神様から救われてクリスチャンになった後も、誘惑に負けたり、不平不満を言ったり、人を裁いたりなどの罪を何度も犯してしまう自分がいる。
また、辛い状況の中にいると、自分の罪深さや弱さに悩み苦しんでしまい、現実に負けることで、生きることが嫌になってしまう。
でも、聖書の御言葉は『生きていて良かった!』という喜びの力を与えてくれるものだよ。
自分の罪深さや弱さを乗り越え、現実に負けないために、自分の罪を告白し、主イエス・キリストの十字架によって赦されることが大切なんだ。
でも、イエス様の十字架を自分の体験とするためには、罪人の自分がイエス様を十字架につけた…と感じることが必要なんだと思う。
イエス様が十字架で死なれたことで、自分を含めた全人類の全ての罪を贖って下さったんだ。
イエス様は自分の弱さや苦しみを全て担って下さっているんだ。
このイエス様の大きな愛を感じることで、イエス様との生ける交わりを持って、イエス様の内にとどまり続けることが大切なんだ。
【新共同訳聖書 ヨハネの手紙 一 1章9節】
「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」
【新共同訳聖書 ヨハネの手紙 一 2章28~29節】
「さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。
あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。」
【ジョージ・マクドナルド】
「キリストはわたしたちを救うために死んでくださった。
苦しみからではなく、わたしたち自身から。
不正からではなく、ましてや、正義からでもなく、わたしたち自身が正しからざる者であるということから。」
でも、赦されても、また罪を犯してしまうのが人間だ。
罪深さや弱さに悩み苦しんでしまうと、自分がイエス様の内にとどまっていないと不安になる。
また、僕は罪深くて弱い自分の姿ばかり見つめていると、ますます自分が嫌いになるし、神様の前から逃げ出したくなってしまう。
でも、希望はある。
イエス様を信じている僕たちは、すでに『神様の子ども』とされているから。
【新共同訳聖書 ヨハネの手紙 一 3章1~3節】
「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。
愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。
御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。」
【ブレーズ・パスカル】
「イエス・キリストの上に起ったことがすべて、ひとりびとりのクリスチャンの魂と肉体の上にも起るはずだということが、キリスト教の偉大な教えのひとつです。
イエス・キリストが人としての生涯を苦しみぬかれ、この死すべき人の生を死なれ、新しい生命によみがえり、天にのぼり、父なる神の右に座られたそのように、クリスチャンの肉体も魂も苦しまねばならず、死なねばならず、よみがえり、天に昇り、父の右にすわらねばならないのです。 」
僕たちは死んで復活したときに、神の御国でイエス様に似た者となることが約束されている。
なぜなら、神様の御子であるイエス様は罪を全く犯されなかったけど、人間となってこの世に来て下さり、人間と同じ死に方をして下さったのだから。
だから、イエス様の十字架というのは、僕たちが死ぬときも孤独ではなくて、イエス様が共にいて下さることをあらわしているんだ。
そして、イエス様が死なれた後に復活されて、栄光の体で天に昇られたということは、イエス様を信じる僕たちも死んで復活し、天におられるイエス様と似た体となって、神の御国で『神様の子ども』とされて生まれ変わるんだ。
クリスチャンは未来の希望によって生きる人だから、イエス様を信じている僕たちはすでに『神様の子ども』とされているんだ。
この希望があるからこそ、僕たちはイエス様の内にとどまり続けることができるし、神様の前で逃げ出すことなく、神様のみもとに進んで歩み出ることができるんだ。
神様を信じ、罪を悔い改めて、神様の掟を守っていくことで、イエス様の内にとどまっている確信を感じることができますように…☆
【新共同訳聖書 ヘブライ人への手紙 4章16節】
「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」
『天の愛する神様。
僕は日々、罪を犯しています。
自分の罪深い中には善が住んでいないことを知っています。
善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。
自分の望む善は行えず、望まない悪を行ってしまいます。
こんな自分が嫌です。
しかし、神様に自分の罪を告白し、心から悔い改めることで、どうか僕の罪を赦してください。
神様の赦しの恵みを感じることで、罪を犯さない努力をできるように、どうか導いてください。
僕は自分の罪深さや弱さを痛いほど感じると、もうどうにもならない…と自分の無力さに絶望してしまう者です。
しかし、神様は絶望的な状態にいる僕を救おうとしてくださいます。
