ことばを鍛え、思考を磨く 

長野市の小さな「私塾」発信。要約力、思考力、説明力など「学ぶ力」を伸ばすことを目指しています。

阪神Vに思う

2005年09月30日 | 日々雑感
<お断り>昨夜阪神タイガースがセ・リーグ優勝を果たしたため、今日は予定を変更して特別記事をお届けします。なお、本日掲載予定だった記事は、10月2日にお送りします。ご了承ください。

やりました、阪神タイガース。2年ぶりの 優勝!!! 

今年は本当に強かった....。
一昨年は前半からブッチギリで勢いで勝った感じでした。
85年は打線は強力でしたが投手陣は非力で、6連敗が二度もありました。

それに比べて、今年は連敗は4が最多。
9月上旬までの激しい首位争いを制した、地力を見せつけての優勝でした。

思えばこれまでの阪神は、「ここぞ」という試合は確実に負けていました。
リアルタイムでは知らないけれど、長嶋にサヨナラホームランを打たれた天覧試合。
昭和48年、最終戦に優勝がかかった甲子園での対巨人戦(0vs9で負け)。(←その前の中日戦で勝っても優勝だったのにそれも取れず....)
1992年、残り4試合で同率首位に並んだヤクルトとの神宮決戦。
終盤までリードしてたのに、リリーフに先発要員の湯舟を送って逆転負け。(←これ、見に行ってて帰路は半分死んでました....)

そんな試合ばかり観てきたので阪神ファンは皆、「どうせだめだろう」「また逆転されるんじゃないか」というマイナス志向が身についていたのです。
2003年に優勝したときも、「次はまた20年先。生きている間にもう一度見られるかどうか....」というのが正直な思いでした。

ところが、わずか2年後にV奪還です。しかも堂々とした勝ち方で....。
早すぎて、強すぎてしっくり来ません。
これがあの、ダメ虎と言われ続けたタイガースなのか....。

今年は「ここ一番」という試合に悉く勝利してきました。
最大8ゲーム差をつけていた中日に2度まで0.5ゲーム差に迫られ、今日こそは抜かれると覚悟した試合をものにして更に突き放す。

そして優勝を決定づけた9月7日の中日戦。
この日負けてもまだ首位でしたが、ライバルに勢いを与える連敗はしたくない。
9回表までリードしながらジャッジの不運やエラーで同点に追いつかれ、なお1死満塁。
こりゃサヨナラ負けだと思った場面から久保田が直球ばかりで2者連続三振!
結局延長で勝ち、これ以後中日はズルズルと後退していきました。
この試合は、阪神ファンには長く語り続けられる「伝説」になると思います。
(すでにあるブログでは「The Game」という名文が絶賛されています。→自称阪神タイガース評論家

マジックが出てからも順調に減らし、9月は16勝4敗という驚異的な強さ。
昨日もリーチ一発で決めてくれました。

何がこのチームをこんなに勝負強くしたのでしょう?
ファンの応援とか個々の力量とかは別にして、とても大きかったのは監督の選手に対する信頼、そして選手たちの自信だったように思います。

少々打たれようと、チャンスに凡退しようと勝ちパターンを崩さず、「適材適所」で役割を与えた選手に全幅の信頼を寄せる。
「打たれても自分が責任を取るから思いっきり投げろ」という岡田監督の言葉が、あの9月7日、久保田を開き直らせたといいます。

そして監督から信頼されていると感じた選手たちは自信を持ち、どんどん逞しくなっていきました。
「自分たちの野球をすれば勝てる」、この言葉を何回聞いたことでしょう....。
一昨日も昨日も、まったく負ける気がしませんでした。

「人を信頼し、自信を持たせること」、これは何についても大切ですね。
美酒に酔いながら、そんな当たり前のことを改めて実感した夜でした。


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a=a+1

2005年09月28日 | 学習一般
a=a+1....数学ではこんなことあり得ないですね。
でもプログラミングの世界ではしょっちゅう出てくる式です。

数学の「=」は言うまでもなく左辺と右辺が「等しい」ことを表します。
両側に△ABCのように図形があれば面積が等しいということになりますね。
ところがプログラミングにおける「=」は右辺を左辺に「代入する」ことを示しているのです。

次のようなプログラムで考えてみましょう。
わかりやすいように専門用語は使わず、普通の文で表します。
やっていることは単純なことなので、苦手な方もがんばって読んでみてください。

① aに適当な整数を代入する。
② a=7なら⑧へ進む。
③ a<7なら④へ、a>7なら⑥へ進む。
④ a=a+1(aに1を加えてそれを新たなaとする)
⑤ ②へ戻る。
⑥ a=a-1(aから1を引いてそれを新たなaとする)
⑦ ②へ戻る
⑧ aを画面に表示する。


