ことばを鍛え、思考を磨く 

長野市の小さな「私塾」発信。要約力、思考力、説明力など「学ぶ力」を伸ばすことを目指しています。

時間の使い方

2006年01月29日 | 日々雑感
部活と勉強をがんばって両立していた中学生が、3年で部活を引退した途端に勉強にも身が入らなくなってしまうことがある。
高校でも、帰宅部の子より部活に熱中している子の方が成績がよいことも多い。

もちろん、勉強ができなくなるまでくたくたに疲れる部活では本末転倒だが、少々忙しい方が時間を大切に使い、集中力も増すということだろう。

これは大人でもみんな経験していること。
仕事でも家事でも、あり余る時間があるときは「いつでもできる」という思いがあるためか、やるべきことがなかなか片づかない。
やることがいっぱいあるときの方が、集中して次から次へと課題をこなせる。
人間とは不思議なものである。

昨日の信濃毎日新聞の投書欄に、車の使用を半分にしたという佐久地方の男性(私と同い年)の話があった。
その中で気になった一節をご紹介する。

「いつでも出掛けられるという車ならではの利便性が、時間の使い方をルーズにしてしまったような気がします。」

時刻表を見る必要がないほど次々に電車が来る都会と違って、地方では公共交通機関は甚だ使い勝手が悪い。
私の町のように電車の駅そのものが存在しない(「最寄り」の駅まで20km以上)所もあるし、あっても1時間に1、2本しか列車が来ない所も多い。

長野市街から私の町に来るバスは1時間に1本。
それも町の中心部までで、私の住む集落には町営バスに乗り継がないと辿り着けない。
日曜日には町営バスは走らないので、車がないと動きが取れなくなる。

結局、長野市方面へ通勤する人はほぼ100%マイカー通勤。
高校などへの子どもの通学も、親が長野まで送迎している家庭もあるし、少なくとも町中心部までは車が頼りである。

特に私の仕事は夜が遅いので、バスはとっくになくなっている。
車がなければ1日も立ち行かない。

それがあたり前すぎて、時間の使い方など深く考えたこともなかった。
いや、逆に、車があるから効率的に時間が使えているのだと信じて疑わなかったのだ。
家を出る時刻が予定より4,5分遅くなっても、車なら大した遅れもなく塾に着ける。
バスや電車ではそうは行かない。
2,3分の遅れがたちまち1時間の遅れに広がってしまう...。

しかし、この投書を読んで改めて考えた。
多少時刻がずれてもいいという安心感が、密度の低い時間を作り出しているのではないか。
もう少し、もう少しとダラダラ仕事を続けていたり、けじめのない日常生活を送っているのではないか。


特に、教材を作ったり文章を書いたりという作業は、どこかで区切りをつけないと際限がなくなる。
もっとよいものをという思いがあればこそ、いくら時間があっても足りなくなるのだ。
私のような個人塾では、自分で締め切りを決めてそれを遵守するようにしないと大変なことになる。

現状では車を使わない生活は不可能だが、何時までには必ずこれを片づけるとか、何時を過ぎたら塾を出るとか、けじめをつけた生活を送ることを考えてみたい。

時間をかけさえすればいいものができるとは限らない。
むしろ短時間集中で行った作業の方が質の高いものを産むのではないだろうか。


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聞くは一生の損

2006年01月26日 | 学習一般
私はめったに人に道を聞かない。
地図を見るのが好きということもあるが、初めての場所でも近くまで行ったらあとは勘で何とか目的地にたどり着く。

対して、すぐに誰かに道を聞きたがる人もいる。
妻もそうだ。
初めて行く場所が私の知っている所だと、まず出発前に念入りに私に道を聞く。
現地で少しでも迷ったら、道行く人に尋ねる。

この違いはどこから来ているのか?
社交的とか人見知りしないとか、性格的なことなのだろうか?

