総論ではないので適当に。
適当に。
おもしろい小説を読みたいなと思った。
この本棚のどこにそんなものがあるのだろうか。
京極夏彦は、いわゆる血どばーとかのひとくくりでいうにぐろへの抵抗力がなくなったと自覚してから、とても耐えられないと思っている。
数年前、もうりょうのはこがアニメになったが、一応、見た。
覚えていないが。
しかし、タイトル作品は、たしか殺人なかったよなぁ、それでいておもしろいやつだよなぁと。
思ったわけだ。
記憶どおり、殺人は、まあ、基本的にほとんどない。まったくないわけではないが、まあ、なんというか、範疇内。
で、素直に普通におもしろかった。
ただし、文量が多い。
それがいい、と言う人もいるが、たんにおもしろがる、だけであれば、流し読み・・・というか、おもに京極堂の長話をすっとばせばいいだけである。
さて。
薔薇十字探偵の憂鬱
薔薇十字探偵の鬱憤
薔薇十字探偵の憤慨
題名。
ここで悲しいかな。
「ああ、ハルヒのパクリか」とか一瞬思ってしまった。
苦笑。
当時から15年近くなのか。
いやいや、うぶめの夏を考えるなら、それこそファーストインパクトから20年になるのか。
個人的な出会いは99年ごろなわけだが、だとしても15年近く、という意味で。
あまり覚えていないが、当時、偉大なる先輩が、今で言う婦女子向けでもあるんだよ、とか言っていた。まあ、当時はまだ婦女子をよく理解していなかったので、単なる女オタクかぁ、みたいな認識でしかなかったが、それなりに市民権を得て? 得たのか? 少なくとも、オタク=犯罪者みたいな風潮から(未だに視聴していないのだが)電車男が映画になるような、みたいな意味合いで、婦女子を知った今、振り返って考えるに、ああ、ぞっとする。
まあ、そういった見方はできないので、そういった意味合い以外の部分を、おもしろいと思っているわけだ。
別段言い訳とかじゃなく。
関係ない話ばかりしているな。
朝方、というか、朝。
なんだろう、ギターの動画を見ようと思っていたが、まあ、見ていたが、そこからなぜか将棋・・・の動画も見てしまった。
固有名詞忘れたし再度調べるのもなんだかなぁ、なのだが、NHK杯・・・というか、まあ、将棋や囲碁は基本日曜にテレビ放映されるぐらいが、せいぜいの情報源だろう。一般人にとって。というか、一般人は将棋や囲碁は見ない。
とか、そういう話ではなく。
13年今年時点で8段のなんとかっていう棋士が、去年になるのか? ハゲているがかつらをかぶった当時6段? の、なんというのか、知らない人に簡単に説明するなら、なんだろう、ともかく、自分としては固いイメージのNHKで、勝負に挑む意気込みを語る場所で(そもそもそういった局前のインタビューをするようになっていたのすら知らなかったぐらい、長い間見ていないのだなぁとは思ったが)、なんとも、チャライ雰囲気でバカにしたような発言をした、そのマネをした。
あはは。文章長すぎて意味わかんないね。
とある棋士が、固いイメージのあるNHKでチャライ態度で対局前インタビューに臨んだ。その後、別のとある棋士が彼を真似てインタビューに応えた。それこそ文字通りの意味で、セリフで噛んだところまでも真似た。
(さらにその名言?が他でも使われることになる)
まあ、詳しくはかってにぐぐってくれればいい。
問題は、そういったことを普通に抵抗なく受け入れてしまっている自分にある。
いやいや、もちろん、そういったことを(中略)している世間一般に対する思いでもあるのだが。
タイトル作品だったか、別作品だったか、解説者が京極夏彦の作風についてリアリティの話をしていた。
まあ、「当時」としてはリアリティの問題はとくに考えられたことだとおもう。ただし、この解説者が「いつ」解説していたか、まあ一応記載しておくか。これぐらいならものすごい手間ではないだろう。
文庫版 百鬼夜行 陰 2004年初版 購入物は10版2006年 講談社ノベルスは1999年
たぶん2004年当時になるのか。
また、以前、最近の風潮はまじめなことをちゃかす傾向にある、みたいなことをどこかで書いたと思うが、将棋の件は、そういった具体例だと思った。