このプログラムを実行すると①で代入した数が7なら②から一挙に⑧へ行って、「7」と表示しておしまい。
7未満なら②から⑤の間を何回も繰り返し、aが7になった段階で⑧に飛んで終わりになります。
同様に、最初の数が7より大きかった場合は②③⑥⑦を繰り返し、aが7になったら⑧へ行く。
つまり、初めに打ち込んだ整数がいくつであろうと、画面には「7」と表示されることになります。

おわかりいただけましたか?
プログラミングの第一歩は、このような条件分岐の考え方です。
少し勉強すれば小学生でも十分理解できるはずです。

私は論理的思考力を育てるために、プログラミングの練習は最適だと思っています。
自分がコンピュータにさせたいことをどう命令するか。
何をどう判断させたら思い通り動いてくれるのか。
まず全体の流れを考え、それをプログラミング言語に直していきます。

少し複雑なことをさせようとすると、初めのうちはうまく動いてくれないことがほとんどです。
でもそこがまた思考力を鍛えるチャンス!
構成(流れ)自体に無理がある場合もあるし、単なるスペルミスのときも....。

人間相手なら、少しくらい言い方がおかしくても言葉が足りなくても、相手がこちらの伝えたいことを察してくれるので不都合はありません。
よくわからなければ質問もしてくれるでしょう。

ところがコンピュータはそうはいきません。
1文字間違えただけでも絶対動いてくれません。
前後関係から「これはちょっとミスしただけだな」と類推してくれることは期待できないのです。

だからこそ、試行錯誤を重ね、ミスを修正し、思い通りに動いてくれたときのうれしさは格別です。
融通の利かない、だけど高速かつ正確に仕事をしてくれるコンピュータをどう動かすか。
プログラミングの過程では様々な「学習力」が養成されます。
「考え方の練習」教材にもぜひ簡単なプログラミングを採り入れたいと思っています。

ついでに、これやっているとセンター試験でも有利ですよ。


p.s.タイトルの「a=a+1」を見ていたらこんな連想が....。何かに行き詰まったらどこかまで戻ればいいんですね。戻ったときにはそれまでの経験の分だけ大きくなっている、つまりaだったのがa+1になっているはずです。それでも目標に届かなかったらまた+1して戻ればいい。そうすればいつか目標に到達する。....そんなこと考えました。蛇足ながら....。


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気になる日本語・小ネタ集(その2)

2005年09月26日 | ことば・国語
そろそろまたネタがたまってきたのでパート2です。

①今日の信濃毎日新聞、県信濃美術館の特別展の紹介記事の一文、
 「特別展「○○○」が開いている」

展覧会が自分の意思で「開いている」んですか?
開いているのは人間なんだから、ここは当然「開かれている」ですよね....。


②これも新聞(朝日or信毎)のスポーツ欄の記事。
 中日の連敗を受けて、

「わずかに残る優勝の可能性をあきらめてしまったのか、....」

「可能性をあきらめる」っておかしくないですか?
あきらめるのは「優勝」なのですから、「わずかに可能性の残る優勝をあきらめてしまったのか、....」が正しい表現ではないでしょうか....。


③これは、実は私も最近までまちがえて使っていました。「リンクを貼る」

「コピー&ペースト」の意識が影響するためか、つい「貼る」を使いたくなりますが、正しくは「リンクを張る」ですね。
「張る」には「1点から伸びたものの先が広がる」という意味があります。
因みに英語ではmake linksと言うそうです。
詳しくはこちらを参照してください。→ことばの素朴な疑問を素朴に考えるぺーじ


④ヤマト運輸のノボリに書いてあるキャンペーンの文句、
「ストップ・ザ・交通事故ゼロ運動」

おいおい、どっちやねん....。
「交通事故ゼロ運動」をストップしたらあかんでしょ!
決まり文句的なものをとりあえず繋げてみた結果、わけのわからないものになっています。
「ゼロ」を取るか、「ストップ」をなくすかしないとね....。
でも、もう何年もずっと使われてますよ。
大量に作っちゃって、どうしようもないんでしょうね...。


では、またそのうちにパート3を....。お楽しみに!


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器用貧乏

2005年09月24日 | 学習一般
このブログのタイトルには「ことば」が入っていますが、私は決して国語教育の専門家ではありません。
数学や英語が特に得意なわけでもありません。
教員免許は「社会」を持っていますが、世界史や倫社に関してはメタメタです。

一言で言えば総合力はあるけど、突出した教科がない....。
このことはずっと抱えているコンプレックスの一つです。

「器用貧乏」という言葉がありますね。
広辞苑には「なまじ器用なために、あれこれ気が多く、また都合よく使われて大成しないこと。また、その人。」とあります。

私はモロにこれに当てはまるような気がします。
何でも一通りのことはできるけれど、どれも一流にはなれない。
趣味の世界でもそうです。
競技かるた、写真、切り絵、釣り、今はまっている投扇興....。
もちろん段を持っているものもあるし、一般の人と比べたら大違いですが、
これだけは人に負けない!と言いきれるものがないんですよね....。