それもあるかも知れないが、私はとにかく自分の力で行きたいのである。
人に教えてもらってたどり着いたのでは達成感が乏しい。
地図というのは普通の理解力と方向感覚があれば迷わないようにできているはずである。
その地図に負けるのは甚だシャクなのだ。

「聞くは一時の恥」ということわざがある。
後に「聞かぬは一生の恥(or末代の恥)」と続く。
礼儀作法や仕事の進め方などがわからなければ恥を忍んで人に聞け、間違ったままでは一生恥をかくぞという意味である。

作法とか慣習などについては確かにその方がいいかも知れない。
失敗を重ねることにあまり寛容でない世界だからである。
しかし、こと学習に関しては、これは必ずしも薦められるべきものではないのではないか。
壁にぶつかるたびに人を頼っていたのでは、いつまでたっても地力はつかないのではないだろうか。

宮本哲也という人がいる。
中学受験の算数塾を主宰し、毎年8割以上の生徒を首都圏トップクラス高(開成、麻布、筑駒、フェリスなど)に合格させているという。
しかも入塾時の選抜試験はなく、無試験先着順で受けつけているそうだ。
決して初めから優秀な子どもたちのみを選んでいるわけではないのだ。

彼の著書「強育論」の中にこんな記述がある。
「聞くは一生の損」
「人に質問して説明を受け、わかったような気になった問題は「済」の引き出しに入るので、頭はそれ以上その問題について考えようとはし」なくなる。
いくら考えても解けない問題は「未済」の引き出しに入り、頭の隅で常に考えているので、ある時ふとその答がひらめくと言うのだ。
だから「頭の中を疑問符でいっぱいにする」ことが大切だと説いている。

これには全面的に賛成である。
ちょっと考えてわからないからすぐに人に聞くとか答を見るという学習ばかりを続けていては、いくら勉強しても思考力は養われない。
考えて考えて考え抜いて、それでもわからない問題を抱え続けるという体験を多くの子どもにしてほしいと思う。

一般的に、質問をたくさんすることがよいこと、そしてその質問にたくさん答えてくれる先生がよい先生という誤解があるように感じる。
学習している内容が全くわかっていなければ質問のしようがない。
質問が出るというのは理解が深まり、さらにそのことを知りたいという積極的な姿勢の現れであろう。
だから上記のような思い込みが生まれるのだ。

学習の過程で疑問が生まれるのは当たり前である。
何の疑問もなく教わったことを丸飲みするよりは、ずっと好ましいことである。
常になぜ?だから?などと問う姿勢を持ち続けてもらいたい。
ただ、だからこそ、その疑問を大事にしてほしいのである。
正解をすぐ知るよりも、的外れでもいいから自分なりに考えて自分なりの答を出してほしいのだ。

もちろん疑問のレベルにもよる。
基礎にあたる部分で疑問だらけでは一向に進めない。
基本的な問題に関しては十分な理解ができるまで、ある程度助け船を出してあげることも必要かも知れない。

宮本氏の塾は質問は一切禁止だそうである。
私はとてもそこまでは徹底できないだろうが、質問に対してはできるだけ自分で考えさせるような受け答えをするよう心がけたいと思う。

もっとも、今は人に聞かなくてもネットで検索をかければたちどころに答が得られる。
これなら「一時の恥」もかかなくて済む。
で、そこから得た答を自分で消化することなく安易に「わかったつもり」になってしまう。
これが一番問題かも知れない....。


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指切りげんまん

2006年01月22日 | ことば・国語
私は高校の教科の中で古文が一番好きだった。
授業で「堤中納言物語」を学び、「虫めづる姫君」という毛虫が大好きなお姫様の話を読んで、教訓臭い話ばかりでなくこんな面白い作品もあるんだと古典に目覚めたのである。

