ことばを鍛え、思考を磨く 

長野市の小さな「私塾」発信。要約力、思考力、説明力など「学ぶ力」を伸ばすことを目指しています。

ラブレター~漢字のこだわり~

2005年10月30日 | ことば・国語
ワープロの普及で、難しい漢字でも簡単に出てくる時代になりました。
だからと言って漢字ばかりが目立つ文章を書くことの愚かさは、以前の記事で述べました。

今日は漢字にする一段階前の話です。
つまり変換して現れた候補の中からどの字を採用するかということについて.....。

単語レベルで考えても同音異義語はたくさんある日本語です。
ワープロがあるからと言って、漢字を知らなくてもいいわけではありませんね。

「暖かい」と「温かい」、「暑い」と「熱い」、「影」と「陰」など、意味の違いで使い分けなければならないものは、知らないと恥をかきます。
ただ意外と多いのが「速い」と書くべき所を「早い」としている例.....。
特に「はやく解く」「はやく作る」など、時間に関わることに誤用が多いように感じます。

「早い」は時刻的に前であることを表すのですから、「早く起きる」「早く着いた」などと用います。
一方「速い」はスピードが大きいことを言うわけですよね。
解いたり作ったりするのが「はやい」のはスピードについてのことですから当然「速い」です。

こういう例と違って意味的にもいろいろな漢字が使える場合は、どの字にするか決めるのがなかなか面白い.....。
ここで悩むのは結構好きです!

たとえば、いつも楽しみながら気を使うのが「とる」を漢字にするとき。
広く使える「取る」ばかりでなく、対象に合わせて「穫る」「獲る」「摂る」「撮る」「採る」「執る」などなど、的確に使い分けたいと思っています。

迷うのが「おそろしい」「さびしい」「すすめる(推薦する意)」など.....。
特に「すすめる」は「勧める」「薦める」「奨める」で悩みます。

あえて漢字を使わないというのも一つの手なんですけどね.....。


さて、タイトルのラブレターの話です。
今の若い人たちはラブレターなんて書かないかな?
電話(しかもケータイ)やメールでは今一味気ない.....。
何度も書き直しては便箋を無駄にし、投函してから(あるいは手渡してから)返事が来るまで悶々とした日々を過ごす.....。
あのアナログさ、待つ時間の長さが捨てがたいのです。

何通も書いたラブレターですが、字が下手というマイナス面をカバーするため、内容はもちろん、漢字にもずいぶんこだわったものです。
「会う」をわざわざ「逢う」と書いたり、「思う」ですむ所をあえて「想う」にしてみたり.....。
その方がどこか重みや深みが感じられませんか?

今の若者もメールを打つとき、こんなこと考えているのかな?
あの速さでは1字1字にこだわっているヒマはないように見えますが.....。



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「1週間は7日です。」

2005年10月27日 | 学習一般
いきなりですが、この記事のタイトルの文を英語にしてみてください。

そんなのカンタ~ン!..... A week is seven days.でしょ?.....ブーッ、残念!
.....正解は A week has seven days.です。

この問題、ほとんどの中学生ができません。
「です」を見ると自動的にbe動詞を使いたくなるようです。
単純に「1週間は です 7日」の順に並べて英語にすればいいと考えるんですね。
では、A week is ~だと何が問題なのか、検討してみましょう。

ほとんどの教材にbe動詞は「=」の意味だと書かれています。
a week と seven days は果たしてイコールでしょうか?
一瞬その通りと答えたくなりますが、よく考えると違うような.....。
たとえば日曜日ばかり7日間集めても seven days ですが、これを1週間とは言いませんよね。

ん?でもこれだと「7日は1週間です。」がおかしいことの説明にしかなってないか.....。
1週間は必ず7日間ですもんね.....。

seven days を主語にすると Seven days are ~になります。
さっきは is だったのに.....。
そもそも単数と複数をbe動詞「=」で結ぶことに文法的な無理があるということかな?
そうすると Two weeks are fourteen days. ならOKなんでしょうか.....?


などといろいろ考えていたら、疑問が湧いてきました。
be動詞って本当に「=」なんでしょうか?
当たり前のようにそう言われていますが、どうも納得できません。

数学で使う「=」を厳密に解釈すれば、左辺と右辺を入れ替えても式は成り立つはずです。
I am Kiri. は Kiri is me. とも言えますが、He is a doctor. は逆にしたらおかしいですよね。
be動詞の後に happy や from China が来る場合は文自体が成立しません。

日本語で考えてもそうです。
「私は医者です。」と「医者は私です。」は違う意味です。
「○○は××です。」というとき、決して○○=××ではないですよね。
なのになぜ、英語ではbe動詞を「イコール」と定義したがるのでしょう。

「イコール」の場合もあるでしょうが、むしろそうでない場合の方が多いと思います。
勤務時間中はShe is a teacher. でも、家に帰れば She is a mother. だったり、またある時は She is a volleyball player. だったりするわけです。
She is happy. の日もあれば、She is sad. の夜もあるでしょう。
すなわち、be動詞で表現しているのは、ある時・ある場面での主語の一面でしかないと思うのです。
これを「イコール」と言ってしまうのは少々乱暴な気がします。