何をやらせてもソツがない、いわゆるオールラウンドな人間は、使い勝手はいいけど「便利」なだけで終わってしまう。
「何でもできる」は「何もできない」と同じではないか....。
それより、全く役に立たない分野もあるけど、「これはあいつでなければできない」という職人的な得意分野を持っている人間になりたいと思ってきたのです。

オールラウンドなのも個性の一つではあるでしょう。
でもたとえば野球でも、ただすべてが人並みにできるというレベルでは、なかなか一軍には定着できませんよね。
求められるのは「3割・30本・30盗塁」のようなすべてに卓越した選手です。
そうでなければ、むしろ「守備は一流」「足はとにかく速い」という一芸に秀でた選手の方が、すべてに平均的な選手より長く活躍できるはずです。

まあ自分のことに関しては、今さらどうしようもない部分もあるので、そういう面を自覚しながら成長し続けるしかありません。
ただ、これから大人になる塾の生徒たちには一人の先輩として、とことんこだわる得意分野を見つけてほしいと強く願っています。

どの教科もバランスよくという親の思いもよくわかります。
中学レベルまでは、確かにある程度の学力は平均的に身につける方がいいでしょう。
ただ、よく言われる「得意教科を伸ばし、苦手科目を克服する」が実践できれば理想的ですが、時間的になかなか難しいのも事実です。

だとすれば、塾では原則的にその子の得意科目を伸ばすことをメインにした方がいいのでは....と考えています。
学校ではすべての教科をバランスよく学習しているのですから。
もちろん、ある教科が極端にできていない場合は話が別ですよ。

という思いの一方で、つまらない、苦手だと思ってきた教科の魅力に気づかせること、潜在能力を引き出すことが塾の役目だという考えも....。
ドイツのように早くから将来の道を決めすぎてしまうのもどうかと思うし....。

高校によって、進路を文系、理系に決めなければいけない時期もずいぶん違うようです。
大学でも一般教養の比重は格差が大きいですね。

みなさん、どう思われますか?
「広く」と「深く」、両方できれば一番いいのはわかっていますが....。


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午後12時30分?

2005年09月22日 | ことば・国語
小学生用の問題です。

新幹線のぞみ号が東京駅を午前10時に出発し、2時間30分かかって新大阪駅に着きました。新大阪駅には何時何分に着きましたか。午前、午後をつけて答えなさい。

ほとんどの子どもは「午後12時30分」と答えます。
さて、この答をどう評価しますか?

日常会話ではもちろんこれでも十分正解ですが、厳密に言うと誤りですよね。
正午から後、日付が変わるまでを「午後」と言いますが、午後○時×分という「時刻」は正午から○時間×分経過したという「時間」で表しているわけです。

そうすると「午後12時30分」という時刻は正午から12時間30分経った時ということですから、日付が変わった深夜に新大阪に着くことになってしまいます。各駅停車を乗り継いでもこんなにはかかりません....。

こういった時刻と時間の概念をわかりやすく説明すると、小学生でも4、5年生ならきちんと理解して「午後0時30分」という正解を出してくれます。
こちらからは絶対に「0時」という考え方は提示せずに気づかせるのが、手間はかかっても面白いところです。
3年生以下は事例がないのでわかりませんが....。

正確さという観点からすれば、午前や午後の区別のない24時間制表示の方が望ましいのでしょう。
交通関係はすべて24時間制ですよね。
しかも聞き間違いによる誤解も生じないよう、17時は「じゅうななじ」と言っています。
まあそれでも私には昔、14時を午後4時と勘違いして覚えていて、駅に着いたらとっくに列車は出発していたという経験がありますが....。

24時間制が主流なのは、あとはコンピュータ関連くらいでしょうか。
日常生活では意外と少ないような気がします。
デジタル時計にも12時間制に切り替えられる機能を持った物、ありますね。
電話の117も「ただいまから午後○時×分をお知らせします」だし....。
公の催し物案内でもビジネス文書でも、12時間制の方が主流ではないでしょうか。

ふだんから主に24時間制を使った生活を送っているという人はどのくらいいるのでしょう?
世代によっても違うかな....。
私は自分の予定は24時間制で管理していますが、他人に対する通知では12時間制を使うことの方が多いですね。
何となく12時間制の方が庶民的な感じがするのは私だけ....?

話がそれました。
結局言いたいのは、12時間制の12時、24時間制の24時というのはイコール0時であり、実際には存在しないと考えた方がわかりやすいのではないかということです。
ただし、12時(or24時)ジャストという時刻に限っては、話者の意識の問題で存在することがあります。
正午ちょうどに着いたときには0時より12時と表現した方が気持ちにピッタリするような....。(ただし「午前12時」です!)