百人一首はすべて覚えた。
もちろん一つ一つの歌の意味とか、修飾表現とかをきちんと理解しながら...。
これでだいぶ文法にも強くなったと思う。
古文が苦手な人にはぜひお勧めしたい学習法である。
私の場合はそれがさらに大学時代に競技かるたまで発展し、地方大会での優勝や2段取得というオマケまで付いてきたのだが...。

そんなわけで古典一般に興味があったのだが、高校時代、谷崎潤一郎を片っ端から読んでいた時期に「蓼食う虫」という小説に出会った。
細かい所は忘れてしまったが、主人公の男が文楽の娘人形に恋をするという話だったと思う。
それを読んでから一挙に文楽(人形浄瑠璃)に対する憧れが芽生えた。

市販されている近松門左衛門の作品を読み、「語り」独特のリズム、七五調の心地よさにうっとりした。
いつか本物の文楽を観に行きたいと思っていたのが、大学の時に念願叶い、初めて国立劇場で「曽根崎心中」を観た。
そしてみごとに、私も「お初」の人形に惚れてしまったのだ。
人形そのものも美しいのだが、3人で操る動き、仕草が、まるで生きているように艶っぽくなまめかしい。

それからは、ビジュアル版の文楽の本を傍らに置きながら、特にその「道行きの段」は諳(そら)んじられるまで読み込んだものである。

前置きが長くなった。
実は先日、大好きな「その時歴史が動いた」という番組で「曽根崎心中」がテーマになっていたのである。
仕事の都合でいつも再放送で見ているので、本放送より一週遅れで夜中に見た。

1時間に満たない番組だが、知らなかったことが満載で大いに満足できる内容だった。
近松が武士の身分を捨て、浄瑠璃を書くために町人になったこと。
それまで低かった作者の地位を、「作者・近松門左衛門」と台本の初めに明記することで高めたことなどなど...。

そして今日のテーマの「指切り」である。
その言葉の由来を初めて知った。
驚いた!
「指切り」の語源など考えたこともなかったが、「曽根崎心中」を通して知るとは...。

子どもが「指切りげんまん...」と小指を絡めている光景はほほえましいが、「指切り」という語は「遊女が客に愛情の不変を誓う証として、小指を切断していたことに由来」していたのである。→「語源由来辞典」
なんと、本当に指を切っていたのだ!

「げんまん」の方は「拳万」と書き、握りこぶしで1万回殴る制裁の意味だということで、こちらはまだ可愛い。
その後に続く「針千本飲ます」とともに、約束をきちんと守らせるためにあとから付け加えられたものだろうとされている。(by「語源由来辞典」)

それにしても「指切り」の由来は凄まじい。
それがいつ頃、どのようないきさつで小指を絡ませる仕草に変わったのだろう。
韓国や香港、ベトナムなどにも、約束のとき日本と同様のジェスチャーをする習慣があるようだが、そうすると大陸から伝わってきたものを血なまぐさい「指切り」の代用にしたということだろうか...。
欧米には「指切り」があるのかどうか、ご存知の方があれば教えていただきたい。


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太陽がいっぱい

2006年01月18日 | 日々雑感
前にも書きましたが、雪国に暮らしていると太陽のありがたさが身に浸みます。
冬至を過ぎてから一日ごとに陽差しが強くなってきました。
寒気のせいで屋根の雪はまだ凍ったままの所もありますが、直射日光に当たる場所は早くも春の気配が漂います。
冷えきった古民家の中より外の方がずっと暖かい...。

人間が本来持っている1日の単位は25時間だそうですね。
それを毎日1時間早める、すなわち体内時計をリセットするためには太陽の光を浴びることが必要だということです。→「体内時計のネジをまこう!」
職業柄どうしても夜型、インドア型の生活になってしまうのですが、できるだけお日様の下で過ごす時間を確保したいと思っています。

なんと言っても太陽は偉大ですね。
体内時計のことだけでなく、日を浴びることで生命力が供給される気がします。
健康にいいのはもちろんですが、気分的にも前向きに明るくなれるのが素晴らしい!
オゾンホールの影響で思いっきり日光浴もできないニュージーランドやオーストラリアの人々が気の毒です。

