ことばを鍛え、思考を磨く 

長野市の小さな「私塾」発信。要約力、思考力、説明力など「学ぶ力」を伸ばすことを目指しています。

「は」と「が」

2005年12月30日 | ことば・国語
昔何かで読んだ話をときどき生徒にも教える。
「は」と「が」の一字の違いで、こんなにも意味が変わるという一例である。

①花子は部屋の隅で本を読んでいた。太郎部屋に入ってきたとき、そちらに目を向けた。
②花子は部屋の隅で本を読んでいた。太郎部屋に入ってきたとき、そちらに目を向けた。


どうだろう?たった1文字変えただけで、「目を向けた」人物が変わってしまう。
英語なら2文目の書き出しから変わってしまうところだが、語順の自由性が高い日本語ではこんな芸当ができるわけだ。

生徒の書いた文章を見ても、対話していても、この「は」と「が」の使い方に無頓着なため、おかしな日本語になっていることが少なくない。
英文和訳でもしょっちゅうある。

「筆者○○だと言っているが、わたしは××だと思う。」
「彼女作ったケーキはとてもおいしかった。」
「ぼく帰ってきたとき、母は本を読んでいた。」
などなど....。

自分の書いた文を読み返させればすぐにわかることも多いが、助詞の重大さに初めからもう少し神経を使ってほしい。

日本人でさえこうなのだから、外国人が日本語を学ぶ際、助詞が大きなネックの一つになっているだろうことは容易に想像できる。
日本人でよかった....。

では今年の終わりに宿題を一つ。正月休みに考えてみてください。
今年訪問してくださった多くの方々、いつもコメントを入れてくださる常連さん、すべての皆さんに感謝します。
ありがとうございました!


<問>次のそれぞれについて、「は」を使った場合と「が」の場合とでどんな違いがあるか考えてください。

 (1)「ここ日本です。」と「ここ日本です。」
 (2)「英語苦手です。」と「英語苦手です。」



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類語辞典に親しむ

2005年12月26日 | ことば・国語
子どもが小さかった頃、写真に凝っていた。
もちろん今のようにデジカメが普及する前の話で、プロ気取りでリバーサルフィルムを高級一眼レフに入れ、家族や風景の写真を撮りまくった。
写真雑誌に何回も掲載され、当時住んでいた長岡市の展覧会にも出品。
いろいろな賞をもらったこともあった。
子どもが成長するのとデジカメへの移行が時を同じくし、今では記録としての写真を撮るばかりになってしまったが....。

ところで、雑誌のコンテストや展覧会に出品するときに、一番悩んだのが作品のタイトルである。
テーマや構図、光の加減、偶然写っていた物などを考慮し、作品に最もふさわしく、かつ平凡すぎず奇抜すぎないタイトルを付けなければならない。
下手なタイトルにしたことで評価が下がることも考えられる。
次々に浮かんでくる言葉を、ああでもないこうでもないと取捨選択するのは、半ば楽しい作業でもあったが、ときには苦痛であった。

そんなとき出会ったのが角川書店の類語辞典である。
恥ずかしながらそれまで(30代まで)そんな辞典の存在を知らなかった。
もちろん即決で購入した。

これはすこぶる重宝した。
最初に頭に浮かんだ言葉だとちょっとニュアンスが違うなというときに、その言葉を引けば似たような言葉が続々と出てくる。
普通の国語辞典と異なり、微妙な意味の違いを用例を交えて説明してあるのが嬉しい。
最も知りたい部分を的確に教えてくれる辞典はありがたいものだ。

今写真は撮らなくなったが、このブログを始め、文章を書く際には愛用している。
その後類語辞典の出版も増え、電子辞書やオンライン辞書でも類語を扱うものが多数ある。
ブログの普及が、文章を書くことや言葉にこだわることへの興味を高めているとすれば喜ばしいことであろう。

もちろん塾でも類語辞典が活躍している。
国語辞典で意味を調べてもピンと来ない生徒には類語辞典を与える。
私と生徒とのやり取りで気になった言葉を2人で調べることもある。
ふだん自分が何気なく使い分けている言葉、読み分けている言葉を、改めて確認し理解を深める作業は国語力を確実に高めるはずだ。