すなわち、1日の終わりという意識が強ければ午後12時、新しい日の始まりという捉え方なら午前0時ということになるでしょうか....。
因みに時刻表は24時間制ですが、到着時刻の場合は24:00、出発時刻のときは0:00と使い分けています。(従って到着時刻も載っている大きい駅の場合、24:00着、0:00発という例があります。)

いっそのことアナログ時計の文字盤、12の代わりに0を使うというのはどうでしょう?
その方が「午後12時30分」というわかりにくい言い方もなくなるし、何よりリセットされて新たな半日が始まるという前向きな気持ちになれるのでは....?


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数字の読み方(追記あり)

2005年09月20日 | ことば・国語
突然ですが1から10までを声に出して数えてください。

今度は10から1までを逆に数えてください。
カウントダウンの要領です。

さて、それぞれの場合で4と7はどう読みましたか?

これは昔テレビでやっていたのですが、無意識に読むとほとんどの人は、増えるときは「いち、に、さん、、ご、ろく、しち...」なのに対し、減るときは「じゅう、きゅう、はち、なな、ろく、ご、よん...」になるようです。
私も声に出してみたらやっぱりそうなりました。

試しに続けてみたら、14や17でも同様の現象が起きます。
なぜそうなるのか、前後の数字の発音を考えてもよくわかりません。
どなたか解説お願いします。

もう一つ、数字の読み方で以前から不思議なのが日付です。
「ついたち、ふつか、みっか...ここのか、とおか」と10日までは特殊な読み方をしますね。
問題はそのあと....。
20日(はつか)は別として、それ以外に独特の読み方をする日を探してみてください。(30日=みそかは12月以外は死語なので除外ね....。)

どうですか?
14日と24日だけ「じゅうよっか」「にじゅうよっか」になりますよね。
12日や23日は「じゅうふつか」「にじゅうみっか」と読まないのに、なぜ4の付く日だけこうなるのでしょう?

もしかして地域によっては違う現象が起きるのでしょうか?
全国の方に情報をいただきたいところです。
そう言えば、関西では7月を「なながつ」と読む印象があるのですがどうですか?

....と、今回は「?」だらけの記事でした....。


<追記>日付の件は、14や24のときは「じゅうよん」の「よ」から「よっか」へ乗り換えやすいからかな?12や23だと「じゅうに」から「ふつか」、「にじゅうさん」から「みっか」へと繋げるのが難しいので、そのまま普通に読むということでしょうか....。


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証明に強くなる

2005年09月17日 | 学習一般
2002年の学習指導要領改訂以来、中学校の各教科の教科書は、ご承知の通りさらに薄くなりました。
数学の図形では、それまで高校入試の証明問題の花形であった接弦定理や「円に内接する四角形」の定理がスッポリと消え去りました。

それ以来、証明問題に関しては、出題する方もかなり苦労しているのがわかります。
高校入試のレベルに耐え得るような問題を作ろうにも、「円」関係で使える定理は円周角、中心角に関するものだけで、せいぜいそれに平行線の同位角、錯角や三平方の定理を絡めるくらいしかできません。
当然の結果として、今の証明問題は入試でも定期テストでも、以前より数段易しくなっていると言えます。

簡単でしかも配点が高いのですから、これを見逃す手はありませんが、生徒は驚くほどに証明が苦手です。
サービス問題と思える初歩の証明でも、全くの白紙か、1行目からおかしな答案のオン・パレード....。
証明は初めから捨てている子も多く、もったいない限りです。

ひとり一人に確認してみると、証明のルールがわかっていないだけという軽傷の子もいますが、大半はそもそも証明って何なのか、何のために証明するのか、その意義と目的からよくわかっていないようです。

証明は民主主義の前提という言葉を聞いたことがあります。
ボスが言ったことに対して誰もが「その通り」と従う社会には証明は必要ありません。
「なぜだ?」と問いかけ、納得行く答が得られるまで質問を繰り返す。
一言で説得できる(証明終わり)場合もあるし、質問と説明が延々と続く場合もある。
説得できなければ(証明失敗)ボスの負け....。
これが民主主義の原点だという話でした。

確かにそうですね。絶対主義なら証明はいりません....。
ということは、民主主義を守るためにも証明に強い子を育てなければ....。

考えてみれば、中学生でも日々の暮らしの中で、今までにたくさんの証明問題を解いているはずです。
何も「仮定」や「結論」「定義」「定理」などの用語から入らなくても、いきなり三角形の合同から始めなくても、証明の考え方自体をわからせることは可能です。

たとえばケーキを食べた犯人を捜すには証拠が必要です。
状況証拠でも説得の技術があれば証明できるでしょう。

定番の三段論法は証明そのものだし、算数や数学の計算だってそういう部分はあります。
三角形の底辺が10,高さが6のときは「三角形の面積=底辺×高さ÷2」という定理を使って30という面積を出しますね。
a=4,b=2のときab=8になることを証明するには、「abはa×bのことである」と「4×2は8である」という2つの定理を使えばいいわけです。

そう考えると、パズルやクイズまで含めて、いろいろな題材が証明の導入に使えそうです。
証明は論理的思考力や正確な文章表現力をつけるためにも理想的!
さっそく証明入門の独自教材を作ってみることにします。
最終的に開発したいと思っている「考え方の練習」教材にも流用できそうなので楽しみです。


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水を「あげる」?