動物や植物だって同じこと。
私は田舎暮らしに憧れて東京からIターンで(どこが「ターン」やねん!)信州に来ました。
そして自然卵養鶏をしたくて今の町に来たのです。
鶏をケージに閉じこめずに自由に動ける土の上で飼い(=平飼い)、太陽をたっぷり浴びさせる。
餌もできるだけ素性のはっきりした材料を自家配合して与え、緑草や野菜もたくさん食べさせる。
それが自然卵養鶏です。
(今は大幅に縮小して自家用程度しか飼っていませんが...。)

都会の子どもの中には、卵もどこかの工場で作られていると思っている子もいるそうです。
その無知を笑うことは簡単ですが、実はあながち間違っているとも言えないのです。
今の日本に出回っている卵の大半は大手の養鶏業者が生産したもの。
「大手」ってどのくらいの規模だと思いますか?
1万羽飼っていても「大手」と呼ばれないんですよ!
ご存知のように、卵は何十年もほとんど価格が上昇していない物価の優等生です。
それを支えているのが薄利多売システムなんですね。

何万羽、何十万羽の飼育は平飼いでは不可能です。
6段も7段も積み重なったケージの列が何十メートルも続き、それが何列もあって一つの鶏舎で5千羽、1万羽いることも...。
病気の発生を抑えるため完全隔離された鶏舎には窓もなく、光も温度もすべて機械でコントロールされています。
給餌も集卵もすべて自動。
中枢部分を生き物がまかなっているということ以外、全自動化された工場と変わりません。

一生、太陽の光を浴びたこともそよ風に吹かれたこともない、ミミズをつついたり砂浴びをしたこともない鶏たち。
そんな鶏が産んだ卵と自然卵養鶏の卵、どちらがおいしいと思いますか?

先日、大手町だか霞ヶ関だかのビルの地下で育てた稲の収穫のニュースを見ました。
銀行の地下金庫だった広大なスペースに田を作り、人工の太陽と空調で栽培したそうです。
これも卵と同じですね。
見た目は立派な稲を、背広姿のおじさん達が刈り取っている光景を見て、「なんだかなァ」という思いを強くしました。

私は多少見てくれは悪かろうが、太陽の恵みを受けた農産物を食したいですね。
早寝早起きをし、そういう物を腹八分目に食べ、お日様の光をたっぷり浴びて働く....それが本当の人間の生活だと思います。
今のところ全然実行できていませんが...。
少なくとも「お天道様に顔向けできない」身にはならないよう、太陽がいっぱいの人生を送りたいものですね。


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「不許可」と「無許可」

2006年01月15日 | ことば・国語
昨年10月からメンバーに入れてもらった「考える学習をすすめる会」のHPには、「勉強応援掲示板」というのがあって勉強についての質問を受け付けている。
中学生からの質問が多いが、高校生、小学生、さらに親からのものも少なくない。
回答は自分の得意分野を中心に、メンバー(すべて個人塾の塾長)の一人が責任を持って行っている。

私は別に国語が専門でもないのだが、このブログのタイトルにもある通りことばにこだわるのは好きなので、その関係の質問は最近では私が担当するようになった。
そんな中で、昨日答えた質問はかなり奥が深そうなので紹介させていただく。

中3生からの質問で、「非」や「不」「無」という否定の接頭語の使い分けについてである。
例として「不明朗」「不自由」「非常識」「非公開」「無抵抗」の5つが挙げてあり、どういう場合にどの接頭語が付くのか教えてほしいという内容であった。

以下、私が書いたレスをそのまま転載する(一部略)。

漢字の意味は「非」=「~にあらず」、「不」=「~せず」、「無」=「~なし」ですね。このうち「非」については、「不」や「無」に比べて善悪の価値観が伴うことが多いようです。たとえば「非常識」「非科学的」などは批判的なニュアンスが強いですね。「非公開」はそういうイメージはありませんが、「公開しない方が妥当(善である)とする判断」が裏に隠れている気がします。

