ことばを鍛え、思考を磨く 

長野市の小さな「私塾」発信。要約力、思考力、説明力など「学ぶ力」を伸ばすことを目指しています。

始まりは0?

2006年05月27日 | ことば・国語
前回の記事へひょうさんから頂いたコメントに、こんなことが書いてありました。
さっそく今日のネタに使わせていただきます。
ひょうさん、いつもありがとうございます!

「ところで、最近「ゼロからスタート」とよく言いますよね。手首折った松井も言ったようですが、「一からやり直す」「一から再出発」という方がしっくりくるのですが。「ゼロから」っていうのはおかしいんじゃないのーと話してたんですよ。


なるほど、「ゼロから」も「一から」もよく耳にしますね。
直感的にはひょうさんの言われるように、「一から」が正しい気もしますが...。

ということで取りあえずYahooで検索してみると...。
「一(1)から始める」が16万件に対し、「ゼロ(0)から始める」は130万件!
...「ゼロから」の圧勝です。

辞書には「一から始める」という用例はありましたが、「ゼロから」は見あたりません。
従来の日本語では、「一から十まで」で「すべて」を表すように、「一」に「物事の始め」という意味を持たせていたのです。
たとえば新しく何かを始めようと計画を立てるときは「1:○○、2:××...」と1から始めるし、本のページや章だって1からですよね。
自然数の世界では1がスタートです。

それがなぜ「ゼロから」に押されてきたのでしょう?

もちろん、数学的に考えれば0から1までの間にも数は存在するわけで、「1から」と言うとその部分が抜け落ちてしまうことになります。
「1から」始めるためにはある程度の基礎知識なり経験が必要、というニュアンスでとらえる人が増えてきたのでしょうか?

上で触れた箇条書きや章立てでも、ときに「0」から始まるものもあります。
そのとき「0」に書かれていることは、やはり「1」からの内容を理解するための基礎や前提であることが多いようですね。

本のタイトルには「ゼロから」があふれていますが、読者の上記のようなイメージに訴える効果を期待しているのでしょう。
「ゼロから始める」の方が、内容が初心者向けでやさしそうな感じがしませんか?

ただ、ここまでのように物事を新しく始める場合と、ひょうさんのコメント中の松井選手のように「やり直す」「再出発」の場合とは、分けて考える必要があるのではないでしょうか。

「ゼロからやり直す」と聞いて私がまず連想するのは、ゲームや様々な機械のリセットボタンです。
それを押したとたんにそれまでの積み重ねが、成功も失敗も含めてすべてご破算になってしまうイメージですね。
心機一転、始めから「出直す」といっても、これは少々冒険が過ぎるのではないでしょうか?

松井選手が「ゼロから出直す」と言っても、少年野球を始めた頃に戻るわけではないですね。
メジャーにデビューした時期に戻るという意味でしょうが、それでも今までの経験をすべてリセットして無にするということではありません。
仮にそう望んだとしても、現実的には無理な話です。

もちろんその頃の新鮮な気持ちを思い出してひたむきに、という意味で使っているのでしょうが、精神面でさえ完全にリセットすることは難しいでしょう。
やはりここは「一から出直す」の方がふさわしい気がします。

「始める」では「ゼロから」が圧倒的に優勢だったネットの世界でも、「やり直す」「出直す」で検索してみると「一(1)から」9万に対し「ゼロ(0)から」は3千と立場が逆転します。
このあたり、使う側の微妙な心理が投影されていて興味深いですね。

因みに英語でどう言うか調べてみたら、「始める」の方はよくわからず、「出直す」では「0」も「1」も登場しません。
「一から出直す」は start again from the beginning で、「ゼロから出直す」は start again from the very beginning でした!
なるほど...。very の一言にいろいろな意味が込められているように思います。

結論:「始める」は「ゼロから」、「出直す」「やり直す」は「一から」。

オマケの雑学:駅のホームの「1番線」「2番線」などは、駅長室に近い順に付けられていますが、あとから増線した場合、駅長室と1番線の間や駅長室の反対側に作られたホームは、仕方がないので「0番線」になります。結構あちこちにあるようですね。


