ぐるぐる自転車どこまでも

茨城県を自転車で散歩しながら,水戸藩の歴史について考え,たまにロングライドの大会に出場,旅する中年男の覚書

久慈川サイクリングロード

2013-03-15 07:33:48 | 自転車
暖かくなってきたので地元をサイクリングしてみようと思う。

久慈川サイクリングロードは,地元の自転車乗りにはよく知られている。
サイクリングロードは、久慈川の堤防の上に設けられている。
この堤防はかなり堅固な造りとなっている。

そこで,久慈川の堤防の歴史をひもといてみると,久慈川では洪水が頻発しかなり被害が発生ていたことがわかった。
たとえば,明治23年8月5日、久慈川とその支流の里川、茂宮川が氾濫し大洪水となった。
なんと死者500人余、流失家屋1,800戸、床上浸水家屋は10,000戸にも及んだという。
そのとき,流される屋根の上で助けを求めている人たちがかなりいたという。
そのため,河口の久慈町の漁師さんたちは、漁船で救助活動にあたった。
救助は,上流の東小沢・西小沢・幸久・太田あたりにまで及んだ。

河口から約15キロも上流にある田園地帯である。
その辺は,現在は,静かに田が広がっている地域だが,明治23年には,その上を濁流が暴れ回り,濁流の中,危険を顧みずに,救助のために漁船が助けに来たというのだ。

何度も氾濫し,被害があったため,久慈川の改修,堤防の建設が地元の悲願であった。
久慈川サイクリングロードの背景にはそのような歴史がある。
国道349号の幸久橋のところに,ひっそりと久慈川改修記念碑が立っている。
この記念碑の「窮無澤恵」は当時の内閣総理大臣岸信介の書によるものだという。

久慈川の河川改修は、
堤防の建設工事だけではなく、新たに河川の流れを変更工事なども行われた。
たとえば、河川が合流する箇所は氾濫しやすい。
河合周辺や久慈川河口はそのような大規模な工事が行われている。
その昔、久慈港などは久慈川と茂宮川が合流してL字型に北に流れてから太平洋へつながっていた。
大きな砂州があったため入り口が塞がれるような形であることから、大雨のときは氾濫していた。
そのような箇所が改修された場所がいくつもある。



幸久橋近くの菜の花
久慈川サイクリングロードには、このような風景があふれている。