ことばを鍛え、思考を磨く 

長野市の小さな「私塾」発信。要約力、思考力、説明力など「学ぶ力」を伸ばすことを目指しています。

ジーコが残したもの

2006年06月26日 | 学習一般
ドイツW杯、日本は予選リーグで敗退という残念な結果に終わった。
あとは純粋に、世界のトップレベルの試合を楽しみたい。

そしてジーコが日本代表監督の座を去る。
最後は今回の結果を受け、その指導力に対する疑問の声が吹き荒れる中、きわめて簡単に交代劇が進められようとしている。
マスコミの注目は次のオシムに向かうばかりだ。

ジーコの采配については、私も選手起用などで納得の行かない面もあった。
しかし彼がかかげた「選手が考えるサッカー」という理念には、大いに共感するものがあった。

私はサッカーに詳しいわけでは決してない。
戦術面の細かいことはわからない。
だから、これはあくまでも教育論としての意見である。

前代表監督のトルシエのサッカーを表す「管理」「組織」というキーワードに対し、ジーコのそれは「自由」「個人」であった。
ジーコが就任してしばらくは思うような結果が出なかったが、W杯最終予選では彼の考えるサッカーが結実したという評価が多かった。

今回のW杯の惨敗で彼の理念が全否定され、一億総バッシングのようなムードが出始めていることに少々うんざりしている。
また管理型のサッカー待望論が主流になってくるのでは?と懸念しているのだ。
その方が、もともと「和」を好む日本人の気質に合っているのかも知れないが...。

ジーコの理念そのものは間違っていなかったと思う。
監督の指示のままに選手が一つの駒になって動く組織としてのサッカーは、一時的には強くなるかも知れないが、底力は育たないのではないか。
チーム競技である以上、組織としての動きが大切なのは当然である。
しかし、選手個人が思考を停止し、「指示待ち族」に成り下がってしまっては勝てるわけがない。

刻々と変わる状況に、何が最善か自分で判断して対処できる力を選手ひとり一人が持っている、それが結果として組織としての強さにも繋がっているというのが理想のチームだろう。
決して先に組織ありきではないと思う。

ビジネスの世界ではとっくにそういう方向へシフトしているのではないか。
先行きの不透明な時代には、トップの指示に従うだけの社員は要らない。
臨機応変に、自分の頭で考えることのできる人間が不可欠なのだ。

日本では伝統的に「和」が重視され、自分を主張することの大切さが軽んじられてきた。
こう書くと「主張ばかりでいいのか」という意見が必ず来る。
実際、果たすべき義務も果たさずに主張ばかりしている困った輩もいるが、だからと言って、批判を恐れて主張を自己規制するのも間違っている
(このあたり、失敗を恐れてシュートをしないフォワードにも関連...。)

つまり、きちんとしたルールに則って個々人が自分の考えをぶつけ合うディベイトのような練習が必要なのだ。
こういう訓練が最も不足しているのが、学校教育とスポーツの現場ではないだろうか。

自分たちで考えて勝つ経験を積み重ねることで、選手が育ちチームは強くなる。
進化したチームは、たとえ監督が替わろうと強さを維持できる。
本当に優れた上司とは、自分がいなくなった後も組織が好結果を残せるよう、部下ひとり一人を育てる人物であろう。
その人がいたときだけ強くても、名監督とは言えないのではないか。

日本が勝てなかったのは、選手個人の技量や精神の問題である。
ジーコの理念自体は正しかったのだ。
日本の教育のあり方を変えるためにも、ジーコ流が正しかったことを証明してほしかった。
それが一番残念である。

オシムがどんなサッカーを目指しているかは知らないが、やはり日本には管理型の指導が合っているのだという、時代に逆行するかのような声が高まらないことを期待している。
あくまでも子どもたちのために...。


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句読点の重み

2006年06月20日 | ことば・国語
中学で初めて英語を習った子どもたち。
大文字と小文字の区別がつかなかったり、単語同士がくっついてしまったり、英文を書くという作業に苦労している。

