ことの次第 / ヴィム・ヴェンダース
121 min. Netherlands | UK | West Germany | France | Spain | Portugal | USA
Der Stand der Dinge (1982)
Directed by Wim Wenders. Written by Robert Kramer, Wim Wenders, Joshua Wallace. Cinematography by Henri Alekan, Fred Murphy, Martin Schaefer. Music by Jim Jarmusch and Juergen Knieper. Performed by Patrick Bauchau (Friedrich Munro, Director), Roger Corman (The Lawyer), Allen Garfield (Gordon, Producer), Samuel Fuller (Joe, Cameraman), Robert Kramer (Camera Operator), Isabelle Weingarten (Anna). Ref 1. The first scene is based on Roger Corman's "Day the World Ended" (1955). Ref. 2. The photo below: Bauchau and Samuel Fuller on his right.
http://www.actingoutpolitics.com/wim-wenders-the-state-of-things-1982/
ヴェンダースは優れた才能の持ち主だけれど、いくらなんでもこれは無理。というよりこの作品にヴェネチアで金獅子賞を出した審査員たちの姿勢に問題があると思う。おそらくは不作の年で、それなら映画制作の苦労話に一票入れようという結論になったのかもしれない。さぞみんな悲惨な状況を体験しているのだろう。これも実話に近いらしいし、低予算映画のプロデュースで知られるロジャー・コーマンがわざわざ弁護士役で登場していたりと、業界内の切実な訴えが山盛りであることは想像がつく。
でも、みなさんが評価するのは同情を誘う困窮の度合いじゃないでしょう。作品の質でしょっ。せめて第一席は空位にして第二席を二本選ぶといった職業的理性は保ってほしかった。どの領域でも資金繰りのトラブルは起こるでしょう? 社員が放り出されたり、やくざが取立てにきたりするでしょう? それをどう表現すれば訴求力のある映画になったのでしょうか。芸術作品にも社会的告発にも娯楽映画にもなってないわよ、これ。結末はまるでゴダールのコピーじゃない。
前半は「明確な物語展開を排除していてすごいでしょ、これぞデコンストラクションムーヴィーよっ」とこじつけるしかなさそうなできばえで、モノクロの擬古主義の映像にはノスタルジックな魅力が多少あったかもしれないけれど、人生と芸術を語る台詞は浅すぎてあくびが出ます。もちろんゴダールだってトリュフォーだってフェリーニだって、うろうろとリンボーをさまよった彷徨記念作品をどっさり残していて、あれはあれでもう仕方がないのよ、という一本がありますね? この作品もそれです。つまり、なにもこれを選ばなくても、ということになる。そっと埋めて忘れるほうが親切なこの迷子記録にくらべたら『パリ、テキサス』なんて天国だわ。
審査員長は誰かって? マルセル・カルネ。ほかに誰が入っているかって? タルコフスキー。まったく、巨匠のみなさん優しすぎます。タルコフスキー自身、このころ制作費の工面をはじめ経済的にとても苦しんでいた。それを思うと泣きたくなる。
……でも、それはそれ。
物語の最後まで断固記しておきます:画面はチープなSF風の映像とひどい音楽で始まる(音楽担当にはジム・ジャームッシュが入っている)。案の定、SF映画の撮影現場だとわかる(かつてロジャー・コーマン自身が手がけた滅亡系SFがもと。以下、作品外情報は排除)。ところが、このさきの制作費用の調達ができていなくて、もはやフィルムさえないと現場で告げられる。プロデューサーは撮影済の部分をもって雲隠れしてしまった。ポルトガルのロケ地で漫然と待機するしかなくなったクルーと俳優たちの姿が、漫然と映しつづけられる。後半、監督はハリウッドでプロデューサーを探しまわる。プロデューサーはお金の問題でやくざに追われて逃げているとわかってくる。ようやく会えたあと、潜伏して走り回るヴァンのなかで二人は夜どおし人生と芸術を語り合う。朝になり、別れようとする二人は車を降りたところで、ずどんと撃たれてしまう。映画を愛する監督は死んでもカメラを放しませんでした。おしまい。
と、さんざんなことを書いたけれど(ちょっと反省してきた)、ヴェンダースの最高到達点を否定するものではありません。まだこの作家の作品をご覧になったことのないかたは『ベルリン 天使の詩』をぜひどうぞ。胸をうつ名作です――というわけで、モームの至言を掲げておきます。
「作家は、その最良の作品をもって評価される権利がある」
メモリータグ■ヴァンの中で、一人は歌を歌い、一人は語りつづける。このポリローグの手法は好きです。
ゼロ・グラビティ / アルフォンソ・キュアロン
1h 31min. UK | USA
Gravity (2013)
Directed by Alfonso Cuaron. Written by Alfonso Cuaron and Jonas Cuaron. Cinematography by Emmanuel Lubezki. Film Editing by Alfonso Cuaron and Mark Sanger. Music by Steven Price. Production Design by Andy Nicholson. Art Direction by Mark Scruton. Performed by Sandra Bullock (Ryan Stone), George Clooney (Matt Kowalski), Ed Harris (voice of Mission Control). Budget: $100,000,000 (estimated).
http://www.imdb.com/title/tt1454468/mediaviewer/rm2320489984
致命的な大事故に一人で対応する不器用な研究者、という細部の表現がほぼすべてで、見ているほうもへとへとになる臨場感が出ていました。
再突入操作をシミュレーターで何度やっても墜落だったというペーパーパイロットの主人公が、コクピットで紙のマニュアルをつぎつぎにひっぱり出して読みながら、母船からの切り離しだの、ひっかかったパラシュートの離脱だのを一つずつけんめいに処理していく。ステーションから帰還用のソユーズに乗り移っても燃料がほとんど残っていない。しかたなく逆噴射の動力と慣性を利用して別のステーションへの移動をこころみる。もうノイラートの宇宙船です。
生還をめざすこのクルーを、サンドラ・ブロックが抑えた表現で演じ切って、優れた成果をあげていた。知的だが現場には不向き、というよくみる研究者の人間像がきちんと浮かんでくる。
この脚本では、ある種のミニマリズムが興味深い。アメリカ映画にはめずらしく地球を救ったりしないし、主人公は幼い娘を亡くして以来、家族もいない。「わたしは生還する」という最小限の目標に絞り込んだことが、潔い自立感につながった。わたしのことを誰も待っていないかもしれない。でも生きて帰る。そう決めたから。
そうした特長からは「伝統的な主題のマイナーアップグレード」の系列に区分することができる。西部劇、宇宙飛行士、マフィアにスパイに地球危機。しっかり手法が蓄積されて型が成立している領域で、その型を少しずつ変形して新鮮さを出す。うまくいけば新しい観客にも映画通にもアピールする。
ここでも映像と考証が公開前から話題になっていたとおり、映像技術と音響効果を中心に7部門の国内賞を得た。2014年米国アカデミー監督賞・撮影賞・編集賞・音響編集賞(Sound Editing)・録音賞(Sound Mixing)・音楽賞。この音楽はむしろサウンド表現というか、ノイズミュージックというか、音響と一体化した音だったと思う。めずらしい受賞例かもしれない。テクノロジーの事故にまつわる遭難・生還という主題はまだ発掘できそうですね。
すこしこまかく設定をメモします。上空600キロの近宇宙にいるスペースシャトルに、人工衛星の破片類が衝突してきてシャトルは全損してしまう。クルーは国際宇宙ステーションISSに退避するが、そちらも被害を受けている。一人だけ生き残ったクルーはあいにく実験担当の科学者で、操縦は専門外だった。これが主人公で、「ほぼ素人」であることが、脚本の要になっている。ほとんどパニックの連続なわけです。ミッション・インポシブルのトム・クルーズみたいにならない。
設定のリアリティーという点では、事故の発端になった破片はロシアのものだし、避難をめざす先はご近所にある中国チームのステーションだったりして、近宇宙の「世間の狭さ」も興味深かった。最後は消火器の泡の出力を利用して空間を移動し、ようやくたどりついた内部は無人。パネルの計器類が中国語で、読めなくて困るというのはほんとかなあ。なんとか脱出ポッドで大気圏に入る。切り離した破片が流星になって降りそそぐ終盤の映像は『君の名は。』を思い出しました(すばらしかったですね、あのクライマックス)。
もとの配役候補はナタリー・ポートマンだったそう。これはまちがいなくブロックでよかったと思う。彼女をサポートする機長役も初期の候補が降板して、結果的にジョージ・クルーニーが演じた。この人が宇宙飛行士というのは文字どおりのゼロ・グラビティで、ちょっと話がおもちゃになりかかったものの、誰でも大差はありません。主役がほとんど一人で奮闘する物語です。
共同脚本をふくめた監督はアルフォンソ・キュアロン。『大いなる遺産』『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』などを撮ってきている。脚本の細部にはややわかりにくいところが残る。でも細部の描写を徹底して積み重ねていけば映像のおもしろさはまちがいない設定で、着実だった。飛行士の視界に立ったアングルを多用して、重心のない宇宙空間の恐怖と孤立感を表現している。生還をあきらめかけ、そこを決意しなおしてやり抜くという意志の物語じたい、普遍的で強い主題だろう。「生還物語」は興行上も手堅いものだと、ヴェンダースは『ことの次第』で映像制作者に語らせていた。
メモリータグ■ハッチが開いているときは音がしない。そうか、空気がないのね。閉まると空気が満ちて音が戻る。
アノマリサ / チャーリー・カウフマン、デューク・ジョンソン
1h 30min | USA
Anomalisa (2015)
Directed by Duke Johnson, Charlie Kaufman. Written by Charlie Kaufman. Cinematography by Joe Passarelli. Film Editing by Garret Elkins. Production Design by John Joyce, Huy Vu. Art Direction by John Joyce. Costume Design by Susan Donym. Music by Carter Burwell. Voice: David Thewlis (Michael Stone), Jennifer Jason Leigh (Lisa Hesselman), Tom Noonan (Everyone else). Budget:$8,000,000 (estimated).