「イコール」と言うより、「存在している」という意味を主に考えてはどうでしょう?
ある時は教師として存在し、ある場面では母親として存在している。
嬉しい状態で存在している日もあれば、悲しい状態の存在のときもある。
「イコール」のような矛盾は出てきません。

ただ、事物が主語になって真理を表すときには「イコール」の方がふさわしい場合もありますね。
Twice two is four.(2×2=4)は twice two の一面を表しているわけではなく、four以外になりようがありません。

要は、be動詞はみな「イコール」という短絡的な解釈は危険ではないかと言いたいだけです。
もっとも、どう解釈しても A week is seven days. が誤りである説明には説得力がたりません。
これってやはり意味的な理由ではなく、上記のような文法上の理由ですか?
どなたか教えてください!


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紅葉狩り

2005年10月25日 | ことば・国語
信州では、高い山の頂上付近には雪が見え始めました。
私の住む町でも場所によって木々がチラホラ色づいています。
紅葉は美ヶ原、栂池高原はもうおしまいで、今は戸隠や黒姫、八ヶ岳あたりが見頃のようです。

桜に比べたら旬の時期は長めとはいうものの、やはり最盛期の全山紅葉(+緑も少し)のシーンを見てみたいと毎年「紅葉情報」を気にかけています。
「世の中に絶えて紅葉(もみじ)のなかりせば.....」の心境です。

そもそも「もみじ」という正式名の植物は存在しないんですよね。
秋になって木々が色づく現象そのものを「もみじ」=「こうよう」というわけです。
私はそれを知るまで、カエデの一回り小さい種類でモミジという木があるのだと思っていました。
一般に「もみじ」と言うとき頭の中にあるのは、やはりカエデのイメージではないでしょうか(例:もみじのような手、もみじ饅頭)。

「もみじ」の語源は「もみつ(黄葉つ、紅葉つ)」という動詞で、秋になって木の葉が黄色や赤に変わることを表現したもの。
万葉集には「毛美照」という表記もあるようです。
この名詞形「もみち」が「もみぢ」になり、現代仮名遣いでは「もみじ」になりました。
今では「紅葉」の方がポピュラーですが、古くは「黄葉」が多く使われていたようです。
確かに赤くなる葉はカエデやナナカマドが目立つくらいで、黄色くなるものの方がずっと多いですね。

さて、紅葉を見に行くことを「紅葉(もみじ)狩り」と言いますが、ただ風景を見に行くだけなのになぜ「狩り」を使うのでしょう?

この言葉も万葉集にすでにあるそうです。
「狩り」という言葉、元々はもちろん動物相手の「狩猟」の意味ですが、古くから植物(薬草など)を採ることにも転用されています。
今で言うイチゴ狩り、梨狩り、キノコ狩りなどがこれですね。

「紅葉狩り」の語源については諸説あるようですが、この記事を書いている途中で偶然NHKラジオでもこの言葉を採り上げていたので、そこからの情報も参考にさせてもらいます。

いわく、狩りの途中でみごとな紅葉に出会い、本来の目的を忘れてさらに紅葉を追い求めたことから.....とか、狩りをしない貴族が狩猟になぞらえた.....とか、昔は実際に紅葉した枝を手折って持ち帰ったから.....とか.....。

ま、謂われはどうあれ、今では純粋に風景を眺めるだけになった行為に「紅葉狩り」という優雅な言葉が生き続けていること、嬉しく思います。
何も取って来ないのに「狩り」を使うのは、現代では他に思い浮かびません。
「ホタル狩り」は微妙なところですね。
観光地化しているところでは「紅葉狩り」の用法と同じだと思いますが.....。

試しに「狩り」を辞書で引いてみると、「花や木を探し求めて観賞すること」という意味も載っています。
ただ、都会で公園のイチョウの紅葉を見に行くときに「紅葉狩り」って似合いませんよね。
ラジオでも言ってましたが、「狩り」には山野へわざわざ出かけて行くという行楽のイメージがあります。
「桜狩り」という言葉もあるにはあるようですが、都市の中や近場に桜の名所がたくさんでき、そこで花見と称して宴会をやっている状況ではこの言葉もピンとこないでしょう。
自然の山桜を求めて山に入っていくのであれば「桜狩り」もしっくりきます。
「桜の森の満開の下」の鈴鹿峠のような.....。

ついでに夏の「新緑狩り」、冬の「樹氷狩り」なんてどうしょう.....?

