うさこさんと映画

映画のノートです。
目標の五百本に到達、少し休憩。
ありがとうございました。
筋や結末を記していることがあります。

0485. 別離 (2011)

2018年05月19日 | ベルリン映画祭金熊賞

別離 / アスガー・ファルハディ
123 min Iran | France 

Jodaeiye Nader az Simin (2011) aka. A Separation. Language: Persian
Written and directed by Asghar Farhadi, 1972-, Iran. Cinematography by Mahmoud Kalari. Film Editing by Hayedeh Safiyari. Music by Sattar Oraki. Performed by Payman Maadi aka. Peyman Moadi (Nader), Leila Hatami (Simin), Sareh Bayat (Razieh), Shahab Hosseini (Hojjat). Sarina Farhadi (Termeh), Ali-Asghar Shahbazi (Nader's Father), Babak Karimi (Interrogator).  


https://www.imdb.com/title/tt1832382/mediaviewer/rm2618998016

この作品も脚本が秀逸だった。登場する誰もがすこしずつ弱みをかかえている。興味深いのは誰もがその弱みの責任を他人に転嫁しようと叫びあう主張の強さで、これは文化的な慣例の影響が濃いのか、この作家の手法なのか、それを見分けることができないほど、わたしはイスラムに無知だと自覚した。ともあれ作中ではこの全員の弱みと嘘が状況をつなぎ、そして悪化させていく。問題群の論点を整理して切断することをなかなかゆるさない、その連鎖の構造提示がたくみだった。

おかげで物語はかんたんに要約できない。針の穴のようにこちらの虚をつきながら螺旋状に問題が深まる。そして各人の人生がすこしずつ損なわれる。どうしてそういう言動に展開するのか、それぞれの論理にあぜんとする瞬間が何度もあるのだが、それは計算されている。2011年ベルリン映画祭金熊賞。2012年米国アカデミー外国語映画賞。ベルリンでは銀熊賞として最優秀女優賞・最優秀男優賞をあわせて得ている。主要な役を演じた俳優たちがほぼ全員で受賞しているのが印象的で、たしかによくエネルギーが拮抗し、かつ調和していた。11歳の少女テルメを演じたサリナ・ファハルディは監督のファハルディの娘さんだという。彼女もみごとだった。

えがかれるのは現代イランのふた組の家族。ひと家族は、離婚するかしないか不安定な距離にある夫と妻とかれらの娘、そこに認知証の老親が同居している。もうひと組は、この家庭で介護を担当する女性とその家族。全員が家族的な不穏をかかえ、それらのインシデントがつながってアクシデントにいたる。介護者の女性は流産する。胎児は19週に入っているため、流産の原因がもし雇用者の暴力にあるなら殺人罪になるという。

どちらの家庭にも娘がいて、この子供たちの存在感が作品を深めていた。11歳の少女の理知的なまなざし、おさない少女の無心の大きな瞳。子供の表情にはすべての問題を切断不能にする力がある。エンディングは娘の結論を待つ夫婦の横顔で終わっていた。優れた時間の使いかただった。


メモリータグ■介護者の女性は、認知症の高齢男性の体を洗って宗教上問題がないかを電話であらかじめ確認する。許可をえたあとまだ不安そうな女性にむかって、彼女の幼い娘がいう。「パパには言わないから」。彼女はとくに信心深い女性で、全員がここまでするわけではないことは観る側にも次第にわかってくる。





0484. ノー・マンズ・ランド (2001)

2018年05月12日 | 2000s

ノー・マンズ・ランド / ダニス・タノヴィッチ

No Man's Land (2001)
Written and Directed by Danis Tanovic. Cinematography by Walther van den Ende. Film Editing by Francesca Calvelli. Music by Danis Tanovic. Performed by Branko Djuric (Ciki), Rene Bitorajac (Nino), Georges Siatidis (Marchand), Filip Sovagovic (Cera).


https://crashburndotcom.files.wordpress.com/2012/02/no-mans-land-1.jpg

2013年に『鉄くず拾いの物語』でベルリンの審査員グランプリを得たダニス・タノヴィッチのデビュー作。カメラワークもカット構成もみごとに手なれていて、おそらくテレビなどでじゅうぶんに経験をつんだ人だろう。のちの『鉄くず拾い』のいかにもおぼつかない手ざわりが、徹底した反演出志向によるものだったことをあらためて確認できた*。

注*『鉄くず拾いの物語』はEOS 5D Mark IIで撮られていて――つまりデジタル一眼レフの動画機能で――予算は17万ユーロ(200万円弱)だったという。その姿勢は理性的な選択だったと感じる。内容の本質に合っているのだ。

『ノー・マンズ・ランド』はボスニア・ヘルツェゴヴィナの紛争が深刻だった1993年当時の戦場を題材にしている。双方の兵士が二人ずつ、中間地帯の塹壕に取りのこされる。閉ざされた小空間で対峙する敵兵どうしの残忍で奇妙な半日がえがかれていく。一人はすぐに殺され、一人は体の下に地雷をしかけられて身動きできないまま横たわることになる(助け起こせばその瞬間に地雷が爆発する)。あとの二人はたがいに友情と憎悪のあいだを不穏に行き来する。敵兵どうしはときに助け合い、一瞬のちには殺しあうのだ。

タノヴィッチ自身が手がけた脚本がいい。暗い冗談と皮肉を使いながら、ぞっとするほどばかげた悲劇的な状況をコンパクトに凝縮していた。舞台劇としてもじゅうぶんに成立するだろう。そういえばこのタッチは誰かを連想させる。誰だろう? たぶんブレヒト。無頼と風刺とかなしさと、永遠に終わらない戦争が目のまえに差し出される。

諷刺される対象は四者ある。まずたがいに敵を罵倒しつつ慌てふためく両軍二者が皮肉られる。ついで国連という組織のほとんど存在論的な欺瞞が思いきりあてこすられる。ここで国連上層部はひたすら世評をおそれていて、メディア対策のために中間地帯への救助出動を許可し、またそれを恣意的に取り消す。最後にニュースメディアが嘲笑される。かれらも視聴者の反応と局内での評価に隷従し、取材後はもはやニュース価値がないと考えて塹壕のなかを確認しないまま引き上げてしまう。

人びとが戦場から去ったあと、塹壕では兵士がたった一人、除去不能の地雷を背に敷いて横たわったまま取り残されている。もはや誰も彼を助けることはない。世界の愚かしさに向けて叩きつけたメッセージは明確だった。2001年カンヌ映画祭脚本賞、2002年米国アカデミー外国語映画賞。

わかったようにこんなことを書いているわたしも「世界の愚かしさ」のなかにふくまれている――もちろん。でもとても混乱してはいるのだ。自分のなかのどこかで。



メモリータグ■「悲観的なやつと楽観的なやつの違いはなんだと思う? 悲観的なやつはいまが最悪だと思う。楽観的なやつはこのあとが最悪だと思う」






0483. 愛より強く

2018年05月05日 | ベルリン映画祭金熊賞

愛より強く / ファティ・アキン
121 min Germany | Turkey

Gegen die Wand (2004)
Directed by Fatih Akin. Written by Fatih Akin (book). Cinematography by Rainer Klausmann. Film Editing by Andrew Bird. Performed by Birol Unel (Cahit). Sibel Kekilli (Sibel). Guven Kirac (Seref).   


https://www.dvdtalk.com/reviews/16327/gegen-die-wand-head-on/

注目を集めるトルコ系映像作家たちのなかで、ほぼ最後にファティ・アキンを観たことになるかもしれない。ヴァイオレント・ラヴストーリーといえばいいのか、ひと組の男女の無計画な人生選択をなかなかの破壊力でえがいていた。

個性はしっかりしている。情動性の濃い作風で、エネルギーのある作り手だと思う。編集も、すくなくとも途中までは場面内の展開をさくさくとみじかく切って重ねることでコミカルな自己批判性を出していた。ああなってこうなって、どうせそうなんだけどさ、という要約性がもたらす笑いです。これは編集を手がけたアンドリュー・バードのセンスやリズム感が貢献しているのだろう。