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聞く力

2006年05月23日 | 学習一般
英語などのリスニング能力なら「聴く」とするところだが、今回は「聞く」力についてである。
日本人が日本語を聞く力のことだ。
話者の声が小さいとか滑舌が悪いなどの理由で、発音が聴き取れない場合は除く。
言葉自体はしっかり聞こえているのに、聞く側の理解度は千差万別...。
これは「聞く力」に因る部分も多いのではないか、という話である。

もちろん、聴衆の総体的な理解度の大小は、話す側の責任であろう。
話の内容、構成、話術などは、聞く側の努力ではどうにもならない。
また、両者の相性や聞き手の予備知識の多少なども、理解度を左右する要因となる。
しかし、それらを考慮してもなお、「聞く力」の重要性に言及せずにはいられないのである。

講演会や説明会で、熱心にメモを取る人がいる。
話し手の顔を見ている時間より、下を向いている時間の方が長いのではないかと思うくらい、ひたすらペンを動かしている。

私はほとんどメモを取らない。
話を楽しむことに集中しているからだ。
メモを取るのは主にキーワード3、4語程度。
ときにキーセンテンスが混じることがあっても、全部で5、6行くらいだろうか...。

話す側にとっても、下を向いてメモを取り続ける人よりも、自分の顔を見て話に相づちを打ってくれる人が多い方が嬉しいのではないか。
少なくとも私はそうである。

今朝の信濃毎日新聞にこんな記事があった。

「ノートの取り方教えます~長野大新設学部1年生に」

授業のノートの取り方などを教える「講義入門」を1年生の前期必修科目とし、計15回行う予定だという。
「何も言わなくても学生が自ら学べる時代ではなくなってきている」
「高校までは板書を写すことが中心だったかもしれないが、大学では単語しか板書しないこともあり、ノートをうまく取れない学生もいる」
というのが開講の理由だそうだ。

「そこまでしなくてはいけないのか」と呆れる声もあるそうだが、私の率直な感想は「さもありなん」である。

授業で黒板に書かれたことを、もらさずそのまま写し取るのが「ノートを取る」ことだと思いこんでいる子どもが少なくない。
消される前に写すのに必死で、先生の説明などろくに聞いていない。
完璧に写し取って勉強したつもりになっているが、あとから復習しようとしてもよくわからない...。

講演会でメモを取るのに必死な人と同じである。
授業でも講演会でも、まずは話の内容に集中するのが先決ではないか。
要点をつかんで、これが大切ということだけを文字に残しておけばいい。
書くことに追われて肝心なことを聞き逃しているようでは、本末転倒も甚だしい。

写真を撮るのに夢中で、実際の風景を全く覚えていないという「観光」にも共通するものがある。
目の前にある実像を自分の目で脳裏にしっかり刻みつける方が、よほど思い出に残るのではないだろうか...。

小学校ではある程度実践されているのかも知れないが、中学生や高校生にも「聞く力」「メモる力」を育成する必要性を感じている。
長い説明文などを聞いて要点をメモする、質問に答える、疑問点を整理するなどの学習を多くするべきではないか。
生徒たちのこれらの力が高まれば、授業の効率もぐんと高まるはずである。

九州などでは、高校入試の国語にそのようなテストがあるようなので、中学でもそれなりの対応がなされているのかも知れない。
ぜひとも全国的に、英語のリスニングばかりでなく、国語を聞く力の養成にも力を入れてもらいたい。
とりあえず、塾でどう採り入れられるか検討中である。


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脳を鍛える?

2006年05月18日 | 学習一般
「フラッシュ暗算」というのをご存じだろうか?
パソコン画面に次々と表示される数字を暗算していく高速計算法である。
もともとはソロバンの暗算から生まれたものらしいが、今では全国的な広がりを見せ、検定やコンクールもあるという。

上達すると、3ケタを15回たす暗算を2秒!でできるそうだ。
まずはどんなものか、体験してみていただきたい。→ドーナツの塔「フラッシュ演算のFLASH」

...どうだろうか?
私はさっぱりできなかった...。

「百ます計算」で有名な陰山英男氏が副校長を務める立命館小学校では、4月からこのフラッシュ暗算を授業に採り入れているそうだ。
年間105時間行い、4年生までには3ケタの暗算ができることが目標だという。

