岡崎直司の岡目八目

歩キ目デス・ウォッチャー岡崎が、足の向くまま気の向くまま、日々のつれづれをつづります。

おはらい町、⑤  「旧慶光院跡」

2007-10-02 10:15:59 | 建見楽学


現在、おはらい町にあるこの豪壮な屋敷は、「祭主職舎(さいしゅしょくしゃ)」と言って、神宮祭主の宿泊所になっている。

明治期以前には、慶光院という尼寺で、建物群は桃山様式を伝える貴重なもの。これでもか、というような“シャチホコ”を上げた厳しい門は、かつての御師(おんし)の館から移築したもの。
御師とは、朝廷の威光が衰微した鎌倉時代頃から、御札を全国行脚で毎年配り歩いた、権禰宜(ごんねぎ)クラスの言わば伊勢神宮のセールスマン。このことで“お伊勢さん”信仰の全国ネットワーク伊勢講が組織され、以降、朝廷のみによらず新興勢力である武士や、あるいは江戸期には庶民などによっても伊勢神宮を支えるシステムが確立した。
記録によると、江戸前期には外宮側だけでも四百軒近くの御師が居たようで、内宮側のおはらい町も例外ではなく、御師の館が立ち並んでいたという。全国に檀家を十万戸以上持つ御師は、二、三万石の大名を凌ぐ財力だったというからハンパではない。まさにこの門を見る限り、“おんし”なる者が如何に権勢を振るったかが分かろうというもの。

なお慶光院は、戦国時代に式年遷宮が百二十年余にわたって頓挫した頃があり、守悦という尼僧が神宮の剥落ぶりを見かねて勧進聖となり、全国を巡った。このことが多くの庶民の共感を呼び、やがて織田・豊臣・徳川の寄進も受けることとなり、式年遷宮の復活につながった。その功績から、守悦を初代とする尼僧には天皇から慶光院という院号が授けられたとのこと。