かんぬん(法律的な問題のことか。司法、立法を無視した行政面で独裁的な行動をする云々)

 新聞は適当だ。いわゆるオールドメディアは適当だ。
 そういえば今日、第三者委員会を終えたフジテレビの話をしていたが。


 果たして、アメリカに住んで、そこでどういう状況なのか、肌で感じられない自分としては、かの国がいまどういう状況にあるのか、関税25%とかかけなければならないのか。

 結局身をもってわからない自分としては、新聞等からしか理解できず、その場でたたかれている彼がが、果たしてたたかれるべき存在なのか、どうか、わからない。

 ああ、何が言いたかったのか。

 福沢さんの言いたいことに一理あり。しかし、間違いもあり。
 しかし、自伝はおもしろい。素直におもしろいものを読みたいと思うならば、(日本人であるならva)福翁自伝はぜったいゆお絶対読む劇でら宇。

 これだけは、自分としては、つ¥よく」すすめたい
 

 

 
 

落語なんとかを見た

2025年04月04日 | もののあはれ
 今7話か。
 ちゃんと正統なYotube

 うむ。酔いすぎている。

 全く知らない程度で思うのは、落語の話かと思っていた。
 落語の話だ。

 なんで落語の話だ?

 落語自体面白いものをなんでわざわざアニメにするの?
 シロバコとか、アニメ業界がアニメ業界のアニメをつくるとか、イミフ

 で、
 結局? 7話時点で、回想シーンばかり。
 回想シーンは嫌いだ。そういう作りをする物語が嫌いだ。
 もっとうまく作れよ。
 と思う。
 
 おもしろくないわけではない。
 が、結局、回想シーンで構成されざるをえない、おもしろさを得られないと製作者側が考えているということ自体が腹が立つ。
 そんなことを思った。

 落語、という単語に興味を持てなければ、誰からも見向きもされない。
 そういうアニメなんかな と思ったのが悲しい。

 まあ、いまどきアニメはいっぱいいっぱい
 あれやこれや。
 おもしろいものも、おもしろくないものも、興味を惹かれるものも、惹かれないものも、ある程度好きにできる時代性なのか。そんなことはないとは思うが、なんで「落語」でアニメを作ったのか。
 すこぶる謎である。
 どこからお金が出ているのか。
 提供者がいなければ、アニメで落語なんて絶対しないと思うというのは、大人になってわかる事情である。

 なんで? コネとかあったの?
 単純にそう思う作品である。
 基本的にはおもしろい。それは否定されない。

 おもしろい。
 
 でも、なんで落語?
 

あまり言いたくはないのだが。

2025年02月22日 | もののあはれ
 あまり書き残したくないと思うが、今の思いとして、忘れたくはないとも思うので、書き残す。
 結局は利己主義、後々忘れてしまう自分に対して、そのために、自分のために記録しておこうという、自分のことしか考えてない行為であるので、自己嫌悪にもなるが。

 おそらく、ではなく確実に、飼っている猫がもうすぐ死ぬ。

 今年に入ってからか、それとも去年の12月だったのか、急にやばいと感じるようになった。
 いっとき持ち直したような感もあったが、あきらかに、悪化の一途をたどっている。
 見ていてつらい。

 いっそ、早く死んでしまった方が気が楽になるとも思ってしまう。

 あまり詳細を書くのも、いろいろ複雑な思いなので何とも言えないが、記録として残す意味で。
 いつごろか忘れた。多分、2011年前ぐらいかあるいは2009年か2010年か、一匹の(メス)野良猫と連れ子が、うちの庭に顔を出し始めて、親がえさをやって、さらには去勢もして、野良猫として飼い始めた。
 最初は外で餌をやっていたが、いつの間にか、家に入れるようになった。
 それこそ、今、大雪だが、雪が積もって寒かろうと、とうとう家に入れてしまったと、なんとなく思い出す。

 どこそこのショート動画の黒猫主人は、野良猫を飼うのはよくないみたいな話をしていた(飼い猫は外に出すな、だったかな?)。
 都会ではそうなのだろうと思うが、なんというか。
 自分が飼っているわけではなく、親の責任において、という責任転嫁であるが。

 あえて言うなら、猫アレルギーだというのが、このことで判明した。
 子供のころにアトピー性皮膚炎がひどくなったのは、その当時に姉が拾ってきた猫がいたころ、大学のときに再発したのも、猫を飼ったとき、仕事を始めて、喘息で医者に通い始めたのも、結局のところ、今回の猫たちを飼い始めたからである。
 自分の部屋には入れない程度に、猫と接してきた。
 その程度の、情のない性質である。

 数年前、もう忘れた。5年ぐらいになるのか?
 ゴールデンウィーク頃だったのは覚えているが、仕事が終わって帰宅した矢先、連れ子のほうの猫が死んだ。
 俗に、猫はひっそりと死ぬとか言われている。
 子供のころに飼っていた猫は、いつの間にか別の家で餌をもらうようになって、いつ死んだかもわからない。
 今回初めて、家の中で猫が死んだ。
 息をしなくなるその最後まで、鳴いていた。
 それだけは、忘れられない。

