明日を夢見て~神様と筋ジストロフィーと共に生きる~

クリスチャン。デュシェンヌ型筋ジストロフィー患者で電動車椅子と人工呼吸器を使っている。

不十分な人生であっても

2015年06月02日 20時49分59秒 | キリスト教
スイス人の医師 ポール・トゥルニエ の著作『老いの意味』に、
「老いるということは、未完了の仕事を受け入れていくプロセスである」とあります。

多くの人は、人生の中に予期しない出来事を経験したり、意に添わない生活を送ったり、
せっかくの仕事が途中で挫折したり、突然の病に見舞われたりすることもあります。

未完了の仕事を抱えて生きる、これが現実の私たちの人生です。

自らの人生を振り返るとき、
この人生で本当によかった、と言える人はあまり多くないと思います。

特に、生まれつき、あるいは予期しない出来事によって、
自分の責任ではなく、不十分な人生しか送ることができない人にとっては、
この世の価値判断によれば、何のための人生だったのか?という問いを抱えたまま、
死を迎えることになります。

でも、最後には、「私の人生は何だったのか?」「何のために生きてきたのだろうか?」
という問いごと受け入れてくださる神様がおいでになり、
神様が問いごとそっくり未完了の人生を受け取ってくださって、
天国で完成へと導いてくださるのです。

そのことをよく表す言葉に、
「明日が世界の終わりでも、わたしは今日、りんごの木を植える」
というルターの有名な言葉があります。

明日が世界の終わりでも、その向こうに、もうひとつの世界が広がっているから、
今日、りんごの木を植えることができる。

信仰者にとってこれは、究極の神様を信じる終末信仰が言わせる生き方であります。

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↑は【キリスト教カウンセリングの本質とその役割】より抜粋


僕は生まれつきの難病だ。
この世の価値判断で考えれば、不十分な人生を送っている。

一生懸命、勉強を頑張っていた大学受験のときに、
病気が急激に悪化して、未完了のまま受験が終わってしまった。

今も将来に向けて勉強を頑張っているけど、これからも病気は悪化し続け、
全てが未完了のまま終わるかもしれない。

難病で生きる意味が分かったと言っても、
「僕の人生は何なのか?」「何のために生きて来たのでしょうか?」
と病気が悪化する度に嘆いてしまう。

また、いつも自分の限界を感じる。
自分の愛の不完全さ、自分の出来の悪さ、病気の苦しみなど…。

でも、僕は嘆きの問いごと受け止めてくださる神様を信じている。

「私があなたを生まれつきの難病にしたのだから、不十分な人生でも私は受け止める。
あなたにとって万事が益となるように私は導く。」
と神様は仰ってくださる。

人間は死ぬまで不完全だ。
この世では人間の人生は完結しない。

でも、イエス様は死人の中から復活し、死人の復活の初穂となってくださった。

未完了な人生であっても、神様は、僕らを復活を通して完全な身体と霊に生まれ変わらせ、
完全な世界である天国へと導いてくださる。

神様は聖書にある約束を絶対に破らない方です。

この揺るがない希望があるからこそ、僕は日々を一生懸命生き抜いていけるのです。

未完了の仕事を抱えたまま人生が終わってもいいのだ。
天国で完全になれるのだから。


だからこそ、ルターがしたように、今日も僕はりんごの木ならぬ人生という木を植えていきたい。
神様が与えてくださる信仰・希望・愛を栄養にしながら。
これこそ、人間を作るものだ。