なんてバカなこと言ってないで、さて今度の週末はカメラ片手にどこへ「狩り」に行こうかな.....。


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北京の蝶の話

2005年10月23日 | 日々雑感
「北京で1匹の蝶が羽ばたいたら、ニューヨークでハリケーンが起こる。」

1匹(1頭)が飛ぶと周りの蝶もそれを見て2匹、3匹と羽ばたき出す。
それがどんどん広がって大きくなり、ついには遠く離れたニューヨークに嵐が起こる。
.....ミクロの小さな揺らぎがマクロの世界に変化を引き起こすという「カオス理論」(←???)で使われる、バタフライ・イフェクトという例え話だそうです。

前三重県知事の北川正恭氏が、今「地方から日本を変える」をテーマにこの話を全国で紹介しています。
私は新聞で読みました。

この手の話を聞くと勇気が出ますね。
自分がやっていることなんかちっぽけなことだ、世の中なんて変えられないという無力感を感じたときにはこの言葉を思い出します。

人間じゃなくて、象でも鯨でも犬でもなくて、はかない蝶1匹が始まりというのがいいですね.....。
1匹がひらひら舞っている情景から少しずつ仲間が増えてきて、やがて空一面が蝶で覆われるまでが映画のように浮かんできます。
バックに流れるのはラベルの「ボレロ」.....ぴったりでしょ。

さらに、蝶はか弱そうに見えて実は意外と逞しさを秘めているということも、例えとして使うには最適ですね。
しかもそれは、けなげさや哀しさを伴う逞しさです。
アサギマダラの渡りや「てふてふがいっぴき だったんかいきょうを わたっていった」の句には「もののあはれ」さえ感じます。

ところで冒頭の話、蝶の色は何色でしょう?
私は迷うことなく黄色ですね。
青空を背景に黄色が画面いっぱいに.....。
あ、これ大好きな「幸福の黄色いハンカチ」のイメージだ!

.....さて、みなさんも北京の蝶になってみますか?


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虫の名前

2005年10月21日 | ことば・国語
オオムラサキ、ミヤマクワガタ、ムクドリ、セイタカアワダチソウ....。
先日の朝日新聞に、生物名を何でもカタカナ表記することへの記者からの苦言が載っていました。
もともとは理系の学術文書で使われていたこの表記法が教科書や事典などでも踏襲され、世間へ広まってきたのではないかとのこと。
書き物によっては意味や情趣を大切にして漢字で書くことを提案しています。

私もブログの中では専らカタカナを使ってきましたが、確かにカタカナは機能性だけで味気ない感じがします。
余談ですが、世界史が苦手なのも人名にカタカナが多くて特徴がつかみづらい=覚えにくいからです。
同じような名前ばかりでもまだ、家康、家光、家斉などの漢字の方がイメージが湧きやすいのです。

ゲンノショウコという植物名は知っていましたが、漢字では「現の証拠」と書き、「薬効がたちまち現れる」ことから名づけられたそうです。
私は何となく「ゲン」から「幻」や「玄」を連想していたので、真実を知って驚きました。

さあ、そうなると他の生物名の漢字表記も知りたくなります。
手元にあるのは「日本の昆虫」(小学館)というポケット版の図鑑....。
他にも表記の仕方はあるのかも知れませんが、とりあえずこれに従います。

オオムラサキは「大紫蝶」、ミヤマクワガタは「深山鍬形」....。
このあたりはなるほどというだけで、別に新たな発見もありませんね。

タガメ=「田亀」....まあ、亀に見えないこともありません。
シロスジカミキリ=「白條髪切」....「紙切」だと思ってました!
オオヒラタシデムシ=「大扁死出虫」....動物の死体を食べる虫です。「埋葬虫」とも!
センチコガネ=「雪隠黄金虫」....糞を食べる虫。「cm」とは関係ないんですね。


ここからは当て字と思われます。
これでは名前の由来はわかりませんが....。

ベニシジミ=「紅小灰蝶」....イメージは納得です。
オオオサムシ=「大歩行虫」....羽が退化して飛べないそうです。
ナナホシテントウ=「七星瓢虫」....瓢箪とどういう関係が?「天道虫」とも。
そして極めつけの当て字は
オニヤンマ=「馬大頭」!....「鬼蜻蛉」より断然インパクトがありますね。


もちろん漢字ばかりでは前にも書いたように読みにくいし、雑学をひけらかしているようなイヤらしさが出ます。
ただ場合によっては、記号でしかないカタカナ表記を捨て、文化的背景の感じられる漢字をあえて使うのも一興かも知れませんね。


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発音より大切なこと

2005年10月19日 | 学習一般
小学校から英語が必修になることについて、前回の続きです。

小学校での英語は「英語に親しむ」ことが目標だそうです。
歌を歌ったり、ゲームをしたりするわけですね。
そんなチイチイパッパを何年もやって、精々あいさつくらいができるようになって.....だから何だと言うんでしょう?
その程度のことなら中1で英語に初めて触れた子でも、2学期には追いつけます!

そもそも、語学教育において、早期から始めた方が効果が高いという明確なデータはないそうです。
発音は多少よくなるかも知れませんが、ネイティブのごとく流暢にしゃべることがそんなに重要ですか?

今世界を舞台に働いている人(日本人に限らず)の英語だって、ひどい発音のものも少なからずあります。
でも彼らは自信を持って話している。
そして何より訴えたい意見があり、伝えたい思いがある。
だから通じるのです!
綺麗な発音だからコミュニケーションが取れるのではありません。

どうも今の日本人の英語学習はそのあたりを勘違いしている人が多いような気がします。
小学校から、あるいは幼児から英語を学べば発音が良くなり、会話もスラスラできるようになる....それも怪しいですが、百歩譲ってその通りになるとしましょう。
でもそれだけです。
それだけのために、ただでさえ少ない小学校の授業時間を奪うのですか?