2005年09月15日 | ことば・国語
花に水を「あげる」、水を「やる」、どちらを使いますか?
自分の子におもちゃを買って「あげる」?「やる」?
犬の餌の場合はどうですか?

文化庁の調査では若い層ほど「あげる」の使用が多く、特に女性で目立つそうです。
また、信州大名誉教授の馬瀬氏によると、学生の「あげる」の使用率は、

 ①「子どもにおやつをあげる」88%
 ②「花に水をあげる」     70%
 ③「先生に花をあげる」   66%
 ④「犬に餌をあげる」     62%
  であったということです。

私は実際には「あげる」も使いますが、正しくは花や犬には「やる」だと思っていました。
ただ、なぜかと聞かれれば、人間じゃないものに「あげる」では丁寧すぎるから....くらいの感覚でした。

ところが、「あげる」はりっぱな謙譲語なのですね....。
従って「先生」にこそ使われるべきで、他の3つに使ってはおかしいというのが本来のようです。


ではなぜ、こんなに「あげる」が連発されるのか....。

「やる」という言葉には「くれてやる」的な、どこか不遜な態度が感じられます。
高い立場から恵まれない者に「ほらよ!」と投げつける印象が拭えません。
そんな語感と「動物も植物も同じ生き物」的な過保護精神(?)によって、「あげる」派が増えてきたのではないでしょうか。
私はそんなに偉そうな態度はとらない、犬も花も大切にする心やさしい人なんだと自分で納得したい....そんな意識が垣間見えます。

おそらく、馬瀬氏も指摘しているように、「あげる」は謙譲語から丁寧語への道を歩んでいるのでしょう。
だから、先生に対して使うと敬意が不足している感じがするのだと思います。

因みに信州では、花に水を「くれる」という所が結構あります。
ラジオ番組の調査では県の北部から中部に多く、南部では「やる」が多いとのこと....。
私の地域の学校でも「水くれ当番」は標準語のように使われているし、松本の近くの美ヶ原には、牛に塩を与えた「塩くれ場」という地名が残っています。

「水くれ当番」や「水やり当番」も、やがて「水あげ当番」に変わって行くのでしょうか....。

みなさんは上記の①~④、どこまで「やる」を使いますか?
犬じゃなくて金魚やカブトムシならどうですか?



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和算に触れてみる

2005年09月13日 | 学習一般
関孝和で有名な和算、以前から興味があったのですが、偶然面白そうな本を見つけました。→「和算で遊ぼう!~江戸時代の庶民の娯楽」

おなじみの「鶴亀算」から始まって、「ねずみ算」「百五減算」「油分け問題」など、思わず解いてみたくなる問題が並んでいます。
各章の終わりには原文での出題もあり、昔の単位についての詳しい説明もあって楽しめます。

当時の和算の本は巻末に、解き方や答の載っていない読者への挑戦問題があり、多くの人がそれを解こうと挑んだようです。
みごと解けたらその解法を記した本を出し、新たな難問を載せる。
そんな風にして200年くらい、「数学がブームになった時代」が続いたというのですから驚きです。
副題にあるように和算が「庶民の娯楽」になっていたなんて、ちょっとワクワクしませんか...?

難問が解けたときはまた、「算額」に問題と解法を書いて神社に奉納したということで、多くの算額が各地に残されています。
現在著者が中心になって、小中高生を対象に現代の算額を募集しているのですが、これはなかなか面白そう...。
自分で難問を作るところから始まるので大変ですが、掲載されていた作品例には思わずうなってしまいました。

さて、そのような難問は別として、小中学生でも挑戦できる和算の問題を一つ、前掲書の中からご紹介しておきます。
本の中では「石」や「升」といった単位になっていますが、ここではわかりやすいようにtやkgを使います。
算数でも解けるし、方程式の応用問題として、ワンパターンの問題に飽きた中学生にも使えますよ。


問)3tの米を江戸から大坂まで舟で運びます。運び賃は現物払いで、運ぶ米100kgにつき5kgの米です。運び賃は前払いなので、その分は舟に乗せません。3tの中から運び賃も払うことにすると、どれだけの米を大坂まで届けることができるでしょう?