僕が罪と悲惨のまま死んでいくことを神様は良しとされません。
「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と神様は言われます。【エゼキエル書 18章32節】
どうかいつも神様に立ち帰らせてください。。
そして、すでに『神様の子ども』とされている確信をいつまでも持つことができますように。。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。』
♪BGM♪
「賛美歌320番」
主よ、みもとに近づかん(Nearer, My God, to Thee)
「主よ、みもとに 近づかん
登る道は 十字架に
ありとも など 悲しむべき
主よ、みもとに 近づかん
さすらう間に 日は暮れ
石の上の 仮寝の
夢にもなお 天(あめ)を望み
主よ、みもとに 近づかん
主の使いは み空に
通う梯(はし)の 上より
招きぬれば いざ登りて
主よ、みもとに 近づかん
目覚めて後(のち) 枕の
石を立てて 恵みを
いよよ切に 称えつつぞ
主よ、みもとに 近づかん
うつし世をば 離れて
天駆(あまが)ける日 来たらば
いよよ近く みもとに行き
主の御顔を 仰ぎ見ん」
*********************
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また、辛い状況の中にいると、自分の罪深さや弱さに悩み苦しんでしまい、現実に負けることで、生きることが嫌になってしまう。
でも、聖書の御言葉は『生きていて良かった!』という喜びの力を与えてくれるものだよ。
自分の罪深さや弱さを乗り越え、現実に負けないために、自分の罪を告白し、主イエス・キリストの十字架によって赦されることが大切なんだ。
でも、イエス様の十字架を自分の体験とするためには、罪人の自分がイエス様を十字架につけた…と感じることが必要なんだと思う。
イエス様が十字架で死なれたことで、自分を含めた全人類の全ての罪を贖って下さったんだ。
イエス様は自分の弱さや苦しみを全て担って下さっているんだ。
このイエス様の大きな愛を感じることで、イエス様との生ける交わりを持って、イエス様の内にとどまり続けることが大切なんだ。
【新共同訳聖書 ヨハネの手紙 一 1章9節】
「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」
【新共同訳聖書 ヨハネの手紙 一 2章28~29節】
「さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。
あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。」
【ジョージ・マクドナルド】
「キリストはわたしたちを救うために死んでくださった。
苦しみからではなく、わたしたち自身から。
不正からではなく、ましてや、正義からでもなく、わたしたち自身が正しからざる者であるということから。」
でも、赦されても、また罪を犯してしまうのが人間だ。
罪深さや弱さに悩み苦しんでしまうと、自分がイエス様の内にとどまっていないと不安になる。
また、僕は罪深くて弱い自分の姿ばかり見つめていると、ますます自分が嫌いになるし、神様の前から逃げ出したくなってしまう。
でも、希望はある。
イエス様を信じている僕たちは、すでに『神様の子ども』とされているから。
【新共同訳聖書 ヨハネの手紙 一 3章1~3節】
「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。
愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。
御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。」
【ブレーズ・パスカル】
「イエス・キリストの上に起ったことがすべて、ひとりびとりのクリスチャンの魂と肉体の上にも起るはずだということが、キリスト教の偉大な教えのひとつです。
イエス・キリストが人としての生涯を苦しみぬかれ、この死すべき人の生を死なれ、新しい生命によみがえり、天にのぼり、父なる神の右に座られたそのように、クリスチャンの肉体も魂も苦しまねばならず、死なねばならず、よみがえり、天に昇り、父の右にすわらねばならないのです。 」
僕たちは死んで復活したときに、神の御国でイエス様に似た者となることが約束されている。
なぜなら、神様の御子であるイエス様は罪を全く犯されなかったけど、人間となってこの世に来て下さり、人間と同じ死に方をして下さったのだから。
だから、イエス様の十字架というのは、僕たちが死ぬときも孤独ではなくて、イエス様が共にいて下さることをあらわしているんだ。
そして、イエス様が死なれた後に復活されて、栄光の体で天に昇られたということは、イエス様を信じる僕たちも死んで復活し、天におられるイエス様と似た体となって、神の御国で『神様の子ども』とされて生まれ変わるんだ。
クリスチャンは未来の希望によって生きる人だから、イエス様を信じている僕たちはすでに『神様の子ども』とされているんだ。