極論を言えば、日本で普通に生活している限り、英会話ができなくて困ることはありません。
本にしても映画、ネットにしても日本語に翻訳されているものは多いし、どうしても困ればできる人に頼めばいいことです。
仕事上、日常的に英語が必要な人はほんの一握り....。
残りの大多数の人にとって、英会話が少しでも役立つのは精々海外旅行に行ったときくらいです。
そんな程度のことに小学校からの長い時間を費やす必要性が、私には全く理解できないのです。

外国語教育の目標とは何でしょう。
ただ話せるようにすることですか?気のきいたジョークを言えるようにすることですか?
私は、言語そのものも含めて異文化を知り、外国人との相互理解を深めることだと思います。
あいさつや通りいっぺんの会話で薄っぺらな交遊をすることではなく、中身のある話を通して互いの文化を認め合うことです。

そのために、特に高校生くらいまでは、ネイティブ並の発音や会話の上達を目指すより他にやるべきことがあるのではないでしょうか。
一つは前の記事にも書いたとおり、大量の英文を読み、聴き、日本語を介さずに理解できるようにすること。
二つ目は、あたりまえのことですが国語力をつけること。
そして三つ目は歴史、地理、政経、科学(数学含む)などの他教科を、特に自分の国についてきちんと学ぶことです。


あいさつはできても少し専門的な話になるとお手上げの人は、英語力よりも国語力や一般教養が貧弱であることが少なくありません。
たぶん日本語でも、これを訴えたい、これは絶対伝えなければというほどの、整理された意見は持っていないのではないでしょうか。

綺麗な発音で英会話だけできても、ほとんど役には立ちません。
外国人と他愛ない話を交わして、それで「グローバル・コミュニケーション」などと言ってもらっては困ります。
趣味の一つとしてなら大いに結構ですが、それと「英語ができる」とは全く別のことです。
一見華やかな英会話を追い求めるよりも、まずは地道なインプット作業に励むことが真に「できる」ことへ通ずる道なのです。

そして国語力を高め、教養を深め、世界を知ることです。
英語ができるから世界を相手に仕事ができるのではありません。
世界を舞台に功を成している人物は、日本語で日本人相手に主張を訴えても、十分成功する可能性がある人です。
英語さえできたら留学も外資系への就職も楽になるなどと考えるのは、とんでもない幻想です。
英語はあくまでも道具にすぎないということを忘れてはならないと思います。


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使える英語?

2005年10月17日 | 学習一般
下記の報道を知って英語について書いていたら、ずいぶん長くなってしまったので2回に分けます。
今回は会話重視の英語教育への意見です。



早ければ2年後から、小学校での英語指導が義務化されるそうです。
文科省がそれに向けて具体的な検討を始めたというニュースを聞きました。
「総合的な学習の時間」を削って英語に充てるようです。

周知のように、今の日本の学校教育には問題が山積しています。
学力低下、他国に比べた読解力や応用力の不足、そして最も大きな問題と思われる子どもたちの学習意欲の減退....。

それらの問題を等閑にして、世の中の英会話ブームに迎合するかのような方針を打ち出す文科省に、将来への確たるヴィジョンがあるとは到底思えません。
「何となく」英語ができた方がいい、くらいのことでしょう....。

いつの頃からか、日本人は何年も英語を勉強しているのにまともに会話さえできないという批判を多く耳にするようになりました。
文法にこだわるより「使える英語」を教えることを求める声が高まってきたのです。
どうも文科省は、あまりにも短絡的にそれに応える方向で動き出しているような気がします。

中学の教科書は改訂のたびに絵が多くカラフルになり、昔の面影はありません。
短いやり取りの会話文が多く、ストーリーを楽しむような長文はすっかり少なくなりました。
全体的に、ぶつ切り的な内容ばかりで体系化できていないように思います。
空港での会話、レストランでの会話など、場面別にお決まりのフレーズを並べているだけの「お手軽トラベル英会話」の本とたいして変わりません。しかもネイティブが「そんな言い方しない」と言う不可思議な英語もずいぶんあるようです。

そんな会話のパターンをいくら覚えても英語ができるようになるとは思えません。
相手がお手本と違う言い方をしてきたら、そこで終わりです。
だいたい、日常会話の、母国語であれば幼児でも話せるような内容をたくさん覚えることにどんな価値があるのでしょう?
あいさつに毛が生えた程度で、ちょっと突っ込んだ話になるともうわからない....。
それでは、お題目のように使われる「グローバル・コミュニケーション」など実現できるわけがありません!

