岡崎直司の岡目八目

歩キ目デス・ウォッチャー岡崎が、足の向くまま気の向くまま、日々のつれづれをつづります。

左氏珠山の墓参

2006-07-20 18:19:42 | Weblog
今日7月20日は、左氏珠山(さししゅざん)の命日。
明治29年、68歳で不慮の死を遂げて110年。

大雨のさ中ではあったが、珠山顕彰会の方の案内で、宇和島市法円寺にある珠山の墓参りに出かけた。
因みに、8月6日に宇和中町(なかのちょう)で毎年行われる「文化の里まつり」は、そうした宇和に功績のあった先哲法要が元となっている。

と言っても、多分知らない人が殆どに違いない。彼は、二宮敬作に次いで宇和の地に教学の気風を醸した人物で、後にかの「坊ちゃん」に登場する漢学の先生のモデルだとも言われている。
つまり、明治の始め、卯之町の住民が自ら発起して学び舎を作り、珠山がそれを「申義堂」と名づけた。孟子の言葉から引用したと言われ、義を申(かさ)ねるという意味であるらしい。それが後の開明学校となってゆく。

珠山の生まれは舌間村(現八幡浜市舌間)で、21歳の時(嘉永二年)宇和島藩の儒学者上甲振洋(藩校明倫館教授)の弟子となる。やがて卯之町の有志に請われ、中町坪ヶ谷の大師堂で漢学塾を開く。それが申義堂に発展する。松山中学に居たのは晩年64歳(明治25年)から4年間。従って、後半の二年近く、親子以上に年の離れた漱石(30歳前)と同じ職場で過ごしている。

雨の中、墓前に佇み、珠山の墓の右側に建てられた奥さんの墓に興味が引かれた。
明治28年(珠山歿の前年)に亡くなった際、長年苦労をかけた妻を労わる碑文がその墓石に刻まれている。その優しい文章から、夫としてのそこはかとない愛が感じられる。
その墓は、若い頃に漢学を教え、後に立身出世した土居通夫(大阪商工会議所会頭)によって建てられている。