http://www.imdb.com/title/tt2401878/mediaviewer/rm1954406656
なんと、ストップモーションの長編パペットアニメです。最初はパペット風にサーフィス処理をした3DCGだと思って見始めた。でも見ているうちに、これはパペットを使いながら、モーションキャプチャーなどのトレースデータとあわせてCG合成かしら、などと思い始めた。さらに見ていくうち、まさか全部パペットということはないわよね、とぞっとし始めた。見終わって、すぐさまネットで制作データを探した。妙にあわてていたと思う。まさかまさか。うわーっ。そのまさかでした。全編ストップモーション、つまり手作業だという。気が遠くなった。短編ならともかく、90分あるのに?
たとえばお人形を完全に配置して、ライティングを調整して、カメラワークを決めて、テストをして、静止画を1枚撮影。これで1コマ。ほんのちょっとお人形の手を動かして、また1枚。ちょっと動かして、また1枚。えんえんとくり返したあと、つなげて再生するとお人形がすーっと動いてみえる。24枚か30枚で1秒として、150枚撮って、はい5秒できました。
狂気の沙汰だわ、このひとたち。
と、これはもちろん賛辞です(あきれてるけど)。ほんとうをいうと、その制作手法がわたしはとても好きです。ときにはすべてを掌握しうるミクロコスモスであり得る。メーキングの映像で監督のデューク・ジョンソンも話していた。パペットの制作法は完璧すぎて非常にクリーンに仕上がってしまいます。そのため、リアルな動作音を入れるなどむしろノイズを演出するように配慮しました。
Duke Johnson. http://www.imdb.com/name/nm2122478/mediaviewer/rm494788864
この作品については、まず、その特殊な作業を考慮してからでなければ評価することができない。そしてその演出水準の異様な高さを認めなければならない。お人形といっても、幼稚さや素朴さとはほど遠い、リアリズムのアニメーションなのです。いっぽうで、それをしてまで言いたい主題がこれなの!? と頭を抱えたくなる、その虚無的な内面性。こんな話、嫌いという声を山のようにみたけれど、そういわれることを百も承知で踏み切ったであろうその意志と知性と、パペットを使ったアプローチの必然性はどうしても否定できない。たしかにこの作品は、実写ではつまらなかったと思います。「アートとは表現である」? はい。
人形という装置は表現における限定性を作り出す。生身の身体にそなわる豊かで複雑なノイズをなぎはらって、特定の属性だけを削り残す。その表象性の歪みを利用して、ある本質を鋭く引き出すことを作り手はもくろむのであって、それはまさにカリカチュアの定義と重なる。だからこそ怖い。
というわけで、陳腐な成功者の破綻しかけた姿を描く一夜の話に、「お人形を使ったリアリズム」という倒錯的な手法がぞっとするような効果をあげていた。プライドの高い中年男性が神経質にいらだつ瞬間や、酔ってかすかに乱れた手つきでワインを注ぐ動作を人形がやっていく。恋人の歌声にうっとりと聴き入る表情がアップになる。す、すごい。でも、まちがいなく人形なのです。迫真でありながら、その迫真さがある矮小性のうちに押し込められて、冷ややかな批評性に固まっていく。もういや、という、たまらない技術的到達例でした。
ほとんどSMじみたこの空気を、では具体的にどうご紹介したらいいか。しいて区分するならダークコメディです。たとえばサンダーバードの青年像を20年後の平凡な余生に移して、何をしても虚しい人間嫌いの中年の姿をまずご想像ください。名前はマイケル。腹部には贅肉がつき、家族関係はよそよそしさと欺瞞に満ちている。マイケルにとって外界の人間は、誰もが同じ顔をして、誰もが同じ声で話しかけてくる(実際に一人の声優が演じている)。おそらく彼は、いたるところに自分の影をみているのだ。たった一人だけ違う声で話す女性――リサ――にめぐり合ってマイケルは一夜を過ごし、深い感動のうちに結婚を決意する。ところがその瞬間から、今度はリサのすべてが気にさわり始める。彼女のテーブルマナーが粗野に思え、その発言は支配的に響き始める。快かったリサの声に他者の単一的な声が重ねられていく演出は興味深かった。
このとき彼女の上にもマイケルの内界が投影され始め、彼自身の影にリサがおおわれていく。リサは自尊心が低く、シャイで謙虚ですなおな女性として設定されていて、マイケル自身の意識のかまえとはちょうど対蹠にある。リサはマイケルの無意識がもとめていた補償性の象徴なのだろう。彼の無意識は自分の意識を強く否定していて、もはや調整がつかないのだ――と、解釈するほうもあやしげな臨床者じみてくる。こんな分析心理学の夢読解みたいな主題を「芸として見せる」ものに仕立てるためには、刃物のように表現技法を研ぎ上げる必要があったと思うのです。
ひとつ細部の例を挙げると、登場人物はなぜか全員が眼鏡をかけている。リアリズムの頂点をなすベッドシーンで男女の人形が全裸になっても、眼鏡だけははずしていない。人は誰もが「自分の眼鏡を通してしか世界をみることはできない」という示唆なのかもしれない。あるいは全員が、眼鏡をかけているマイケル自身のドッペルであると解釈することもできる。人は他者の中に自分を見ているにすぎない? ううむ、この意地悪さはすごいわ。でもそれが真実ですって? おお。多くの結婚はその真実に耐え得ないと指摘していたのはユングでしたかしら、フロイトでしたかしら、ほほほ(←脚本の毒が身に回りつつある)。というわけで、見ているこちらまで超自我の否定性に引きずられそうになる作品世界なのでありました。やーん。でも制作技術すごい。
脚本に肯定的な面がないわけではない。タイトルのアノマリサ Anomalisa は、「特異なるリサ anomal Lisa」という賞賛の造語としてマイケルが口にする。リサはそのマイケルに棄てられたあとも優しい手紙をしたためて、アノマリサ Anomarisa という日本の天の女神がいるとマイケルに告げる。
アノマリサ。もちろんそれは不正確な日本語かもしれない。現実の日本の文化史上にはそのような神も天女も存在せず、自分の見たいものしか見ない人間の眼鏡で歪められた知識にすぎないのかもしれない。しょせん、わたしたちの見る「世界」は大なり小なりそのような思いこみでしかないのだろう。けれどその歪みを透過する心からの善意のうちに、現実よりも強い真実が成就する瞬間はある。そのとき、アノマリサはリサの中に存在し得る。そのようなかけがえのない何者かとして彼女を信じることができれば、ある瞬間に、現れたかもしれないのだ。ペーパームーンのようなこの淡い祝福が最後に示唆されていることはうれしかった――あくまで、こちらがそう解釈すれば、なのですが(汗)。
この天女のモチーフは、日本の芸者を模した猥雑なアダルトグッズというモチーフとも優れた対をなしていた。キッチュな機械じかけの芸者も、すこしばかり変な日本語で、けれど独自の声で歌を歌うのです。快い歌声を聞かせてくれたリサをあっさりと棄てたマイケルに残されたのは、この機械じかけの歌声のほうだった。
わたしの解釈は擁護しすぎだろうか? この作品の脚本家は、たんなる不注意や日本文化への無知のために女神の名前をまちがえただけかもしれない。芸者の歌のあやしさも、製作現場で判断できなかっただけかもしれない。でも、そうではないほうに50円。これほどマニアックに神経質な作品で、全編を綴じるかなめのモチーフについて調べ、考え抜くことをしなかったはずはないと思うのです。
さて、この脚本は誰でしょう。チャーリー・カウフマン! と当てた方はそうとうな直観の持ち主かもしれない。『マルコヴィッチの穴』や『エターナル・サンシャイン』の作者で、人間の内面をひときわ技巧的なスタイルで可視化する、特異な才能を発揮してきた。
撮影を指揮したデューク・ジョンソンは、視覚的な絶対記憶の持ち主のようにも思える。30センチほどの小さなお人形に、ここまで精密な「演技」をつけて、心理を表現してみせた洞察力はまことに非凡だった。2015年ヴェネチ映画祭審査員大賞。これは金獅子賞(『彼方から』)につぐ第二席です。審査員長は『ゼロ・グラビティ』の監督のアルフォンソ・キュアロンだった。