いわゆる「学校英語」が役に立たないからと言って、「実践的」な会話を増やしても所詮その程度です。
母国語と違い、自然に目や耳に入ってくる量が圧倒的に少ないので、当然の成り行きでしょう。

「学校英語」から脱却して一歩上を目指すには、まずはインプット量を増やすことです。
お手軽会話にかける時間があれば、それを読む(黙読&音読)練習、聴く練習にあてましょう。
ただし、高校の文法のように少量の難しい文を重箱の隅をつつくように分析するのではなく、やさしいレベルのものを楽しみながらたくさんこなすことです。

英語を英語のまま理解できるという経験を多く積むことで、日本語から英語へのモードへの切り替えがスムースにできるようになります。
会話はそれからでも十分。
極端に言えば、話し言葉の代わりに書き言葉を使っても、少々ぎこちなくても言いたいことは伝わります。
だから今度は丸暗記しなくても、必要な会話表現だけを余裕を持って学べばいいのです。

中学生、高校生の皆さん、教科書の英語は会話の部分も含めて「学校英語」だと割り切りましょう。
まちがってもあれだけで英語ができるようになる、ペラペラ話せるようになるなどとは思わないこと。
本当に英語に強くなりたい人は、絵本から始めてとにかく英文をたくさん読んでください。
CDやテレビ、ラジオなどで英語をたくさん聴いてください。

英会話教室に通うより、あとで効果が実感できますよ。


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読書の秋

2005年10月13日 | ことば・国語
各地の小・中・高校で行われている「朝の読書」、長野県は実施率76%で全国5位だそうです。

朝10分ばかり形だけ「読書」して、いったいどんな効果があるのか....私も初めはそんな覚めた見方をしていました。
けれど半ば強制的なそういう時間でもなければ、自分からは決して本を読もうなどと思わないであろう子どもも大勢見てきました。
むりやり「課題図書」を読まされて感想文を書かされる夏休みの宿題は、どちらかというと本嫌いを作り出す面の方が大きいと思いますが、好きな本を自分のペースで読めばいい、感想文も求めないという方法は長く続ける上でも有効です。
周りの雰囲気でページを繰るスピードが上がるということもあるでしょう。

04年度の調査によると、1ヶ月に1冊も本を読まなかった割合は、小学生で7%、中学生で19%なのに対し、高校生では43%にまで上っています。
大学でも、読む学生と読まない学生の二極化が進んでいるようです。
「朝の読書」の実施率が中学校までで高いことも、この要因の一つと考えられるのではないでしょうか。
言い換えれば、その時間がなくなったら読まない、つまり習慣化していないということにもなりますが....。

この「朝の読書」をやめる学校が増えているそうです。
理由はいわゆる「学力低下」です。
先日の朝日新聞「声」欄には、「東京都の学力テストの成績が悪いので、朝の読書は中止し、具体的な成果を上げる学習に回すことになった」中学校の例が紹介されています。
要するに計算練習や英単語テスト、漢字書き取りなどに当てようということでしょう。
朝の10分でできることと言ったらその程度です。
そんなことで学力低下が収まると本気で思っているのでしょうか。

まさか学校側も、これで目立った成果が期待できるとは考えていないでしょう。
ただ、学力、学校教育に対する世間の声を前に、何も手を打たないというわけにもいかないので、手をつけやすい所からお座なりの対策を立てている、というところではないでしょうか。
「読書は自分でヒマなときに」「それより少しの時間も惜しんで練習を」という論理に反対の声が上がりにくい空気が現場を支配している気がします。

読書の効用については、今さらここで触れるまでもないでしょう。
やはり本をよく読んでいる人にはかなわない。
何事にも深みがあり、余力があります。
私が繰り返し重要性を主張している思考力も、読書による語彙の獲得、理解力や想像力の向上なくしては養成は困難です。

目先の結果を追い求めるあまり(実際には結果も出ませんが....)、子どもたちが読書の楽しさに目覚める機会を狭めてしまっていいのでしょうか?
すぐには表に現れない力を育むための朝のたった10分間を、どうして子どもたちのために守れないのでしょうか?
残念ながらここでも学校の塾化が進んでいるようです。

昨年文化審議会は、急速に変化していく今後の社会では、今まで以上に国語力が必要だと答申し、そのために「自ら本に手を伸ばす子ども」の育成を提言しています。

それに逆行するような「朝の読書」の中止には断固反対!
学校がやらないなら塾がやります。
「塾の真価は教材以外の蔵書数で決まる」という言葉がありました。
....塾の図書館化、ますます進行中です。


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ニーズを作り出す

2005年10月10日 | 学習一般
内閣府がネットを通じて、小学校から高校までの子どもを持つ親に、学校制度に関するアンケート調査を実施したそうです。
それによると、学力向上面で学校より「学習塾・予備校の方が優れている」と答えた人が7割に上ったということです。

学校の先生が予備校の講師から授業の仕方を教わるという現象も起きている中、これはそんなに驚くべき結果とは言えないでしょう。
他の方のブログを見ても、みなさん冷静に....というより冷ややかな目で捉えていらっしゃるようです。

