ことばを鍛え、思考を磨く 

長野市の小さな「私塾」発信。要約力、思考力、説明力など「学ぶ力」を伸ばすことを目指しています。

遠くで汽笛を聞きながら

2006年04月29日 | ことば・国語
以前、公文の本部で教材を作っていたとき、国語教材のこんな表現が気になって仕方ありませんでした。

「遠く汽笛が聞こえる。」

使われている単語は微妙に違ったかも知れません。
今の教材にまだあるのかどうかもわかりません。
しかし、この文、なんか違和感を感じませんか?

「聞こえ」ている場所は、今話者がいる所ですよね?
で、「遠く」の始点もそこだと思うんです。
すると「遠くで」「聞こえる」はおかしくないですか?


という疑問を当時の国語教材製作者にぶつけたら、「おかしくない」「「遠くで汽笛を聞きながら」という曲もあるじゃないか」という見解が返ってきました。
...かつてのアリスの名曲ですね。
私も大好きな曲です。

でも、これでは先の文が正しいという論拠に欠ける...と思い、私は納得しませんでした。
「汽笛が聞こえる」のと「汽笛を聞く」のとは、分けて考えなければいけないのでは...?

「汽笛を聞く」の場合、「遠くで」の始点を汽笛が鳴った場所と考えれば、辻褄は合います。
「遠くで無事を祈る」「遠くで見守る」などと同じですね。
もっとも、アリスの曲の場合、「遠くで」の始点は話者がいる場所と考えられるので、そうなるとこれもおかしい表現だと言えます。

一方「汽笛が聞こえる」では、「遠くで」の始点をどちらにとってもスッキリしないのです。
これは「遠く汽笛が聞こえる」、あるいは「遠くから汽笛が聞こえる」とすべきではないでしょうか。
「遠くで」を生かすなら、「遠くで汽笛が鳴っている」とするしかないと思います。

これは「聞こえる」のかわりに「見える」で考えてみるとわかりやすいのではないでしょうか。
「遠くで富士山が見える」はおかしいですよね?
「遠くに」でしょう。
ただ、この場合は「聞こえる」と違って、「遠くから富士山が見える」も違和感がありますね。

いろいろ考えていたら混乱してきました。
「見える」には「聞こえる」よりも、can の意味が強く含まれている気がします。
同等に扱うのは間違っているのでしょうか?

そもそも、「汽笛が聞こえる」や「富士山が見える」の主語は「汽笛が」や「富士山が」と考えていいのでしょうか?
それとも「肉が好きだ」というときと同じように、主語は「私は」なのでしょうか?

どなたか詳しい方、教えてください。

p.s. アリスの名曲も「遠く汽笛を聞きながら」に改題することを提案します。谷村新司さん、よろしくご検討下さい!


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勝利の方程式?

2006年04月25日 | 学習一般
プロ野球などでよく耳にする「勝利の方程式」という言葉がありますね。
わが阪神タイガースで言えば、先発投手からJFKのリリーフに繋ぐ必勝リレーのことです(最近はあやしいですが...)。

当たり前のように使われていますが、よく考えるとおかしくないですか?
先発が誰でも、最後はこの3人に繋げば勝利という答が出る。
ということは方程式じゃなくて、「勝利の恒等式」だと思うんですが...。

ずっと前からそんな疑問を持っていたのですが、今検索したら同じことを考えている人がチラホラいらっしゃいました。→「勝利の恒等式」

ところで方程式と言えば、中1で習う1元1次方程式で、よくこんな問題があります。

「兄は家から駅まで分速60mで歩いている。忘れ物に気づいた弟が、兄が家を出てから6分後に分速150mで追いかけ始めた。弟は家を出てから何分後に兄に追いつくか。」

弟が家を出てからx分後に追いつくとして方程式を立てれば、150x=60(x+6)(弟の進んだ距離=兄の進んだ距離)でx=4という答えが出ます。

生徒がこうやって「正しい解き方」で答を出したあと、私は言います。
「方程式使わずに解いてみて。」

いわゆる「旅人算」という問題ですね。
方程式を使わずとも、算数の範囲で十分解けます。
中学入試の題材としてもお馴染みですね(もちろんこんなに易しくはないですが...)。