この作品の前半は、とつぜん自傷行為や他傷行為に展開する衝動性をつうじてある種の進行感がもちこまれていた。たとえば会話の途中で、ヒロインはいきなりビール瓶を叩き割って破片を自分の手首に突き刺す。高く噴出する血液、みるみる赤くなる衣服、騒然とする周囲。ただ、この種の刺激はエスカレートしていかなければならないという宿命がある。スペクタクルの一種だからかもしれない。

後半はすこし退屈していた。破滅が行きつくと、まじめになるしかない。まじめになると勢いも皮肉も消えてしまう。前半は男性主人公を軸にしたシニカルなファンタジーで始まるものの、後半は女性主人公によりそって同情的なリアリズムに滑り落ちそうになる。ともあれ、逃げずに最後まで取り組んで2004年ベルリン映画祭金熊賞。10年後の金熊賞『薄氷の殺人』との共通性もあるけれど、あれよりは体力があります。演技の指示はしっかりしていそう。ざんねんながら映像に傑出した点は感じない。

かいつまんだあらすじ:現代のハンブルクに暮らすトルコ系社会の人びとがえがかれる。荒れた生活のはてに自殺未遂をした清掃人の中年男性は、やはり自殺未遂をした若い女性から初対面で結婚を申し込まれる。彼女は抑圧的な家族の結束から逃れる唯一の手段として結婚を望んでいるのだという。偽装結婚に応じたのちは、たがいに薬物とディスコと酒類と、べつべつの相手との刹那的な性生活がつづく。やがて「夫」は「妻」に恋をして、彼女の交際相手を衝動的に殺してしまう。彼女は自立を模索して、歳月をへて再会するけれど、といった展開です。かなめになる内的動機は台詞で説明されていて、よかれあしかれわかりやすい。「Gegen die Wand(壁に向かって)」という素朴な原題じたい、そうかもしれない。

と、あらためて書いてみると、やはり恋に落ちる展開そのものは想定内で、これは後半をもてあます要因にもなっている。編集でこの弱点を消せるだろうか? 清掃人が衝動的な殺人を犯したところでしっかり切って、あとはエピローグに近い点描処理で、ばさばさと刈り込んでシニカルに進めて、帰結の場面だけしっかり。そのほうがむしろ余韻をのこせたかもしれない――監督が受けいれさえすれば(むりをいわないで)。

でもラヴストーリーのかなめは文体。傷があってもいいから、挑まないと。むかし『カルメンという名の女』というゴダールの名作があったことを思い出す。しっかり突き放すことで詩的に昇華した破滅的なあの表現を、もう一度観たくなりました。



メモリータグ■節目ごとに歌手とバンドが現れて、できごとの象徴性を歌ってくれる。





0482. レヴェナント 蘇えりし者 (2015)

2018年04月28日 | 米アカデミー作品賞and/or監督賞

レヴェナント 蘇えりし者 / アレハンドロ・イニャリトゥ
2h36 min USA | Hong Kong | Taiwan

The Revenant (2015)
Directed by Alejandro G. Inarritu. Screenplay by Mark L. Smith and Alejandro G. Inarritu. Besed in part on the novel by Michael Punke. Cinematography by Emmanuel Lubezki. Film Editing by Stephen Mirrione. Costume Design by Jacqueline West. Music by Alva Noto and Ryuichi Sakamoto. Performed by Leonardo DiCaprio (Hugh Glass). Tom Hardy (John Fitzgerald). Domhnall Gleeson (Captain Andrew Henry). Forrest Goodluck (Hawk). Budget:$135,000,000 (estimated)


https://www.imdb.com/title/tt1663202/mediaviewer/rm1058922496

自然をとらえた映像の詩的な美しさを追求するという、決意を感じた。場面の多くは冬の山河で、多彩な陰影をとらえるために効果的とされる時間帯や色彩設計の絵がいくども出てくる。夜明け、日没、逆光、冬の風、雪に映る炎、それらを映す透明な光は冒頭からテレンス・マリックを連想した。とくに『ツリー・オブ・ライフ』を。あとでデータをみるとおなじ撮影家――エマニュエル・ルベツキ――でした。マリックの優れた影響と同時に、タルコフスキーの参照があると思う(参照しないひとはいないかもしれませんが)。

主題を乱暴に要約すると、生還と復讐。アメリカ開拓期の毛皮狩猟者と先住民族の抗争のなかで、息子を殺された父親が死の際から帰還して復讐をはたす。実話がもとだという。真冬の山中を300キロ踏破したというこの設定を、すこしずつ西部劇の定型からはずして表現していく。ハリウッド作品としては限界といえそうなところまで血肉のしたたる描写をもちこんでいた。人間も生の獣肉にかぶりつき、殺し合いでは体の肉がちぎり取られ、えぐられる。内臓ごとぶちまけられる赤い色が、白い雪のうえに広がる。自然の風景にかさねられる、なまなましい暴力と限界生存の描写がこの作品のスタイルになっていた。「美しい自然、血まみれの殺戮」。それが制作方針だったのだと思う。

多くの主演をこなしてきたレオナルド・ディカプリオにとっても、今回はまれにみる苛酷な撮影だったかもしれない。真冬の河に浸かり、死んだ馬の内臓を引き抜いてその腹にこもる。撮影時間の調整も長かったろう。もともと「努力賞」のような演技が多いこのまじめな俳優に、今度ばかりはハリウッドも譲歩して(?)アカデミーの主演男優賞をあたえた。たしかにここまで努力してみとめられなかったら、必死に演じた『キャバレー』で主演賞をとれなかったライザ・ミネリのようです。

ルベツキは『ライフ・オブ・ツリー』(2011)で撮影賞にノミネートされたあと*、『ゼロ・グラヴィティ』(2013)、『バードマン、あるいは』(2014)、『レヴェナント』(2015)と三年連続で米国アカデミー撮影賞を得た。驚きはない(そもそもライフ・オブ・ツリーで撮らなかったことのほうにむしろ驚く)。でも数年にわたってそれぞれ完全に技術方針の異なる作品を選びつづけたことには尊敬をこめて驚く。
*この年の受賞は『ヒューゴの不思議な発明』のロバート・リチャードソン。

演出はアレハンドロ・イニャリトゥで、きわめて戦略が明確な点は『バードマン、あるいは』と共通している。今回はA「マリックの自然映像表現」にB「スピルバーグが『プライベート・ライアン』で達成したなまなましい対人殺戮表現」をかさね、さらにC「人間と動物との格闘」を導入している。徹底している。この三点をつうじて「西部開拓時代の殺し合い」というハリウッドの伝統領域でリアリズムを半歩拡張してみせた。2016年米国アカデミー監督賞。

と、またしても妙にイニャリトゥに冷たいものいいになってしまうのはどうしてかしら。随所のカメラワークは秀逸だったし、力量はまちがいない。たぶん、あまりにも冷徹な計算が感じられるためかもしれない。それは監督として必須の資質なのに、それ以上にこのひとは、つくづくこの業界でどこまでやればいいか完璧にこころえているようにみえる。すくなくとも既存の表現をすこしずつ拡張して「独自性」を演出する手法において、イニャリトゥはわかりやすい監督です。制作全体の推定予算は約150億円。

衣装では、熊の頭部がついた毛皮をまるごとかぶる防寒着に息をのんだ。たった一点で物語の世界観をみごとに表象していた。ほんとうの意味で主役の衣装です。担当はジャクリーン・ウェスト。



メモリータグ■『ノスタルジア』風のあの廃墟はセットを組んだのだろうか。あそこはできればほんとうにロケにいったほうがよかった。






0481. イヴ・サンローラン (2010)

2018年04月21日 | 2010s

イヴ・サンローラン / ピエール・トレトン
98min

L'amour fou (2010) : Documentary
Directed by Pierre Thoretton. Written by Eve Guillou and Pierre Thoretton. Cinematography by Leo Hinstin. Film Editing by Dominique Auvray. Music by Come Aguiar and Laurent Levesque. Persons: Yves Saint-Laurent, Pierre Berge, Catherine Deneuve.