この希望があるからこそ、僕たちはイエス様の内にとどまり続けることができるし、神様の前で逃げ出すことなく、神様のみもとに進んで歩み出ることができるんだ。
神様を信じ、罪を悔い改めて、神様の掟を守っていくことで、イエス様の内にとどまっている確信を感じることができますように…☆
【新共同訳聖書 ヘブライ人への手紙 4章16節】
「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」
『天の愛する神様。
僕は日々、罪を犯しています。
自分の罪深い中には善が住んでいないことを知っています。
善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。
自分の望む善は行えず、望まない悪を行ってしまいます。
こんな自分が嫌です。
しかし、神様に自分の罪を告白し、心から悔い改めることで、どうか僕の罪を赦してください。
神様の赦しの恵みを感じることで、罪を犯さない努力をできるように、どうか導いてください。
僕は自分の罪深さや弱さを痛いほど感じると、もうどうにもならない…と自分の無力さに絶望してしまう者です。
しかし、神様は絶望的な状態にいる僕を救おうとしてくださいます。
僕が罪と悲惨のまま死んでいくことを神様は良しとされません。
「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と神様は言われます。【エゼキエル書 18章32節】
どうかいつも神様に立ち帰らせてください。。
そして、すでに『神様の子ども』とされている確信をいつまでも持つことができますように。。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。』
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「賛美歌320番」
主よ、みもとに近づかん(Nearer, My God, to Thee)
「主よ、みもとに 近づかん
登る道は 十字架に
ありとも など 悲しむべき
主よ、みもとに 近づかん
さすらう間に 日は暮れ
石の上の 仮寝の
夢にもなお 天(あめ)を望み
主よ、みもとに 近づかん
主の使いは み空に
通う梯(はし)の 上より
招きぬれば いざ登りて
主よ、みもとに 近づかん
目覚めて後(のち) 枕の
石を立てて 恵みを
いよよ切に 称えつつぞ
主よ、みもとに 近づかん
うつし世をば 離れて
天駆(あまが)ける日 来たらば
いよよ近く みもとに行き
主の御顔を 仰ぎ見ん」
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イエス様は、そういう人間のためにもうすでに救いを完成させて下さってるんだよ。
人間のもともとの性格なんて、そんなに変わらない。
なぜなら原罪というものがあるから…。
同じ事をしてしまう自分が、イエス様の元に立ち返る事、それだけで…よしとされてるんだ。
そのままでいいんだよ。
そういう風に行動できなかったり 感じられなくても それが私たちの現実です。
新しい人に生きる練習をすれば良いだけ!敵は あなたを 罪悪感と 劣等感と まだまだ 先が長いと思わせる。でも もう
完成した 終ったと言われたいえすさまの言葉を信じましょう! その新しい人に生きる練習をしているだけなのだと 気がつけば良いのです。 あなたは もう主のみまえに完全な存在なのですから。
でも それが 影響を与えるでしょう新しい自分に。
でも だまされてはいけない!へびは 私たちを うまい具合にせめるけど 私たちは とことん 主の言われた宣言された通り 新しくされている!!! そうそう 新車を購入してどう運転したら 良いか 学んでいる状態!でも現実は 新車!
自分もそんな器になれるよう、いつも祈りにある生活をしたいなと思っています。
わたしの子どもたちよ
イエスから愛されるために
自分と違ったものになる必要はありません。
信じなさい、あなたたちはイエスにとって
かけがえのないものなのです。
あなたが苦しんでいることを
すべてイエスの足元に運びなさい。
ありのままでイエスから愛されるためには
ただこころを開くだけでいいのです。
残りのことはイエスがしてくれます。
自分の努力ではない 全ては 上からのもの
アブラハムも 彼の何かが すぐれていたからではなく全ては
一方的に 主からの 贈り物です
私たち全てにおいて それは 真理なのです
一昨日メールさせていただきました♪
「新しい人に生きる練習をすれば良いだけ!」の言葉は目から鱗が落ちました。
イエス様を信じた僕たちは新しく生まれ変わらせていただいた者ですから、天国で完全なキリストの聖徒として生きていく練習をこの世でしているんですよね。
練習だから、失敗も成長になるんだ!と感じました。
罪を犯す自分をいつもイエス様の十字架にはりつけて、悔い改め、すでにイエス様を信じる者として新しく生まれ変わらせていただいた確信を持ちながら歩んでいきたいです。
罪を告白することでイエス様の内にとどまり続けたいです。
もう罪と死に支配されてはいませんもんね。。
本当に感謝です。。。