さらに、ニュアンスの違いに注目しながら類語を調べることは、新しい言葉を学ぶチャンスも与えてくれる。
既知の言葉との違いを意識することで語彙の広がり、深まりが強くなる。
言葉を豊かにする上でも類義辞典は利用価値が高いのである。

実は今、類語辞典を最大限に活用した国語教材を考えている。
たとえば、ある文の空白部分に「不安」「心配」「恐れ」「気がかり」「懸念」のうちどれを入れたらよいか、前後の文脈から考える。
ある言葉を別の言葉に置き換えたら、あるいはひらがなやカタカナにしたらどんな違いが出るか考える....。


自分では十分理解しているつもりの言葉でも、実は微妙に間違った使用をしている場合もある。
知っている言葉をさらに深く学ぶと共に、それと関連づけながら新しい言葉も学べる、そんな教材ができれば理想的だと考えている。


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頭の中を整理する

2005年12月23日 | 学習一般
今週は毎日雪かきで疲れ果て、やっと更新できました。
今晩からまだ降るって?.....もうイヤッ!

さて、私の塾では問題集の答は直接記入させず、ノートに書かせている。
問題集に書いてしまうと二度と使えなくなるからだ。
従ってノートはいくらでも無料で支給する。
その分、ノートの使い方にはうるさい。

子どもたちは毎日新たなことをたくさん学ぶ。
自らが主体的に「学んだ」ことは身につく率が高いが、問題は習った(教えられた)ことである。
いくら若い脳でも容量には限りがある。
教わったことをそのまま覚えようとしていては、脳はたちまち満杯になってしまうだろう。
そこで、新たに仕入れた情報を「これはつまりこういうこと」「これはこう考えればいいだけだ」とか「これはあれと同じことを言っているんだ」「これとこれは逆の関係だ」など、要約したり分類・整理して重要な部分のみをインプットすることが必要になってくる。

これがうまくできているかどうかはノートを見ればすぐにわかる。
たとえば数学なら、例題と解き方、解説、ポイントといった重要事項と単なる計算が整理されているか否か。
解答に至る途中のたし算やわり算を、同じページ内の隅っこや余白でコチョコチョとやっている、しかも計算が終わったらそれを消してしまう。
そういう子の頭の中は、ノートと同じように雑に散らかっているはずだ。

極端な場合は複数教科を1冊のノートで済ませている例もあった。
理科で前回のでき具合を見ようとページを遡ったら、歴史の答が書いてあって役に立たない。
復習もできないノートでは、その場凌ぎの勉強にしかなっていない。

数学のノートなら、見開きの左ページに問題から解答に至るまでも過程を書く。
問題集のページ番号、問題番号も見やすく書くこと。
解く際の注意事項、ポイントなどは色を変えて書き込む。
右側のページは計算用紙として使い、計算もそのまま残しておく。
右側が少し残っているからといって、決して左側の続きを書いたりしないこと!


もちろんこれはノートの使い方の第一歩に過ぎない。
わからなかった問題にどう対処するか、もっと進んで自分なりのまとめノートをどう作るかなどまで工夫するところに醍醐味がある。
しかしこの第一歩が疎かなようでは、そんなレベルまで至ることは到底期待できないのである。

繰り返すが、散らかった頭の中には新しい情報は入れることはできない。
まず今の脳内を整理すること、そして新たな情報に接したとき、整理された棚のどこにそれを収めるか、既存の情報とも照らし合わせて分類する。
場合によっては新しい棚を設けたり、以前の情報と統合したり、フォルダの中にさらにファイルをつくって階層化したりという作業も必要になろう。

図書館の蔵書やパソコンの情報の管理と同じである。
必要なときにいつでも取り出しやすい、検索しやすい状態にしておかなければならない。

論理的な思考を進めるためにも、説得力のある文章を書くためにも、情報の整理は欠かせない。
頭の中を整理する手始めとして、まずはノートを見直すことをぜひ実践してほしい。


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雪と戦う

2005年12月19日 | 日々雑感
今日は新しい記事をアップするつもりだったのですが、予定が狂ってしまいました。
そう、大寒波!のせいです。

各地で12月としては記録的な大雪になっているようですね。
当地(長野県北部と中部の境目)では、昨日まで大したことなかったのですが、昨夜から新たに降り積もって今20cmくらい...。
さらにどんどん降ってきます。