 両親ともに、大泣きしていたのは、正直、今でも覚えている。
 父親が泣いたところなんて、初めて見たので、大変衝撃的だった。

 今回死にゆく猫は、先二匹を飼い始めて1年ぐらいしてからか、おそらく近くの誰かが引っ越しして捨てられた家猫じゃないかと話していた。野良感が薄かった。

 先の連れ子が死んでから、その猫に遠慮していたんだというのがわかった。自己中心的な性格だった。先(メス)野良猫にマウントとって、なんでもかんでも自分が先、自分が先と、飯をくったり甘えてきたり。
 そもそも鳴き声を聞いたことがなかった。甘えて鳴いてくることがなかったのに、鳴くようになった。それも、鳴きなれていないというのか、普通の猫の鳴き声とは違って、あまり鳴きなれていない鳴き声だった。
 にゃあ ではなく、ナあ。

 我先に我先にという性質だったのに、こうなりはてるのを見ても、悲しくなる。
 ずっと見てきただけに、ガを張る彼がこうなってしまったのを見るに、辛さもひとしお、である。

 なにより、つらそうに泣いているのがわかるのに、それに対して、何もできないのが、何をすればいいのかわからないのが、情けなくて悲しい。
 水を飲むたびに、言いようもない、助けてくれという感の鳴き方をする。
 おそらく片目も見えなくなっているのだろうか、勝手にガラス戸を引いて外にでていたのに、戸に指をひっかけるのに、スカスカとひっかけられないのを見るに、悲しい。

 前の猫もそうだった。
 まだ鳴ける力があるのに、まだ、動こうとする意志があるのに、どうしてもダメであるという現実が突きつけられてしまう。
 安らかな大往生とか、人間が勝手に望む理想なんだなと、つくづく思わされてしまう。
 そんな都合よく、世の中はできていないんだなと。

 きれいな死に方なんて、人間の勝手な欲望である。

 

麻雀放浪記を見た

2025年02月19日 | もののあはれ
 コメントで、(まあ、書く人は褒めるか貶すかのどちらかであろうが)結構ほめそやされていた。
 
 タイミングが合ってみた。
 少し前からYotubeの、おすすめではないが、勝手に候補にあがってたが、ほんと、他に見るものがなくてタイミングが合ってみた。

 逆に、なぜ見ようとしなかったのか。

 アカギとかその他、麻雀しっぱなしの、あるいは賭け事ばかりでつまらないんだろうなぁと思ったからだ。
 が、「おもしろい!」とまでは言わないまでも、見るに値する作品だとは思った。

 いや、おそらく、ラストシーンがあれでなければ、ここは書かなかったかもしれない。

 2倍速だと台詞聞き取れないから1.5倍速で見ていたので、十二分に中身を理解したとは言い難い。

 戦後の日本を思い起こせる作品である。
 そのことを、とくに、ラストシーンで思った。

 うまく言葉に言い表せない、なんというのか、奇妙な感覚でいらただしい。

 (数日後に)追記
 なんとか言葉で言い表す。
 つまり、人も死んでしまえばただそれだけ。残ったのはただの塊。
 しかし一方で、死者に尊厳は払う。それが、人としての、人であるという意識である。

 土手から家に死体を転がして水たまりにはまる。
 死体への冒涜と見えるが、そもそも、そうやってそこまで運ぼうとしたことは、死者への敬意である。

 死んだ人に敬意を払う。
 それが人であると思った。

 (逆に、戦時はそうではなかったのかなと勝手に思うと、作意に思いが馳せる)

思ったことを少し2

2025年02月16日 | もののあはれ
 まず、ジパングを見た。
 その前に見ていた、いわゆる「なろう系」アニメ各種で、まあとりあえず満足したかなぁと自分をだましていたが、やっぱり自分をだましきれないなぁと思った。

 ジパングを見ると、なぜか心がぐっとくる。
 日本人だから。
 というのが答えなのだと思う。

 戦国時代にタイムスリップする自衛隊の作品もあるが、やはり、第二次大戦中にタイムスリップするということが、「現代」の日本人にとっては意味のあることだと思う。

 なお、どうでもいいことを最近思ったが、歴史を現代、近代、中世、古代とわけるのは、西欧的ものの考え方で、日本の歴史を同じように分類するのは意味がないと。
 まあ、そういうことは他でも言われているのだろうが、中途半端に歴史を知れば知るほど、日本を中世、古代という枠組みに当てはめるのに違和感が生じる。
 ただ、明治維新頃から第二次大戦終了あたりを近代というのは、特に違和感がない。
 しかし、鎌倉時代や室町時代、あるいは平安時代を中世とか区分するのは、なんだかなと思う。
 それらは、鎌倉時代、室町時代、織豊時代、江戸時代であり、中世という概念とは違うと思う。