難しいのは「不」と「無」の違い。いろいろ考えたのですが明確にできません。とりあえず挙げてみますよ。

①まず言えるのは、「不」は動詞や形容詞に付き、「無」は名詞に付くという原則です。「不通」「不在」「不眠不休」や「不純」「不良」、「無意識」「無名」「無条件」などはわかりやすいですね。「不明朗」「不自由」などは一見名詞の前についていると思えますが、もとは「明朗だ」「自由だ」という形容動詞からできているので「不」。「無抵抗」の「抵抗」は「抵抗する」という動詞とも考えられますが、「○○する」型の動詞は名詞が変化したものと考えた方が良さそうです。ただし「勉強(する)」の否定は「不勉強」なので例外もありそうです。

②「無」がゼロなのに対し、「不」には「少しはある」というイメージがあるようです。「無料」「無人」と「不漁」「不作」「不利」などを比べてみてください。「不便」というのも全く便がないわけではありませんね。ただ、「無名」や「無能」もゼロではありませんね。狭い範囲には名が知られているわけだし、能力が全くないわけでもありません。

③ネットで調べたときに見かけたのですが、「不」を使うか「無」を使うかは、ペアになる語で決まるという意見もあります。特に「有」が付く語に対しては「無」が付きます。たとえば「有理数」に対する「無理数」、「有料」に対する「無料」、「有限」に対する「無限」などがそうです。「不」の方は「有明朗」「有自由」とは言いません。しかしこれにも例外がありますね。「無抵抗」に対して「有抵抗」とは言わないし、「有利」に対しては「不利」と言いますから。

結局どの説にしても例外があって断定はできません。①が大原則ということは間違いありませんが、「不」と「無」どちらも使える例も結構あります。「案内」「気味」「器用」「作法」などは、いずれも「ぶ」という読みで「不」「無」両方とも使えるのです。


ここからは3時間後に書いた追加レスです。

やはり①の考え方を基本に使い分けるのがいいようです。「不」「無」どちらも使うけれど微妙に意味が異なるものを考察してみました。

「無使用」と「不使用」
「無使用」は「使用が無い」=「使っていない」という状況を表し、「不使用」は「使わない」という動作に重きを置いている感じがします。

「無許可」と「不許可」
「無許可」は「許可が無い」=「許可されていない」という受け身のイメージで、「不許可」は「許可しない」という能動的・主体的イメージです。

「無敗」と「不敗」
「無敗」は「敗戦が無い」という状況を表しているだけですが、「不敗」からは「これからも負けない」という意志のようなものが感じられます。

名詞に「無」を付けた形は静的、客観的、受動的なニュアンスで、動詞に「不」を付けた形は動的、主観的、能動的なニュアンスがあるように私には感じられました。

「無抵抗」も「無抵抗な子ども相手に」など、客体(相手)が抵抗したくてもできない状況の時に使うことが多いのではないかな?ガンジーのように自ら主体的に「(暴力による)抵抗はしないぞ!」という態度を取るときは「不抵抗」と言ってもいいように思うのですが....。


正直なところ、まだはっきりと使い分けがわかったわけではない。
そんなに厳格なルールはないのかも知れないし、時代と共に変わっていく面もあるだろう。
ただ、すべてを「知っていないとわからない」状態のままにしておくのはスッキリしない。
私が気づいていない規則や慣例があれば、どなたか教えてもらえないだろうか。


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二宮金次郎

2006年01月12日 | 日々雑感
以前の記事でちょっとだけ二宮金次郎の銅像について触れたことがあります。
真面目に勉学に励むことを「ダサい」と見なすような風潮と共に小学校の金次郎像も消えてきたという内容でした。