ヴェネチアで評価されてよかった。『アノマリサ』は2016年の米国アカデミー賞で長編アニメーション部門にノミネートされたものの、受賞したのは『インサイド・ヘッド』のほうだった。興行成績も赤字だったらしい(それは十分うなずける)。アプローチの独創性とスタッフの挑戦を考えるなら、撮影賞や視覚効果賞など、なにかで励ましたいと感じる作品です――アニメーションという芸術に対する、心からの敬意をこめて。
メモリータグ■この“パペットリアリズム”の技術的側面について、忘れないうちにすこしメモしておきます。メーキングの映像によると、やはりもっとも難しかったのはベッドシーンだったという。7分ほどの場面だと思うけれど、撮影準備を始めたのが3月、実際に撮影に入れたのは7月。全体で半年かかっている。この場面で二体の人形は恥じらったり決意したり助け合ったりしながら、すこしずつ服を脱ぎ、ベッドカバーをめくり、性的行為に入っていく。人形二体の動きは複雑なので、あらかじめ俳優を招いて実写の動画を撮影し、参考にしたという。
ここは本質的にワンショットとしての演出方針がとられた。カメラを固定するので撮影対象の配置にはすべて厳密な一貫性がもとめられることになる。ところが二体の軽い人形が接しているため、一つの人形の一箇所を動かすと、もう一方の人形も、周囲の道具類も、いっしょに動いてずれてしまう。ひっきりなしに再調整をくり返し、ときにはひとコマ撮るのに二時間から三時間かかったという。
そもそもこれだけ自然な可動性と固定性の両機能を満たすパペットを、どうやって作ったのかと思いながらわたしも見ていた。骨格素材は関節だけで曲がる金属の骨組みを使い、シリコンの上にゼリー状の素材を重ねて腹部の贅肉を表現したうえで、人形同士が体を重ねるショットではその柔らかい腹が平たくつぶれて見えるように、腹部をくり抜いた人形にさしかえているという。
彩色をみても、服を脱いだマイケルの両脚はかすかに日に焼けていた。夏にはフロリダあたりのビーチに行って過ごしたのだろうと、そこまで思わせる仕上がりだった。ただしこの人形たちは重量があまりない。ベッドに乗ってもベッドが沈まない。自然に沈み込んでみえるよう、ベッドを下からわずかに引いたという。
姿勢の固定はワイヤーやリグ(金属の索具)でおこない、影が落ちないように工夫したうえで、どうしても必要だったいくつかのリグはあとからCGで消した。やっぱり。
人形の衣装は、布を制御するためにシャツの内側にワイヤーが入っている。上着を脱いでシャツだけになる瞬間はこのワイヤーが透けてしまう。これはシャツのストライプ柄にそってワイヤーを入れることで解決し、シャツを脱ぐ場面では逆に外側にワイヤーを入れたシャツを使った。そのように、ひとつの動作の途中でしばしば何度も衣服をさしかえながら撮影されているそうです。
執念。
さよなら、人類 / ロイ・アンダーソン
101 min. Sweden | Germany | Norway | France | Denmark
En duva satt pa en gren och funderade pa tillvaron (2014)
aka. A Pigeon Sat on a Branch Reflecting on Existence
Written and directed by Roy Andersson (1943-), Cinematography by Istvan Borbas, Gergely Palos. Film Editing by Alexandra Strauss. Performed by Nils Westblom (Sam), Holger Andersson (Jonathan), Per Bergqvist (Charlotta Larsson). Viktor Gyllenberg (Karl XII).
https://klymkiwfilmcorner.blogspot.jp/2015/06/a-pigeon-sat-on-branch-reflecting-on.html
スウェーデンのナンセンス系コメディーです。いかにも薄暗く、ものがなしい。ぼんやりと湿った奇怪なやりとりが、みじかい挿話の連作として紡がれていく。監督のロイ・アンダーソンが脚本から手がけていて、スウェーデンでは有名な喜劇映像作家だという。
最後近く、内側に人びとを閉じ込めて外から火を放たれる、巨大な金属の回転ドラムの幻想場面が深く心に残った。静かでおそろしいその光景のなかで、どこまでも無為の捧げものとして人間たちが燃やされていく。わたしたちはただ消尽されていくのかもしれない。まどろむようにゆっくりと回転をつづけるドラムからは、遠い音楽がかすかに響いてくる。その音色を聞いていると、阿鼻叫喚の死の絶叫が天国の響きに変わっていく瞬間のように思えてくるのだ。
作品の原題は「枝にとまる鳩 実存の投影」といった意味だそう。ブリューゲルの『雪の中の狩人』からヒントを得たとアンダーソンは語っている*。樹上の鳥たちが人間を眺めたら、いったいなにをしているのかと思うだろう。そういうイメージだという。たしかに明晰な言語による相互理解としてのロゴスからは遠いやりとりがつづく。二十世紀なかばの不条理劇につうじる作風だと思います。
*Wikipedia English/A Pigeon Sat on a Branch Reflecting on Existence
逸話は39編。どの場面も色褪せた、時代遅れの舞台劇のように仕立てられている。場末の芝居小屋にいるようなその色調が、いつともしれないみじめさの永遠性を刻んでいる。社会からも歴史からもひっそりと退場していく敗者の光景ばかりがくり返されていることに、やがて気づく。えがかれる誰もが、有用性の座から滑り落ちている。彼らはどこにも行き着かないまま、その磨耗の光景だけが無限に反復されていくのだろう。
制作期間は4年、専用スタジオにセットを組んで撮影されたと告知されていた。すべてが実写ということではなくて、CGや合成が併用されていると思う。物語にはいくつかの流れが組み合わされているものの、通して一度に見るよりも、一日一話ずつ放映される寸劇のように接していくほうが、なじめる作風かもしれない。疲れた夜中に一人で見たりすると、登場人物たちの孤独が暗がりの中からしのびよってくる。その共感をとおして一日の終わりの寂しい笑いが得られる――というのは悲観的にすぎますね。ひそかにあたたかい瞬間も、じつはすべりこんでいる。それが貴重な鍵になる。
たとえば18世紀風の国王軍が市街地を出兵していくシーケンスがある。配役リストによるとスウェーデンのカール十二世らしい。けれど舞台はなぜか20世紀風の平板なカフェで、近衛兵たちは店内にいる女性に支配的にふるまう。ほどなく敗残兵として戻ってきた彼らはみじめなありさまで、おとなしくなっている。ぼろぼろの近衛兵たちは、それでも国王に献身的に仕える。トイレに行きたいという意向を王が示すと、一人の斥候がトイレを下見にいく。戻ってきて、陛下、誰かが使っております、と報告する。国王はじっとカフェのトイレの順番を待つ。いい場面だった。
これは笑える喜劇だろうか? 上映時間101分のうち、二度か三度は声を上げて笑ったけれど、それも哀れなおかしみで、灰色に閉ざされたままの「北方喜劇」が静かにつづいていく。もちろん声を上げる笑いだけが笑いではないし、そもそも喜劇は相性が大きいと思う。たとえばわたしはチャップリンをまったく楽しめない。キートンには爆笑する。ウッディ・アレンでいちばん笑った作品は『カイロの紫のばら』。変かな? でもいかにも通ぶった『バードマン、あるいは』などより、この作品のほうがずっと好きです。2014年ヴェネチア映画祭金獅子賞。うん、なかなかの選択だわ。
メモリータグ■あとから資料をみると『バードマン、あるいは』もこの年に出品されていたらしい。審査員長はアレクサンドル・デスプラ。フランスの作曲家で『グランド・ブダペスト・ホテル』など多くの映画音楽を手がけてきている。銀獅子賞(審査員大賞)はジョシュア・オッペンハイマーの『ルック・オブ・サイレンス』だった**。(ヴェネチアの第二席はわかりにくいので、出典を記しておきます。)