 中世とは、今となっては近代にあたる現代が、近代を定め(定めたのか?)、ルネサンスを一つの変革と認めて、それ以前を中世として、以後を近世として、みたいなことではなかったか? 適当な話だから事実とは全く違うかもしれないが、現代につながる、且つ、現代につながらない場としての名称としての中世だと思う。
 その意味で、江戸時代以前は、確かに中世に対応するのかもしれないが、日本の歴史は、時代ごとの区別で考えるのがもっとも受け入れやすく、西欧が西欧の歴史をそういった区分で分別した方法を、無理に取り入れる必要はないのではないか。

 銅でもいい話である。

 ジパングの後に、上杉鷹山を見た。
 どれぐらい昔か覚えていないが、ちらっとだけ見たことがあった。
 ああいうドラマあったなぁ、機会があれば、もう一度見てみたいなぁと思っていたが、見れた。

 2倍速で見ていたので雰囲気を味わうこと半減だったが、当時見たときも思ったが筒井何某は演技が下手なのか、そういう演技が、素人目に下手と思えるのか。
 王様のレストランだったか、まあ、ああいう演技が彼の持ち味なのかもしれないが、そういう記憶が思い出された。

 「なろう系」と上に書いたが、詳しくは違っているのかもしれないが、とりあえず、いわゆる「異世界転生物」をいくつか見た。3つぐらいか? 今期のも(まだ6話ぐらいか)あわせると、もう少しみたかもしれないが、

 基本、最初は面白いが、どんどんおもしろくなくなる。
 まあ、12話までとりあえずモチベーションを保てたら、一応良作。
 ただ、2期をしてしまうと、たぶん、ダメになるのがほとんどだと、思う。

 とはいえ、無職転生(・・・)、リゼロ(は古い作品か)、Lvアップ(正式名忘れた・・)、あたりは続きものでもある程度面白い。逆に盾の勇者は、2期がぎりぎり。3期になるともう二度と見る気はしない・・・(確認のために見直して、いやおもしろいとか言いそうだが)。

 実際どれも似たり寄ったり。
 誰がどの作品に出ていたか、どの作品で誰が出ていたか、ごっちゃになっても別に困らない、気にならない。
 ものすごい消費作品群という感である。

 絵が綺麗、効果が綺麗、話がまとまっている。
 だからといって話の根幹がおもしろいのかといえば、云々かんぬん
 しかし逆に、なんだかんだ、話の根幹部分でおもしろさがあるゆえに、絵が崩れていても、陳腐な演出でもおもしろいと思ってしまう。

 前にも書いたかもしれないが、自分たちが子供のころに、こういうファンタジー作品があればいいなぁと思うものが今、大量に出回っている。
 とくに最近思うのは、おっさんを主人公とするものが増えてきた。
 より、かつて子供のときにこういう作品があればいいなぁと思うような作品を、見た目子供にしても、中身おっさんであるという設定の作品が、もっとも、直接的に、自分たちにHITするような作品がうんぬん
 こういうのを、みもふたもない、ではない、はじもがいぶんもなく、というのであろうが。
 表で表現されてこなかった表現が表でされている感。

 ジパングや上杉鷹山ドラマは、表で表現されるべき作品である。
 二次ではなく一次である。
 だからこそ、より、感銘を受けるのだと、勝手に思っている。

 最後にジパングについて少し。

 米蘭で、主人公が身勝手だ(そういうキャラでないと物語が進まない)というのを見るが、まあ、あまり論理的・効率的作品性を求めてはだめだと思う。こと。
 それと、実際、ああいう状況になったとき、を想像できないコメントを見ると、なんというか、悲しくなる。

 この作品・・・アニメを見て、アメリカの空母が、兵士が死んでいくのを見て、ざまぁ、とか思う日本人がいるのだろうか、どうなのか思うと、複雑な気持ちになる。(そういう感情にならないような配慮がある構成だと思うが)

 2話、ミッドウェイで、日本の艦船が撃沈してくのを見ると涙が出る。
 日本側が負けているからではない。
 史実、多くの日本人の死の上に、今の自分たちがいるのだと思うと、うんぬんかんぬん

 しかしでは、戦国時代に多くの人が死んだ上に、今の自分がいると感激できるだろうか。

 話を戻すが、
 仮に(ジパングのアニメ以後の展開をウィキでしか知らないが)、あの戦争が早期に終わったとして、果たして、日本は今のような姿になっていただろうか。
 負けたからこその今、だと思う。
 原爆を受けたからこその、今だと思う。

 大きな目で見たとき、早期終結した日本は、例えば、その戦後イギリスにとって、フィンランドにとって、南アフリカにとって、いかに見えているだろうか。
 外から見る目ではわからない。
 実際に日本に住んでいる日本人でしか見えない部分として、果たして、この今と、どちらがいいのか。

 80年経てばはるか昔である。
 はるか昔であるならば、今にとって、別段どうでもいいことである。
 どうでもいいのなら、もっと日本が欧米化していても、どうでもいいことである。

