ことばを鍛え、思考を磨く 

長野市の小さな「私塾」発信。要約力、思考力、説明力など「学ぶ力」を伸ばすことを目指しています。

時間の使い方

2006年01月29日 | 日々雑感
部活と勉強をがんばって両立していた中学生が、3年で部活を引退した途端に勉強にも身が入らなくなってしまうことがある。
高校でも、帰宅部の子より部活に熱中している子の方が成績がよいことも多い。

もちろん、勉強ができなくなるまでくたくたに疲れる部活では本末転倒だが、少々忙しい方が時間を大切に使い、集中力も増すということだろう。

これは大人でもみんな経験していること。
仕事でも家事でも、あり余る時間があるときは「いつでもできる」という思いがあるためか、やるべきことがなかなか片づかない。
やることがいっぱいあるときの方が、集中して次から次へと課題をこなせる。
人間とは不思議なものである。

昨日の信濃毎日新聞の投書欄に、車の使用を半分にしたという佐久地方の男性(私と同い年)の話があった。
その中で気になった一節をご紹介する。

「いつでも出掛けられるという車ならではの利便性が、時間の使い方をルーズにしてしまったような気がします。」

時刻表を見る必要がないほど次々に電車が来る都会と違って、地方では公共交通機関は甚だ使い勝手が悪い。
私の町のように電車の駅そのものが存在しない(「最寄り」の駅まで20km以上)所もあるし、あっても1時間に1、2本しか列車が来ない所も多い。

長野市街から私の町に来るバスは1時間に1本。
それも町の中心部までで、私の住む集落には町営バスに乗り継がないと辿り着けない。
日曜日には町営バスは走らないので、車がないと動きが取れなくなる。

結局、長野市方面へ通勤する人はほぼ100%マイカー通勤。
高校などへの子どもの通学も、親が長野まで送迎している家庭もあるし、少なくとも町中心部までは車が頼りである。

特に私の仕事は夜が遅いので、バスはとっくになくなっている。
車がなければ1日も立ち行かない。

それがあたり前すぎて、時間の使い方など深く考えたこともなかった。
いや、逆に、車があるから効率的に時間が使えているのだと信じて疑わなかったのだ。
家を出る時刻が予定より4,5分遅くなっても、車なら大した遅れもなく塾に着ける。
バスや電車ではそうは行かない。
2,3分の遅れがたちまち1時間の遅れに広がってしまう...。

しかし、この投書を読んで改めて考えた。
多少時刻がずれてもいいという安心感が、密度の低い時間を作り出しているのではないか。
もう少し、もう少しとダラダラ仕事を続けていたり、けじめのない日常生活を送っているのではないか。


特に、教材を作ったり文章を書いたりという作業は、どこかで区切りをつけないと際限がなくなる。
もっとよいものをという思いがあればこそ、いくら時間があっても足りなくなるのだ。
私のような個人塾では、自分で締め切りを決めてそれを遵守するようにしないと大変なことになる。

現状では車を使わない生活は不可能だが、何時までには必ずこれを片づけるとか、何時を過ぎたら塾を出るとか、けじめをつけた生活を送ることを考えてみたい。

時間をかけさえすればいいものができるとは限らない。
むしろ短時間集中で行った作業の方が質の高いものを産むのではないだろうか。


※応援してくださる方はクリック(↓)をお願いします!
にほんブログ村 教育ブログへ