** Jan. 13, 2018. "71st Venice International Film Festival"
https://en.wikipedia.org/wiki/71st_Venice_International_Film_Festival
彼女と彼女の猫 -Everything Flows- / 坂本一也
約30分 (2016)
監督:坂本一也。脚本:永川成基。原作:新海誠。動画監督:田村太陽。キャラクターデザイン・総作画監督:海島千本。色彩設計:岩田祐子。撮影監督:高橋昭裕。美術監督:田中孝典。声:浅沼晋太郎(猫)、花澤香菜(彼女)、矢作紗友里(友人)、平松晶子(母)
(参考:彼女と彼女の猫 / 新海誠:4分46秒 (1999)。制作・監督:新海誠。音楽:天門。声:チョビ(新海誠)、彼女(篠原美香)。第12回CGアニメコンテストグランプリ)
https://www.seriesmp4.com/
『彼女と彼女の猫』は、1999年に新海誠さんが個人制作した短編版がよく知られていると思う。寡黙な表現をつうじて、日々の時間が淡々と創作の世界に濾過されていく。その静謐なスタイルはおそらく誰の目にも新鮮で、テクノロジーの時代に成立した「新しい文学」と呼びたいアニメーション作品になっていた。モノトーンのなかに封じられた玲瓏な光の変化は、この繊細な作家の出発点にふさわしかった。
今回見たカラーアニメーションの連作長編『彼女と彼女の猫 Everything Flows』は、そこから17年のちに発表された別の作品で、もとはテレビ用のシリーズだという。監督をはじめスタッフには新しく人びとが配されて、自立した物語をなしながら短編版の時空と接続されていく。脚本に優れ、原点の魂を受け継ぐゆるやかで簡素な流れが快かった。ただ、主題歌の歌唱スタイルだけは苦痛だった。幼稚さと純粋さを混同してしまったのかもしれない。
ともあれ冒頭、黒い猫がひとりで草むらにいる。その光景が映ってすぐに、あ、これは猫の国だと思った。そして呼吸が浅くなった。この物語のなかで、いずれ喪失を味わうことになると思ったからだ。正直、すこし怖くなった。
「猫の国」とここでいうのは、わたし自身のささやかなヘテロトピアにすぎないのだけれど、そこはのどかな原っぱで、この世の生を終えた猫たちがのんびりと散歩をしたり、うたた寝をしている。季節は永遠に春で、猫じゃらしの穂が揺れ、ひらひらと蝶が飛んでいく。すこし離れた森の中では澄んだ水が湧いている。
冒頭の場面に、そうした景色がくわしく描かれていたわけではない。あくまでわたしの印象だった。あるいはあやしげな直観だった。とはいえ、こんなにくっきりとあの国を見る人がいるものだろうか? でもそれはやはり当たっていた。
そうしたわけで、そのあとの展開はご紹介せずにおく。けれど冒頭、黒猫はそこで彼女を探していた。「ぼくが彼女を探すのは、彼女がぼくを探しているからだ」と語りながら。
ふつう、猫の国では誰かを探したりはあまりしない。苦しさも寂しさも、懐かしい匂いも、すべてがもう遠いからだ。猫たちは長い旅を終えてきたのだ。それなのにそんなことを言う黒猫の示唆は完璧で、その一言でいろいろなことが、もう、ぱっとわかってしまった。みごとなものだ。
でも、もちろん全てがわかるわけではない。ひとつだけお知らせしておくと、失った相手の場所が自分の中で空いたままになっている人に、この作品はきっと小さな慰めをあたえてくれる。だからご覧になって大丈夫です。
とはいえ、わたしの望みはいまもずっと、いつか猫の国でおやつ係になることなのだけど。だから棺には上等のおやつを入れてくれたらうれしいと思うのです。
メモリータグ■黒猫は白猫になる。
海は燃えている イタリア最南端の小さな島 / ジャンフランコ・ロージ
1h 54min. Italy | France
Fuocoammare (2016) aka. Fire at Sea
Written and directed by Gianfranco Rosi. Idea by Carla Cattani. Cinematography by Gianfranco Rosi. Film Editing by Jacopo Quadri. Digital Composite by Luca Bellano. Performed by Giuseppe Fragapane, Samuele Pucillo, Pietro Bartolo, Maria Costa. Award: Berlinale 2016 Golden Bear. President of Jury: Meryl Streep (USA).
http://spindlemagazine.com/2016/10/documentary-film-fire-sea/
ランペドゥーサ島は、イタリア本州南端から200キロの距離にある。この地中海のちいさな島がいま欧州の入り口と化して、中東やアフリカからの巨大なエクソダスの流れを迎えつづけている。6000人あまりの住民よりも、難民の総数のほうが遥かに多い。
作品はドキュメンタリーとして制作されている。説明もナレーションもない。だがそれは演出を含まないということではない。どうやってここまで壮麗に自然界をとらえたのだろうと思わず目をこらす映像がつづく。透明な夕暮れ、救難信号が響く夜、逆光の海中、淡い青から濃紺まであらゆる青が世界を彩る。撮影は監督のジャンフランコ・ロージ自身が手がけ、デジタル合成にスタッフが配されていた。主題も映像も強い。島に住むひとつの家族と少年の平穏な日常を織りこみながら、いっぽうでおびただしい移民・難民がつぎつぎと船で着岸する非常事態が記録されていく。どちらも現実なのだ。でもなんという現実だろう。
目的地を前に、多くの船が遭難していく。転覆しかけている難民船との交信が響く。船からの怯えきった叫び声がマイクごしに届き、救助隊員がけんめいに問い返す。いまどこです、いま位置はどこなんです。ようやくたどりついたある船の船室が映される。何十人もの人びとが折り重なって倒れている。誰も動かない。死んでいるのだ。
渡航に際して、船の上部で甲板に出られる席には高い料金がもとめられるのだという。あがなうことのできなかった人びとは蒸れきった船底にぎっしりと詰めこまれ、脱水症状などで死に至った。カメラは無言でその場にたたずみ、遺体で埋まった床をゆっくりと映していく。この光景が、未来永劫忘れられることのないように。
島では救助隊、医師、支援者が手を差し伸べつづけるものの、かろうじて生きて上陸した人びとも、こののちの生の厳しさは想像をこえる。そして海も空も、これほどまでに美しいのだ。2016年ベルリン映画祭金熊賞。
メモリータグ■木の枝で作ったパチンコで小鳥を撃ち落としたがる12歳の少年は、ライフルを撃つまねも大好きらしい。母親の姿はない。彼はなぜこれほど「撃ち殺す」遊びが好きなのだろう? でも多くの少年はそういうものだったかもしれない。スマートフォンなど持たないぶん、その孤独な時間は幸福にみえる。いずれは家族のなりわいに加わって、彼も漁に出ていく日が来るのだろう。自分が育った島の果てしない美しさに、いつか気づくことがあるだろうか。
ディーパンの闘い / ジャック・オーディアール aka. オディアール
1h 55min | France
Dheepan (2015)
Directed by Jacques Audiard, 1952-. Written by Jacques Audiard, Thomas Bidegain, Noe Debre. Cinematography by Eponine Momenceau. Film Editing by Juliette Welfling. Music by Nicolas Jaar. Performed by Jesuthasan Antonythasan (Dheepan), Kalieaswari Srinivasan (Yalini), Claudine Vinasithamby (Illayaal), Vincent Rottiers (Brahim).