まあ、今回は思い付きを記録しておく程度なので、真面目に考えないが。
おおむかし、土俵に女が上がるのは云々で、どっかのお偉いさんになった女のひとが云々という話があったと思う。大昔だ。今以上に、世の中に関心のなかったころの話だ。
土俵の問題は、まあ、たしかに、今で言う女性蔑視の雰囲気の中で生じたことなのだろうが、伝統という意味でとるなら、伝統を破るという、なんというのか。
なんというのか。
別に伝統とか、確固たる形のあるものではなく、それこそ日本が滅んでしまえば、どうでもいい話とも言える。少々極端だが。
さて、ほかの話題はともかく、何が京極と繋がるのか。
つまり、さきほどハルヒとか出したが、タイトル作品は、今でも十分に通用するというのか、普通に最近作られた作品だといわれても違和感がまったくない。せいぜい文量が多いのが問題ぐらいなもので。
当時、99年当時、になるが、まあ99年に自分は読んでいない。上述からすれば、2006年が最初なのだろう。
なお、うぶめの夏については、タイトル作品から印象をうけてこうやって長々と思うところを書き散らすような、いわゆる、現代的なおもしろさは感じていない、と思う。
ただ、99年当時、タイトル作品のような、今読んでも、ふつうに今風と思うような作品が作られていたのか、と思うと、なんだろう。
なんだろう。
うまくいえないので、あえて悪口を言う。
定義知らないが、つまるところ「日常系」だよな、これ(京極夏彦の作品全般ではなく、あくまでもタイトル作品に限る)って。
(同日追記。現実を茶化すという意味合いで言うなら、自分が子供のころは、そういったことがいわゆるタブー的であったと思っている。もちろんタブーを犯す人はいた。たとえば「俺たちひょうきん族」とか。そういった意味合いで、だ。が、しかし、それらはあくまでも「タブー」だという意識があった、のではないだろうか、という意味において、現代的にはこの「タブー感」がない、という風潮である、と。
ま、適当な意見かもしれないが)
適当に。
おもしろい小説を読みたいなと思った。
この本棚のどこにそんなものがあるのだろうか。
京極夏彦は、いわゆる血どばーとかのひとくくりでいうにぐろへの抵抗力がなくなったと自覚してから、とても耐えられないと思っている。
数年前、もうりょうのはこがアニメになったが、一応、見た。
覚えていないが。
しかし、タイトル作品は、たしか殺人なかったよなぁ、それでいておもしろいやつだよなぁと。
思ったわけだ。
記憶どおり、殺人は、まあ、基本的にほとんどない。まったくないわけではないが、まあ、なんというか、範疇内。
で、素直に普通におもしろかった。
ただし、文量が多い。
それがいい、と言う人もいるが、たんにおもしろがる、だけであれば、流し読み・・・というか、おもに京極堂の長話をすっとばせばいいだけである。
さて。
薔薇十字探偵の憂鬱
薔薇十字探偵の鬱憤
薔薇十字探偵の憤慨
題名。
ここで悲しいかな。
「ああ、ハルヒのパクリか」とか一瞬思ってしまった。
苦笑。
当時から15年近くなのか。
いやいや、うぶめの夏を考えるなら、それこそファーストインパクトから20年になるのか。
個人的な出会いは99年ごろなわけだが、だとしても15年近く、という意味で。
あまり覚えていないが、当時、偉大なる先輩が、今で言う婦女子向けでもあるんだよ、とか言っていた。まあ、当時はまだ婦女子をよく理解していなかったので、単なる女オタクかぁ、みたいな認識でしかなかったが、それなりに市民権を得て? 得たのか? 少なくとも、オタク=犯罪者みたいな風潮から(未だに視聴していないのだが)電車男が映画になるような、みたいな意味合いで、婦女子を知った今、振り返って考えるに、ああ、ぞっとする。
まあ、そういった見方はできないので、そういった意味合い以外の部分を、おもしろいと思っているわけだ。
別段言い訳とかじゃなく。
関係ない話ばかりしているな。
朝方、というか、朝。
なんだろう、ギターの動画を見ようと思っていたが、まあ、見ていたが、そこからなぜか将棋・・・の動画も見てしまった。