昨日新聞の地域面を見ていたら、「二宮金次郎像「代替わり」」という記事を見つけました。
場所は長野市の小学校。
65年前の初代銅像から数えて3代目だそうです。
2代目のコンクリート像は老朽化で倒壊の恐れが出てきたため、昨年9月に撤去。
それ以来土台だけ残っていた所に、地元の有力者が石像を寄贈したとのことです。

全国からどんどんなくなっていくものだとばかり思っていたら、こんな形で復活している所もあるんですね。
ちょっとビックリ&感激でした。

二宮金次郎像は昭和の初め頃から全国の学校に置かれました。
修身教育において「勤勉」の象徴として採り上げられたことから、学校現場に設置するにふさわしいと考えられたようです。
どこの像も同じかと思ったら、どちらの足が前かとか、もんぺを履いているかなど微妙な違いがあるとのこと。→「実在しない二宮金次郎と銅像の検証」

戦時中の金属供出で撤去され、その後再建したものはコンクリート像や石像で時と共に風化し、いつかと数が少なくなってきたようです。
また、薪を背負いながら本を読んでいるあのポーズが歴史的事実に基づいていない、子どもがマネをすると交通事故につながるなどの要素も、像再建へのマイナス要因となったとのこと。
もっとも地域差もかなりあるようで、さすがにゆかりの地では100%の小学校に現存するとか....。

金次郎はもちろん後の二宮尊徳。
農村復興運動の指導で有名で、飢饉の兆候をいち早く捉えて村を救った(一人の餓死者も出さなかった)とか、藩内の一斗マスを統一規格化して役人の不正を防いだとかの逸話が残っています。
農家の出ですが勉学に励み、数々の功が認められて武士にまでなっています(その時から苗字が付いて「二宮尊徳」)。
そのあたりが「勤勉」の象徴たるゆえんなんでしょうね。

さらに注目すべきはその「報徳思想」です。
Wikipediaによれば「経済と道徳の融和を訴え、私利私欲に走るのではなく社会に貢献すれば、いずれ自らに還元されると説く」とのこと。
マネーゲームに明け暮れたり、詐欺まがいのことをしてまで儲けようとする今の日本の大人たちに少しでもかじってもらいたい考え方です。

「勤勉」にしろ「報徳」にしろ、古くさいなどと言っていないで今こそその価値を考え直さなければいけないときではないでしょうか。
金次郎像を受け継いでいくと共に、その生き様や思想にも多くの人に関心を持ってもらいたいと思います。


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過去形のニュアンス

2006年01月09日 | ことば・国語
正月のテレビはバラエティの特番ばかりで、見たいものがほとんどありませんでした。
そんな中、たまたまチャンネルを合わせたNKH教育テレビで面白い番組に出会いました。→「ハートで感じる英文法」
昨年放送された3回分だか4回分の総集編(再放送)だということで、今調べてみたら巷では昨年からすでに話題に上っていたようです。

内容はタイトルからわかる通り、英文法を小難しい理屈ではなく感覚やイメージで理解しようという最近よくあるパターンですが、これが実にわかりやすかった...。

最も印象に残っているのが過去形の使い方です。
英語では would や could など助動詞の過去形を使うことで婉曲な表現になり、日本語の敬語的なニュアンスを伝えることができるということは知っていました。
また、仮定法では現在のことでも過去形を使うということも、知識としては知っていましたが、ではなぜそうなるのかについては全くわかっていませんでした。

その謎を、この番組では2つのキーワードで明解に説き明かしてくれました。
いわく、過去形のイメージは「距離感」と「現実離れ」
距離を置くべき、あるいは感じる相手には過去形を使う。
ありえない仮定の話にも過去形を使う。
過ぎ去った時間は取り戻せない、どんどんと多くへ行ってしまうという意識から生まれた表現ではないでしょうか。

この説明なら同じ if を使って「もし~なら」と訳しても、単なる「条件」の場合は過去形を伴わないことも理解しやすいですね。
「もし私が鳥なら」は現実離れしていますが、「もしこれをよく読めば」は起こりうる可能性が高いですから...。