http://www.imdb.com/title/tt4082068/mediaviewer/rm4129027840
オーディアールが念願の最高賞を得た作品。記者会見で、今年はハネケの出品がなくてうれしいと語ったというから、その自己認識はもはやユーモアの域に達していたかもしれない。2015年カンヌ映画祭パルムドール。審査員長はジョエル・コーエン、イーサン・コーエン、審査員グランプリはネメシュ・ラースローの『サウルの息子』だった。
わたしだって、ひやりと血の冷たそうなハネケの作風を好きなわけではない。でもアプローチの本質的な難しさ、精緻な集中力など、技巧で順位をつけられた場合は不運な太刀打ちになる面がある。あえてたとえるなら、ワウリンカ対全盛期のフェデラーという感じに少し似ているかもしれない。「どうしても勝てない」のだ。(違いをいうなら、ワウリンカは天才だし、大選手です。たぶんフェデラーより人間的だというにすぎない。さらにいうならハネケが不世出の大作家というわけでもない)。
さいわい、映像制作はスポーツではない。熱いオーディアールはオーディアールのまま、今回は社会的な主題を正面からぶつけてきた。いま「社会問題枠」の作品は受賞しやすい傾向がたしかにある。ストライクゾーンです。とはいえそのような作品はおびただしくあるのだから、構成をふくめて水準が高いこと、いくつか切り札が必要になることはいうまでもない。
主題はEU社会の底辺を侵蝕している荒廃をえがき、それをみつめる難民の視点を組み合わせて二重にしている。主人公ディーパンはスリランカ人の男性で、祖国では内戦に参戦していた。死者のパスポートを使って偽装家族を構成し、夫婦と娘として3人でフランスに逃れてくる。管理人の職をえてパリ郊外の集合住宅に住み込んだものの、そこは麻薬販売人の巣で、不穏な状況に巻きこまれていく。
ところどころに幻想性をはさんで、この作家の文体が残されていた。ここを棄てなくてよかった。 フィクショナルで身体性の濃い語り方が向いているのだと思う。
ディーパンが売人たちの抗争現場に割って入って「妻」を救出しようとするクライマックスは、あやうくハリウッド風のリベンジバトルになりかかっていた(こ、ここでジャック・バウアー!?)。ぶれかかるその危うさもオーディアールだったように思う。直木賞候補4回、ついに受賞、というおもむきの人間的なパルムドールでした。このあとは華やかな娯楽作品を手がけてもいいかもしれない。
メモリータグ■フランスで若者の失業率はいまも22パーセント*にのぼり、改善されていない。イタリアの35.7パーセントよりは少ないけれど、イギリスの11.8パーセントの倍近い。隣国のドイツは6.6パーセントにとどまっている。
*数値はいずれも "EUROPE: Youth Unemployment", The Spectator Index, 8:10 PM, 16 Dec 2017.
バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡) / アレハンドロ・G・イニャリトゥ
119 min USA
Birdman or (The Unexpected Virtue of Ignorance) (2014)
Directed by Alejandro G. Inarritu (with accents. 1963-, Mexico). Written by Alejandro G. Inarritu, Nicolas Giacobone, Alexander Dinelaris, Armando Bo. Cinematography by Emmanuel Lubezki. Film Editing by Douglas Crise, Stephen Mirrione, Vibhas Joshi. Music by Antonio Sanchez. Performed by Michael Keaton (Riggan), Emma Stone (Sam), Edward Norton (Mike), Naomi Watts (Lesley).
http://www.shockya.com/news/2014/08/28/birdman-or-the-unexpected-virtue-of-ignorance-movie-review/
芝居づくりの舞台裏を主題にした皮肉な作品で、いかにもニューヨークの批評家筋が好みそうな、暗くひねった台詞が多い。断続的なドラムの響きが、不満の渦巻く創作現場のノイズを表現している。楽屋から舞台まで人物の背中ごしにくねくねと小劇場の空間をたどるワンカット主義のカメラワークは、臨場感があってよかった。
4人がかりの脚本はちょっと技巧の手つきが見えすぎる。あの賞とあの賞を狙い撃ちね、と思ってデータを確認すると、当たりすぎて笑いも出なかった。よかれあしかれ東海岸を感じさせるトーンです(そこにはアメリカの文化を辛辣に批評してアメリカの文化人を喜ばせるという自家中毒的な芸がふくまれる)。気どった副題はかえって安っぽかったのでは。
イニャリトゥは『バベル』(2006)でカンヌの監督賞を得るなど着々と実績を重ねてきた映像作家で、今回の作品で2015年の米国アカデミー作品賞・監督賞・脚本賞、そしてもちろん撮影賞を得た。シーンの途中でカットを割らないため、全員の演技の質が揃うまで場面ごとの撮影が完了せずたいへんだったというけれど、いわば最初から基礎点の高いアプローチで、やりがいのあるゲームだったろう。
タイトルのバードマンは、バットマンの風刺になっている。かつてハリウッドで娯楽映画のシリーズ『バードマン』に主演したのち、いまでは落ち目になった中年の男性俳優リーガンが主人公で、実際に1989年の『バットマン』に主演したマイケル・キートンをあてるという毒のしたたる配役を実現している。脇にナオミ・ワッツ、エドワード・ノートンなどが入っていた。
ハリウッドで忘れられた主人公リーガンはブロードウェイの舞台制作、兼主演に挑戦して「演劇人」に転向しようとこころみている。演目もレイモンド・カーヴァーの脚色という通好みの路線なのだけれど、初日をまえに彼の力量はいささか微妙で、東海岸ニューヨークのアート界からみた西海岸ハリウッドに対する、ある種の階層的偏見とともに見くだされ翻弄されていく。これが物語の主筋になる。「バードマンのままなのか、それとも」というのがタイトルだろう。Birdman or.
齟齬の多い家族関係が副流をなし、リーガンは娘から激烈な本音をぶつけられる。パパは『バードマン3』で終わったし、いまどきネットで存在しない人間は存在しないのと同じ。SNSのアカウントもないなんて、パパは存在してない。
結末はそこそこの調和にまとめられ、脚本チームはコメディに区分しうる後味を優先したらしい。絶望した主人公リーガンは初日の舞台上でピストル自殺を試み、それが偶然「スーパーリアリズム」という賞賛を得ることになって物語は終わる。(上演がロングランになった場合、毎晩ピストルで自分の頭を撃つわけにはいかないとは思うものの)。
冒頭で主人公は超能力の持ち主のように演出されている。空を飛んだり思念で物質を破壊したりする描写が出てくる。ただし、じつは本人の補償的空想にすぎないことは途中でそれとない楔(くさび)を入れて示唆がされている。バードマンのように空を飛んで劇場に帰ってきた場面のあとで、タクシーの運転手が、金を払えと押しかけてきます。
主人公が楽屋口からふと外に出たら扉が閉まって締め出されてしまい、衣装なしの下着一枚で客席から舞台に登場していく場面はセカンドクライマックスをなしていておもしろかった。もちろんホントのスーパーマンなら別の解決法があったに違いない。
メモリータグ■少年時代、レイモンド・カーヴァーから賞賛の走り書きをもらって役者になることを決めたと主人公は語る。走り書きをみた相手はこたえる。これはペーパーナプキンに書いてあるだろう。カーヴァーは酔ってたんだよ。
スポットライト 世紀のスクープ / トム・マッカーシー
128 min USA
Spotlight (2015)
Directed by Tom McCarthy. Written by Josh Singer and Tom McCarthy. Cinematography by Masanobu Takayanagi. Film Editing by Tom McArdle. Performed by Mark Ruffalo (Mike Rezendes), Michael Keaton (Walter 'Robby' Robinson), Rachel McAdams (Sacha Pfeiffer), Liev Schreiber (Marty Baron), John Slattery (Ben Bradlee Jr.), Brian d'Arcy James (Matt Carroll), Stanley Tucci (Mitchell Garabedian)
https://www.parentalguide.org/movies/spotlight/