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これだけは残したいアナログ

2005年09月11日 | 日々雑感
5日の記事「迂回のすすめ」にテツさんから頂いたコメントに、次のような文章がありました。

絶対に残さないといけないアナログ!残さなくてもいいアナログ!自分で見極めてやっていくしかないのでしょうね。

「絶対に残さないといけないアナログ」という言葉に大いに共感を覚え、自分なら何を挙げるだろうと考えてみました。

紙と鉛筆(シャーペンでも可)、(紙の)書籍や辞書、アナログ時計、蒸気機関車、非電化のローカル線、普通の自転車、切手を貼って送る手紙、電気や電池を使わない玩具・ゲーム...。

まだまだありそうですが、やはり体を使う物、人間味や温もりが伝わる物が浮かびます。
「残さないといけない」とうより「残したい」という個人的な嗜好や感傷ももちろん入っていますが...。
そう言えば、野球盤が今また人気だと新聞に載っていました。
昔ながらのシンプルな機能のものが売れているそうです。

もう一つ、ぜひとも残したいのがフィルム式の写真
今は私もその便利さと経済性からデジカメばかり使っていますが、昔は結構写真にもカメラにも凝ったものです。
ちょうど第一子が生まれた頃でもあり、家族や風景の写真を専門誌に送って掲載されたり、コンクールや長岡市展に入選したりと活躍していました。
自分の作品が認められるともっとうまくなりたいと思い、徹底的に研究し実践した日々...。

カメラ任せのフルオートを嫌い、ピント合わせも露出もほとんどマニュアルでした。
フィルムもプロ気分でリバーサル(スライド用)を使っていたので、普通のネガフィルムと違ってプリント時の調整ができません。
結果、ピンボケはもちろん、露出を間違えて暗かったり明るすぎる写真も続出することになります。
でも、だからこそ、自分の意図通りの作品が撮れたときは本当に嬉しいものです。

デジカメは手軽ですが、ちゃんと撮れて当たり前、失敗してもすぐその場で確認して撮り直しできる...フィルムカメラのような喜びは味わえません。
写りも、そう思って見るせいか、どこか平板な印象を受けます。
撮り終えたフィルムを写真屋さんに出して戻って来るまでの時間も、今思えば貴重だったような気がしますね...。

今やフィルム式カメラの生産台数はデジカメの10分の1以下だそうですが、根強いファンはたくさんいます。
もう少し時間とお金に余裕ができたら、ぜひ復活させたい趣味の一つです。

さて、みなさんはどんなアナログを残さないといけない、残したいと思いますか?
多くの方々の声をお聞きしたいと思っています。よろしくお願いします!


p.s.昨夜女房と別の話をしていて、ふと話題に上ったのが電動鉛筆削り...。最近私の周りではほとんど見かけないのですが、みなさんの所はどうですか?昔ながらの手回し式や携帯型(鉛筆の方を回すタイプ)に回帰しているのでしょうか...。


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闇に身を置くこと

2005年09月09日 | 日々雑感
今回の台風やアメリカのハリケーンの報道を見ていて、昨年のことを思い出しました。10月に来た台風23号です。

わが町周辺は県内でも一番被害が大きく、道路があちこちで崩れて孤立状態。
長野市の隣りなのにですよ...。
私も塾から帰れず、ビジネスホテル泊まりを余儀なくされました。

翌日、通れる道を探し回って、昼過ぎにようやく帰宅。
前の晩からの停電がまだ続いていて、もう一晩ロウソク暮らしかと覚悟した6時頃になってようやく復旧しました。
さらに山奥の地区はもう1日かかったようです。

最近は停電になってもすぐに復旧することが多く、あれほど長い時間の停電は子どものとき以来です。
テレビやパソコンはなくても済むし、冷蔵物も10月なら何とか...。
困ったのは冷凍物と、何と言っても灯りですね。
物には躓くし、本も読めないし...。
ふだんいかに電灯のお世話になっているかを実感しました。

1ヶ月に一度くらいは敢えて電気を消す「キャンドルナイト」を実践するのもいいかも知れませんね。
暗闇に身を置くといつもと違った会話が生まれたり、思索が深まったりということもあるでしょう。
因みに、アメリカではハリケーンシーズンの9、10ヶ月後に出産が増える傾向があるそうです。
「キャンドルを点けたりしてロマンチックなムードが高まるのでは?」という分析結果が付いていました。


さて、ここからはその暗闇を積極的に体験することのお勧めです。

24時間営業の店が増え、街灯もたくさん設置され、夜中でも多くの車が動いている...。
今や都会では、真の暗闇は家の中にしか存在しないものになってしまいました。

屋外で全く何も見えない世界に身を置いたことがありますか?
バックミラーに何の光も映らない山道を走ったことがありますか?