弟が家を出るまでに、兄は360m(60×6)先に進んでいます。弟と兄の分速の違いは90mですから、1分に90mずつ2人の距離が縮まります。従って、360mの差がゼロになるには360÷90で4分かかることになります。

ところが、ほとんどの中学生はxを使わないと解けません。
「えーっ?」と言ったまま固まってしまいます。
問題の本質がわかっていれば、図や表で少し考えれば難しくないと思うのですが...。

「方程式」って、中学の数学の象徴という感じがしませんか?
「算数」じゃなくて「数学」なんだぞ!という権威を示しているような...。
難しいことをしている、頭を使っているというイメージがあるように思います。

でも、方程式自体は実に機械的な作業なんですね。
初めに移項などのテクニックを覚えれば、あとは単純な計算だけです。
たし算の筆算と変わりません。

文章題では何をxとするか、どう式を組み立てるかなどについて、もちろん頭を使いますが、似たような問題を何問か解くうちにパターン化されてくる気がします。
少なくとも、算数で解くよりは考えていないように思うのです。

「AとB合わせて19mで、Aの方がBより3m長い。A、Bはそれぞれ何mか。」

この問題を見たとたん方程式を立てる人より、線分図を描いて(19-3)÷2でBの長さを出す人の方が、より多角的なものの見方、柔軟な発想ができると思います。
そういう人は、もちろん方程式を使っても解けるということです。

何も、方程式が無用だという暴論を展開しているわけではありません。
方程式はきちんと学ぶ必要があります。
方程式を使わないと解けない問題もたくさんありますから...。

でも逆に、方程式では解けない算数の問題もあるのです。
少なくとも中学までの段階では、xに頼らないで解く練習ももっと増やすべきではないでしょうか。
1つの文章題を方程式と算数式、両方で解いてみる...そんな試みを多く実践して、子どもたちの考え方の幅を広げたいと思っています。


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「すすむ」時計

2006年04月21日 | ことば・国語
前回に続き、教材に取り組んでいる生徒の様子を見て気づいたことをご紹介します。
今回は、算数のこんな問題について...。

「たかしの時計を正午ちょうどの時刻にあわせました。この時計を、正しい時刻で午後2時ちょうどに見ると午後2時8分でした。午後4時ちょうどに見ると、午後4時16分でした。つぎの問いに答えなさい。

 (1)たかしの時計は1時間に何分すすみますか。」

正解はもちろん「4分」ですね。
正午に合わせたのに、2時間で8分「すすんだ」のですから、1時間では4分「すすむ」ことになります。

ところがこの問題、小6でもほとんど正解者がいません。
2時間分を「1時間あたり」に換算するという考え方も難しいのかも知れませんが、それ以前に問題文の意味を取り違えている子が多いのです。

「64分」と書いてくる子が結構います。
この時計が、午後1時には「1時4分」を指していたということはわかっているのです。
つまり「すすむ」の意味を誤解しているんですね。
針が何分ぶん「動いたか」と解釈しているのです。
それなら、1時には12時から「64分」ぶん動いているのですから正解です。

考えてみれば、今の時代、時計が大きく遅れたり進んだり...ということは経験していないのかも知れません。
我々が子どもの頃は、まだゼンマイ式の時計が主流でしたから、1日に数分遅れたり進んだりという代物も珍しくありませんでした。
それが今ではクォーツの力で、電池が切れない限り1日に1分も狂わない時計が普通になっています。
中には電波で自動的に時刻を修正するものまで...。

ということは、そもそも「時刻を合わせる」という行為さえ、極端に少なくなっているわけです。
昔はたとえば朝、居間の時計を合わせるのが子どもの役目、という家もあったのではないでしょうか。

子どもたちの日常で、1時間に4分も「すすむ」時計なんて考えられないのかも知れません。
問いの(2)ではさらに、午後6時には何時何分を指していたかを聞いています。
お昼に合わせたのに夕方で30分近く狂っているなんてねぇ...。

仕方がないので、この問題では「時計が壊れていて8分「ずれた」ということだよ」という助言をしています。

問題文も時代に合わせないといけない部分がありますね。
それにしてもこの問題、「おくれる」方にしてくれれば「動く」と誤解することはないと思うのですが...。
今の時計でも、電池がなくなってきて遅れることならあるだろうし...。