 逆に言えば、戦勝国のたとえばイギリスが、戦前と何が変わったか。変わったのだろうが、だからといってイギリスはイギリスである。
 それこそ古代のような、敵部族を殲滅してしまうような争いを思えば、勝っても負けても、近代の、西欧の戦争法を思えば、うんぬん。

 何が言いたいのかわからなくなってきた。
 見直して修正、思考の修正していくのもめんどくさいので、このまま残す。

 いいたいのは、異世界転生系アニメと、ジパングおよび上杉鷹山ドラマの間には、自分にとって大きな差があるということを改めて思ったということである。
 
 

思ったことを少し

2025年02月09日 | もののあはれ
 226(1989作)をやっていたので見た。
 やや、おもしろくなかった。
 知っているのは高橋是清ぐらいか(坂の上で竹中直人だったか)、事件そのもの、歴史背景その他、まったく知らないので、正直、わけがわからなかった。
 見終えてWikiをやや読んだが、そこから理解したのは、陸軍に2派閥あって、その一方が暴発したというところか。輔弼状態のない昭和天皇が反乱軍と判断したところが、大きなポイントであって、映画ではそれについて一切といっていいほど情報がなく、終盤・・・終盤といっても時間的には中ごろであるが、そのころになって、いつの間にか勅令として出されていた。
 映画内では終始情報があいまいで、とくに決起将校は、天皇に意見が届いているのかさえ明瞭としていない状況で、見ていてなんというか、とにかく曖昧で、もやもやしていた。

 昨年末から世間の話題となっているテレビの問題で、そもそもの原因たる大きな芸能情報は、政治問題を隠す手法ではないかと疑っていた。少し前に、(今回の件もあってか復帰の目途のたたない)大型芸人の問題の時に、知人Fから教わった。こういう情報操作の方法論にまったく気づかなかった自分としては、なんというか。
 で、しかし今回政治的なミスが何かあったのだろうかと、何を隠蔽したがっているのか見当もつかない。
 が、大きな視点で、ようは、そもそも全体的に政治の話題に触れてほしくないということではないかと思った。
 いいところがまったくなく、通常国会をさらっと終わらせたい、みたいな。
 知らんけど。

 ともかく、226事件に限れば、根本とする「天皇中心の政治体制」にすること自体、天皇が認めるはずがなかったという結論からすれば、最初から失敗する計画だったということになる。
 なのになぜ、それが成功すると思われたのか。
 事実は知らない。
 しかし、単純に派閥争いの暴発事件と言い切るには、暴発を起こさせたのだとしたら、あまりにも大きな問題を残す暴発である(が、事件後べつにそれによって多大な被害等が出ていないのであれば(自軍同士が戦って犠牲者が多数出た等)、暴発させた側の成功といえるのかもしれない。

 で、しかし、226を見たからだけではここを書かなかった。
 
 先日、読む本がなくなって(悲劇シリーズとanotherの続編を読み終えてしまって)、さてどうするか。
 寝る前になんとなく、自伝的なものなら、読めるかもと思って『余は如何にして基督信徒となりしか』を、前書きとあとがきを読んだ。本編は読んでいない。
 で、思った。
 なんと文章が長いこと。

 ブログに書いたことがあるかどうか、書いた気もするが、20年近く前に思ったのが、現代はきらびやかにしようとしているという思いであり、例として、音楽でのコードについて、単純なコード進行ではなく、そこにセブンスやなんやら付け足して音をきらびやかにして云々。
 まあ、適当な意見であるが、上記の古臭く長い文章を目にして、はて、現代文章はどうなっているのかと思った。
 きらびやかにしたら、装飾したりすると文章はおのずと長くなる。
 しかし、そうではない。
 ラノベとかタイトルは長い名称ではあるが、基本的な文章は逆に短くなっているのではないだろうか。
 おそらくは合理的に効率的に説明がなされて、無駄に何度も同じことを書かない。のか?

 いやしかし、これも結局は適当な意見か。
 と、福翁自伝を取り出すが、一見文字数は多い。その意味で、上記作も、本編自体は同じように、文字数は多いが別段説明が長いわけではないのかもしれない。覚えていないが。

 あと、そうそう、蛇拳も見た。
 見たことあったのだろうか、ちょっと覚えてはいない。
 とてもシンプルだけど、いや、シンプルだからこそおもしろかった。

another2001を読んだ

2025年01月29日 | もののあはれ
 酔っている。
 誤字脱字は勘弁。(酔っていることを理由にはできないとわかっているが、ご容赦を)

 さて、表紙が怖い。
 説明前後するが、存外ホラーなのだと思う。
 夜中ベッドの中で読んでいて、トイレにちょっと言ったら、床から手が出てきて足をつかまれるんじゃないか、窓を見れば、恐ろしい顔がのぞくんではないか、等々、おそろしい妄想が身体を包み込んで、怖い。
 幽霊信じていないのに、ほんとに恐ろしい気持ちになった。

 鬱ではないよ、とは言っておこう。

 なお、これの前に読んだエピソードSでも同じような感覚があったから、anotherはホラー要素が入っていると断言できる。個人的に。

 さて。
 悲劇シリーズはのんびり読んでいた。一気に読みたい、という気がせず、だらだらだらだら。
 が、Zまで読み終えて、Zと同時に買ったタイトル2001を読んだ。あれ、エピソードSはいつ読んだ?
 Zの前かな?