私は子どもが小さいとき、一度そういう体験をさせてやろうと思い、すぐ近くの里山に夜遅く車で入ったことがありました。
少し登って木々が鬱蒼としてきた辺りで車を止め、ヘッドライトを消します。
とたんに訪れる漆黒の闇...。
もちろん月明かりさえもない日です。

やがて目が慣れてくると、空の方から徐々に森の輪郭が見えてきて少しホッとしますが、聞こえるのは鳥とも獣ともつかない鳴き声ばかり...。

ずっと車の中にいたのに、5分ほどで退散してしまいました。
ああ、情けない...。
でもホントに怖かったんです。
何というか、けもの系の怖さと、幽霊系の怖さ両方で...。

もう少し本格的に、山の中でテントでも張って一晩過ごしたら、貴重な体験ができると思います。
森に感じる神秘さ、畏れ、敬虔さ、人の小ささ、時の重さ、太陽のありがたみ...そんなものが一晩で感じられるのではないでしょうか。

今年は実現できませんでしたが、来年の夏休みにはぜひ生徒を連れて「暗闇体験キャンプ」を行いたいと思っています。


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気になる日本語・小ネタ集

2005年09月07日 | ことば・国語
「暴風」のアクセントについて8月30日に記事にし、同日NHKにも問い合わせのメールを送りましたが、今のところ回答がありません。
昨日の台風のニュース中でも、気になって気になって...。

さて今日は、日頃からメモしておいた「おかしいんじゃない?」という日本語の4連発です。
私が気にしすぎなのでしょうか...。


(その1)図書カードの広告のフレーズ 「もらって喜ばれる...」

この「喜ばれる」は尊敬じゃなくて受身を表しているんですよねぇ...。
すると「もらう」の主語(相手)と「喜ばれる」の主語(贈る側)が違うので、並べて使ってはおかしいと思うのです。
正しくは「贈って喜ばれる」あるいは「もらって嬉しい」ではないでしょうか。


(その2)朝日新聞の自社広告の文句 「受験に出るから...」

試験を受けることを「受験」と言うんです。
「受験に出る」はおかしいでしょ..。
正しくは「試験に出るから...」ですよね。
「受験に出る英単語」(じゅけたん)なんてなかったぞ!


(その3) 「募集」 「応募」 の区別ができていないアナウンサー

ラジオを聴いているとときどきいます。
「協力してくれる人を応募します」
「(プレゼントに)じゃんじゃん募集してください」などなど...。


(その4)少し前の新聞のスポーツ欄、中日が勝った記事があってその下の阪神戦の見出し 「阪神ピタリ1.5差」

あのー、阪神一応 首位 なんですけど...。
「ピタリ」という表現は後ろから付いていくときに使うんだとばかり思っていました。
こんな使い方あり?


みなさんのご見解をお聞かせください。


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迂回のすすめ

2005年09月05日 | 日々雑感
部屋の窓の内側に蜂がいます。
外に出ようとしてガラスにぶつかり、しばらく飛び回ってまたぶつかり、何度も同じことを繰り返しています。
出してやろうと窓を少し開けるのですが、それでもそちらに回ろうとせず、目の前のガラスに向かって行きます。
窓を全開にし、開いている方に追いやって、やっと蜂に自由を与えることができました。

こんな経験よくありますよね...。
動物学者の日高敏隆氏のエッセイ集「春の数え方」(新潮文庫)に、このときの虫たちの行動についての話があります。
日高氏は日本の動物学の第一人者で、私はローレンツの名著「ソロモンの指環」の訳者として知りました。

さて、冒頭の蜂のような行動について日高氏は次のように述べています。

虫たちは迂回ということを知らない。(中略)光がちゃんと見えているのにわざわざいったん光のくるのとはちがう方向へ飛んで、つまりいったん迂回をして、それから光の源へ進むということは彼らの行動には組みこまれてはいなかった。

そして昔は本能のままに進めば光の方へ進めたのに、人間がガラスなどという透明な物を発明したために、虫たちにとっては「罪つくり」な結果になってしまったと書いています。

何かに行き詰まったとき、この話を思い出します。
同じ方向に進もうとばかりしないで、いったん違う方向に飛んでみると道が開けることってありますよね。

さて今日は話をもっと大きくして、この虫たちの愚かで哀しい姿を今の日本人に置き換えてみたいと思います。
光はもちろん幸せな毎日、心の豊かさの例えです。
ガラスは何でしょう?
さしずめ、経済優先の社会、便利で効率的な暮らしと言ったところでしょうか...。

幸福を求めて一直線に進もうとすると、物質的な豊かさというガラスに突き当たります。
頭も体もたいして使わなくても、金さえ出せばすべて他人や機械がやってくれる夢のような世界。
自動化された機械、宿題までやってくる代行業、簡単に空腹を満たせるファスト・フード、手取り足取り教えてくれる「親切な」家庭教師etc...。
明らかにそこが幸福への近道に思えるし、すぐ手の届くところまで来ているのに、その方向に飛ぼうとしている限り、永久に目的地にはたどり着けません。