中でも目立つのがピリオドの脱落である。
口を酸っぱくして注意しても直らない子がいる。
日本語の「。」と同じで、それがないと文が終わらないと強調しているのだが...。

そういう子の日本語を見てみると、案の定「。」がない。
「、」さえなかったり、あってもいいか加減な所に打たれている。
字数制限のある要約問題で、最後のマスぎりぎりまで文字で埋めてくる。
文中から該当箇所を抜き出す問題でも、平気で句読点を落として写す。

中2や中3になると、うるさく言われるせいか、英語のピリオドの脱落こそ少なくなってくるが、日本語の「。」「、」に関してはあまり改善されないように思う。
より大切な母国語を書くときに、句読点の付け方を考えている子がどれくらいいるだろうか。

そもそも教える側も、句読点の付け方について十分な指導をしていないのではないか。
小学校で作文の書き方的なことは機械的に教わっても、点一つで変わってしまう文の意味やニュアンスについて、十分な時間を割いた指導がなされているとは思えない。
国語のテストでは、「、」や「。」について英語ほど厳しく減点されないのではないだろうか...。

西洋ではプラトンの昔から句読法が盛んに研究されてきたという。
ピリオドやカンマの他にも、コロン、セミコロン、ハイフンなど種類も多い。
かたや日本語は、平安時代にはまだ句読点がなかった。
元になった漢文にそれらがなかったためであろう。

それがいつ頃から今のような「。」「、」が使われ出したのか。
明治期には、「国文にもきちんとした句読法を確立せよ」という動きもあったそうだが、未だに「法」と呼べるものはできあがっていない。

日本語の場合、多くの言語と違って単語ごとの分かち書きをしない。
また、文法による語順の制約も少ない。
その分、読みやすくする、あるいは誤解を避けるために、特に読点が果たす役割は大きいと言えよう。

句読法を確立するのは難しくても、いろいろな例文を題材に、句読点をどう駆使すれば読みやすくなるのか、また意味がどう変わるのかなどを学ぶ機会はもっとあって然るべきだと思う。

「私は父と、母の墓参りに行った。」
「私は、父と母の墓参りに行った。」


読点の位置一つで「父」が健在か否かまで変わってしまうことの重みを、中学生や高校生にじっくり味わってもらいたい。
それは「伝える力」(6月10日記事参照)を磨くことにもつながるはずだから...。


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学校で朝ご飯

2006年06月15日 | 日々雑感
朝食を食べない子どもが増える中で、やむにやまれず学校で「朝ご飯給食」を出す動きが出始めているそうです。
先日の朝日新聞で読みました。

記事には岡山県と高知県、東京都八王子市などの例が載っていました。
中でも岡山県美咲町では、5月から全小中学校で、1時間目終了時にヨーグルトやチーズなどの乳製品を出していると書かれていました。
1200万円の予算を組んだそうです。

過疎化で小学校が統合され、スクールバスに乗るために午前6時台に家を出なければならない児童もいるという地域事情もあるようですが、町の調査では小中学生の2割が朝食を食べて来ず、お腹がすいて勉強に集中できないという子も多かったとのこと...。

目の前の子どもたちを見て、直接的な対策を取らざるを得なかったということでしょう。
ただ、校長も言っている通り、「町がこんなことまでするのは、本来の姿ではない。家で朝食を食べなくてもいい、となったら本末転倒。」ですね。

「愛国心」を採り上げたときにも書きましたが、人間を育てるという大きな意味での「教育」の基本は家庭、家族にあります。
学校や塾はその補完作業しかできません。

その家庭や家族がおかしくなってきているのは、昨今の日本のニュースを見るまでもなく、皆さん先刻ご承知の通りですね。
で、年齢や経験を考えたときに、これはやはり子より親の問題が大きいという結論に自然に導かれます。
子の側に存在する問題だって、結局は親に起因することが多いはずですから...。