 2001は一気に読んだ。
 次の日仕事の日曜日、ああ、今日もなにもせずぐだぐだ過ごして、しかも前々日金曜日に明日は休みだとあほみたいに酒飲んで、一気に腹壊して、次の日休みの土曜日に、ほんとなら酒飲むのに、これはよくないと思って酒を飲まず。このまま日曜も、次の日仕事だから飲まないほうがいいなと思ったのに、酒を飲んだ。

 そんな状態で、夜中1時ぐらいに読み始めて、4時まで読んでしまった。
 2時間も寝ていない。

 久しぶりだなぁと思う。こんな、一気に読んでしまうのは。
 仮に次の日が休みであったなら(仮に次の日が休みであったならそもそも読まなかったであろうが)、下巻も一気に読んでいただろう。

 エラリーの悲劇シリーズはどれも、一気に読むことはできない。
 しかしanotherは一気に読めた。

 それほど自分にとって、おもしろいと思えるものなんだなぁとしみじみと思った。
 下巻のあとがきだったか、いい年齢になった作者が、中学生主人公の作品を描くのはいかがなものかという自虐もあったが、綾辻作品は、この、10代20代をターゲットにした作風でいいと思う。
 それが本人にも、読む側にも、もっともマッチした・・・

 と個人的に勝手に思う。

 さて。以下はネタバレ含むので、読んでいない人は、シリーズ最初のanotherから読むのを強く進める。
 単体でもここから読んでもいいが、最初の作品、およびスピン作品としてのエピソードSも読んでから、どうか、この作品を読んでもらいたい。
 
 で。改めて以下ネタバレで。
 下巻に入って、キリカさんが云々というところで、ああ、今回は死者が二人いて、しかもそれが双子の妹か、とわかった(上巻からうすうすかんずいていたがここで確信した)。ただ、ここでのキリカが双子の妹ではないかと理解していた。違っていたが(鳴の双子の妹が病院を訪れていたと思っていたが、そうではなく、キリカの妹の、鳴と鳴の双子の妹の母親が、鳴の双子の妹(死者)を見舞いに来ていたというのが事実)。
 で、そうなると、今作の大まかな構造がわかる。
 そもそも、最初の死者は上巻の最初の3年前の犠牲者の人名リストを見ればすぐわかる。超ネタバレである。

 それがわかってなお、この作品をおもしろがらせる要素は何か、と考えながら読んでいたから、下巻のその時点で確定で2人目というのはわかった。
 となると、それを読者にわからせるように書いていた風があるので、だから、そこからはじまる下巻の終わり、話の終わりはいかなる、綾辻的だいどんでんがえしがあるのか!
 現象の終わらせ方も前の作品でわかる。また、一人目死んだ(殺した)時点で、「同じ方法論で話を進めるほど綾辻作品は甘くない」、何か、二人目に関するラストでは、よりおもしろいナニカ。があるに違いない。

 という期待大で読んでいた。
 その意味では、なんらだいどんでんがえしが起こらなかったのでちょっとがっかりした。
 あくまでも、今回は二人目がいて、その二人目が鳴の妹で、だから云々かんぬんの思いがある。みたいな。

 展開としてはがっかりではあるが、別にそれで作品の評価が落ちるものではない。
 逆に、今回の、死者が二人いて、しかも二人目は双子の妹だと、答えを言い当てた自分に、「よくやった」と賛辞を与えて、きもちよく終えたので、それでよし。である。

 おもしろかった。

 さて。
 エピソードSを読んでいないと、主人公の気持ちがわかりにくい。
 で、このあたりを少し踏んでいく。

 エピソードSは、そもそも、面白くなかった、といえるかもしれない。ホラー的、かつミステリーとして誰が犯人なのか、を念頭において読んだとき、左記作品は、読んでいる間、「何が問題なのか?」というのが、まったくわからなかった。

 だから最後に、幽霊的視点が、実は云々というのが、「あっそ」で終わってしまう感想になる。
 そこを重視して読んでいるわけではなかったから、どうでもいい点であった。
 また、死が云々という、そういう観念論が長くて、作品もだれていた。
 そして結論の小学生が云々だとしたら、死に対する観念の議論が、小学生的ではないので、リアリティーが薄いとも思う。
 
 あんま例として出したくないし、話としても覚えていないからあれだが、だからあえて作品名は出さないが、死んだ主人公がその視点で描いた小説があった。
 中身をまったく覚えていないが、作者の年齢もあって、年齢相応の作風だと思った。