不十分な人生であっても、死ぬときに見えてくる風景があるはずだ。
誰にでも、神様から与えられた使命があるのだから。

でも、使命とは、最後まで命を使わなければ、分からないことだと思う。

神様が良しとして下さったことは、僕も良しとしていきたい。
神様は、僕よりもはるかに、僕のことを分かっておられるのだから。

そして、イエス様が与えてくださる復活を信じている人は、
どんなに人生に絶望しても、必ず復活することができるから、
絶望する勇気さえ持つことができるんだ。

イエス様のみ手に支えられて、暗闇の深みへ落ちないように、イエス様は守ってくださるのだから。


たとえ、僕は若く死んだとしても、死んだ後に滅びない栄光の体に復活して、
神の国で永遠の幸せを感じながら、神様と共に永遠に生きることができるから良いのだと思う。

神様との永遠の愛の交わりが、人間にとって最高の幸せであり、究極の生きる目的なのだから。

イエス様を信じた時から、どんな試練があっても、もう復活の栄光は始まっているんだ。

僕は永遠の命へと復活し始めているんだ。

神様の赤ちゃんとして、オギャ~と永遠の命に生まれていくところなんだ。



【新共同訳聖書 ヨハネによる福音書 11章25~26節】

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。
わたしを信じる者は、死んでも生きる。

生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。
このことを信じるか。」


【新共同訳聖書 コロサイの信徒への手紙 3章1~2節】

さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。

そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。

上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。


♪賛美歌404番「山路こえて」♪




 山路こえて ひとりゆけど、
 主の手にすがれる 身はやすけし。

 松のあらし 谷のながれ、
 みつかいの歌も かくやありなん。

 峰の雪と こころきよく、
 雲なきみ空と むねは澄みぬ。

 道けわしく ゆくてとおし、
 こころざすかたに いつか着くらん。

 されども主よ われいのらじ、
 旅路のおわりの ちかかれとは。

 日もくれなば 石のまくら、
 かりねの夢にも み国しのばん


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ありがとうございます。

6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ポール・トゥルニエ (シズコ)
2015-06-03 08:28:12
広輝さん、おはようございます。ご無沙汰してます。
ポール・トゥルニエ、私も好きです。
「老いの意味」は私はまだ未読ですが、「暴力と人間」は、少し読んで、とても考えさせられました。
ブログにもその文章を引用した事があります。→http://blog.goo.ne.jp/j1love/e/39971cabbc6b047a8ada8fffc13f7e50 よろしかったらご覧下さい。
そちらもお暑いでしょうね。山形県も真夏日が続きます。どうぞご自愛下さい。
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濃密な時 (クミイッタ)
2015-06-08 16:32:07
いつも証を読みながら、神様とのとても濃密な時を過ごしておられると感じています。人はみな未完のまま終わるような気がします。ダビデもモーセも・・・。でもこれは一般的表面的な言葉かも知れませんね。広輝さんの無念さは心に留めているつもりです。
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mit leven (S.U)
2015-06-10 19:18:50
広輝さん、主とともに過ごされておられるご様子から、ミット レーベン mit leven ともに居る、ともに生きるという言葉を思い出しました。以前、上司が好きな言葉として教えてくださった言葉です。
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シズコさんへ (広輝)
2015-06-13 13:37:17
こんにちは。
コメントありがとうございます。

「暴力と人間」は読んだことがないのですが、シズコさんの感想を拝見して考えさせられました。
罪ある人間と暴力は切り離せないからこそ、自分の中に暴力が存在しているからこそ、祈りと御言葉によって、自分をコントロールしていくことが大切だと感じました。

今日はよりいっそう暑くなりましたね。。
シズコさんの体調が守られますように祈ります☆
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クミイッタさんへ (広輝)
2015-06-13 13:47:26
こんにちは。
コメントありがとうございます。

人はみんな未完のまま終わりますよね。
そもそも人が完全になろうとすることが、神様から見れば、バベルの塔のようなことかもしれません。
それに、キリスト者の完全は神様との永遠の交わりにあるから、死んだ後に復活させていただくことで、神の国で初めて完全になれるんだと思います。

だから、僕にとって復活が希望です☆
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S.Uさんへ (広輝)
2015-06-13 13:50:02
こんにちは。コメントありがとうございます。素敵な言葉を教えてくださって、感謝です。僕たちは永遠にひとりじゃないんですよね。主とともに生きることが僕たちの幸いだと感じます☆
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