私も小さな塾の長として、親の側に問題があるのでは?と思う例にも多く接してきました。
教科学習の理解度は別として、子どもの学習態度ややる気、集中力、粘り強さなどは、今までの家庭での教育、躾に負うところが大きいはずです。
学校や塾に預ければ何とかなる、あとはお任せというのは責任放棄と言ってもいいでしょう。
家庭でも改善すべき所は改善し、共に子どもを育てていくという態勢を作ることが重要なはずです。

というわけで、何とかそういう親の意識を変えようと努力しましたが、結局徒労に終わることも多かった気がします。
考えてみれば、自分なりの価値観を確立した一人前の大人を変えようとすること自体、無理があるようにも思います。
自分の意見で人を変えようなんて、傲慢な考えだとも言えます。

でも自分で気づけば、自らの意志があれば、大人になっても変わることができるはず...。
そのためには、大人より先に子どもを変えた方がいいのかも知れません。
子どもが変われば、その変容を目の当たりにした大人も成長できるのではないでしょうか。

冒頭の記事中でも、最後に女子栄養大の足立名誉教授がこんな発言をしています。

「朝食を学校で補完するより、家庭の努力を促してもらいたい」
「でも、作らない親に言ってもなかなか変わらないのが現実。
だったら、子ども自身で朝食を作る力を育てるよう、発想の転換も必要な時代ではないか。
小学校低学年でもご飯の準備はできる。
親が変わるのを待つより、子どもを変える方が早いかもそれない。」


それでもやはり、親を変える努力も並行して続けるべきだと思います。
あたりまえのことを粘り強く訴えていくべきだと思います。
なんと言っても子どもに一番影響力を持っているのは、間違いなく母親であり父親であるはずですから...。


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伝える力

2006年06月10日 | ことば・国語
以前にも書きましたが、塾で使っているオリジナル教材の中に、図形や漢字を言葉だけで人に適確に説明する、というプリントがあります。

図は私が適当に作ったもの、漢字はたとえば「薔薇」や「盥(たらい)」などの複雑なものです。 これらを、電話の向こうの相手に伝えるつもりで説明させるのです。

自分では目で見てよくわかっているものを、言葉だけで、しかも文章で正確に伝えるというのは、慣れないとかなり難しいようです。

たとえば写真のような図形、あなたならどう説明しますか?
試しに文章にしてみてください。
そして、それをそのまま読んで人に聞かせ、図を描いてもらってください。
...どうですか?正確に伝わりましたか?

この問題をクリアするために最も重要なのは、相手の立場に立った想像力です。
言葉を多く知っているに越したことはありませんが、いくら正しい言葉で伝えても、相手がその言葉を理解できなければ意味がありません。
小学生相手なら「楕円」よりも「長丸」の方がいいでしょうし、正確な位置を座標で表現しても、普段から数学に接している人以外はピンとこないでしょう。

「長方形があり...」と言っただけでは、縦の方が長い長方形を描くかも知れません。
自分の中では「長方形」と聞いたら横長のものが自然だと思っていても、それが万人の共通認識だとは言えないのですから...。

塾では説明を書かせたあと、他の生徒(もちろんまだこの問題に接していない生徒)に私がその文を読んで聞かせ、図形を描いてもらいます。
すると、みごとなくらいに元とは違う図形が現れ、説明を書いた本人は愕然とするのです。
当然伝わるだろう、相手はこう解釈してくれるだろうというのは勝手な思い込みだったということに気づくのです。

生徒は帰るときに、その日に学習したこととそれに対する感想、コメントなどを個別ファイルの1ページに書いて行きます。
図形説明のプリントに初めて取り組んだ生徒は、必ずと言っていいほど「人に説明するのは大変だった」と記します。

実はそのことを自覚してもらうことが、このプリントの大きな目的の一つなのです。
コミュニケーション力の根本は言葉の力です。
すぐにキレる子どもたちの中には、国語力の不足が原因で自分の考えや思いをうまく伝えられない、という子も多いのではないでしょうか。