Yves Saint Laurent, 1936 - 2008.

サンローランを主題にした映像は2014年に公開された2本のフィクショナルな作品が広く知られているのかもしれない。あえてここで書いているのは2010年に公開されたドキュメンタリーのほうで、サンローランという人物像から放たれる強烈なインパクトを味わうことができる。実物の凄みがあります。

かなめのひとつはサンローランの死後、競売にかけるために梱包されて運び出されていく美術品の壮麗なコレクションで、終盤におかれたクリスティーズの競売場面も感銘があります。かつて一人の内向的な青年がモードにおいて圧倒的な成功をおさめ、世界の頂点に立った。その富と名声と重圧に満ちた生活が、おびただしい遺品という「物」をつうじて示唆される。絵画、彫刻、陶器、家具。それらはあくまでひとつの人生が残した影のようなものであるにせよ、やがてサンローランの時代は過ぎ、自身が土に還り、遺された豪奢な家財という最後の影が、いま離散して消えていく。そのさまがえがかれて映画は終わる。

そしてもちろんデザインされた服と、なにより本人の姿をみることができる。サンローランというひとはふつうの意味でフォトジェニックだったと思うけれど、そんな平凡な表現をつき抜けた特異な迫力がその姿にはある。とくに青年期です。極度に凝縮された集中力、過敏さと知性は、みじかいインタヴューやモノクロのポートレートからも伝わる。その「ただならぬ気配」が歳月をへて柔らかくほどけていき、さらに痛ましく崩れ、やがてしっかりと自己を取り戻した老年にいたる。知的で簡潔な、みごとな引退スピーチを冒頭で聴くことができる。


Pierre Berge, 1930 – 2017.

このドキュメンタリーでは、サンローランの配偶者だったピエール・ベルジェが語り手として主役に近い位置をしめている。毀誉褒貶のある人生だったことは指摘されてきたし、その批判的な観点についてはほかの史料で知ることができるだろう。でもこのひとも、べつの意味でそうとうな迫力です。老練の政治家のような鋭い視線が印象に残る。サンローラン自身がいかにも芸術家肌でビジネスのかけひきをほとんど嫌悪していたのに対して、企業を采配していたのはベルジェだったことは作中でも語られる。本質的に相補的だったのだろう。

サンローランは掛け値なしに天才だった。20世紀なかばに人びとの世界観に衝撃をあたえたフランスの思想としても、わたしのなかではフーコーと並ぶ人です。それぞれ知性の核に深いエレガンスと品と過激さがあった――モードと哲学というおそろしく違う表現領域にもかかわらず。

フーコーの最高の文章のなかにある燦然とした気配は、時代の水底にある元型を大きくつかんで揺すぶるような深みから流れ出てきたものだったと思う。社会の無意識までをすくいとった声のもつ迫力がそこにはあって、川の流れを透かしてとつぜん光をあてられた黄金をみるようだった。初期のサンローランのいくつかのラインもそうだった。求めていたのはこれだったのだと世界に思わせるような、巨大な無意識がかたちになった瞬間だけに生まれる驚愕があった。

いっぽうで、モードの世界は酷い。最高の才能をぼろぼろになるまで吸い尽くして、みるみる走り去っていく。サンローランも最後のころのコレクションは、たしかに一目みて古い。でも生活が荒廃していたといわれる時期の作品にさえ、病んだ時代を病むほどの感性が命を削ってかたちにした爆発的な偏向力と過激さがあった。強い嫌悪を呼び起こす作品には、呼び起こすだけのエネルギーがこもっていた。

プレタポルテを打ち出した時期は女性が声を上げて社会に出ていった時期だった。あのマニッシュなプレタポルテは商業をこえて思想だった。同時にパリのオトクチュールもまだ高みにあった。分岐していく二つの流れをサンローランはどちらも中心で担っていた。だからかれは正しく創り、正しく滅びたのだ。二〇世紀の女性の衣服習慣を変革したといえるほどのデザイナーは、シャネルとサンローランただ二人である。



メモリータグ■コレクションを紹介するためにかかげられた大きな幕。グランパレで展示され、5巻組のカタログが用意された。出品は700点あまりだそうで、個人の遺品としてはまれにみる規模だったことがうかがえる。






0480. ジキル&ハイド (1996)

2018年04月14日 | 1990s

ジキル&ハイド / スティーヴン・フリアーズ
1h 48min USA | UK

Mary Reilly (1996)
Directed by Stephen Frears. Screenplay by Christopher Hampton based on a novel by Valerie Martin. Cinematography by Philippe Rousselot. Film Editing by Lesley Walker. Production Design by Stuart Craig. Art Direction by John King. Set Decoration by Stephenie McMillan. Music by George Fenton. Costume Design by Consolata Boyle. Performed by Julia Roberts, 1967 - (Mary Reilly). John Malkovich (Dr. Henry Jekyll / Mr. Edward Hyde). Glenn Close (Mrs. Farraday). Budget:$47,000,000 (estimated).


https://www.welt.de/kultur/gallery1305987/Julia-Roberts-immer-hinreissend.html

この作品はフィリップ・ルスロの映像が美しい。『王妃マルゴ』(1994)や『インタヴュー・ウィズ・ヴァンパイア』(1994)などを手がけたフランスの撮影家で、光に柔らかい奥行きをふくませる感覚をもっている。いいかえれば、それを美しいと思う感覚をもっている。意外な作品にも参加していて、『ブレイブワン』(2007)もこの人だった。あれも翳りのある陰影が印象的だった。

役者:原題は「メアリー・ライリー」。ジキル博士の家のメイドが主役で、ジュリア・ロバーツが優れた表情をみせている。ジキルとハイドの二役をマルコヴィッチ、娼館の経営者をグレン・クローズが担当して、それぞれ実力者らしい造型を実現していた。Imdbによればジキル役はダニエル・デイ・ルイスが断ってきて、マルコヴィッチになったらしい。マルコヴィッチもクローズもルスロも、この数年前に『危険な関係』(1988)でフリアーズと仕事をしているし、デイ・ルイスはフリアーズの『マイ・ビューティフル・ランドレット』でよく知られているだろう。常連たちといえそうです。

脚本と編集:脚本の展開力は弱い。ジキルとハイドはいい素材だと思うのに、二極の二役をしっかりみせるという要をわざと避けたようにきわめて抑制している。それなら観客を待たせることに工夫がほしかった。編集はゆっくりしている。尺を短めにして進行感を優先してもよかったと思うけれど、役者はいいので、じっくりと表情を切り取る編集方針そのものは気にならなかった。

演出:監督はスティーヴン・フリアーズ。独創性はないものの、品のある手堅さの中におさめてはいた。おどろおどろしい怪奇作品にしたくないという方針は伝わる。主の寝室にメイドが朝食を運び込むカットがリズムモチーフになっているので、ここを基調に毎回明確に異なる素材を持ち込んで展開したりすれば、もうすこし進行感が出た気がする。

装置:ジキル博士の研究室は空中に板を渡したオリジナルな空間に設計されていた。そのおもしろい立体性をもっと生かしたかった気がするけれど、カメラを据えられる位置などに制約があったのかもしれない。おなじアングルで撮っていた。石畳の中庭にもロンドンの怪奇ものらしい陰鬱な不健康さが出ていた。

衣装:最後に。衣装は残念きわまりない。これほど地味な少人数の芝居で、これほど地味な女中服を何度着せ替えても視覚効果はおなじ。せっかくのコスチュームドラマなのに、これは脇役の衣装です。かわいそうなヒロインを、それでもとても美しく撮ったのは撮影の恩恵といえそう。それにしてもヴィクトリア朝ロンドンの労働者階層の女性服という、抑圧の象徴のような醜さを考証してどうしたかったのだろう? それにしてはジキル博士の衣装考証ははんぱだし、対照的な二役を打ち出すにしてはヘアメイクも衣装も変化に欠けた。



メモリータグ■巨大な海蛇を鉤に吊るして生きたまま皮を剥ぐ。皮を剥がれてもまだ動いている。ここはよく雰囲気がでていた。






0479. 鉄くず拾いの物語(2013)