 エピソードSは、思考主人公は、小学生としてはありえにくい。早熟なら現実ありえるのかもしれないが、創作ゆえの、フィクションゆえの、リアリティーというものがある。
 知人Fがよく言うが、メジャーのゴローはすごい。アニメだから。しかしそれを実際超える大谷は現実の人間である。あるいは若くして八冠を手に入れた将棋の藤井とか。
 云々。

 ま、こういう死観念に対する自分の意見が、やや厳しいから、というのもあるだろう。
 死観念については卒論でもテーマにしたところだが、自分にとっては、おそらく子供のころからの問題である。逆に死が近くなった年齢になって、そこから逃れるがごとく考えないようになってはきているが、実際そういう話題に触れるとしたら、考え甘いな、みたいな、考察甘いな、みたいな。
 そういう感がしたからエピソードSは、やや、ケチを付けたくなる。

 が、そういう観念をもった主人公として2001の中で行動する彼を思うと。
 不思議な少女(とは言えなくなる年齢ではあるが)鳴を、好きなんだなぁという、でも云々みたいな、ジュブナイル以前の思春期作品としては、「大人になってしまった視点から楽しむ思春期作品」としては、大成功なものだと思う。
 結局、歳をとってしまった我々には思春期の気持ちは、ある意味改ざんされた思い出でしかないのである。

 ん? なんか話がずれてきている気もするな。
 何が言いたかったのか。
 ようは、

 作品中登場人物の年代の人が、この作品をみて何を思うかわからない。
 が、歳をとった自分みたいな年代の人が、この作品を読んで、おもしろい((表現が難しいが)青春時代の)作品であるということができる。

 なので作者は何も負い目に思うことはない。 

 さらに続きものとして考えているということであるが、期待している。

 なお、なんで今更この作品を読んだのかといえば、直前に書いたかな? 書いてないかな?
 エラリークイーンの悲劇シリーズを本屋で買うときに、カウンターがすごく混んでいて、並ぶの嫌だしとうろうろとしていたら、たまたま目に入ったからである。
 たとえばアニメで二期とかあったら、原作を読むことはなかっただろうな、と(小説を読めたという)タイミングに感謝したい。

 やっぱり、小説とアニメは全然違う。
  
 
 

仮面学園 を見た

2025年01月18日 | もののあはれ
 Youtubeでやっていたから見た。
 どこそかで見たとか曖昧な情報ではなく。

 2週間限定とか、ほんとタイミングだなぁと思う。
 前は、CSでそんな出会いを求めていたが、テレビをまったく見なくなって、無駄に契約料を払い続けている。CSやめて別の動画サービス契約したほうがよほど安いと思っているのだが・・・

 ともかく。
 タイミングがあってたまたま見た。
 特段語るべきものもない作品だった。

 じゃあなんでこれを書いた。
 何かを書くためのエネルギーを失いかけている今、それでも何かを書こうという情熱を得たというのであろうか。

 得た。

 栗山千明かわいいな。
 と改めて思った。

 しかし、言い方悪いが、微妙な美人である。
 しばらく見ていると飽きる。
 でも、さらにしばらくして見ると、あぁかわいいなと思う。
 そしてまた飽きて、でもまたかわいい・・・

 Wikiを見る。
 6番目の小夜子 が同年。
 同年バトルロワイヤルは、未だに見ていない。
 2005年 あずみ2
 か。

 2024年に八犬伝が映画あったのか。

 あと、栗山千明で勘違い、記憶違いをしていたが、タイトル出てこない深夜番組を探した。検索ワードは「エロイムエッサイム」だが、「エコエコアザラク」の主役だったのかと思っていたが、全然違った。1997年作で佐伯日菜子という人だった。彼女は「らせん」の貞子役だったとか。

 さて、話を戻そう。
 藤原何某も若い。が、彼に関してはその辺の雰囲気が自分のイメージに残っていて(栗山千明も同じことだが)、逆に現在の姿をあまりイメージできない。見てないし。

 原作宗田理だったから、この映画を見た、というのはある。
 
 さて、話の中身についてだが、
 とっかかりが、ものすごく強引で正直ついていけなかった。
 1.5倍速で見ていたからか?
 強引な後付け説明的な展開で、どんどん仮面の人が増えていく。無理やり感満載で、どうにもこうにも。

 以前書いたような気もするが、こういった「仮面」やら「多重人格」やらが流行っていた時期になるのだろう。この作品を見て、そういう時代性に思いをはせた。
「人はいくつもの仮面を持っている」
 いまさら流行らない感があるし、自分自身として、そんなのどうでもよくね? もしくは当たり前のことすぎる、と、思っている。
 若い人の感性が失われているので、今どき流行らないというのは、単に見飽きた自分だから、論拠にはならないだろう。
 この場合の見飽きたという点では、ゲームのペルソナ1、2の罪罰、あるいは多重人格者サイコあたりが自分にインパクトを与えているので、よほどの中身でない限り、面白いと思わせないからだと思う。