巨悪を暴くジャーナリストという、とてもアメリカ映画らしい主題を、とてもアメリカ映画らしくない地味な手順でこつこつと語っていく。その気まじめさが、かえって古き良き時代の「新聞」の文体を思い起こさせるものになっていた。アメリカでも多くの映画人の尊敬を集めたらしい。2015年米アカデミー作品賞・脚本賞。その賞賛にはどこか伝統的な紙媒体へのノスタルジーも漂うけれど、「歴史の事実を広く伝え、残しておく手段としてのフィクション映像」という存在意義は達成されていた。
実話のトーンをたいせつにした演出上、話が本格的に動き出すまではこちらも地道に待つことになる。映像はテレビのように説明的できっちりしている。このままで大丈夫かしらと心配になりはじめるころ、被害者たちが画面のなかで苦悩を語り出す。そのあたりから臨場感が増していった。人の顔がもつ力は大きい。やはり取材は生身の相手と会わないとだめですね。
子供に性虐待をくり返す司祭たちの行動がカトリック教会によって大規模に隠蔽されている。この実態をボストングローブ紙の取材チームが調べ上げ、裏づけをとって発表するまでが筋になっている。2002年1月に第一報が出た連続記事で、確かにわたしでも記憶があるほど世界的に有名なスクープだった。チームは一年間にわたって計600本近い続報でこのテーマを伝えつづけ、249人の司祭が摘発されるに至ったという。脚本は、紆余曲折する細部をけんめいに台詞に織り込んでいた。
興味深いのは、この事件がそれまでも言われてきた問題だったことである。ただし散発的で小さな扱いで「個人の資質」という観点にとどまっていたらしい。それを一つにとらえなおしたことでさらに視界が開けていく。疑いのある司祭が13人もいると指摘されて取材チームはまず驚くが、全司祭の6パーセントに児童性虐待傾向があるという衝撃的な見積もりを臨床家から告げられることになる。精神病理学的な現象とみるべきものだというのだ。ボストンには1500人の司祭がいるため、6パーセントは90人にあたる。最終的に裏づけが取れたのは近似値の87人だった。虐待者の司祭たちは内内の示談で正式な起訴を免れては異動していた。
この物語が教える、優れた報道の鍵は三つあると思う。第一は視点。人が見過ごしてきた一見ばらばらのできごとに、意味があると考えて大きく主題をつかむ力がある。この問題発見能力はジャーナリズム、学問、フィクションなど多くの仕事につうじる鍵なのかもしれない。グローブでは新任の局長がこの才能をもっていた。
第二は調査。これは熱意と知性と人格がもたらす機動性、いいかえれば課題遂行能力ということになる。作中ではチーム4人がかりで実行されていた。
第三に編集。調べた膨大な事実のどこに本質があるのかという、社会的センスをふくんだ見識がある。だからほんとうの意味での「編集」です。この方向づけは指導層の力量が問われる。"editor" が「編集長」をさすことには妥当性があるのだ。このボストンの上司は、おびただしい性虐待の告発で報道を終えるのではなく、ヴァチカンをふくめたカトリック教会というシステムの犯罪として展開するべきだと導く。教会はもちろん圧力をかけてくるのだけれど、どうやらベンチは有能だったようです。
それでもなお、あやうく魚を逃がしかける瞬間があるとはいえ、つい最近までこんな取材が成立していたことが信じられない。21世紀の大新聞は、ネットの発言を後追いしつづけてみるみる凋落していくような危機を感じさせる。ときには文章までSNSそのままの水準にしかみえなかったり……。存在理由を放棄しているのでは、とためらいを口にすることはかんたんだけれど、なにもかも速すぎるという苦しさもありそうです。優れた報道ってなんでしょう?
メモリータグ■取材が大詰めになった2001年初秋に911が勃発する。掲載は年明けまで見送られた。
雪の轍 / ヌリ・ビルゲ・ジェイラン
3h 16min. Turkey | Germany | France
Kis Uykusu (2014) aka. Winter Sleep
Directed by Nuri Bilge Ceylan (1959-). Written by Ebru Ceylan (his wife) and Nuri Bilge Ceylan. Inspired from short stories by Anton Chekhov. Cinematography by Gökhan Tiryaki. Film Editing by Nuri Bilge Ceylan and Bora Göksingöl. Art Direction by Gamze Kus. Performed by Haluk Bilginer (Aydin). Melisa Sözen (Nihal). Demet Akbag (Necla).
http://www.tasteofcinema.com/
カッパドキアに降る雪は美しい。巨大な奇岩をくり抜いた洞穴住居が点在する村落には、世界各地から観光客が訪れる小さなホテルがしつらえられている。そこが物語の舞台になる。戸外を映す映像はときに詩的で、深みを帯びた自然光が冷えびえと映えていた。撮影はギョクハン・ティリヤキ。
脚本はもうすこし練りこめたようにみえる。これは監督のヌリ・ビルゲ・ジェイランが妻と2人で取り組んでいる。編集は甘い。もっともっと厳しく削ぎ落として核心だけを残したほうが濃縮された。データをみるとジェイラン自身が編集に入っている。一流の編集者に委ねて、立ち入りを自粛するべきだった。3時間以上にわたって、家族の自己欺瞞と傲慢と、他者への不信と互いの軋みをえがきつづけて、最後にいきなり調和的心境に至ってしまうことが惜しい。とくに結論まで台詞に頼ったことが失敗を招いた。最も深いメッセージは映像に委ねるしかないのだ。原案がチェーホフであることは言いわけにはならない。
あらゆる台詞はその底に記号を響かせるための、水の流れに似ている。水面を透かして川底の「意味」がいつもみえている。だから優れた作品の中で、声は二重三重に聞こえてくる。ときに重なり、ふたたび乖離するいくつもの声が、最後の場面でついに一つになったとき、はるかな到達感が漂う――か、それとも底が抜けてしまうか、その差は大きすぎて言葉にならない。
底が抜けた結果として、手前におかれた猟の場面も無意味になっている。無意味というより、記号が逆方向にみえる。なぜここで野うさぎを撃ち殺す必要があったのかが理解できない。銃で撃たれた瀕死のうさぎが、まだかすかに息をしている苦痛をアップでとらえる意図も理解できない。主人公の思いつきから野生馬を捕獲させた場面だけで、内心の驕りを伝える表現は十分だったはずである。馬は必死に逃げて冬の河でずぶ濡れになり、残酷に縄で首を絞められて座り込み、動けないほど弱って苦しんでいた。痩せた馬の体から湯気が立つあのカットが演出であるとは思えない。実際に馬に縄をかけて追いつめ、首を絞めて拘束するプロセスを撮ったのだろう。嫌悪がわく。その馬を主人公は放す(状況の変化、心境の変化の表現)。それならそこを結末にもってくればいいのに、謙虚になったはずのところでまたうさぎを撃ち殺すから話が戻ってしまう。
それやこれやで3時間16分。見終わってめずらしく疲労感のほうがまさった。あなたはベルイマンでもアンゲロプロスでもない。この程度のメッセージならせいぜい2時間に収めることができたろう、と突き放した思いが残るのだ。
ただ、くり返すけれど風景はいい。おかげで作品は2014年のカンヌでパルムドールを受けている。履歴をみるかぎりジェイランはカンヌが育ててきた作家の一人で、そろそろパルムドールを出したいタイミングでもあったことはわかる。ただ、この授賞はそうとう議論があったはずである。審査員長はジェーン・カンピオン。ほかにソフィア・コッポラなどがパネルに入っている。夫が妻に対して謙虚な思いに至るという物語の帰結を、フェミニズムの観点からみて加点したとはとらえないでおく。
このトルコの作家の作品がレンタルですぐ手に入るようになったのは、最高賞の効果といえる。彼の作品は『昔々、アナトリアで』(2011)をふくめて、かなり目にしにくかった。入手できなければ評価さえできない。その意味でも、カンヌやベルリンが非欧州圏の作家を育てるために配慮をつづけていることは尊重している。
メモリータグ■自称文筆家で元無名役者のはんぱなホテルオーナーは、最後に宿願の「トルコ演劇史」を執筆し始める。
わたしは、ダニエル・ブレイク / ケン・ローチ
1h 40min UK | France | Belgium
I, Daniel Blake (2016)
Directed by Ken Loach. Screenplay by Paul Laverty. Cinematography by Robbie Ryan. Film Editing by Jonathan Morris. Delivered by BBC Films. Performed by Dave Johns (Daniel Blake). Hayley Squires (Katie). Briana Shann (Daisy). Dylan McKiernan (Dylan).