でもちょっと進むのをやめて後ろに下がって周りを見渡してみると、きっと迂回路が見つかるはずです。
そちらに進むためには手間も時間もかかります。
今までのやり方を見直す勇気も必要です。
それでもあえて迂回路に進もうとする人にしか、真の幸せは手に入りません。

人任せ、機械任せにしないで自分の頭で考え、自らの体を動かすこと。
試行錯誤をいとわず、何でも自分でやってみること。
何事についても、ゆっくり時間をかけることの価値を知ること。

そんな迂回路人生、歩んでみませんか。
道のりが長い分、楽しいかも知れません。
夏川りみの歌にもありました。

♪急いで行けば短い命、のんびり行けば長い道のり(「愛よ愛よ」より)

本能に従うだけの虫たちと違って、人間には「わざわざ違う方向に進む」知恵があると信じたいものです。


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カードの裏は?

2005年09月03日 | 忙中有閑(クイズ他)
論理クイズなどでは有名な問題ですが、意外と間違える人が多いようです。
「命題」の練習にも最適です。中学生にも使えますよ。


(問1)4枚のカードが下のように並んでいます。どのカードも片面には漢字かひらがなが、もう片面には数字かアルファベットが書かれています。
   さて、「漢字の裏数字である」が正しいかどうか確かめるには、最低限どのカードをめくればいいでしょう?必要のないカードはめくってはいけません。



     ----   ----    ----    ----
     |    |  |    |  |    |  |    |
     | 育  |  | ひ  |   | B  |   | 4  |
     |    |  |    |  |    |  |     | 
     ----   ----   ----   ----


(問2)では、「漢字の裏数字である」が正しいかどうか確かめるためには、最低限どのカードをめくればいいでしょう?問1と同じ答になりますか、違いますか?


★ヒント(9月4日追記):2問ともめくるカードは2枚だけです。


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リンゴが「ぼける」

2005年09月01日 | ことば・国語
(はじめに)りんごさんへ。
 この記事中の「リンゴ」はりんごさんとは一切関係ありません。ご了承のほど...。

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学生時代、よくユースホステルを渡り歩いて一人旅をしていました。
若い人はユースホステルなんて知らないかな...。

津軽へ行ったとき、おばあさんに道を尋ねてしまい、言葉が全くわからなくて困りました。
これが同じ日本語かと思うくらい違いますね...。
せっかく親切に教えてくれているので理解しているふりをして頷きながら、ジェスチャーだけでとりあえずの方向のみ確認して歩き出しました。
あとで若い人に道を聞き直したのは言うまでもありません。

私は子どもの頃、親父の転勤に付き合わされて全国各地で育ちました。
北海道から宮崎まで、小学校5つ、中学校3つ...。
自分が勤めてからも転勤やIターンで引っ越しを繰り返し、生まれてから現在までの転居回数は21回を数えます。

当然それぞれの土地にそれぞれの方言があり、引っ越した瞬間から否応なくその洗礼を受けることになります。
初めはイヤだった転校もそのうち慣れ、今度は新しい土地でいかに早く方言を覚えるかが課題になりました。
他の子どもたちの会話を聞いていて、使えそうだなと思った方言は積極的に使ってみる。
そうすることで、スムーズに新しい仲間に溶け込むことができたような気がします。

今では信州弁に染まり、出雲弁も博多弁もすっかり縁遠いものになってしまいましたが、その土地の人と会話すれば自然に出てくる方言もあります。
どれも独特の味わいがあって好きですね...。

方言の中には、五感で納得し共感できる素晴らしいことばがたくさんあります。
標準語に言い換えてしまうと微妙にニュアンスが異なる...一言では言えない。
たとえば信州で使うリンゴが「ぼける」という表現。
以前、安曇野出身の乙葉ちゃんがTVで、「ぼけたリンゴが好き」と話していたそうです。
新鮮なシャキシャキした食感がある状態から時が経過して、噛みごたえがなくなったというか、スカスカになってきたというか...。
「しなびた」とはちょっと違うんです。
そこまで行かないし、何より見た目でなく食感を表すことばなのです。

宮崎の「よだきい」も好きな言葉ですね。
「かったるい」に近いですが、もっと気持ちの重さ、実感がこもっています。

日本全国を調べたら、こういう方言はいくらでも出てくるでしょう。
民俗学の観点から言うと、昔は標準語的に全国で使われていたことばが、今は方言として一部の地域に残っているという現象も多くあります。
いわば、日本人の生活史が方言に残っているのです。
「わにる」(恥ずかしがる、人見知りするなどの意)などがその類。
元はみんな使っていたので辞書にも載っています。

方言を「恥ずかしいもの」と捉える風潮は昔ほどはなくなってきていますね。
関西弁など標準語より人気ありますもんねぇ...。
何もかも標準語に変えてしまうのではなく、方言独特の味わいを残していきたいものです。
子どもたちにも、自分が住む土地の方言を見直してもらいたい、その表現の豊かさを誇りにしてほしいと思っています。



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