「仮定法」というきっちりした形でなくても、たとえば「道で大金を拾うかも知れない」というときは may よりも might の方がふさわしいそうです。
ここにもも「現実離れ」のニュアンス(=そんなことあるわけない)が含まれているわけですね。

すなわち、同じことを表現する場合でも、話者の意識によって現在形や過去形、はたまた未来形が使い分けられているということなのでしょう。
英語もなかなか奥が深そうです。

ところで、間違った日本語のやり玉に挙げられることの多い、マニュアル的接客用語の一つに「○○でよろしかったでしょうか?」というのがありますね。
なんで過去形やねん!...というアレです。
どうやら「過去形にする=敬語、丁寧語になる」と思っている若者が多そうな気がします。

小学生に国語を教えているときも同じような例に出会うことがあります。
「行きます」にすべきところを「行く」と答えた子に、「丁寧な言い方にして」とアドバイスすると「行った」になることが少なくないのです。
中学生でもそういうことが....。

ひょっとして、英語での表現法が日本語にも及び始めているのでしょうか?
そうすると仮定法も....。
アレ?日本語でも「もし○○だったら」と仮定のときに過去形を使うこともありますね。
日本語の過去形にも元々「距離感」や「現実離れ」のイメージが潜んでいるのでしょうか?
...混乱してきました....。


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答が出なくてもいい

2006年01月05日 | 「教室だより」から
以下の文章は塾の「教室だより」1月号に載せたものです。
保護者、生徒向けなのでいつもの記事とは若干色合いが異なります。
その点ご了承願います。

------------------------------------------------------------------
先月号でノートの使い方について話をしましたが、ちょっとその続きから....。
当塾では問題集の答は必ずノートに記入させていますが、答合わせの際、間違ったところは赤ペンで正解を書き込んで終わり....という子がとても多いのです。
問題をたくさんやって、ノートもいっぱい使って、それで勉強したつもりになっているのでしょう。

とんでもない!こんな勉強を何時間やっても力はつきません。
間違った所、わからなかった所は解説を読んですぐにもう一度やってみる。
「なるほど」と読んでいるだけではダメですよ。
必ず手を動かして実際に解いてみる。
選択問題なら記号を写すだけではなく全文を書く。
そこまでやって、それでも納得がいかないところは質問する。
それでやっと新たな学力が自分のものになるのです。

そもそも、できる問題だけをいくらこなしても、それは確認作業だけで学力アップには繋がらないのではないでしょうか。
基礎を身につけるまではある程度の問題をこなすことも有効ですが、そこから先は量ではありません。
機械的、反射的に答が出てくる問題をたくさんやるより、少ない問題数でいいからじっくり考えることが大切です。

たとえば「建武の新政」と聞いて「後醍醐天皇」「足利尊氏」などと答えるだけではなく、新政はなぜ失敗したのか、その後の朝廷の動きは?などを問う問題にあたってみる。
適当な問題が見つからなければ自分から調べてみる。
もちろんそのためには、なぜ?だから?本当に?など常に疑問を持つ学習態度が備わっていることが前提ですが....。

生徒にはできるだけ早く基礎力を身につけ、思考力を要する問題に進んでほしいと願っています。
極端な話、数学の超難問を1日1問解くだけでもいいのです。
いや、1問も解けなくても構いません。
ただし、考えて考えて、ああでもない、こうしたらどうかと試行錯誤を繰り返し挑戦し続けることが条件です。


図を描いたり補助線を引いたり、いろいろな角度から考えてみる。
たとえ正解にたどり着かなくても、この過程で頭はずいぶん鍛えられるのではないでしょうか。

もう一度言います。
問題集でできた所は放っておいてもいいのです(偶然当たったのは別!)。
できなかった問題こそ力を伸ばす絶好の材料なのです。
そこを徹底的に理解できるようにしましょう。
そして量をこなすことにとらわれず、考えることを楽しみながら良質の問題をじっくり解きましょう。そうすればあなたも確実に、トップクラスの仲間入りができますよ!