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「てきとうな」文

2006年04月17日 | ことば・国語
小学生の国語で、どう考えても間違うはずのない問題が、すべて×の子がいました。
内容は、文の途中に入る言葉を2つの選択肢から選ぶだけのもの。
たとえばこんな感じです。

「ものがきえただなんて、おかしな〔ア・話 イ・本〕があるものだ。」
「たこあげ大会で、お父さんが作った大きな〔ア・はこ イ・たこ〕をぼくはあげました。」

    
無学年制の問題集で、やっていたのは6年生。
やや国語が弱いとはいえ、レベル的にはスラスラできて当然の問題です。
ところが、みごとに全部逆に答えているのです。
思わず「えーっ!?...なんで?」と固まってしまった私...。

問題文を読んで「アッ」と気づきました。
「てきとうな文になるよう、...」

彼女は「てきとうな」を、「ふさわしい」という意味ではなく、「いい加減な」という意味に解釈していたのです!
だから自信を持って、いい加減な方(間違いの方)を答えていたんですね。

考えてみればこの「適当」という言葉は、ほぼ正反対な2つの意味に解釈できる不思議な言葉です。
たとえば英語なら、全く違う単語ですもんね...。

上司から「適当に処理しといて」と言われたら、あなたならどう対処しますか?
上司との付き合いが長ければ、あうんの呼吸でどの程度の仕事をすればいいかわかるのでしょうが、そうでないと判断が難しい...。
ベストを尽くせとは言われていないけれど、あまりいい加減でも怒られそう...。

一方、使う側にとってはこんな便利な言葉はありません。
いわば相手に判断を丸投げしているわけですから...。
多くの場合、レベルの高い仕事は求めていないと思われますが、それなりに「ふさわしい」対処は期待しているようです。
この言葉の曖昧さをうまく使って、一言で両方の意味を含ませているんですね。

日本語には他にも、正反対の2つの意味に取れる言葉がありますね。
よく言われるのは、セールス電話を断るときの「結構です」「いいです」
相手は勝手に(というか無理やりに)OKの意味に解釈してしまいます。
断るときは、はっきり「いりません!」と言わなければダメです。

ともあれ、教材の問題文では自分の都合のいいように勝手に解釈するわけにはいきません。
判断を任されても困ります。
誤解の生まれないように「ふさわしい文」とか「正しい文」という表現を使ってほしいですね。


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カタカナの書き分け

2006年04月13日 | ことば・国語
先日の朝日新聞「声」欄に、高校の先生からの投書があった。
世界史を教えていて、生徒のカタカナの書き間違いが目につくと言う。
「レーニン」が「レーニソ」になったり、「クリミア」を「クリシア」と書いたりする高校生がかなりいるのだそうだ。
「リ」と「ソ」、「ワ」と「ク」の誤りも目立つと言う。

インプットのときに読み間違えている可能性は低いだろう。
活字はそれぞれの字が極力紛らわしくならないようできているはずだし、教わるときは音声の助けも多くあるはずだ。
つまり、カタカナを発音通りに書くことができないということになる。

言うまでもなく、カタカナは平安時代に漢字から生まれたものだ。
漢字の一部を簡略化したものであるため、漢字全体をくずしたひらがなと比べ、似たような字が多いのは確かであろう。
しかし、れっきとした日本語で小学校1年生で習う文字を、高校生がきちんと書き分けられないというのはどういうことか...。

塾生に注意することが多いのは「図」という字の中の「ツ」の部分だ。
「シ」に「ヽ」が交わっている例が意外と多い。
大人にも時折見かけるが、そう書かれるとバランスが悪い感じがしてどうも落ち着かない。

で、生徒に教えるときには、「ツ」と「シ」の書き方をひらがなとの関連で教えている。
ひらがなの「つ」は上部に横棒を書いてから、上から下にハラう。
「ツ」も同様に、上端が横に一直線になるようにそろえ、3画目は上から下へ
一方「し」は縦棒を書いてから、下から上にハネる。
従って「シ」も、左側が縦一直線になるようにそろえ、3画目は下から上へ
両方とも「一直線」を意識することで形が整いやすくなるのだ。