2018年04月07日 | ベルリン映画祭審査員大賞

鉄くず拾いの物語 / ダニス・タノヴィッチ
74 min Bosnia and Herzegovina | France | Slovenia | Italy

Epizoda u zivotu beraca zeljeza (2013)
Directed by Danis Tanovic. Screenplay by Danis Tanovic. Cinematography by Erol Zubcevic. Film Editing by Timur Makarevic. Performed by Nazif Mujic, Senada Alimanovic. Semsa Mujic, Sandra Mujic.


http://www.sdd-fanatico.org/epizoda-u-zivotu-beraca-zeljeza-2013/

ひとつの実話をつうじて、紛争後のボスニア・ヘルツェゴヴィナの社会をえがく。美しさをかたくなに拒んだようなその映像のなかに、ありのままの光景をさし出そうとする無言の覚悟が浮かび上がる。主人公を演じるのも俳優ではない。鉄くず――あるいは屑鉄――を売って家族をやしなっている一人の男性で、かれはロマ族の妻をもつ夫として実際に自分たちの身に起きたことを再現していく。

冒頭からしばらく、まるで素人がカメラを回しているような「演出のなさ」の記号を見極めるために時間が必要だった。そのあとはこちらも腹がすわった。いま眼前で現実が語りなおされていく。現実のなかに演出はない。

冒頭で映しだされる季節は冬だ。雪まじりの凍てついた村で、夫は仲間と廃車を壊し、屑鉄をよりわけて売りにいく。100マルクほどを仲間と分けて持ち帰り、妻と幼い娘たちと食卓を囲む。

なにもかもが貧しい。ほぼすべてが醜い。大きな谷いっぱいに廃品が積み上がるごみ捨て場、汚れた廃車を手斧だけで解体していく苛酷な労働、街なかに近づくとみえてくる巨大なコンビナート、不吉に空をおおっていく煙。この国のボスニア紛争後の生活は、戦時中よりもさらにひどいという。

そのなかでロマ族という少数者であることが、さらに妻の状況を厳しいものにした。ある日、体の中で胎児が死んでいて、ただちに手術をしないと死が待つことを宣告される。だが保険に入っていない。980マルクの手術代がない。これは約500ユーロだという。いわば5万円がないために死んでいくことになる。夫はごみ捨て場に鉄を拾いに行く。廃品の鉄は94マルクにしかならない。民間の支援団体を頼るものの、打開できない。時間が迫る。

街の病院では産婦人科の待合室なのに椅子がない。え? 驚いて画面をみつめるうち、鉄くず拾いがわたしの中でささやく。これが事実なんだ。こんな国があるんだ、知っていたか? 病人が壁によりかかって立っているだろう? 文句さえ言わない。なぜだと思う? 考えてくれ。おれたちがなくしたのは金だけじゃないんだ。考えてくれ。

社会的告発をなす多くのりっぱな作品を、わたしたちはある意味で見慣れている。見慣れないスタイルが、ここではとられている。やがて一流の映像作家たちの手がけた告発作品が、どこか美しすぎ、どこか整いすぎたもののようにさえ思えてくる。ここで語りなおされる現実は、曖昧で、不明瞭なままの日常だ。大量殺戮が起きるわけではない、地球の破滅があるわけではない。かれらは叫ばない。ただ出られないと知っているのだ。この閉塞から、この不透明な死から。

夫はなんとか親戚から保険証を借りることができた。他人の保険証を手にして診察室に入っていったきりの妻を、夫は廊下で待ちつづける。ちいさな娘たちは退屈し、遊び、騒ぎ、やがて静まる。大きな瞳が記憶に残る。時間の長さ。薄暗い光。疲れ果てた夫の、激しく不安な横顔が、この作品の静かなクライマックスだった。優れた場面だった。

エンディングにさえ、雪に埋もれた冬の村の美しさが映されることはない。薪をかかえ、無言で家に戻る主人公を見送って、じっと古い壁を映して終わる。この映画は腹をたてているのだ。涙も、議論も、叫び声もつき抜けて、もうなにも残らないほど深いところから。

ベルリン映画祭はこの作品に審査員グランプリをあたえた。さらにエキュメニカル特別賞があたえられ、主演男優賞があたえられた。もしその立場にいたら、きっとわたしもそうした。この家族に対して、この国に対して、ほかになにができるだろう? だがそれはけっしてあわれみではない。かれらはひとつの現実の手ざわりを世界に伝えたのだ。



メモリータグ■ごみ捨て場をあさる夫のそばに、一頭の犬がまつわる。ここは犬の動きで、みちがえるように画面が生きた。うれしかった。







0478. ホビット 決戦のゆくえ (2014)

2018年03月31日 | 2010s

ホビット 決戦のゆくえ / ピーター・ジャクソン
2h 24min. New Zealand | USA

The Hobbit: The Battle of the Five Armies (2014)
Directed by Peter Jackson. Written by Fran Walsh, Philippa Boyens, Peter Jackson, Guillermo del Toro, based on J.R.R. Tolkien. Cinematography by Andrew Lesnie. Film Editing by Jabez Olssen. Production Design by Dan Hennah. Art Direction by Simon Bright (supervising art director) and Andy McLaren. Set Decoration by Simon Bright and Ra Vincent. Music by Howard Shore. Performed by Ian McKellen (Gandalf), Martin Freeman  (Bilbo Baggins), Richard Armitage (Thorin, Prince of Dwarves), Aidan Turner (Kili, Young Dwarf), Lee Pace (Thranduil, King of the Sylvan Elf), Orlando Bloom (Legolas), Evangeline Lilly (Tauriel), Luke Evans (Bard / Girion, Archer of Laketown), Cate Blanchett (Galadriel), Benedict Cumberbatch (Smaug / Necromancer: voice). Budget:$250,000,000 (estimated)


http://www.imdb.com/title/tt2310332/mediaviewer/rm31915776

三部作の第三作で完結編。とにかく破壊と戦闘の場面がつづく。やはり全体に長い。必ずしもすべての人物の役割を矛盾なく配置できていたわけではなく、脚本のほころび、おなじ描写の反復もやや目につく。それをはじめとして組み立てにいろいろ難はあった。それでも場面ごとの起伏はさまざまに演出されていて、ピーター・ジャクソンはほんとうに大作むきの監督ですね。美術やCG、撮影設計がとことん豪華で愉しかった。

写真は後方右が湖の街の市民、その左がエルフ軍。撮影場面はわくわくします。前方左のピーター・ジャクソンはどうみても、衣装をつけたらそのまま登場人物ですね。

おもな設定:冒頭では竜が湖の街を焼き尽くし、後半は小人族、その王、人間族、妖精族、巨人族の五軍がいりみだれる戦になる(ドワーフ友軍、ドワーフ王と側近戦士、人間市民軍、エルフ軍、オーク/アゾグ軍)。ドワーフ王たちはアーケン石を取り戻そうと旅に出たものの、結果的に竜が死に、竜の財宝をめぐって壮大な最終戦争に突入する。宝は竜が守っているほうが安全だったという逆説を口にしてしまうと身もふたもないのですが、トールキンは愚者の苦しみを知る書き手でもあったと思う。

備忘:竜の財宝を手にいれたドワーフの王トーリンは黄金の病に憑かれて正気を失う。目的の核だったアーケン石は竜の蔵に転がっていたのだが、これをビルボが戦闘回避のためにエルフたちに渡す。結末で分け前の財宝を持ち帰ったかは映画ではえがかれなかったような気がします。



メモリータグ■エルフたちはひそかにカンフーを学んでいるらしい。






0477. ホビット 竜に奪われた王国 (2013)

2018年03月24日 | 2010s

ホビット 竜に奪われた王国 / ピーター・ジャクソン
2h 41min. USA | New Zealand

The Hobbit: The Desolation of Smaug (2013)
Directed by Peter Jackson. Written by Fran Walsh, Philippa Boyens, Peter Jackson, Guillermo del Toro, based on J.R.R. Tolkien. Cinematography by Andrew Lesnie. Film Editing by Jabez Olssen. Production Design by Dan Hennah. Art Direction by Simon Bright (supervising art director) and Andy McLaren. Set Decoration by Simon Bright and Ra Vincent. Music by Howard Shore. Performed by Ian McKellen (Gandalf), Martin Freeman  (Bilbo Baggins), Richard Armitage (Thorin, Prince of Dwarves), Aidan Turner (Kili, Young Dwarf), Lee Pace (Thranduil, King of the Sylvan Elf), Orlando Bloom (Legolas), Evangeline Lilly (Tauriel), Luke Evans (Bard / Girion, Archer of Laketown), Cate Blanchett (Galadriel), Benedict Cumberbatch (Smaug / Necromancer: voice). Budget:$225,000,000 (estimated).