http://www.kinenote.com/main/public/cinema/
2017年のノーベル文学賞選考委員は、EU離脱に揺れる英国から移民文学を選んだ。強烈なメッセージだった。排他主義に対する文化的警告の矢は、鋭く的を射た響きを世界に伝えていた――とはいえ視点を変えれば、知識層に属する優れた作家はごく例外的な、恵まれた“移民”でもある。この映画はその英国で、高等教育を受ける機会をもたなかった労働者層が今どれほど尊厳を踏みにじられ、疎外された状況にあるかを告げている。
圧倒的な表現があった。シングルマザーのケイティはフードバンクにいく。ふつうの若い母親にみえる。ふつうの身なりをして、ふつうに話している。けれど缶詰の棚の前で、彼女は衝動的にトマトの水煮缶をあけ、中身をあおり食べしてしまう。驚くスタッフと友人の前で、彼女は激しく取り乱して泣き崩れる。ごめんなさい、ごめんなさい、ずっと何も食べていなくて、飢えていて、思わず。自分がこんなことをしてしまうなんて。
工業先進国の飢餓は見えない。この映像はそれを見えるものにしている。ケン・ローチの作品だということをわたしはすっかり忘れて観始めて、観終わってから思い出して自分にあきれた。そう、まさにローチの声だったから。なにしろこのために引退を撤回したのだそう。反骨の老監督、決意の帰還です。ローチと長年仕事をしてきたポール・ラヴァティが今回も脚本を手がけ、コンパクトにまとめていた。ノーベル賞委員の観点とはほぼ対蹠にある角度から、けれど共通の視野をもって、まっすぐな告発がなされている。
派手な展開や、こった映像はない。ノンフィクションを思わせる日常的な描写が淡々とつづいていくうちに、やがて観客は寒気のする恐怖におそわれることになる。ふつうの人が、じわじわと生活の基盤を失っていく。立つ場所さえなくなる。そのねじれた風景の「ふつうさ」に、声のないまま叫びそうになる。
腕のいい大工だったダニエル・ブレイクは心臓病で、医師から就労を禁じられる。当然保障があるはずなのに、そこから役所の手続きという迷路に放り込まれる。そこにはインターネットという障壁もある。使えない人はおおぜいいるのだ。無理矛盾が雪のように降りつもる条件をすべて満たさなければ最小限の免除や支援も得られないという制度は、つまりできるだけ多くの人びとを門前払いするために組み上げられたものらしいことがみえてくる。
いつのまに英国はここまできていたのだろう? では日本は? ひとごとではない。こうした状況の中から移民に対する呪詛と排除の声が生まれてくるのだとすれば、その危険を育てているのは民ではない。国なのだ。2016年カンヌ映画祭パルムドール。『麦の穂をゆらす風』(2006)から十年後、ローチには二度目の受賞になった。
メモリータグ■ダニエル・ブレイクは役所の壁に抗議を書きつける。周囲から拍手が湧き起こる。警官が呼ばれ、彼は逮捕される。
白日焔火 / ディアオ・イーナン
中国・香港 | 1h 50 min by Imdb (106 min by Kinenote)
薄氷の殺人 aka. Black Coal, Thin Ice. (2014)
Written and Directed by Yi'nan Diao:ディアオ・イーナン. Cinematography by Jingsong Dong:ドン・ジンソン. Film Editing by Hongyu Yang. Performed by Fan Liao:リャオ・ファン:廖凡(Zhang Zili). Lun-Mei Kwei:グイ・ルンメイ(Wu Zhizhen).
https://criticsroundup.com/film/black-coal-thin-ice/
粗削りな意欲作、だった。構成の破綻などはもはや度外視するとして、叙情性と無謀さをかねそなえた個性は伝わる。脚本は監督のディアオ・イーナン自身による。1969年に中国で生まれた映像作家で、これが三作目にあたる。2014年のベルリン映画祭はこの作品になんと金熊賞を与えたけれど、もう一、二作待ってもよかったのではと思う反面、待てば次第に完成度が上がっていくというタイプの創り手ではないだろうとも感じる。叙情性でトップに立つには映像がいまひとつ平凡で、破壊力をぶつけるにはパク・チャヌクの『オールド・ボーイ』などのほうがつき抜けていたのは確かなのだけれど、この作家にはむしろ黒い笑いを積極的にめざしてほしい。ところどころに芽はあった。
刑事を演じたリャオ・ファンがあわせて主演男優賞を得ている(主演女優賞は『小さいおうち』の黒木華さんだった)。この年のベルリンの審査員長はジェームズ・シェイマス James Schamus で、ながくアン・リーと仕事をしてきた中国通、アジア通の映画人だった。ほかにトニー・レオンが審査員に入っている。アジアシフトの構えだったかもしれない
中国各地の石炭工場で、死体の断片がばらばらにみつかって物語が始まる。容疑者が射殺されて解決したようにみえるものの、五年後にふたたび類似の事件が起こる。クリーニング店で働く一人の女性の周囲で人が死んでいることがわかり、刑事の任を解かれて荒れていた男性主人公ジャンは、すこしずつ彼女に接近していく。
この主人公は女性に対する粗暴な支配性がめだつ設定で、なかなか感情移入はしにくい。最初はこのキャストが、犯人役の俳優と見分けにくくてとまどった。字幕で追うしかない本編のわかりにくさもあったかもしれない。
観終えたあとでデータを読んでいて、『白日焔火』(白昼の花火)という原題に気づいて息をのんだ。なんだ、最後のクライマックスを作っていた決定的なモチーフ、「昼の花火」がそのままタイトルだったのだ。ストレートなこの情報がもっと前面に出ていれば、すこしは違ったと思う。それじたいをひとつの問いとして、画面の上に投影しつづけることができたろう。
ここで昼の花火はおそらく「場違い」を示唆している。主人公は場違いだらけの人間なのだ。刑事から降格されたのに捜査に鼻をつっこむ場違い。それなのに重要参考人の女性をくどいてしまう場違い。さらにその女性を逮捕させておきながら、手向けの花火を(真昼に)降らせるという場違い。それがこの作品の叙情性の核です。真剣に力を注ぐのに、いつも場違い、筋違いでしかない不器用な男――まるで昼の花火。この言語的理解については東アジア通の審査員の顔ぶれが幸いしたことだろう。
英訳題 Black Coal, Thin Ice も決してよくはないけれど、「薄氷の殺人」という平凡な邦題をわざわざ考案して、結果的に「昼の花火」という肝心かなめの象徴性を捨ててしまった日本語版の公開方針は、ちょっともったいないというか――昼の花火――だったかもしれません。
メモリータグ■殺人がおこなわれたアパートの現場検証の場面。知らずに部屋に住んでいた若い夫婦があっけにとられている。ユーモアのある、いいカットだった。むしろこういう方向に適性を感じる。
ブレードランナー 2049 / ドゥニ・ヴィルヌーヴ
164 min USA | UK | Hungary | Canada
Blade Runner 2049 (2017)
Directed by Denis Villeneuve, CA, 1967 - . Screenplay by Hampton Fancher and Michael Green based on Philip K. Dick. Cinematography by Roger Deakins. Production Design by Dennis Gassner. Set Decoration by Alessandra Querzola. Supervising Art Direction by Paul Inglis. Film Editing by Joe Walker. Music by Benjamin Wallfisch and Hans Zimmer. Performed by Ryan Gosling, CA ('K'). Ana de Armas (Joi). Sylvia Hoeks (Luv). Harrison Ford (Rick Deckard). Carla Juri (Dr. Ana Stelline).
Estimated budget: $150,000,000: 約171億円。
http://www.imdb.com/title/tt1856101/mediaviewer/rm3733530112
壮大な映像表現がすばらしい。装置も演出もライティングもCGも、現存する最高のデザイナーたちが総力を結集した印象だった。『ブレードランナー』に憧憬を抱かない映像制作者に会ったことはない。伝説の記念碑の「子供」を創造してみせるという強烈な気迫のもとに、全編が圧倒的なオマージュとして成立していた。
科学技術文明論という観点からは、ごく正攻法の主題が提示される。かつてリラダンの描いたアンドロイドの隷属性はチャペックをへて転覆され、新しい種としてのAIの可能性が語られつづけて久しい。ここでもその問いが軸をなす。
生きる者の尊厳とは何か。生命の平等とは何か。えがかれるAIの孤独は、虐げられ搾取される貧しい労働者の孤独でもある。性がn個であるように、おそらくは種もその存在論的な本質においてはn個であって、たがいの間に上下はない。けれどわたしたちが人間以外の種に向けるまなざしは、いまだに構造主義以前というしかない幼稚な偏見に満ちている。そしてその偏見はつまるところ同種の他者にもふり向けられる。制度のなかの「部品」として標準動作性を点検されつづける主人公の根源的な無名性は、この構造がもたらす多重の疎外を示唆している。訴えられているのは未熟で暴力的な社会的生物としてのわたしたち自身なのだろう。その問題に批判的にふれようとした脚本の志は評価したい。
終盤にかけてかなり大股になっていく思想性と論理的整合性にかかわる傷のいくつかは、惜しくはあるが大きなものではない。調整しうる範囲にみえる。むしろ解消されていないのは古典的な性の格差のほうだったかもしれない。くり返し示される性的な肢体も女性のものばかりだった。
それでも映像美術にこもる果てしないエネルギーが、なおすべての価値を支えている。画面の奥から、創り手たちの静かな確信の声が響いていた。 "You've never seen a miracle. Here it is."