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GNH(国民総幸福量)

2006年01月02日 | 日々雑感
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。


元日に届いた年賀状を読んでいたら、会社勤めをしていた頃の後輩(女性)からの1枚が目に留まりました。
毎年写真と共に手書きでビッシリと近況が書いてあるのですが、昨年はブータンに行って来たということです。

ブータンについては私も前から少し興味があったのですが、いつもコメントを頂くJack Amanoさんから「幸福量を国家目標の指標にしている」国だと教えてもらってから、ますます詳しく知りたくなったのです。

年賀状にも「GNH」という言葉がありました。
GNPの「P」の代わりに「H」、つまりhappinessですね。
「国民総幸福量」というところでしょうか。
国家目標としてこんな素敵なことを掲げている国があるんですね。

経済優先、効率化オンリーで進んできた先進国を反面教師とし、自然環境や人間関係の濃密さ、精神的な豊かさを重んじる。
正にスローライフの思想ですね。
今話題の映画「ALWAYS 三丁目の夕日」の世界です。

もちろんブータンでも経済発展を全く無視しているわけではありません。
GNPの増加も大事な目標の一つになっています。
でも、だからといって急がない....。
GNHのアップとの両立を目指しているのでしょう。
もっとも、最近はテレビやインターネットの普及で、若者たちの間では華やかな経済大国への憧れも増大しているようですが....。

大晦日の信濃毎日新聞に書いてあったことですが、明治の初めの日本には「大国主義と小国主義の両方の選択肢が示されていた」そうです。
岩倉使節団の記録には、ベルギーやオランダ、スイスなど小国にも高い関心と評価が記されているとのこと。
また、自由民権運動時に植木枝盛が作った憲法草案も、小国を目指したものだったようです。

しかし結局、日本は大国主義の道を歩み、大きな犠牲を払いながらも世界屈指の経済大国になりました。
高い収入、溢れる「物」、便利な暮らし、....。
でも一方でいろいろな歪みが出てきている今の日本を見て、このままでいいのかと多くの人が考え始めています。
上にも書いたスローライフが注目されたり、古き良き昭和30年代を描いた映画が人気を博したりするのも、そうした潮流の現れでしょう。

これも信濃毎日新聞(2006.1.1)に載っていたデータ。
洗剤メーカーがネット上で行ったアンケートの結果です。
「今後も社会は経済成長を重視すべきか」という問に対し、「大いに思う」+「思う」が最も少なかったのは、なんと40代でした(43.1%)。
かたや「あまり思わない」+「思わない」は49.0%。

5割近くが経済成長に疑問を投げかけていることになります。

「思う」派は60代以上で60.0%、50代で52.8%。で、40代で最低になります。
そこまではわかるのですが、以外だったのが30代からまた「思う」派が増えること。
20代で6割近くまで増え、10代では60代以上を上回る64.5%が経済成長を支持しているのです。
これはどういうことでしょう。
昨今の「勝ち組・負け組」思想も少なからず影響しているのかも知れません。
どうも我々の世代がGNPからGNHへの舵をきらないと、また終わりのない拡大再生産に突っ走ることになりそうですね。

以前、作家の高橋源一郎さんがこんなことを言っていました。
「世界に冠たる国を作るとか、新しい歴史を作るとか、安保理の常任理事国になるとか、そんな余計なことはしなくて結構。そんなことより、小さく、静かで、たそがれた国を目指す方が、なんだか楽しそうではありませんか。」

甘いとか、軟弱と言われるかも知れませんが、私はこの意見を支持します。
そんな「愛国心」があってもいいのでは?と思うのです。
今年はブータンのこと、そしてGNHのこと、じっくり勉強してみるつもりです。
GNH-STUDY.COM


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