ひらがなやカタカナの元になった漢字は何か。
教科書などで初めの方(「あ」から「お」くらいまでor「い・ろ・は・に」くらいまで)はよく目にするが、すべてについて見たことはなかった。
今回この記事を書くにあたってネットで調べたが、意外に資料が少ない。
ここでは2つほど紹介しておく。
 →「カタカナの原字表」「ひらがな、カタカナの由来」

元になった漢字は、3分の2が双方共通である。
「つ」と「ツ」にしても、「し」と「シ」にしても、それぞれ原字は「州」(or「川」)と「之」で共通している。
ならば、私の教え方も理にかなっているということか...。

「ツ」と「シ」に関しては、原字に遡るより、ひらがなから考えた方が書き分けがしやすいと思う(実際の誕生はカタカナの方が先だが...)。
もう一組、「ソ」と「ン」も、ひらがなに関連づけた方が書きやすい(「ン」の方はひらがなとカタカナで原字が違うのだが...)。
「ク」と「ワ」の区別は原字(「久」と「和」)を参考にした方がよさそう。
「リ」と「ソ」は、ひらがなでも原字でも、どちらから考えても明確に書き分けられる。

ここまではまだ許せる方だ。
確実に書き分けができるコツを教える気もする。
しかし、「シ」と「ミ」に至っては、何をか言わんやである
この2つの字をどう書き間違うのか?
3画目は傾きが全く違う...1次関数ならプラスとマイナスの違いではないか!

ここではカタカナについて採り上げたが、もちろんひらがなや漢字でも似たような例はいくらでもある。
ケータイやパソコンで文字を「打つ」ばかりでは、自筆で文字をきちんと書き分ける能力は間違いなく退化していくだろう。

自分のメモ程度なら何だって構わない。
しかし文字には、人に正確に情報を伝えるという大切な役割があるのだ。
読む側のことを配慮し、誤解が生まれないよう、紛らわしい字は特に意識して書かなければならない。
冒頭の投稿の結び、「小学校での英語必修化よりもまず、正しい日本語を書けるように小中学校で指導が必要」という筆者の意見に大いに賛成である。


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小数で割る意味

2006年04月09日 | 学習一般
このブログの熱心な読者であるHさんからメールをいただいた。
その中に、5年生の算数教科書を拾い読みした感想があった。
こんな問題についてだ。

(例題)青い針金は1.5mの重さが7.5gです。
    赤い針金は0.5mの重さが7.5gです。   
    それぞれの1mのおもさは何gでしょうか。
    
  ここにわかるようなわからないような線分図が書いてあって、

  青い針金 7.5÷1.5=
  赤い針金 7.5÷0.5=



「こんな説明で意味がわかるのか」「特に赤い方は2倍した方が簡単なのではないか」というのが彼女の意見だった。
私は返事にこう書いた。
「たぶん、ほとんどの子はわからないと思います。」

これはいわゆる「1あたり」の考え方である。
1.5で割る方はまだしも、0.5で割るという考え方は、この時点ではかなり難しいと思われる。
塾で扱うときも、仕方ないので「2mだったら÷2するでしょ?小数でも同じだから÷0.5」などとアドバイスするが、教える方も教えられる方も今一スッキリしない。

小数の計算方法自体は学ぶ必要があるだろう。
文章題でも「6mのヒモから0.5mのヒモが何本取れるか」などの素直な問題なら、まだわかりやすい。
いったい、この段階で「1あたり」の量を1より小さい数から求める意味がどこにあるのか...?

結局、「÷0.5」は単なる作業で終わってしまう危険性が高い。
よく理解できないままやり方だけ覚えさせられるから、「速さ」でまた0.5時間などが出てきたとき、機械的に「は・じ・き」の図に当てはめて計算することになるのではないだろうか...。

この問題(赤い方)を大人が解くとしたら、ほとんどの人はHさんの言われるように2倍するのではないか。
その方がやっていることの意味が理解しやすいからだ。
1より小さい数で割るという作業はどうも馴染まない。

「1あたり」の量を求めるためには、まず「1」の概念が十分に形成されている必要がある。
そして、そのために重要なのは小数より分数の考え方であろう。
ところがその分数はと言うと、意味は4年生で習うが、それ以降6年生まで、その加減や乗除の計算は忘れた頃に少しずつ登場するのだ。
5年生のこの段階で、「1」の意味が子どもたちに十分理解できているとは思えない。