よく言われるように、学校に比べると塾や予備校の方が目標がはっきりしている、合目的性が高いのは間違いありません。
学校教育(特に義務教育)の目的には、頭だけでなく心や体の面を育てることも含まれますが、塾や予備校は成績を上げる、志望校に合格させることだけが使命です。
保護者のニーズがはっきりしていて、それにきちんと応えていると言っていいでしょう。
ニーズに合わない所には通わせないし、効果が出なければ別の塾などに乗り換えることも簡単です。
満足度が高いのは当然ですよね。

だからと言って学校も保護者のニーズに合わせろと言いたいのではありません。
すぐに効果が現れる、目に見えやすい学力だけでなく、将来自分から自分の力で学んで行ける力、人生を切り拓いていける力をじっくり育てるのは、本来学校の役目です。
営利を求めない公教育でこそ、そういうスローな教育が可能なはずなのです。

ところが少子化が進み、いまや学校も選ばれる時代だそうです。
学習塾のように目に見える「学力」を向上させる学校が「よい」学校ということになり、すぐに点数に現れやすい反復型、丸暗記型の指導がもてはやされています。
学校の学習塾化、予備校化がどんどん進んでいるのではないでしょうか....。

一方で私の塾のような、成績やテストの点を上げることを第一目的としない中小塾も各地で生まれています。
テスト対策に走るより、読む力、考える力、書く力などを時間をかけて育てたい。
遠回りでもその方が真の実力がつき、結果的にはテストや入試でも高い成果を上げることができると考えているのです。 
塾の学校化というより、学校教育の優れた面の一部を特化した教育と考えてもらえると嬉しいですね。

覚えることが勉強だと思っている子は、初めはじっくり考えること、試行錯誤することを面倒がります。
すぐに解き方や答を知りたがります。
筋道の通った文章を書くのも苦手な子が多い。
でも、そういう学習を根気強く続けているうちに変わってきます。
人に言われていやいや勉強するのではなく、学ぶことの楽しさに目覚めてくるのです。
そうなれば放っておいても自分でどんどん成長していきます。
自分で考え、自分で解決し、人生を楽しむことができるはずです。

私が目指しているのはそんな塾です。
世の中の多くの人が「塾」に対して持っているイメージとは全く違うと思います。
冒頭のアンケートでもそうだと思いますが、「塾」と言えばやはりテストや入試対策という固定化したイメージを持つ人が多いでしょう。

だから、塾に対する多くの親のニーズも今のところその域を出ないと思います。
高い月謝を払って塾に通わせる目的は点数のアップ。
期待したとおり上がらなければ、また別の塾か家庭教師....。

そういったニーズに合わせた方が生徒は増えるでしょう。
私も以前にはテストや入試をターゲットにした募集もしたことがあります。
でも、もうニーズに合わせるのはやめにしました。
自分の信念を信じて、潜在的なニーズを掘り起こす、あるいは新たなニーズを作り出すことにしました。

物を売る商売でも、客の嗜好に合わせて商品を揃える販売方法だけでなく、提案型ショップとかこだわりの店というのがあります。
そういう、経営者のコンセプトを前面に打ち出した訴えをかけをしていきたいのです。
ニーズを作ると言っても、通販によくあるような「あれば便利」商品とは違います。
ウチの主力商品は、なくてはならない本質的なものばかりです。

幸いなことに、私の考えに共感して子どもを通わせてくれる保護者も少しずつ増えてきました。
とても大きな勇気をもらっています。

因みに、自分の塾を「学習塾」と謳うと一般的なイメージで捉えられて誤解を招くので、今のところ極力「私塾」ということばを使っていますが、本当は「塾」も使いたくないのです。
「子どもに考える力をつけさせたい」という新たなニーズを発掘する教室として、Swimming school に対抗して Thinking school とでも名乗ろうかと思っています。
何年後か何十年後かに時代が追いつき、「ニーズに応える」教室になっていることを夢見て....。


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Arakawa River

2005年10月08日 | ことば・国語
富士山は英語で Mt.Fuji ですね。
浅間山は Mt.Asama、阿蘇山は Mt.Aso.....と、「○○山」という名前のときは読みが「○○やま」であろうが「○○さん」であろうが問題なさそうです。
赤石岳、乗鞍岳も Mt.Akaisi, Mt.Norikura でいいかな....。

では北岳は?....槍ヶ岳は?....仙丈ヶ岳は?
普通に考えたら Mt.KitadakeMt.Yarigatake となるんでしょうねぇ。
北岳はともかく、Mt.Yariga とか Mt.Senjoga なんて変ですもんね。
それとも Mt.Yari, Mt.Senjo でしょうか?