ホビット三部作の第二作。第一作よりは物語としてもう少し立体的になっていた。今回も美術とCG担当のみなさんの敢闘賞です。湖上の街の造形は魅力的だったし、戦闘場面のカメラワークには実写ではありえない軌跡が何度も出てきて興味深かった。財宝が無尽蔵に積もった竜の棲み家はダイナミックにデザインされ、複雑になだれ落ちる金貨が俳優のモーションに自在に対応している。

指輪をはめた瞬間の映像表現や、人びとの情感をえがくスローモーションなどには『ロード・オブ・ザ・リング』で確立された手法が踏襲されている。編集はジャクソンの癖で全体に尺が長め。たぷたぷと贅肉がついている。場面ごとにすっきり刈り込めばシェイプが引き締まり、結果的に作品としての格も上がったろう。そこは惜しい。推定予算は約250億円。

主人公のビルボは知略で危機を救いながら、秘密の指輪でおりおりに姿を隠しつつ活躍する。演じたマーティン・フリーマンはさっぱりした気持ちのいい表情を出していた。魔法使いのガンダルフやエルフ族のレゴラスなどには『ロード・オブ・ザ・リング』の俳優がそのまま当てられている。エルフの警備隊長タウリエルを演じたエヴァンジェリン・リリーは『ロスト』に出演していた俳優だろう。悪役のアゾグやボルグなどはフルCGだそうです。

オークの盾のトーリン、その従者キリー、湖上の街の射手バードといった主要な人物のヘアメークにはもうすこし明確な違いを演出してくださると個性がわかりやすかった。誰が誰だか、なにしろ登場人物が多いのです。

あらすじ:かつてのドワーフの拠点「はなれ山」(エレボール)は、いまは竜のスモーグ(スマウグ)が莫大な財宝に埋もれて眠る棲み家になっている。王者の印であるアーケン石も竜のもとにある。ここをアゾグたち巨人に奪われると中つ国世界は破滅すると灰色の魔法使いガンダルフが忠告する。ドワーフの長である「オークの盾」のトーリンは12人の従者と、ホビット族の若者ビルボ・バギンズを連れて宝を奪還する旅に出る。この第二作ではおもに一行の旅路が語られていて、森に入ると巨大蜘蛛に襲われ、それを逃れると森のエルフ族にとらえられる。樽に隠れて脱出すると川でオーク族に襲われる。船で通りかかったバードに助けられて湖上の街に潜伏し、はなれ山に着く。城の隠れ扉をあけたビルボが地下深くまで降りていくと、黄金で埋まった蔵が広がる。まもなく金貨の山が揺れ、中で眠っていた竜が目をさまして襲ってくる(第三作につづく)。



メモリータグ■善なる者たちは美しく、悪なる者たちは醜い。この映画はとくにその定式の遵守が極端で、悪役がかわいそうになるけれど、それでも主役は小人族。人間ではない。そこにトールキンの真髄がまだ残っている。






0476. アルゴ (2012)

2018年03月17日 | 米アカデミー作品賞and/or監督賞

アルゴ / ベン・アフレック
120 min USA

Argo (2012)
Directed by Ben Affleck. Screenplay by Chris Terrio, Tony Mendez based on a selection from "The Master of Disguise" by Mendez and the Wired Magazine article "The Great Escape" by Joshuah Bearman. Cinematography by Rodrigo Prieto.  Film Editing by William Goldenberg. Music by Alexandre Desplat. Performed by Ben Affleck (Tony Mendez). Bryan Cranston (Jack O'Donnell). Alan Arkin (Lester Siegel). Budget:$44,500,000 (estimated).


https://www.imdb.com/title/tt1024648/mediaviewer/rm1107013120

2012年の米国アカデミーの作品賞受賞作(授賞式は2013年です)。脚本を担当したクリス・テリオへの脚色脚本賞、編集を手がけたウィリアム・ゴールデンバーグへの編集賞とあわせて3部門で受賞している。

純粋に映画のできばえで評価した場合、ふつうは賞の圏内に入る作品ではないと思う。低予算・中予算の作品で目にするくらいの水準で、あまり記憶に残らない。この年のほかの候補にはスピルバーグの『リンカーン』、ハネケの『愛、アムール』、アン・リーの『ライフ・オブ・パイ』などの作品が挙がっていて、監督賞はリーが得ている。

『アルゴ』はきっと、アメリカ社会の集合的記憶と自尊心に強くアピールしたのだろう。自国のひそかな英雄をたたえ、その英雄をひそかに支えたハリウッドをたたえ、さらにその秘話を映像にして公にたたえた映画仲間ベン・アフレックの心意気をたたえ、それらをつうじてアメリカそのものの偉大さをたたえた四重の賞賛記念と考えると、すこし理解することができる。特例の授賞といえばいいのかもしれない。これは皮肉ではなくて、アカデミー賞はあくまでアメリカの国内賞にすぎない。会員たちの好きなものを選べばいい。それなのに世界的にトップクラスの名作がしばしば出てくることのほうが、むしろすごいのです。

実話だという主題そのものはとてもユニークだった。1979年、反米感情が渦巻くイランでアメリカ大使館が占拠された。国外に脱出できなくなった6人のアメリカ大使館員を救出するために、架空の映画『アルゴ』の制作プランが練り上げられる。発案したのはCIAの救出専門家で、カナダからイランに映画撮影の下見に行ったように偽装して、出国のときに現地から大使館員たちを連れ出すという作戦で、実際に6名はこの『アルゴ』作戦で帰国できた。ながらくその事実は伏せられていたという。

このCIAの救出専門家が主人公にすえられ、ベン・アフレック自身が演じた。最初から映画関係者のようにこなれてみえてしまうのが演出としてはちょっともったいないのですが、ハリウッドのプロデューサーが彼に協力し、没になった過去の脚本の山から使えそうなものを探し出してくる。実際にストーリーボードやポスターやコンテを作り、制作記者会見までおこなってメディアをだまして取材記事を書かせ、会社と事務所もしつらえる。なるほど映画人というのは、ある意味で詐欺のプロでもありそうです。

ハリウッドならではのこの迫真の偽装の細部は、もっとていねいにみせてくれたらおもしろかった。とくにこの『アルゴ』が思い切り安っぽいSF映画で、どうみても『スターウォーズ』の三番煎じみたいなのが素材として最高に愉快だったので、しっかりコミカルに演出できれば爆笑がつづくシーケンスになったと思う。

ともあれ「カナダから監督や脚本家がイランを訪れ、数日後に帰国していった」というストーリーは進行し、後半では主人公がイランに渡る。架空の履歴を暗記させられた大使館員たちは、脚本家や監督や撮影家になりきって空港の検問を通過しようとする。不審な出国者を警戒している空港では刻々と偽装が露見していき、ぎりぎりのタイミングで飛行機が離陸しようとする攻防がえがかれる。このクライマックスは、ハリウッドらしくみじかいカット割りをかさねる編集で、スリリングにみせてくれた。



メモリータグ■うーん。






0475. グランド・ブダペスト・ホテル (2014)

