岡崎直司の岡目八目

歩キ目デス・ウォッチャー岡崎が、足の向くまま気の向くまま、日々のつれづれをつづります。

講武館の⑮

2008-05-09 23:31:22 | 建見楽学


流石に、大屋根のテッペンまで上がると、足の筋肉がコワばる。

築後74年が経過し、セメント瓦の表面も劣化していて、すべり易くなっている。五寸五分はあろうかという急勾配を上がるには、慎重を要する。
今回の調査では、屋根瓦のディテールも採取すべく、設計士さんも頑張って登った。

講武館の⑭

2008-05-09 23:25:30 | 建見楽学


棟瓦(むねがわら)の形状は、通常のシャチホコではなく、アノ大仏殿などに見られる如く“鴟尾(しび)”の形が採用されていて、興味深い。

先ほどの緑色の名残りといい、この棟瓦の形といい、推論を逞(たくま)しくすると、かつての平安京や平城京などが青や赤の瑠璃色をした屋根瓦で輝いていた様をも連想するような古色なスタイルである。
武徳殿という建築スタイルの性格上のことと、素材のセメント瓦の近代性。そうした取り合わせが、この建物の時代としての魅力であるに違いない。

因みに向こうに見える緑色の屋根は、相撲格技場の通称「乙亥(おとい)ドーム」。

講武館の⑫

2008-05-09 23:17:31 | 建見楽学


屋根について、何より驚くのはセメント瓦であること。

昭和9年当時の瓦の近代化が認められて面白い。降(くだ)り棟の瓦には、誇らしげな“武”の文字が、元々のこの建物の素性を物語る。
集会所ではなく、武徳殿としての主張。

今回の地元での聞き取り調査では、当時は「講武館」と呼ばれていたことも判明した。
そして、遠目にはくすんだグレーにしか見えなかった屋根瓦も、こうして接近してよく見ると、元の色と思われる緑色がまだ残っている。

講武館の⑪

2008-05-09 23:10:30 | 建見楽学


大屋根の形状。

入母屋(いりもや)形式の妻側を見る。
破風(はふ・三角形の木部)の形状は千鳥破風。
懸魚(けぎょ)の木彫は一部が欠損している。
外壁の四周、軒周りは何故か洋風デザインの洗い出し仕上げ。

講武館の⑨

2008-05-09 22:59:41 | 建見楽学


梁に墨書がある。

実はコレ、昨年の三月に屋根裏調査をした際に見つかったもの。
横梁に「作人 東宇和郡野村町 昭和九年十二月十五日」。
斜材には「大工 野村町 東 大本民次郎」とそれぞれ書かれている。

棟札こそ見つかっていないが、この墨書のお陰で貴重な建築年が判明。それまでは、旧野村町誌に昭和7年と記載されているのが定説となっていたが、聞き取り調査と合わせて、昭和9年が正しいことが分かった。