どこまでを固有名詞と捉えるかという問題ですが、いろいろ調べてもよくわかりません。
「○○さん」と読むもの以外は「○○ざん」も「○○やま」も、すべて「山」まで含めて固有名詞扱いする(Mt.Asamayama, Mt.Asosan)という見解もありましたが、これは少し極端すぎるような....。

そう言えば、「岳」じゃなくて「山」だけど困るのもありますね。
北アルプスの立山や鳥取の大山。....これはどう考えても Mt.Tateyama, Mt.Daisenでしょうね。


川の名前も迷います。
よく橋のたもとなどにある国土交通省の看板。
「○○川」に添えた英語表記を見ると、「かわ」や「がわ」の部分の扱いが様々です。

信濃川、利根川、隅田川あたりは Shinano River, Tone River, Sumida River でいいと思うのですが自信がありません。
荒川や犀川(長野県と石川県に別々にあり)は間違いなく Arakawa River, Saigawa River でしょう。(昔埼玉のどこかで Ara River という表記を見た記憶もありますが....。)

わからないのが多摩川や江戸川です。
Tama RiverEdo Riverでいいような気もするのですが、Tamagawa River, Edogawa River が普通のようです。

実は川の名前に関しては(社)日本河川協会というところのHPに見解が載っていて、それを参考にしましたが、要は「特に決まっていない」ので「どちらが語呂がいいか」程度のことだそうです。→「日本の川の英語名での表記について」


寺や橋は、読みに関係なくほぼ100% Zenkoji Temple, Meijibashi Bridgeのようです。
神社はデータがないんですが、これは「じんじゃ」まで入れると固有名詞部分が長くなりすぎるかな....。
と思って、世界遺産の厳島神社を調べたら、登録名は Itsukushima Shinto Shirine でした。
でも明治神宮や出雲大社は Meiji-jingu Shirine, Izumo-taisha Shirine になるんでしょうね....。

まあルールを決めるほどのことでもないと思いますが、一つ私なりの案を....。
基本的には「山」「岳」や「川」まで含めて固有名詞とし、Mt.Kitadake, Arakawa River などのように言う。
ただし、日本語で慣用的に「山」「川」などを付けずに使うこともあるものは、その部分だけを固有名詞と考える。
たとえば「富士に登る」「四万十の風」→Mt.Fuji, Shimanto River
江戸川や多摩川の「江戸」や「多摩」は河川名より地域を表わすことが多いのでダメ。

と、ここまで考えたところで、今度は城の名前は?という疑問が浮かびました。
城と言えばこれも世界遺産の姫路城!
さっそく調べると登録名は....Himeji-jo....あれ?!


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漢字力=国語力ではない

2005年10月06日 | ことば・国語
昨日の朝日新聞に「大学生、漢字が苦手」という見出しの記事がありました。
漢字検定2級の過去問を使った調査で正答率が4割を切り、特に「四字熟語の書き取り」や「誤字訂正」「対義語・類義語」では10数%の正答率しかなかったという内容です。

記事はこの結果から大学生の国語力低下へと話を進め、対策に動き出した大学の実践例を紹介しています。

しかし、これは少し短絡的すぎないでしょうか?
「分数ができない大学生」のように、些細なことから話を広げすぎています。
漢字力も国語力の一部であることに異論はありませんが、あくまでも「一部」に過ぎません。
しかも国語力の本質からはかなり遠いところに位置する「一部」だと考えます。

漢字の読み書きは、わからなければ調べれば済むことです。
私もちょっとあやしい漢字はすぐに辞書を引きます。
仕事や私信で日常使う漢字もあやふやでは大変でしょうが、「安寧秩序」や「軽挙妄動」がすぐに書けなくても、それほど支障があるとは思えません。

四字熟語にしても、大切なのは意味を正確に理解し使いこなせることであり、漢字でスラスラ書けるかどうかではないはずです。
高度な漢字力より、むしろ語彙の豊かさや読解力、言語表現力の高さこそが、大学生にも社会人にも求められているのではないでしょうか。

世は資格・検定ブームのようで、公から民まで実に様々な検定があります。
それについても言いたいことがあるのですが、また別の機会に譲るとして、中でも老若男女問わず人気なのが「日本漢字能力検定」いわゆる「漢検」です。

この漢検がなぜそんなにもてはやされるのか、私には理解できません。
入試でも、英検や数検と並んで内申書でのプラスポイントに考慮されるようです。
履歴書に書ける資格として、2級以上を目指している人も多いと思います。

でもよく考えてみてください。
漢字の読み書きがどれだけできるか、熟語の構成を知っているか否かを測ることにどんな意味があるのでしょう。
しかも2級や1級になると、まず普段は使わない特殊な漢字ばかり....。
先に触れた四字熟語や対義語・類義語にしても、意味がわかって書いているとは限りません。
英単語をどれだけ正確に書けるかで資格が取れますか?

漢検は漢検としてあってもいいのです。
挑戦したい人はがんばって勉強すればいい。
そのこと自体にケチをつけるつもりはありません。
でも漢字にいくら詳しくなっても、それは所詮「ものしり」「雑学王」にすぎないと思うのです。
それだけでは趣味や特技の域を出ないということです。

言い換えれば、自分の楽しみ、知的な遊びとして捉えれば、漢検はとても魅力的なものだと思います。
それ以上でもそれ以下でもありません。

むろん検定のために努力した過程は評価されるべきであり、入試でのプラス査定もそこに根拠があるならわかります。
ただ、英検や数検と同じレベルで評価するのはどうなんでしょう?
国語力という観点で考えれば、むしろ文検(文章能力検定)などの方を高く評価すべきだと思いますが....。

最後に一言。
ワープロで簡単に漢字が出てくるので、注意しないとつい漢字が増えてしまいます。
私もそうなりがちなので、いつか読んだ本にあったこんな言葉を肝に銘じています。

  「漢字が多い文章はバカに見える」

難しい漢字を多用することが賢いのではないのです。
知っているけどあえて使わない....そんな上品な文章を書きたいものです。


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俳句の限界?