県のもっと北部や北陸に比べれば可愛いものですが、それでも労働が増えます。
家の屋根は大丈夫ですが、パイプハウス(鶏舎)は雪に弱いので朝から雪下ろし。
実は数年前の大雪で、ハウスを4棟潰しているのです。

鶏舎がある所はすぐ裏が山なので、場所によっては30~40cmくらい積もっています。
屋根の上の方は雪が凍っているので簡単には落ちてこないし、その分重くなって頂部をへこませているので容易に除去できません。
もちろん中には支えの柱を数本入れてあるのですが、その柱と柱の間でさえ頂部のパイプが湾曲している状態です。

20坪2棟と40坪1棟を終える頃には、体は汗をかいているのに指はかじかみ、全身クタクタになってしまいました。
...ということで今日は難しい話はお休みです。

太陽が短時間でも出てくれると、あんなに苦労する雪が溶けてサーッと屋根をすべり落ちてくれます。
やはり太陽のエネルギーは大したもの!
雪国の冬は本当に太陽のありがたさを実感しますよ。

そういえば昔長岡に住んでいたとき、冬に出張で大宮まで新幹線に乗ると、向こうは大雪だったのが群馬県に入ったとたん、みごとな冬晴れで唖然とすることが常でした。
逆に大清水トンネルを抜けて越後湯沢に出たときは、みごとなまでに「トンエルを抜けるとそこは雪国だった」の世界です。
出張に行くときは長岡駅のコインロッカーに長靴を預け、革靴に履き替えたものでした。
駅では「貸長靴」というのもありましたね...。

今は雪は止んでいますが、昨日に続いて真冬日になりそうで道路の凍結が心配です。
これから3月まで先は長いなぁ...。


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サボりたがる脳

2005年12月16日 | 学習一般
脳というのは基本的に怠け者であり、楽をしたがるようにできているそうだ。→「フリーズする脳~思考が止まる、言葉に詰まる」
できていたことがうまくできなくなると、苦手意識が出てさらにやらなくなる。
やらなくて済むようになれば、体と同じように脳もどんどん退化していく。
こうして、やがてボケの症状が致命的になってしまうと言う。

私の父も喜寿を迎え、ボケが進んできた。
もちろん90歳、100歳でも頭の働きが衰えを見せない人もいるが、年を取ればある程度のボケは仕方ないと思う。
ところが最近では40代、50代といった働き盛りや、20~30代の若者に至るまでボケが広がってきているそうだ。
病気ではなく、器官としては健全な脳を持つ普通の人たちがである。

一見精力的に仕事をしているように見えても、実は本人は「うわのそら」状態で、半ば無意識のうちに毎日のパターンをなぞっているだけのことも多い。
たとえば歯を磨いたり風呂で体を洗ったりするように、何も考えなくても体が勝手に動いている状態で仕事をしている。
セールストークもクレームに対するお詫びのセリフも、特に考えなくても自動的に口から出てくる。
こんな毎日を送っていると、脳はどんどんサボり始めるようだ。

さらにテレビやパソコン、インターネットやカーナビなどの文明の利器が、若年層のボケに拍車を掛ける。
インターネットで検索すればほしい情報はすぐに手に入る。
何をどうやって調べればいいか考える面倒もなければ、入手した情報を記憶しておく必要もない。

車に乗れば地図を読まなくてもカーナビが案内してくれる。
どこで曲がるか周囲の情景に気を配っていなくても、音声が教えてくれるままに従っていればいい。
最近では暗くなると自動的にライトが点いたり、雨を感知してワイパーが勝手に動いてくれたりという車まである。
極論すれば、ドライバーはほとんど何も考えなくてもいいのだ。

こんな生活に慣れていくと、機械が故障したときに的確に対処できなくなるのではないか。
自分で判断すべきことを機械任せにしていては、脳の機能は明らかに低下する。
センサーが感知していないからまだ大丈夫と、暗くなっても点灯しなかったり雨が降ってきてもワイパーを作動させなかったりでは危険である。
今さかんに宣伝されている「歩行者を感知するシステム」も、そういう意味では怖いと思う。
自分で危険を判断できない人間がますます増えるのではないか。
人間のための機械がかえって人間を不幸にすることになりかねない。

(信号のない交差点やセンターラインのない道路の方が事故が起こりにくいのと同じである。)