メモリータグ■それにしてもあのヒロイン。大きな瞳に垂れ目のメークアップは日本のアニメそのままで、ほとんど衝撃的だった。これまでのアメリカ映画になかった造形では。
・・・そして観終わって数日がたったあと、心のいちばん底に残っているのは、最も貧しい労働者の深い寂しさだった。あの姿に、いつのまにか自分が同期している。彼の誠実さは、それでも無ではないのだと、静かに思えてくるのだ。
「いま、わたしにはできた。わたしがいなくなったあとのつぐみの歌も、すべて喜ぶことが」 ブレヒト
ミルク / セミフ・カプランオール
トルコ
Süt (2008)
Written and directed by Semih Kaplanoglu (born in 1963, Turkey). Cinematography by Özgür Eken. Film Editing by François Quiqueré. Art Direction and Production Design by Naz Erayda. Performed by Melih Selcuk (Yusuf), Tülin Özen(Köylü Kizi), Saadet Aksoy (Semra). 脚本・監督:セミフ・カプランオール 撮影:オズグル・エケン 美術:ナズ・エライダ
ユスフ三部作の中では、これが最も平易な語り口を持っている。凝縮度は第三作『蜂蜜』が最高だったかもしれない。第一作『卵』も、傷はあっても相当なものがあった。あえてそれらと比べると、この第二作の映像や編集は素直というか、やや説明的――という評価は厳しすぎるかしら、観客に集中力をもとめる寡黙な作風に変わりはない。撮影、美術は今回も同じスタッフが担当している。『卵』で重要な役割を演じたサーデット・アクソイが、ワンシーンだけ登場している。
作品の発表順ではつぎのようになる。
『卵』2007年
『ミルク』2008年
『蜂蜜』2010年
主人公ユスフの人生の時系列でいえば、幼少期『蜂蜜』、青年期『ミルク』、壮年期『卵』。
ほかの二作と同じように、この『ミルク』でも、冒頭でカメラを完全に固定した長回しをおこなっている。ここが主要モチーフの提示をはたしていて、様式性を作り出している。この作品では樹木に逆さづりにされた女性の口から蛇が出てくる。女性の体内に侵入した蛇の象徴性は多層的に解くことができるだろう。蛇はまず母一人、息子一人の緊密な家庭に接近してくる危険な異者と重なる。さらに、母の心と体に侵入する異性と重なる。ファロス的な記号がその奥で機能している。
このモチーフにつながる映像としては、ある夜、台所に蛇が入り込んでいると母親が怯える場面がある。蛇の行方はわからず、それきり語られない。しかし最後近くになって、台所の暗がりでひそかに生きている蛇の姿がワンカットだけはさまれている。蛇は棲みついてしまったのだ。それは息子から家庭と母親を奪うだろう。痩せた牛の乳を搾り、チーズを作って生活を立てている母子の日々は「乳」というタイトルに直結しているが、より深いところでは「乳」は母性を示唆している。主人公は守られた幼少期という「蜜」の幸福を父の死によって喪失し、「乳」で養われた少年期を母の恋愛によって喪失する。「卵」は再生の可能性を示す。彼はやがて父になるだろう。
『ミルク』の最後のシーケンスで、息子は巨大ななまずを抱えて母親への贈り物にしようとする。けれど母親は嬉々として雁の羽をむしっている。母子の神話的な共同体が本質的に瓦解した瞬間だと考えることができる。雁は異性から母親への贈り物なのである。雁には雛がいたかもしれないことが手前のシーンで短く示されていた。母雁は猟銃で撃ち落されたのだ。猟銃そのものがファロスであり、蛇と重ね合わせることができる。非常に独創的な主題表現だった。
映像で間(ま)を表現する手法が秀逸で、内面性が映像のなかによく生きている。たとえば主人公の青年ユスフの正面に、友人の建設労働者が立っている。カメラは下がっていき、この労働者の姿を足元まで映す。泥に汚れ、貧しく、厳しい労働の積み重ねが衣服と靴のありさまに映し出される。そしてカメラはユスフの上半身のカットに戻る。ユスフは視線を友人の足元から正面に上げていくところで、いまのカットが主人公の目線であったことがていねいに描写されていた。
息子ユスフは母親と支えあって暮らしていた少年期を離れ、この友人の環境に身をおくことになる。雛は母雁から離れなければならない。母雁は撃ち落され、母であることを終えたのだ。
メモリータグ■冒頭まもなく、廃墟の壁に囲まれた池が映る。『ノスタルジア』を連想した。
アデル、ブルーは熱い色 / アブデラティフ・ケシシュ
3h France | Belgium | Spain
La vie d'Adele (2013)
Directed by Abdellatif Kechiche, Tunisia, 1960-. Written by Abdellatif Kechiche and Ghalia Lacroix based on the comic book "Le Bleu est une couleur chaude". Cinematography by Sofian El Fani. Performed by Adele Exarchopoulos (Adele), Lea Seydoux (Emma).
http://www.ferdyonfilms.com/wp-content/uploads/2013/12/yrQ0A9jRWigig18ojSH07ZLgJeu-1.jpg
原作はコミックブックだそう。被写体の撮影方法はごく日常的でリアルなトーンでなされている。パスタをすする油だらけの口元や、睡眠中にかすかに痙攣する身体が写されたりもする。ハリウッドの商業映像をひとつの極とする「整った表情」の定型では没になるであろうカットを投入した映像表現のなかで、主演の2人が臨場感のある自然な呼吸を伝えていた。2013年カンヌ映画祭パルムドール。主演俳優2人が監督と連名でこの賞の受賞者とされた初めての例とされる。審査員長はスピルバーグ、ほかにニコル・キッドマンなどが審査員に入っていた。
編集はやや冗長で、観客は主人公の女性アデルの高校時代と、その後の数年間にじっくりと寄り添うことになる。アデルは恋人とめぐりあい、一緒に暮らし始める。だが小さなすれ違いに不安になり、ほかの相手とも散発的につき会う。その事実を恋人に知られて破局に至る。約3年後の再会をへても、かつての親密さは戻らなかった。
それだけ? はい、それだけです。しいていえばアデルの恋人が同性であるだけ。そこにまだ、かすかな社会的偏見が残っていることが示唆される。性の多様性、いわゆるエルジビティー(LGBT)という観点からあえていえば、バイセクシュアル、ゲイ、レズビアン、ストレートなどさまざまなありかたが画面を横切る。だがどれもふつうの恋愛で、逆にその平凡さがひとつの主眼だったに違いない。たとえばアデルは庶民層の家庭に育ち、両親は保守的な価値観をもっている。本人も安定した職業をと考えて幼児教育の教諭になる。いっぽう恋人エマは画家で、家庭もおそらくリベラルな知識層に属している。アデルは教養の差に悩んだりする。これが古典的な両性愛の恋人同士だったらほとんど19世紀の悩みに近い。すなおすぎる。ある意味ではこの作品もそうかもしれない。すなおすぎる。
ただ、男性同士の恋愛をえがいた映像作品の数と質にくらべて、おそらく女性同士の恋愛を主体にした作品は現時点ではるかに少ない。カンヌはその領域を支援するという積極的なメッセージを発したといえる。いいかえれば同性愛の描写でさえ「女性の立場」がまだまだ未開発なのだ。作中、美術館の場面では、裸体の古典的女性画が何点も映されていく。それらの画家たちが意図していたであろう「男性的視点」とは異なる目で眺めていることを、こちらも意識するようになる。そこは新鮮だった。この主題でほんとうの傑作が生まれるのはまだすこし先かもしれないけれど、楽しみに待ちたい。
作品とは別に、こののち社会の通念が健全に推移して、エルジビティーといった概念そのものがすこしずつ不要になっていくといいと思う。「あなたが誰であるか」という定義はより流動的な、可変のものになる。愛情という主題においても、性や年齢や種の差異はしばしば意味をなさなくなっていく。いっそアルジビティー(ALGBT)という呼びかたも有効かもしれない。愛した相手が(たまたま)人間ではなくロボット――AI――だったとしても、べつに「ふつう」なのだから。
メモリータグ■それにしても、フランスっていまだに高校生にラクロを読ませて分析を講義したりするのですね。とほほ。あんなおもしろいものを教室で読まされるのは逆に残念だわ。