2005年10月04日 | 日々雑感
タイトルは大袈裟ですが、何も俳句の芸術的な限界という文学的な話をするわけではありません。
実にくだらないことですが、以前から折に触れ思っていることです。

俳句は言うまでもなく世界最短(?)の定型詩であり、極限まで無駄を省いた描写が最大の魅力です。
ただ、短いが故の宿命も当然負っているわけで....。
それは、いつか俳句がそれ以上作れなくなる日が来る、つまり作品数の限界が最も早く訪れるということです。

五・七・五で合わせて17字。....たった17字です。
字余り、字足らずや自由俳句についてはここでは考えません。
また、口に出して読むときのことを念頭に置いて、字数ではなく「17音」と捉えます。

さて、日本語の「音」の数は清音から濁音、半濁音、拗音まで入れて約100。
ということは理論上100の17乗、100溝(こう)までですべての音の組み合わせが終わってしまう....。
つまり、どうあがいても 新たな俳句はできなくなる ということになります。
(注:「溝」は「兆」の5つ上、10の32乗からの読み方です。)

これは計算上のことですから、100溝の中には「んんあ」とか「きゃぴご」のような意味を成さない組み合わせも数多く含まれています。
それを考慮すると甘く見積もっても1万分の1、すなわち10の30乗=100穣(じょう)で俳句の限界が来ることになります。

俳句人口を500万として、1人が1日に1句詠むと年間で18億句。
これで計算すると....?....??
....出ました、
俳句は約6垓(がい)年=600京(けい)世紀で終わりです!
....人類の滅亡や太陽系の終わりの方が断然早そうですね。

ところで、同様のことは音楽にも言えます。
ときどき、メロディーの一部がある曲にそっくりで盗作じゃないかなどと話題になる作品がありますね。
私が一番記憶に残っているのは「上を向いて歩こう」とベートーベン「皇帝」の出だしの部分です。

このくらいの長さ(4小節)だと音符の数が精々10いくつで、音階も1オクターブに収まるほど。
組み合わせの数を考えると、半音まで入れても俳句より0の数が10個くらい少なくなりそうです。
おまけに音楽に言葉は要りませんから、毎日世界中で作られるメロディーの数も俳句とは桁違い....。

ま、それでも何億年は作り続けることができますから心配ありませんが....。
ただ、その中でも耳障りでない曲、心地よいメロディーはある程度限られてくるでしょうから、似た曲が偶発的に出てくるのは必然かも知れませんね。


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秋深まる

2005年10月02日 | ことば・国語
信州の秋は駆け足です。
ついこの間まで「暑い、暑い」と言っていたのが嘘のように、日に日に空気が冷たくなっていきます。
朝晩は涼しさを通り越してすでに「寒い」の領域へ....。
まるで今のジャイアンツのようです(また野球ネタで失礼....)。

ところで、よく「秋が深まる」とか「深まる秋」と言いますが、秋以外の季節には「深まる」という表現、ほとんど使いませんよね。
少なくとも私は「春が深まる」「深まる夏」なんて、一度も使った記憶がありません。

Yahooで検索してみたところ、「秋深まる」と「深まる秋」でヒットしたのが合わせて12万件に対し、春と冬が90件、夏は60件。
秋の0.05~0.075%という結果でした。

なぜなんでしょう?
因みに歳時記にはおなじみの「秋深し」と同じように、「春深し」など他の季節のものも季語として載っていますが、例句はほとんどありません。
どうして秋だけに決まり文句のように使われるのでしょうか....。

秋になると木々の葉の色が深まる、空の色が深まる....なども関係しているかも知れません。
でもやはり、秋分を過ぎて夜がだんだん長くなっていく状況が「深まる」にしっくりくるからということではないでしょうか。
「秋の夜長」ってやつですね。
一日の中で見ても、夜が一番「深まる」にピッタリのような気がします。

「更ける」という言葉もおそらく「深くなる」から生まれたのでは?と考えています。
これも秋や夜について使うのが最もふさわしいと思いませんか?
だからの、おまけにとなったら、もう深まりっぱなし、更けっぱなしです!
「♪更けゆく秋の夜....」の感傷は春や夏でも、朝や昼でも味わえませんね。

ところで、他の季節が進行する様子には何が一般的なのでしょう。
「行く」だともう季節の終わりという感じだし....。
特に夏の終わりには「過ぎゆく」がピッタリだと思います。
一抹の寂しさも含めて夏を惜しむ....。
他のどの季節よりも「過ぎゆく」は夏です。

でもやはり、秋の「深まる」のような、他の季節の中盤から使える表現は思い浮かびません。
どなたか思い当たる言葉があったら教えてください。


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