人に情報を正確に伝えるためにはどうしたらいいのか?
語彙も高める必要があるし、誤解のないようわかりやすく表現する力も磨かなければならない。
そして何より、相手の立場に立って言葉を選ばなければならない...。

まずは言葉についてのそんな認識を持ってもらえればと思っています。


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「愛国心」について考える

2006年06月05日 | 学習一般
教育基本法の「改変」について様々な意見がある。
(ここでは「改正」や「改悪」など価値判断が含まれた言葉ではなく、あえて「改変」で行く。)
特に注目が集まっているのが「愛国心」を明記するという点である。

さて「愛国心」とは何か?
文字通りに解釈するなら「国を愛する心」というだけだが、この定義が論者によってバラバラであるところに議論がかみ合わない主因がある。

「君が代」を歌い「日の丸」に敬意を表するのが愛国心?
日本の言動をすべて正当化し、他国を目の敵にするのが愛国心?
国の政策に反対せず、黙々と「お上」に従うのが愛国心?
伝統的な芸術に積極的に触れ、日本の心を再確認するのが愛国心?

すべて違う。
「君が代」を歌う、歌わないで愛国心のあるなしを判断されてはかなわない。
日本のやることには間違いないという盲目的な愛は危険である。
わび・さびの世界が性に合わないだけで非国民呼ばわりされてはたまらない...。

よく言われるように、愛郷心や愛国心などというものは強制されて身につくべきものではない。
都会で暮らせば故郷が恋しくなるように、外国へ行けば日本の良さが再確認できるように、自然に育まれているのがこれらの愛情ではないか。

まして「国を愛する態度」を評価しようとすれば、歴史解釈についての意見も政策に対する主張も、自由に言える空気は学校現場になくなってくる。
能や歌舞伎を見て、本当は退屈で仕方ないのに、評価を気にして「素晴らしかった」「日本の心に触れることができた」と感想を書く子が増えるのではないか。
それで愛国心が育っているとは到底思えない。

そもそも、国の言動に肯定的だあるだけが「愛する」ということではなかろう。
それでは溺愛して子どもを甘やかす親と同じである。
日本を愛するが故に批判的になったり怒ったりしなければならないときもある。
国を憂うることは国を愛することと同義ではないか...。

「愛の反対は無関心」という言葉を読んだのは、どなたかのブログでだったと思う。
「嫌悪」や「憎しみ」は、相手に関心があるからこそ生まれるものであり、興味がなければその感情さえ生まれない。
相手が何をしようが関係なし、というのが愛のない究極の形であろう。
真の「忠誠心」とは、ときに上司を諫めることではないだろうか...。

最近の日本人は実におとなしくなってしまった。
どんなにおかしいと思う政策があっても、どんな不祥事が明るみに出ても、表立った反対の声は一部の国民からしか上がらない。
特に若者のあきらめムードは甚だしい。
ことの善し悪しは別として、他の国のように政府の方針に反対して若者の暴動が起こることなど、今の日本では考えられないだろう。
いつから日本人はこんなに飼い慣らされてしまったのか...。

今、教育で重要なのは、子どもたちに闇雲に「国を愛せ」と迫ることではなく、まず「自分たちの国」という意識を強く持たせることである。
国の行く末に関心を持たせることである。
そして日本のことを真剣に自分の頭で考えられる、必要があればノーと言って行動を起こせる、そんな本当の「愛国心」を持った人間を育てることである。

そのためにまずは、歴史も地理も哲学も科学も、多くのことを学ばせる必要がある。
ひとり一人が自分の意見を持ち、議論を戦わせたり文章として表現する練習も不可欠であろう。
そして為政者にだまされず、盲従せず、国の将来のために責任を持った主張や行動ができるよう、民主主義教育を徹底すべきである。

それこそが教育の使命であり、「なぜ勉強するのか」の一つの答であると思っている。

もっとも今の日本を見ていると、「国を愛する心」より先に「親を愛する心」「子を愛する心」を何とかしなければいけないのかも知れない。
共同体の最小単位である家族が崩壊状態では、愛国心どころではないだろう...。