 なお、映画館で見ていたら、迫力があって、体感的におもしろかったのかもしれない。
 しょせん24インチ程度のモニターで見ているから、楽しめなかったのだと思う。
 なので、上述、さほどおもしろくなかった、というのは、パソコン画面で見ている状況、ちょっとお門違いかな、とは思った。
 やっぱ映画は映画館で見るのが一番だろう。
 それを結構、強く思った。

 

Xの悲劇を読んだ

2024年12月13日 | もののあはれ
 この歳になって何をいまさら、という感であるが。

 素直な感想としては、とくにおもしろくなかった。
 名作名作といわれているから、どれだけおもしろいものなのかなぁと期待した分、なんだかなという思いである。

 これについては、事前に「エラリークイーンの冒険」を読んでいたからかもしれない。単純明快なパッと参上スカッと解決みたいな推理物を期待していたから・・・
 (なお、あとがきで知ったが、当作品は別名義、別人として出版されたとのこと。だからエラリークイーンの冒険のような、エラリークイーンが書いた作品を期待して読んだら、当然、「別人」の作風で「違うもの」になってしまうと)

 また、時代背景や、ミステリの歴史、等に詳しくないので、いわゆる、何も知らずにコンコルド広場に行って、ああ、広場だなぁと思って帰るみたいな。わかりにくい喩だな。
 ミステリ作品とは、どこをどのように読めばいいのか、それがわかっていないと、せっかくのおもしろさも読み取れないということである。

 そういった意味で言えば、1932年という時代性が、2024年当時でも違和感なく受け入れられた点が、とても新鮮に思えた。
 ・・・
 いやしかし、一度書いたブログを改めて書きなおしている今、「100年近く昔の作品なのに、まるで去年書かれていても気にならない感覚」は、「良質な翻訳」と「目に見える現実としての映像の存在しない小説であるがゆえ」なのかと思い直した。

 翻訳は難しい。直接的だと違和感ばりばりだし、意訳するにしても、意図がずれてしまうと別作品になる。
 ひと昔前とか、というか思うに大学時代に少しばかり読んだ哲学の本とか、もう、何が言いたいのかわからないぐらいにイミフだった。何かで読んだが、ニーチェだったか誰だったか忘れたが、実際母国語で読めばそれほど難しくないとか云々。

 読みやすい訳になっている。
 もちろん、日本語的ではない変な言い回しや定型文句は気になってしまうが、それは文化の差でしょうがない。
 ともかく、この読みやすい訳が、結局のところ現代的だから、去年出された作品といわれても気にならないのだろう。
 源氏物語を現代語訳すれば、直訳ではなく意訳として読めば、去年出された作品として読めるのではないか? という意味である。

 また、路面電車やアパートや、銀行やらなんやら、そういった背景に違和感がないところに、「むかし」を感じられない。(最初に書いたブログの内容では、こういった生活面で、100年の差がないよね、変わらないよね的なことだけを挙げていた)
 たとえばこれが、馬車を使って移動するとか、凶器が火縄銃とか(笑)。さすがに火縄銃は時代錯誤だが。
(もっとも、別段、1800年ごろのイギリスとかも、言ってしまえば、今とそれほど変わらないよねとなるかもしれないが)

 なお、この度、鳥取駅でもようやく自動改札が導入されることとなった。つまり、鳥取市民の多くは、切符を切るという行為に違和感がない。だからこそか、作中、路面電車が自動改札じゃなくても、べつに「昔」だとは思わない。

 明確に、現代的でないものとしては、科学的捜査ではないところか。
 本人確認が指紋認証のレベルという時代背景は、しかしそれは致し方ないところである。
 ただ、昭和末ぐらいは、科学捜査といっても、そんなあてにできるものだったのかどうか。まあ、そんなもんだから、実感的に、科学的捜査がない点は「すごい昔感」を醸し出さない。21世紀世代だと、「すごい昔感」になるのだろう。ブラウン管テレビとか、はるか古代のしろものみたいな。

 ともかく、読んでいて、90年という数値のインパクトほどは、昔の作品と感じなかった。
 これについて思うところがあったので、今回当作品について・・・作品については何も述べていないか。

 書き直したのもあるが、1時間費やした・・・。
 これに意味があったのか、なかったのか・・・

 さて。Yの悲劇のほうがおもしろいと言われている。早速本屋に行って買ってきたい。
 前回本屋で見たところ、XとYの悲劇が置いてあるのは確認している。一方、エラリークイーンの冒険の他のやつはなかった。アガサクリスティーは結構置いてあったが、それに比べて、こちらは人気が落ちるのかな? とは思った。あるいは作品数が少ないのかな? 知らんけど。

昨今の情勢について

2024年11月30日 | もののあはれ
 ちょっと、久しぶりに日記を書いていたら、なんとなく思うところがあって、ここでも記録しておこうかと思った。
 ゲーム三昧の毎日、ほんと、こんなことをするのは久しぶりだと思った。