考案者の神林茂氏は、脳が鍛えられて直感力や認識力などが開発されると効果を謳っているが、どうもこの手のものは「なんだかなぁ...」という思いが拭いきれない。

世は「脳力」ブームのようで、川嶋隆太氏の「脳を鍛えるドリル」シリーズを始めとして様々な書物やパソコンソフトがあふれている。
「右脳」「ひらめき」というキーワードに弱い大人も多い。
かく言う私も、過去にいくつか買い求めたことがある。

しかし、そもそも「脳を鍛える」とか「脳力アップ」とはどういうことなのか?
「右脳開発」なんて科学的に正しいことなのか?
左脳と右脳の働きの違いについてさえ、一般に考えられているほど単純なものではないという話も聞いたことがある。

どうも単なるムードやイメージに踊らされているような気がしてならない。
「左脳より右脳」「論理よりひらめき」が支持される風潮は、いったいいつ頃から強まってきたのだろうか...。

フラッシュ暗算の全国コンクールで優勝した小4の子は、こんなことを言っている。
「テストでは、教科書のページがそのまま浮かび、漢字も写真みたいに覚えられちゃう。」

私などにはとても想像できないが、何でも見ただけで瞬時に記憶の倉庫に収めることができるということだろう。
では読んだり、書いたり、考えたりはしなくてもいいということか、とかみつきたくなる。
間違えて、試行錯誤して、何時間も悩んで...という経験は必要ないのだろうか...。

もちろんこれですべての力がつくと言っているわけではないだろうが、「速く、たくさん」の思想に基づく学習法は、そのハデさ故に人々の関心を引きやすい。
ジミではあるが本質的な、「少量をゆっくり、じっくり」という学習の重要性も忘れてはならない。

もっとも、「57+15」レベルの計算さえ筆算に頼っている中学生を見ると、もう少し暗算力をつけてほしいと思ってしまう。
逆に言えば、それくらいの暗算力があれば十分ではないだろうか。

副産物を過剰に期待せず、その程度までの暗算をゲームとして楽しむなら、フラッシュ暗算も悪くはないのかも知れない。


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迷惑の受け身

2006年05月14日 | ことば・国語
高3の生徒が英語の文法問題を解いていました。
受動態の所で、いろいろな書き換え問題がありました。
いつもの通り、ときどき質問を受けたり、逆に私が口を挟んだり...。
英語の表現について話し合い、ときには一緒に悩んだり調べたりしながらも、彼は順調に問題をこなしていました。

そのうち、何がきっかけだったか、英語と日本語の受け身についての違いの話になりました。
例えば「トムはその椅子を作った。」は、椅子を主語にして受け身にすれば「その椅子はトムによって作られた。」になります。
これは英語でも同じこと。

英語で言う第Ⅳ文型の文では、2種類の受動態の文を作ることができます。
「ルーシーはマイクにプレゼントを贈った。」は、
「マイクはルーシーによってプレゼントを贈られた。」とも、
「そのプレゼントはルーシーによってマイクに贈られた。」とも言いかえが可能。
これも和・英共通の現象です。

ところがいろいろな例を考えていくうちに、日本語には英語にない受け身表現が存在することに気づいたのです。
例えば「子どもに泣かれて困った」「犯人に逃げられる」「雨に降られる」などがそうです。

本来、受け身の形が作れるのは他動詞を使った文だけのはずです。
後に「~を」という目的語を伴う動詞のことですね。
人が物を「隠す」場合、物を主語にして「隠される」と言い換えられます。
一方、人が「隠れる」は自動詞なので、受け身にしようにも主語となる物がないので不可能です。
...と説明したら、生徒が言いました。
「隠れられる」という言い方もあるのでは...?
そこから他の例を探したら、先に挙げたように「泣かれる」「逃げられる」など、自動詞なのに受け身で使われるものが次々に出てきたわけです。

で、まず自分なりに考えてみました。
他動詞の受け身と違って、自動詞の場合、相手の行為によって自分が害を被るという感じが強いのではないか...。

その後調べたら、直感で考えたことがほぼ合っていました。
ちゃんとあるんですね、こういう形が...。
「間接受身」というもので、「間接的に影響を被るものを主語に立てる表現」だそうです。(by Wikipedia 「日本語の受身」
「迷惑の受身」などとも呼ばれるとのこと。
なるほど...「迷惑」には納得です。

しかし考えてみると不思議な表現です。
Wikipedia にも「多くの言語には直訳できないことで知られている。」とありました。
そりゃあそうでしょう。
「私は雨によって降られる」なんて、絶対英語にできません。