2018年03月10日 | ベルリン映画祭審査員大賞

グランド・ブダペスト・ホテル / ウェス・アンダーソン
99 min USA | Germany

The Grand Budapest Hotel (2014)
Directed by Wes Anderson. Written by Wes anderson et al, inspired by the writings of Stefan Zweig. Cinematography by Robert D. Yeoman. Film Editing by Barney Pilling. Music by Alexandre Desplat. Production Design by Adam Stockhausen. Costume Design by Milena Canonero. Performed by Ralph Fiennes (M. Gustave), F. Murray Abraham (Mr. Moustafa), Mathieu Amalric (Serge X.), Adrien Brody (Dmitri), Willem Dafoe (Jopling), Jeff Goldblum (Deputy Kovacs), Harvey Keitel (Ludwig), Jude Law (Young Writer), Edward Norton (Henckels), Lea Seydoux (Clotilde), Tilda Swinton), Tom Wilkinson (Author).


https://www.imdb.com/title/tt2278388/mediaviewer/rm3606513664

うわ、まれにみる才能。現代で五本の指に入りそうなコメディー作家です。からりと軽快なリズムに加えて構図の過剰な様式性で誇張を作り出すスタイルで、しばしば絵が映った瞬間、もうおかしい。王道です。この完成度に達した作品は例外かもしれないけれど、ほかの作品もみてみたいですね。

音楽も成功した。チンバロンなどいわゆる民族楽器をとりいれて、中欧から東欧の古風な空気を鮮やかに醸していく。担当したアレクサンドル・デスプラは同じ2014年にヴェネチア映画祭で審査員長をつとめている。

全体はすこし複雑な外枠をおいた大パノラマの脚本で、監督したウェス・アンダーソン自身が手がけている。枠内の世界は東欧、時代は20世紀前半、それも本質的には19世紀の文化が、心からの愛情をこめて扱われていた。アンダーソン自身はテキサスの出身だそうで、そのことじたいに小さな驚きがあるほどだったけれど、最後にツヴァイクへの賛が掲げられて、とどめを刺された。ああ、これはまさに『昨日の世界』でした。ひたひたと戦争が迫るあの動乱のなかで、無数の人びとが逝った。エンディングのちいさな辞にこめられた遠い遠い惜別に、やられました。

そういえば『ライフ・イズ・ビューティフル』もそうだったなあ。およそ異なる作風のコメディーだけれど、最後の最後にただ一度本音を語り、その瞬間にすっぱりと終わる。どちらも最高のコメディーです。

もう一つ驚いたのはキャスト。誰が後ろだてなのか、ここまで華やかに演技派をそろえたこともめずらしい。主役は名門ホテルのエレガントで軽薄なコンシェルジュで、レイフ・ファインズが演じた。完璧にこなしていて、これもちょっと予想外。おみそれしました。ほかにジュード・ロウ、エイドリアン・ブロディ、ウィレム・デフォー、ハーヴィー・カイテル、エドワード・ノートン、トム・ウィルキンソン、ティルダ・スウィントン、レア・セドゥなど。なお2015年の米国アカデミー賞を4部門で受賞している。音楽、美術、衣装デザイン、ヘアメーク。こちらは映画としての総合的な充実を物語る評価になった。

本命だったであろう2014年ベルリン映画祭では、審査員グランプリを得ている。いわゆる第二席です。ふつうなら問題なく第一席のできばえなので、よほど例外的な当たり年だったのかと思うと、金獅子賞はディアオ・イーナンの『薄氷の殺人』だという。これはさすがに絶句してしまった。出演者の顔ぶれなどは無視したうえで、ごく公平に言って、ここまでできばえに差があるとかばいようがない。審査員長はジェーズム・シェイマス。この年の一席と二席はいれかわることが妥当だったと思います。なんであれ、のちのち残るのはこちらの作品で、それがすべて。



メモリータグ■ひとつだけ。それでも、ねこをごみ箱に捨てないで。たとえもう死んでいても、たとえコメディーでも、たとえその10分後に捨てた本人が指をなくしても、たとえその数秒後には本人が惨殺されても。絶対に・捨てないで。だいたいこの殺害場面はカットがきちんとつながっていない。視点が混乱している。コンテが不十分では?(←場面を思い出すと動揺するため、制作上の些細な傷を羅列している)。






0474. たかが世界の終わり (2016)

2018年03月03日 | カンヌ映画祭審査員大賞

たかが世界の終わり / グザヴィエ・ドラン
97 min Canada | France

Juste la fin du Monde (2016)
Screenplay and Direction by Xavier Dolan. Pased on a play in 1990 by Jean-Luc Lagarce.Cinematography by Andre Turpin. Film Editing by Xavier Dolan. Music by Gabriel Yared. Performed by Nathalie Baye (La mere), Vincent Cassel (Antoine), Marion Cotillard (Catherine), Lea seydoux (Suzanne), Gaspard Ulliel (Louis).


http://dimthehouselights.com/wp-content/uploads/2017/03/onlytheend-e1488398516336.jpg

とにかく役者が粒ぞろいなので、それを味わいたい作品です。軋む家族のひと午後をえがく室内楽のような台詞劇で、5人の俳優のクインテット、あるいはメンバーの入れ替わるデュオで構成された組曲のようになっている。厳しい不協和音がつづくけれど、楽器はよく鳴っていた。

もし二本立てで上映するならフランソワ・オゾンの『ぼくを葬る』Le Temps qui reste (2005) とよく合いそう。どちらも死期が近い男性が主人公で、家族の問題をどうしようか悩む。そんな二本立て、しんどいだけ? ふふ、そうかもしれません。ただ今回のドランのほうが(おそらくはラガルスの原作の力もあって)、オゾンの作品よりは人間関係を追い込んでいる。口論の絶えない実家のありさまをとおして、難しさに正面から近づこうとしていた。欲をいえばあと一歩で詰むという感じなので、その帰結をみたかった気もするけれど、いまフランスの映画は(小説もかな)どちらかというと、ほどほどの軽さであっさりと仕上げる傾向を感じる。ヌヴェルキュイジーヌ以降というか、つまり、じつはずば抜けた才能がないと味がまとまらない。この作品のソースは濃いほうです。

舞台になったちいさな家の、廊下のつきあたりの飾り時計がリズムモチーフになっていて、おりおりにこのカットが主人公に時を示唆する。家族に病を告白しようと実家を訪ねたのに、告白できないまま時間だけが過ぎていくのだ。ほぼ最後の場面で、この時計から突然、生きた小鳥が廊下に飛び出してくる。小鳥は外へ出ようともがいて飛び回り、衝突して墜落する。主題の帰結はこの映像に象徴されていたのだろう。時を刻む家族の空間から、するりと外に逃れることはできない。廊下の奥で飾られたまま凍っていた古い時が、生を得て立ち向かってきたこの午後、主人公は家族と向き合い、家族のうちにある自己と向き合った。

ここからはおもに俳優について:5人の役者のうち、母親を演じたナタリー・バイは、『緑色の部屋』や『アメリカの夜』などで、いかにも清楚でひかえめな娘役を担当していた俳優です。今回は「けばけばしく」というドランの指示があったそうで、みごとにこなしている。とくに冒頭しばらくの騒々しさは満点。しわを塗りつぶしてクレオパトラを演じたがる老いたエリザベス・テーラーのようなイメージでご想像ください(ファンのかた、ごめんなさい)。でも芝居が進行するなかで、しっかりとした洞察力を発揮してくる瞬間が出る。その底力も強かった。こうした登場人物の「二層性」は、作品の展開を設計するうえでも絶対に必要ですね。冒頭でたっぷり塗られていたお化粧も、終盤では薄くなって、この人物の別の面が顕れたことが表現されていた。

この母の、自慢の次男をガスパール・ユリエルが演じている。主役です。この次男は家族のなかで一人だけ成功して、劇作家になっている。家に12年寄りつかなかったあと、今日帰ってきた。ただ、じつはこの役は家族を一人ずつ見せていくための視点でもあって、ほとんど台詞がない。好感を得られる容姿の知的な俳優をあてればすむようにもみえるけれど、全体のかなめになる求心力があれば画面は深くなる。こうした役で、しばしば美青年俳優は演技力を主張しようとポーズを作り、かえって台無しにしてしまうことがある。この俳優はその穴に落ちないので助かった。粒の大きさは若いころのロバート・デニーロに近いかもしれない。