今の算数では、小数や分数の乗除計算を習ったあとには、細切れのようにそれを使った「○倍」関係の文章題があるが、相互の間には何の脈絡もない。
「1あたり」にしても0.5倍や1/2(2分の1)倍にしても、要は「割合」である。
「割合」という単元は6年で初めて登場するのだが、分数の意味からそこまでを、もっと系統立てて教える必要があるのではないだろうか。

小数の計算しかできない段階ではなく、分数の乗除、比などを習ったあとで「1あたり」や「百分率」を学べば、今よりずっとわかりやすいのではないか。
そこまで学んでいれば、先の問題も「÷0.5」でなく「×2」で簡単にできる。
それで十分ではないか。
「÷0.5」で解かなければならない必然性はどこにもない。

「1あたり」を1より小さい分数から求めるときも同じことだ。
3/4(4分の3)mで6gなら、1m分は6÷3×4=8とすればよい。
そこから少し進んで6×(4/3)=8。
この方が6÷(3/4)よりよほど意味がわかりやすいだろう。

繰り返すが、こういう自在な発想ができるためには、小数だけでなく、分数の乗除や比などを十分に理解している必要がある。
これら6年で習っている内容をもっと早めに学習することも含め、小数・分数以降のカリキュラムを「割合」という概念で再編成すべきではないか。
それが無理なら、5年までは小数も分数も計算問題と単純な文章題だけに限るべきであろう。


中学生でも、とにかくこの「割合」関係が苦手な子が多い。
春期講習用に作った「割合」のオリジナル教材、若干の改善を加えて中学生にも使ってみようと思っている。


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そろばんと暗算

2006年04月03日 | 学習一般
私が子供の頃は、習い事と言ったらそろばんと習字くらいしかありませんでした。
都会には学習塾もあったのかも知れませんが、父の転勤で地方都市に住んでいた時期が圧倒的に多かったので...。

私も例に漏れず、この両方を習っていました。
どちらもたいしたところまでは行きませんでしたが、そろばんは道具を扱う面白さがあって好きでしたね...。

ただ、暗算は苦手でした。
あの、そろばんの珠を頭に描いてハジく、という作業にどうしても馴染めなかったのです。

電卓の時代になっても、そろばんは習い事として根強い人気がありますね。
昔と違うのは、将来のために技を身につけると言うより、能力開発としての側面がクローズアップされていることでしょう。
確かに指先を動かすのは脳にいいと言われているし、計算力をつけるためには有効なのかも知れません。

ただ、そろばんはあくまでも算数の世界までですよね。
数学はそろばんではできません。
さらに、誤解を恐れず言わせてもらえば、普通の計算力とも異なると思うのです。

恥ずかしながらそろばんでの割り算のやり方は忘れてしまいましたが、足し算や引き算にしてもかけ算にしても、計算の原理は筆算と同じですが、それが器械の操作で終わっている気がするんです。
うまく言えませんが、数の概念や計算の仕組みなどと関係なく、ただ道具を操っているだけなのではないか?と思うんです。

もちろん筆算でも、やっていることの意味がよくわからずに機械的に計算している子も少なくないと思うし、ある程度慣れてきたらそれでも構わないと思います。
たかが計算程度で時間をかけて考えるのもどうか...とも思います。

ただ、そろばんでの計算って、筆算以上に「考えなくてもできる」ように思うのですが...。
手の方が勝手に動いて答えが出てしまうというか...。

小学生で、1ケタ同士の足し算でもすぐに指を動かして、頭の中のそろばんで答を求める子がいます。
で、ときどき間違います。
その作業に頼らないと簡単な足し算もできないって、これって計算力があると言えるのでしょうか?

私は今、暗算は苦手ではありません。
どちらかと言うと速い方だと思います。
でも、頭の中にそろばんは存在しません。
自分なりの経験で、速く計算できる工夫をしているだけです。

念のため言っておきますが、そろばんの批判をしたいのではありません。
ただ、わからないので教えてほしいのです。
そろばんで養うことができる力って何なんでしょう?


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