 さて。
 今話題の闇バイトおよびその犯罪だが、時代時代、特筆すべきというのか、時代を象徴するような事件はある。
 たとえばねずみ小僧とか。
 手堅くいうなら、むかしの、税(そちょうよう)を都に輸送するに、それを襲う野盗とか。

 他あんま思いつかないが・・・
 そういえば、何か物を送るタイガーマスクみたいな事件とかあったっけ? 自分が生まれる前かな? いや違ったタイガーマスク運動?は2010年ごろのようだ。
 他にはグリコ森永事件があったか。

 ともかく。
 一番最初に思ったのは、なんというか、いやな感じである。
 まあ、鍵をかけない田舎の家に空き巣に入るとかは、別段昔からあったわけだが、なんというか、日本人らしさにつけこんだ悪事という気がする。という言語化に気が付いた。
 まあ、ただ自分がそう思うだけの話である。
 自分の思う日本人らしさが、いったいいつからあるのかはわからないが、ただ、そう思っただけである。

 他に最近の特記事項としては、兵庫県知事選だろう。
 Youtubeとかのコメント等で、SNSのオールドメディアに対する云々とか見るが、なんというか。
 いやいや、知人Fに言わせたら、(SNSが新たな他の選択肢としての)情報源となりえたことが、オールドメディアのみの今までに対してとの違いだということだが、まあ、確かにその通りではあるが、既存のオールドメディアだけであっても、いやそれ違うんじゃね? とそもそも思わなかったのか、といいたくなる。もちろんそう思う人は大勢いて、でも、それ違うんじゃね? に対する別の答えが見えないからもやもやしていたけど、規制されない新たなメディアによって明確な答えがもたらされるから云々。

 オールドメディア云々の話題は、そういった問題なのだろうが、ただ、くだんの知事に関しては、そもそも、ワイドショー見ていても、これ普通に派閥争いみたいなもんでしょと。
 それをどうやらワイドショー等は(なんらかの利権が関係して)煽り立てているなとみればいいだけの話で、云々するオールドメディアが悪い! みたいな闘争心を駆り立てなくてもいいじゃん? みたいな?

 地上波は、休憩時間のワイドショーしか見ないからなんとも言えないが、まあしかし、確かに、どことなくなんらかの方向性というのか、昔以上に、無理やり洗脳させよう感がある気がする。
 しかしだからといってSNS側も、やっぱり発信者の意図があるわけで、ただただ言っていることが気持ちよく聞こえるから、正しいとか馬鹿みたいに連呼するのも、テレビ見て、うんそうだねというのとなんも変わらない話である。

 正しく聞こえるからその意見を信じてしまう。
 どこかの人が、古墳の大きさについて、田んぼつくるために邪魔になった土を集めたから、みたいな話をしていて、まじ目から鱗だった。仁政で知られる仁徳天皇がなんで、人に鞭打って無理やり働かせて大きな墓を作らせたみたいな。火の鳥の最初の方の話でも似たような仕打ちの話があるが。
 論理的整合性を感じて、田んぼを作るために余った土を集めたから、大きな古墳になったのかと。

 しかし実際、真実・事実はわからない。記録がないから。

 さて。
 SNSの意見を見て、それまで見ていたメディアの意見では納得できなかったことが納得できたから「正しい意見だ」というとして、しかし、実際真実・事実はわからない。
 極論になるが、そもそも真実・事実なんてものはない。ただ、出来事があるだけで、それを誰かが整合性を付けて、適当に、「物語」として語っているに過ぎない。そこに真実も事実もない。
 だけど、その「虚構」である「物語」を「正しい」と思い込んで、正しい意見にそっているから、自分の行っている行動は正しいのだと、対立をあおるのは、さていかがなものかと。

 世界情勢がきなくさくなって、数年経って、種が実を結んだかのごとく、一気に、国内が対立するような雰囲気が現象化してきたのではないかと、最近実感できる。
 意図的なベクトルが働いているのだろうと思う。

 しかしだからどうすればいいのかわからない。


 とオチをつけて終わるところだがもうちょっと追記。

 昔の残虐な事件(戦国時代とか)で、「暴力はいけません」とかYoutubeでコメントを見て、ため息を覚える。
 言語化した。

 あなたは大昔の人の行動を、今の価値観で否定しました。
 では、今のあなたは、未来の人から見て、果たして否定されない価値観をもっていると思いますか?

 未来の人の価値観からすれば、今のわたしたちの行動は、否定されるものかもしれません。
 それを思えば、過去の人の行動を見て、ただ表面的な部分だけを見て、全否定するのって、おかしくないですか?

 ま、この問題は、表面的な部分に反応して否定するのはよくないよねという話題だから、未来人からの価値観の否定とはあんま関係ないのかもしれないか。

 とにかく他者を否定するという行動が、どうにも昨今目について嫌になる。
 いいじゃんべつに。
 それこそ多様性に目を向けるべきでしょ。
 差別をしてもいいという多様性は、倫理的によろしくないとしても、他人とは違うという多様性は断然認められていいものだと思うから。