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書き写すという快楽

2006年06月01日 | ことば・国語
先日の記事で、教師の板書をそのまま写すというノートの取り方を批判しましたが、今日はじっくり時間をかけて書き写すお話です。

ひと月ほど前、新聞で全面広告を見てさっそく買い求めたのが、「えんぴつで奥の細道」という本です。
その時点でも結構売れていたようですが、その後も売れ行きを伸ばしているようで、最近は大きな書店のベストの場所に平積みされています。

内容はごくシンプルなもので、「奥の細道」の全文と現代語の要約、語句の解説、ペン字のアドバイスなどが載っているだけです。
で、「一日目」から「五十日目」までに分けられた程良い長さの原文を、ひと文字ずつ丁寧に、芭蕉の文や俳句を味わいながら書き写しましょうというコンセプト。
「書き写す」というより、薄く印刷された文字を「なぞる」作業です。

私が本屋で見つけたときは「書道・ペン字」のコーナーにありました。
字が下手なことにコンプレックスがある私は、ついでに少しで文字がうまくなれば、という思いも持ちつつ始めたのです。
もちろん第一の目的は作品を味わうことですが...。

実際始めてみると、これが実に気持ちいいのです。
高校時代に勉強として読んでいたときとは違う、深い趣が感じられます。
ゆったりとした贅沢なひとときを過ごせるのです。

夜中にちょっと時間を作って書き始めるのですが、特に気分が落ち込んだり荒んだりしているときには、就寝前に精神を安定させる良い薬になるようです。
ただ、睡魔が勝ってしまうと、味わう余裕がなくなって「なぞる」という機械的な作業に終わってしまうので、もったいないことになります。

それにしても、ただなぞっているだけなのに、心地よい気分になれるのは不思議です。
「写経」などにも通じるものがあるのでしょうが、やはり文章の内容が優れていることと、心を込めて丁寧な字を書くことが大きく影響しているように思います。

「考える学習をすすめる会」では、語彙を高め国語力をつける一つの方法として、新聞の投書写し→要約を推奨していますが、一般の人が書いた文章でも書き写すことでずいぶん味わいが深まるものです。

まして、鑑賞に堪えうる古今の名文を書き写すという「学び」は、大きな効果を生み出すことでしょう。
これこそ「まなぶ」の語源、「まねぶ」ですね。

考えてみれば、コピーも写真も存在しない時代の古人は、先人の書を1つ1つ文字を書き写して学ぶしかなかったわけです。
そのことが結果として、著者の考えや主張を深く理解することにつながっていったのだと思います。
何もかもお手軽にコピーで済ませてしまって、結局ろくに読んでいないということが、現代人には多すぎるのではないでしょうか。

よく「書いて覚える」と言いますが、書くことにより必然的に文をよく読むことになるので、ただ文章を眺めているより記憶の定着がよくなるのは当然です。
また、小学校では文章の書き方のルールを学ぶために、書き写し用のワークブックを使っている例もあります。

どうやら書き写しには様々な効用があるようですね。
「よく読む」ことは、すなわち「よく書く」ことにもつながります。
単なる作業にならないよう注意することは必要ですが、中学や高校でも名文の書き写しをもっと採り入れてはどうでしょうか?

さて「奥の細道」、購入してから1ヶ月になります。
1日にこれくらいの分量なら楽勝だろうと思って始めたのですが、やはり毎日続けるというのは大変ですね。
字がさっぱりうまくならないのは置いておくとして、1ヶ月でまだ「五日目」までしか進んでいません。
江戸を発ってようやく日光まで来たところです。
「奥」に入るまでにもだいぶあります。

この調子だと大垣までに10ヶ月かかることに...。
実際の芭蕉の旅より長くなってしまいます。
月も変わったことだし、ここらで少しペースを上げましょうか...。


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