受け身というのは他の人や物との関係に注目した言い方ですよね。
因果関係も含まれていることが多いようです。
他動詞は自分以外の人や物に影響を与るので受け身にできますが、自動詞は文字通り自己完結しています。

歩こうが走ろうが個人の自由であり、その人の責任において行動しているかぎり、他人がとやかく口出しすべきではない。
他者の行動で自分が不快な思いをしても、それはそう感じている自分の問題で、他者に責を負わせるべきものではない。

そんな個人主義の考え方が、世界のほとんどの言語に「迷惑の受け身」が存在しない現象の根底にあるのではないでしょうか。
日本では他者(自然も含む)との関係が濃密であったがために、子どもが泣いたことで自分が被った迷惑、雨に降られたことによる損害までも、責任を自己の外に求めてきたのでは、と思うのです。

しかし一方で、「犯人に逃げられる」は「犯人が逃げた」と言うよりも自分の責任を痛感しているニュアンスも感じます。
この「迷惑の受け身」、日本人の気質、心意にも関わる興味深い問題なので、今後も引き続き考えて行きたいと思います。


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移動距離と寿命

2006年05月09日 | 日々雑感
これまで毎年花見は、ソメイヨシノが群れて咲く、いわゆる「名所」ばかり行ってきました。
何百本、何千本という数の多い所に憧れ、一面桜に覆われた背景で家族の写真を取り続けてきました。

ところが今年は家族の休みと名所の満開時期がうまく合わず、1本だけで見事な花を咲かせる「名木」を見てきました。
長野市周辺では結構有名な、樹高20mのオオヤマザクラです。

県道沿いで訪れやすく、またその日の朝刊でも紹介されたので、人が多くでビックリ!
でもちょうど満開の時期に当たったようで、ピンクの濃い素晴らしい姿を楽しめました。

屋台が出たり、宴会で賑やかな場所での花見もいいですが、これからはこういう名木、古木を訪ね歩くのも一興だねと、あとで妻と話しました。
桜だけでも、一目見ておきたい木が、信州にはまだまだたくさんあります。

もちろん桜に限らず、齢を重ねた樹木というのは風格があって圧倒されますね。
横綱は縄文杉でしょうが、そこまでいかなくても大木には神の存在を感じます。
「もののけ姫」がヒットした例を出すまでもなく、日本人の精神の奥底には、木霊(こだま)の存在を身近に感じる心が脈々と受け継がれているように思います。

先日新聞で、ジャーナリストむのたけじ氏の文章を読みました。
ちょっと引用します。

「このごろ、動物と植物の違いを考える。植物は根を下ろした場所から動けない。津波が来ても火事が起きても。それでいて樹齢何百年の木がざらだ。ところが、動物は百年が精いっぱい。ここなんだ。ちょろちょろ動き回って危険から身を隠したり、好きなものを捕ったり。これが命を養う基のように見えて、本当は違うんじゃないか。」
 
マスコミに踊らされて行楽に走り回ったり、儲け話を耳にしては東奔西走する人たちを見ていると、氏の言葉が胸に響きます。
些細なことに一喜一憂せず、でんと構えて己の道を行く...。
そんな大樹のような人生を送りたいものです。

で思ったのですが、都道府県別で平均寿命を見たとき、上位に来るのは長野、沖縄、福井、熊本などのいわゆる「田舎」です。
東京や大阪などは決して高い順位ではありません。
この原因としては、もちろん空気や水がきれいだとか、農作業などで体を動かしている人が多いとか、人間関係のストレスが少ないなどの要因も挙げられるでしょう。

そんなことは百も承知で、田舎の方が長生きである理由の一つにあえて挙げたいのが「動かないこと」です。
「動かない」と言っても、「働かない」とか「体を動かさない」という意味ではありません。
必要以上にあちこち動き回らないということです。

多くの距離を動けばそれだけ危険にも晒されるし、ストレスも発生するはず...。
都会では長距離通勤をはじめとして、否応なく長い距離を移動させられことも多いし、好んで移動したがる傾向も強いように思います。
田舎だってスーパーや病院まで遠いなど個々の事情はあるでしょうが、総体的に移動距離は都会より少ないような気がします。
生まれた土地の周辺のごく狭い範囲だけで、いつも通りの毎日を送っている人の方が、長く生きるという点では有利なのではないでしょうか。

