岡崎直司の岡目八目

歩キ目デス・ウォッチャー岡崎が、足の向くまま気の向くまま、日々のつれづれをつづります。

「抱石山」の書。

2006-07-23 18:30:59 | Weblog
大梅寺にあるもう一つの扁額。

「抱石山」の書は、この寺の山号だが、賜紫まい巌の銘があり、仏界の最高の法衣である紫衣を天皇からもらった、幕末期の傑僧まい巌(まいがん)の書。
伊達家の菩提寺である宇和島・大隆寺の住職で、勤皇の禅僧。

宗城(むねなり)侯が勤皇の立場で国事に奔走するのを陰で支え、幕末の志士たちとも交わりがあった。


大梅寺の書。

2006-07-23 18:26:59 | Weblog
東多田の町並みに大梅寺という臨済宗の寺院がある。

そこに掲げられた扁額に大書された「大梅寺」は、宇和島藩主伊達宗紀(むねただ)の書である。

幕末期の殿様で百歳まで長生きした春山(しゅんざん)侯の書。

その後を継いだ殿様宗城(むねなり)は、幕末の四賢候(しけんこう・四人の賢い殿様)と呼ばれた中の一人で、司馬遼太郎が小説にしている。
その中央政界で活躍する背景の藩財政の基を築いたのが春山侯だと言われる。


へんろ道標

2006-07-23 16:30:44 | 路上観察
大洲藩鳥坂口留番所住友家から南へ2km余り、町と呼ばれる東多田の町並みがある。
言わば、宇和島藩の最北端の街道集落でもあり、この町家の中には、同藩の番所が大洲藩に対峙して置かれていた。

丁度、この東多田と住友家のある久保との間にある信里(のぶさと)が両藩の緩衝地帯となっていた。伊達家と加藤家とは、外様大名同士とは言え、藩という一国の境界ともなれば、こうした措置が取られていたことが、歴史的事実として興味深い。

その宇和島街道沿いに開けた集落の中ほどに、この道標がある。T字路になっていて、南北どちらから来ても、西に道を取れば、八幡浜に通じる。この昭和4年に建てられた遍路道標には、明石寺へ二里十丁、菅生山へ十八里二十丁とある。
43番札所の明石寺までは8km余り、次の44番札所大宝寺へは72km余り。ここから旧鳥坂(とさか)峠越えをして札掛さん(仏陀懸寺)の番外札所を経由して、同じく番外の十夜ヶ橋(とよがはし)に至り、内子町の大瀬小田川沿いを歩いて久万の44番へと至る。四国遍路の中でも、随分と番打ちの距離が長い区間である。

住友家見学。

2006-07-23 12:33:29 | 建見楽学
この建物は、旧大洲藩鳥坂口留番所(とさかくちどめばんしょ)。

場所は、大洲から宇和に向かう国道56号線の鳥坂(とさか)トンネルを、宇和側に少し下りた右方向。国道から数百メートル向こうに、大きな欅(ケヤキ)の木が立ち土蔵を構えた旧家が山すそに見える。県下でも貴重な旧藩時代の番所、住友家である。

一般公開をされてる訳ではないので、内部見学は出来ない。今も住友家のご子孫がお住まいで、家を守っておられる。22日の梅雨の晴れ間、NHK松山文化センターの講座「古建築と町並み散歩」のメンバーで、外観を見学させてもらった。今回のガイドテーマは「峠と街道文化」。
このあたり久保地区は、現在の行政区では西予市宇和町となっているが、昭和33年までは大洲市の管轄で、旧藩時代は大洲藩の領域であった。
その藩境、宇和島藩との国境を間近にする場所に置かれたのがこの番所住友家である。街道を行き交う人々をここで吟味し、国境の守りを固めた。
屋根瓦は葺き替えられているが、建物は江戸期のものがそのまま残っている。式台付きの堂々とした武家造りで、その千鳥破風(はふ・正面三角の部分)には懸魚(けぎょ・木彫部分)やら卯の毛通しなど、ステータスな建築意匠が施されている。

旧大洲街道がこの家の前を通り、これから鳥坂峠越えをして大洲城下に至る。別の言い方をすれば、現在では殆どの歩き遍路が国道R56号を歩いているが、こちらの峠越えが本来の遍路道である。従って、この番所に至る少し手前、坂の上がり口には遍路道標も建てられている。