長男の役はヴァンサン・カッセルが担当した。おなじみのこの役者も練達の技量を発揮している。年恰好からは兄というより父にみえてしまうので、ヘアメイクのスタッフはもう少し若く仕上げてあげればよかったと思う。この長男アントワーヌは劣等感が強く、幼稚で粗暴な言動をくり返すという設定で、彼も冒頭では救いようのないほど愚かにみえる。後半に入って、弟を言葉で苛め抜いていくうちに、じつは鋭い知性と観察力が姿を現す。このあたりは戯曲の優位を感じる。

いっぽうでこの役については一瞬の映像表現が心に残った。弟に殴りかかろうとする瞬間、その拳をカメラが正面からとらえる。関節は荒れ、傷ついていて、つらい肉体労働や家庭内での暴力を一瞬で想像させる。知的専門職の弟とのへだたりを語る、かなしい手だった。非常によかった。

この長男の妻をマリオン・コティヤールが演じた。ここでは賢明な他者として場をなだめる役回りで、ごく自然にこまやかな陰影を出している。演出上は、この人物の二層目はもう少し際立たせることもできた気がした。冒頭では内気で繊細で、そのあと彼女自身の聡明さが明確になる。ただ冒頭からその聡明さがわかってしまう。もっと子供のように無邪気な善良さとして演出しておいてもよかったかもしれない。そうすると途中の、いかにも大人の台詞がはっとするように生きた。でもこれはあきらかに望み過ぎですね。指定すればコティヤールは完璧にできただろうけれど。

年齢の離れた若い妹をレア・セドゥが演じた。自分に自信をもてない欲求不満の思春期の娘の役で、そのとおりにみえた。母に苛立ち、長兄に苛立ち、両腕には派手なタトゥーをいれ、憧れの次兄とは今日初めてゆっくり話をするという設定で、この俳優にとって難しい課題ではなかったと思う。そういえばカッセルとも『美女と野獣』で共演していた。

つまるところフランスの演技派スターが集結していた作品だったのだろう。編集はドラン自身がクレジットされている。2016年年カンヌ映画祭審査員特別グランプリ。パルムドールはケン・ローチの『私は、ダニエル・ブレイク』、審査員長はオーストラリアのジョージ・ミラーだった。『マッドマックス』シリーズを手がけた監督です。主演のユリエルはこの作品でセザール賞の主演男優賞を得ている。

たかが世界の終わり、とつき放した映画版の訳題はよかったと思う。あるいは英訳を参考にしたのかもしれない。It's Only the End of the World.



メモリータグ■けばけばしい母親はたっぷりと塗ったお化粧に加えて、バッグからさらに香水のスプレーを取り出す。首元や耳のあたりにシュッシュッとふりかけて、次男に尋ねる。この香り、どう? かいでみて。近づいて、首元の匂いをかいだ息子は母親とようやく抱擁する。優れた描写だった(登場人物の人格設定にもぴったり)。キスや抱擁といった定型の動作はとかく退屈になりがちなので、本来なにか工夫しなければならない。






0473. あの子を探して (1999)

2018年02月24日 | ヴェネチア映画祭金獅子賞

あの子を探して / チャン・イーモウ 張芸謀
1h 46min. China

一个都不能少 aka. Not One Less (1999)
Directed by Yimou Zhang 張芸謀. Written by Xiangsheng Shi. Based on a story. Cinematography by Yong Hou. Film Editing by Ru Zhai. Music by San Bao. Performed by Minzhi Wei 魏敏芝, Huike Zhang 張慧科. Enman Gao (Teacher Gao). 原作:施祥生『空に太陽がある』


http://netflixinstantplaypicks.blogspot.jp/2010/05/not-one-less-1999.html

中国の幼い子供たちの表情があふれるように愉快でかわいくて、審査員たちもノックアウトされたに違いない。1999年ヴェネチア映画祭金獅子賞。チャン・イーモウが、小学生たちのいきいきした反応を引き出すみごとな演出手腕を発揮している。実際に遊ばせたり授業をしたりしながら撮ったのかもしれない。ひなびた村の、崩れかけた素朴な学舎が澄んだ自然光に浮かび上がる風景もすばらしかった。審査員長はエミール・クストリッツァ、第二席はキアロスタミの『風が吹くまま』。

エンディングロールでは、子供たちがかわるがわる一字ずつ黒板に字を書いていく。ひとつの漢字をチョークで書くたび、みんなで揃ってそれを読む。元気で無心な光景を、固定したカメラがただ映していく。見つめていると、涙が出そうになった。

物語のあらまし:小学校の教師が村を離れるひと月の間、かわりに13歳の少女ミンジが小学生たちを教える。50元というお給料めあての13歳はまことに頼りない。この少女ミンジが理想化されていない「ふつうの子供」であることが鍵で、子供と子供のやりとりは思わず吹き出すような意外性に満ちている。28人のクラスは、もちろんにわか教師の手にはおえず、子供たちの素朴なエネルギーが画面をおおっていく。

手におえないきかん気の少年が一人、ほどなく街へ働きに出されてしまう。「生徒を一人も減らさない」ことがボーナスの条件だったため、焦ったミンジは少年を連れ戻す算段をはじめ、にわか教師と生徒たちはまとまり始める。このくだりのなかで、ミンジが執着している給料50元はごくわずかなおこづかいにすぎないことが観客に示唆される。ところがミンジはわかっていない。こうした思いこみがあたたかいコメディを成立させる要素になる。なんにでもお金を求める取引は子供同士にも浸透していて、この単刀直入な社会の響きが伏線になっていた。

街までのバス代を工面しようと子供たちは煉瓦積みをする。ここも実際には労働契約の体をなしていなくて、「対価」はただ他者の善意であたえられるにすぎないが、ミンジも生徒たちも真剣に労働性を主張してうたがわない。喜劇の条件が成立している。

物語の後半では、少年を探してミンジが街へたどりつく。お金のためだったはずなのにその計算は消えてしまい、逆に手元のお金も探索に使い果たして飢える。生徒を心配して思わず泣いたとき、ミンジはほんとうの先生になっていましたとさ――。という幸福なおとぎ話でおしまい。「一所懸命」という非論理性だけが運命を開いていく、ユーモラスな逆説の物語です。

幼い教師ミンジを演じた少女もきかん気の少年も、いかにも朴訥な容姿で、その起用方針がさすがに非凡だった。幼い生徒と幼い教師はべつべつに街角で飢え、不安に行き惑い、同じように人に助けられ、心から再会を喜ぶ。作品として、人の普遍に達している。というと大げさに響くのですが……。わたしたちおとなだって、とかく真剣に「計算」したり「計画」したりするけれど、実際の現場ではそんな算段はたいがい、一瞬で吹き飛ばされてしまう。

現代の速いカット割りに慣れた目には展開がゆったりして見えるかもしれないけれど、ぜひ映画館にいる気持ちで。ロケ地は河北省赤城県だという。この二十年、中国では多くの農村が激変したことだろう。時がたつにつれて、さらに貴重さを増す作品だと思います。



メモリータグ1■国旗掲揚。これは一見の価値があります。子供たちが毛沢東の賛歌を元気に歌う。意味なんてわかっていないだろうなあ。その無心さに政治性のほうがずり落ちてしまい、ただほほえましい愉しさが画面に満ちる。

メモリータグ2■チョーク。要のモチーフで、みごとに機能していた。チョークは貴重品だが冒頭まもなくミンジは破損させる。最後近く、ミンジは足りない墨汁を水で薄めてポスターを書く。知らず知らず最初の行為をあがなっている。結末ではふんだんにチョークが寄付されたのに、子供たちは節約をつづけて「ひとり一文字だけ」文字を書いていくのだ。





0472. ヴェラ・ドレイク (2004)

2018年02月17日 | ヴェネチア映画祭金獅子賞

ヴェラ・ドレイク / マイク・リー
2h 5 min. UK | France

Vera Drake (2004)
Written and directed by Mike Leigh. Cinematography by Dick Pope. Film Editing by Jim Clark. Performed by Imelda Staunton (Vera), Richard Graham (George), Eddie Marsan (Reg), Anna Keaveney (Nellie).