飛行機や新幹線で移動すれば長距離でも疲れないという意見もあるでしょう。
でも、これについては、私は昔から「移動時間と疲労は比例しない」という見解を持っています。
東京から札幌まで歩いて行く場合と飛行機で行く場合など、極端に時間が違う例はともかく、たとえば長野から東京まで新幹線なら1時間40分ですが、鈍行を乗り継いでも疲労度は変わらない気がするのです。
これは私が鉄道好きということもあるかも知れませんが、速い乗り物は無理して距離を縮めているようで、結局は疲れ方は移動距離に比例すると思っているのです。

だからどんなに時間が短縮されようが、最終的にはむやみに動かない人、人生における総移動距離の少ない人が長生きするのではないでしょうか?
職業で言えばやはり農家や商店主、医者、芸術家などでしょうか...。
...私も塾の近くに住んだ方が良さそうです。

p.s.試しに検索してみたら、同じようなことを考えている方がいらっしゃったのでご紹介しておきます。→「長生きは近距離生活」


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意外な「以外」

2006年05月04日 | ことば・国語
世はゴールデンウィークとやらで浮かれ気味である。
当ブログも今回は半ば休眠状態...つまらない話題でお茶を濁す。

数学で「10以下」と言ったら10を含む。つまり「≦10」。
「10未満」と言ったら含まない。つまり「<10」だ。

「10以上」ももちろん10を含む(「≧10)。
こちらには「未満」のような便利な言葉がないので、「>10」は「10より大きい」と言うしかない。

ところで「「以上」の反対は?」と聞かれたらどう答えるだろう?
「以下」?....ではない!
「10以上の整数」を集合Aとすると、Aの補集合に10は含まれない。
従って「以上」の反対は「未満」ということになる。

「以」という漢字は「鋤(スキ)」と「人」の組み合わせで、「手で道具を用いて仕事をする」という意味を表すそうだ。
そこから何かを用いて」という「「~で」「~をもって」などの意を示す前置詞になったと言う。
英語の with と通じるところがある。

「今月末を以て閉店します。」
これは、閉店のために「今月末」を用いると解釈できる。
今月末で区切りをつけるわけだ。
このとき、今月の末日になったとたん店をやめるわけではない。
末日の営業時間が終わるまでは店は存続している。
言いかえれば「来月1日を以て営業しない」ということであり、今月の末日は「営業」に、来月1日は「非営業」に含まれる。

このあたりに、「以上」や「以下」における「以」の使われ方のルーツがあるのではないか...。

「以」が付く他の言葉も見てみると、「以前」「以後」「以降」「以来」「以遠」「以北」など、やはりどれもその前に来る「基準となるもの」を含むと考えて良さそうだ。
「16世紀以降」は16世紀を含むし、「長野県以北」と言えば長野県も含まれる。

ただ、「近代以前」「2000年以前」という言い方をするときは、近代や2000年が含まれていないことも多いような気がする。
「それ以前は」とか、単に「以前は」と使う場合も、「それ」や「最近」は含まれていないはずである。

「以後」だと含まれると思うのだが...。
「以後、気をつけます。」には「今」も入っているだろう。
「前」と「後」で微妙な違いがあるのが面白いところである。

さらに大きく違うのが「以内」「以外」
「内」と「外」という正反対の意味の漢字が使われているが、この2つは使われ方が全く異なる。
「10分以内」には10分ギリギリも含まれる。
で、それを1秒でも超えたら「10分以外」になるかと思うとならない。

「以外」は全く別の場面で使われ、「以内」とは決して対にならないのである。
そして「以外」は、「以前」よりもっと明確に「基準となるもの」を含まないのだ。
「日曜日以外は不在です。」
「漢字以外は不正解とする。」
「関係者以外立ち入り禁止。」

...いずれも「日曜日」や「漢字」「関係者」は「以外」に含まれない。
当たり前だ!含んでしまったら年中不在、全部不正解、全員立ち入り禁止になってしまう...。

何が言いたいかといえば、数学で使う「以上」や「以下」の「以」の意味は、すべての「以」を含む言葉に適用されるわけではないということだ。
しかし、それだけのことで読者にこんな長い記事を読ませるなど、それこそ

「以て」の「外(ほか)」 である!

...お後がよろしいようで...。


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