固有名詞忘れたし再度調べるのもなんだかなぁ、なのだが、NHK杯・・・というか、まあ、将棋や囲碁は基本日曜にテレビ放映されるぐらいが、せいぜいの情報源だろう。一般人にとって。というか、一般人は将棋や囲碁は見ない。
とか、そういう話ではなく。
13年今年時点で8段のなんとかっていう棋士が、去年になるのか? ハゲているがかつらをかぶった当時6段? の、なんというのか、知らない人に簡単に説明するなら、なんだろう、ともかく、自分としては固いイメージのNHKで、勝負に挑む意気込みを語る場所で(そもそもそういった局前のインタビューをするようになっていたのすら知らなかったぐらい、長い間見ていないのだなぁとは思ったが)、なんとも、チャライ雰囲気でバカにしたような発言をした、そのマネをした。
あはは。文章長すぎて意味わかんないね。
とある棋士が、固いイメージのあるNHKでチャライ態度で対局前インタビューに臨んだ。その後、別のとある棋士が彼を真似てインタビューに応えた。それこそ文字通りの意味で、セリフで噛んだところまでも真似た。
(さらにその名言?が他でも使われることになる)
まあ、詳しくはかってにぐぐってくれればいい。
問題は、そういったことを普通に抵抗なく受け入れてしまっている自分にある。
いやいや、もちろん、そういったことを(中略)している世間一般に対する思いでもあるのだが。
タイトル作品だったか、別作品だったか、解説者が京極夏彦の作風についてリアリティの話をしていた。
まあ、「当時」としてはリアリティの問題はとくに考えられたことだとおもう。ただし、この解説者が「いつ」解説していたか、まあ一応記載しておくか。これぐらいならものすごい手間ではないだろう。
文庫版 百鬼夜行 陰 2004年初版 購入物は10版2006年 講談社ノベルスは1999年
たぶん2004年当時になるのか。
また、以前、最近の風潮はまじめなことをちゃかす傾向にある、みたいなことをどこかで書いたと思うが、将棋の件は、そういった具体例だと思った。
まあ、今回は思い付きを記録しておく程度なので、真面目に考えないが。
おおむかし、土俵に女が上がるのは云々で、どっかのお偉いさんになった女のひとが云々という話があったと思う。大昔だ。今以上に、世の中に関心のなかったころの話だ。
土俵の問題は、まあ、たしかに、今で言う女性蔑視の雰囲気の中で生じたことなのだろうが、伝統という意味でとるなら、伝統を破るという、なんというのか。
なんというのか。
別に伝統とか、確固たる形のあるものではなく、それこそ日本が滅んでしまえば、どうでもいい話とも言える。少々極端だが。
さて、ほかの話題はともかく、何が京極と繋がるのか。
つまり、さきほどハルヒとか出したが、タイトル作品は、今でも十分に通用するというのか、普通に最近作られた作品だといわれても違和感がまったくない。せいぜい文量が多いのが問題ぐらいなもので。
当時、99年当時、になるが、まあ99年に自分は読んでいない。上述からすれば、2006年が最初なのだろう。
なお、うぶめの夏については、タイトル作品から印象をうけてこうやって長々と思うところを書き散らすような、いわゆる、現代的なおもしろさは感じていない、と思う。
ただ、99年当時、タイトル作品のような、今読んでも、ふつうに今風と思うような作品が作られていたのか、と思うと、なんだろう。
なんだろう。
うまくいえないので、あえて悪口を言う。
定義知らないが、つまるところ「日常系」だよな、これ(京極夏彦の作品全般ではなく、あくまでもタイトル作品に限る)って。
(同日追記。現実を茶化すという意味合いで言うなら、自分が子供のころは、そういったことがいわゆるタブー的であったと思っている。もちろんタブーを犯す人はいた。たとえば「俺たちひょうきん族」とか。そういった意味合いで、だ。が、しかし、それらはあくまでも「タブー」だという意識があった、のではないだろうか、という意味において、現代的にはこの「タブー感」がない、という風潮である、と。
ま、適当な意見かもしれないが)