http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/022/163/67/N000/000/021/137630928060013232082.jpg

脚本は堅牢、演出は名人技。主役も家族も表情がみごとでした。これを引き出したマイク・リーはどういう演技指導をしたのだろう? 『秘密と嘘』で知られるように、この人の成功作は魔法をかけたように自然なやりとりに仕上がる。ここでイメルダ・スタウトンはイギリスの下町の、働き者のおかみさんそのものにみえた。もともとたくみな役者だけれど、おびえた小さな目に涙があふれつづける終盤の表情はありありと身近に感じられる。2004年ヴェネチア映画祭金獅子賞、主演女優賞。審査員長はイギリスのジョン・ブアマンで、『脱出』(1972)『エクスカリバー』(1981)などを撮っている。第二席はアレハンドロ・アメナーバルの『海を飛ぶ夢』だった。

二十世紀なかばのイギリスで妊娠中絶は合法でありえたものの、許可の条件は厳しく、費用も高額だった。善良で貧しいヴェラ・ドレイクは貧しい女性たちを助けようと、違法の中絶を長年無償でおこなっている。消毒液を混ぜた石鹸水を子宮に注入するという方法で、処置を受けた一人の女性が死に瀕する。ヴェラ・ドレイクは告発され、禁固2年6か月の判決を受けて服役する(刑期なかばで釈放される慣例があることが示唆される)。これが物語の大筋だが、彼女がなしたこと、起きたことの評価はあくまで観客に委ねられる。一歩引いたその姿勢に熟慮が感じられた。ケン・ローチの直截な告発とはまたちがう、無言のトーンがマイク・リーらしい。

時代の空気、その階層性。積み上げられていく細部が優れていて、とりわけヴェラ・ドレイクの家族の配役と演出が大きかった。義弟夫妻は成功して、有資産庶民層に上昇しつつあるが、ヴェラ・ドレイク夫婦にその恩恵をあたえることはしない。

強姦されて妊娠した上流知識層の女性のいきさつも、対蹠例としてえがかれる。高額の費用を工面できた彼女はひそかに精神科医の面接をへて合法的な許可を獲得し、設備の整った病院に入院して中絶手術を受ける。しかしここでも、強姦の被害者であることは中絶を許可する条件とみなされていない。作中の強姦者も、なんら責任を問われない。中絶を許可するにあたって唯一考慮されたのは、出産という選択肢を示された令嬢の「それなら死にます」という一言なのである。面接のやりとりのあいだ、そこまでずっと無表情だった精神科医は、このこたえを聞いて初めて満足そうに微笑する。凄かった。あとで調べると、これは母体の生命が危険な場合には中絶を許可するという1928年の条項にあてはまるらしい。

この種の徹底的な形式主義と権威主義がまざまざと描写されていたことは印象に残る。産婦人科医、精神科医、判事、弁護士、刑事、警官、すべて男性である。彼らはヴェラ・ドレイクをはじめとする弱者を断罪する言動とともに登場し、全員が正論を語る。小柄なヴェラ・ドレイクはうちひしがれてただ泣く。彼女は教育など受けていない。働きづめに働いて、なお貧しい。彼女が「助ける」のもすべて女性たちで、社会的階層性に性差の階層性を読みとることができるように仕上げられている。

なおイギリスで19世紀の法律をあてはめると人工妊娠中絶は終身刑らしい。多くの女性が非合法の中絶で犠牲になったのち、1967年になって手術が合法化された。作中で警察官は、しばしば土日に女性が死に瀕すると語る。違法中絶は週末を前におこなわれることが多いためだという。

『主婦マリーがしたこと』(フランス1988)、『4ヶ月、3週と2日』(ルーマニア2007)など、中絶を主題にした作品は多い。モチーフのひとつとして描かれた例は『真夜中の向う側』など数えきれないだろう。フランスの状況はデュヴィヴィエの『舞踏会の手帖』(1937)ですでに間接的に示唆されていた。あれもみごとな場面だった。



メモリータグ■貧しいヴェラ・ドレイクたちにいっさい配慮せず浪費をつづける義妹。彼女はヴェラの行為を最も厳しく断罪して切り捨てる。その態度は観客の共感を得ないように演出されている。






0471. モンスーン・ウェディング (2001)

2018年02月10日 | ヴェネチア映画祭金獅子賞

モンスーン・ウェディング / ミーラー・ナーイル aka. ミラ・ナイール
1h 54 min. India | USA | Italy | Germany | France | UK

Monsoon Wedding (2001)
Directed by Mira Nair, 1957-. Written by Sabrina Dhawan. Cinematography by Declan Quinn. Film Editing by Allyson C. Johnson. Performed by Vasundhara Das (Aditi Verma, Bride), Naseeruddin Shah (Lalit Verma, Father). Lillete Dubey (Pimmi Verma, Mother), Shefali Shah (Ria Verma), Tillotama Shome (Alice), Vijay Raaz (Parabatlal Kanhaiyalal 'P.K.' Dubey, Event Planner).


https://www.scoopwhoop.com/What-The-Cast-of-Monsoon-Wedding-Looks-Like-Now/

こういう元気でまっすぐな受賞作に、たまに出会うとほっとする。公開当時話題になったとおり、インド映画のブームを象徴する作品になった。パンジャブで催されるインド富裕層の結婚式の、とにかく賑やかなこと、大がかりなこと。数日がかりで催しがつづき、ぞくぞくと親族が集まってくるこの時間のなかで、さまざまな家族トラブルがひそかに発生、その複数の流れが描写されていく。初めて顔を合わせた花婿花嫁の微妙な距離、既婚の恋人がいたことを告白しようかと悩む花嫁、豪華絢爛な結婚式の陰で金策に出かける父親の心労、そしてこのさなか、幼い姪に性的虐待をつづけてきた叔父の行為が発覚する。

演出は明快で、おおぜいが再会を喜ぶ場面にふと流れこんでくる異質な緊張も、きちんと表現されていた。観る側はすなおな異文化学習に身をゆだねていけば、豪奢な結婚式を楽しむエンディングにたどりつく。大がかりな式場を設営していく業者の男性も、かたわらで女中さんと恋に落ちる。庶民層にあたる彼の人格設定がユーモラスなアクセントをなし、その小さなあたたかい結婚式にも気持ちがなごんだ。彼はパパゲーノ、この物語は現代インドの『魔笛』です。

愛で終われば喜劇、死で終われば悲劇という古典演劇以来の二大主題は、それぞれ結婚式と葬式の物語でもありうる。創作における普遍の頂点に属する主題を扱ったこの作品は、その意味でもストレートだった。歌と踊りと祝福と、激しいリズムと極彩色、そして出演者たちの愉しげな表情がいかにも幸福な画面を作り出す。織り込まれていくインドの都市の風景ともども、欧州にはない強烈なエネルギーがあふれ出ていた。2001年ヴェネチア映画祭金獅子賞。審査員長はナンニ・モレッティ。モレッティ自身、すなおな作風の持ち主で、相性もよかった気がする。二席にあたる審査員特別大賞(Grand Special Jury Prize)はウルリヒ・ザイドルの『ドッグ・デイズ』Hundstage にあたえられた。



メモリータグ■結婚式の宵、新郎新婦は衣装の裾を結んでちいさな火の回りを一周する。炎の夜明かりがまたたいて、この作品のあたたかい心臓が鼓動していた。


メモ:脚本のサブリナ・ダワン、監督のミラ・ナイールは二人とも女性。ナイールはインドで生まれ、デリー大学とハーヴァードで学んでいる。俳優として経歴を始め、ドキュメンタリー作品をきっかけに監督・制作に転じた。『カーマ・スートラ』(1996)などを撮っている。『モンスーン・ウェディング』は最初、小予算の作品として構想したものの、登場人物が70人近くに増え、上流層の結婚衣装や装飾品なども含めて大規模な予算に膨れ上がったという。