そして、私がもっとも危惧しているのが、この傾向が子どもたちの学習面にも広がっているように思えることである。
自分から考えようとはせず教えてもらうのを待っている子、教わったことの何の疑問も持たずひたすら覚えようとする子などなど.....。
大人が手取り足取りめんどうを見てやる教育では、こういう子が増えるばかりであある。
考えないことに慣れれば、そのうち考えようとしても考えられなくなる。
.....それが怖い。

少し頭を使えばできることまですべて機械や他人に任せ、楽な方向ばかりへ流れている現在の日本の行きつく先は、一億総思考停止であろう。
ロボットが人間を支配する世の中はSFの世界だけで勘弁願いたいものだが.....。


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歴史教育を考える

2005年12月13日 | 学習一般
歴史の苦手な子は多い。
覚えなければいけないことがたくさんある。
全体の流れや因果関係を考えればわかることもあるが、人名・事件名を始めとする最低限の用語は覚えなければどうしようもない。
おまけに難しい漢字も少なくない。

歴史に全く興味を持てない子に、ただ「興味を持て」と言っても難しい。
「そんな昔のことを知ってどうする?」としか考えられない生徒に、歴史を学ぶ意味を説いても大した変化は期待できないであろう。

そう言えば、今ベストセラーになっている「佐賀のがばいばあちゃん」(by島田洋七)にこんなセリフがあった。
歴史苦手と言う洋七少年にばあちゃんが言った一言。
「過去にはこだわりませんと書いとけ!」.....いいなぁ.....。

そもそも、人類の誕生から現代までを通史的に追って行くという、今の歴史教育のあり方に問題があるのではないか。
これだけ長期間の内容を限られた授業時間内でこなそうとすれば、表面的かつ無味乾燥なものにならざるを得まい。
世界史となればそこに地理的な広がりも加わるのだから尚更である。

さらに、小学校で一通り流れを学んでおきながら、中学校でまた同じ内容を少し詳しく学習する
高校でも同様にすべての時代のことをもう一度学び、今度はかなり詳しくなる。
高校で世界史を取る場合は多少違うだろうが、何とも能率の悪い学習法に思えて仕方がない。

他の国の歴史教育も同じようなものなのだろうか。
最近読んだイギリスの教育に関する書物によると、「シックス・フォーム」と呼ばれる公立の学校(16~17歳対象)では、歴史の授業は近代ヨーロッパ史のほんの一部とイギリス史の17世紀前半20年ほどを扱うだけだという。
そのかわり、この限られた地域、時代に関しての様々な見方のテキストを読み、考察を深め意見を書くそうだ。
他の地域や時代については、ここで体得した学び方、考え方を元に各自が興味のあるものを学習すればいいという捉え方だ。→「教育とは-イギリスの学校からまなぶ」

日本でもこんな歴史の授業ができないものか。
小学校で通史を学んだら、中学ではある特定の時代いくつかに絞って、様々な観点から総合的に学ぶという方法は取れないものだろうか。
その時代に対する異なった評価の意見を読んだり、庶民の生き様がありありとわかる資料に共感したり.....。
そんなわくわくする授業を実現するためには、カリキュラムの大胆な改革が必要であろう。

中学で無理なら高校からでもいい。
大学になって初めてそういう学習が可能になる現状では、結局歴史の真の面白さを知らないまま、「暗記科目」という印象だけで学生生活を終えてしまう人も多いのだと思う。
もったいないことだ。
単なる知識の詰め込みでは「ものしり」人間を増やすだけである。

さらに言えば、単にもったいないだけでなく、歴史に学ぼうとしない人間の増加は危険なことでさえある
NHKの「その時歴史が動いた」のような、感動を伴う学びを多くの子どもたちに体験させたいと切に思う。


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雨かんむり

2005年12月10日 | ことば・国語
今日は朝から雪である。
気温が高く湿った雪なので、降るそばから溶けてそんなに積もってはいない。
だが、夕方になってだいぶ冷えてきた。
夜も降り続ければ明朝にはかなり積もっているだろうか.....。
今日からしばらくは雪マークばかりで憂鬱になる。

「雪」という漢字が頭に浮かんで、ふと考えた。
雨かんむりの字はたくさんある。
雲、霧、霜、雷.....多くは気象、それも降水関係である。
これはあたり前.....。

しかし中には、なぜこの字に雨かんむりが付いているのか、俄にはわからないものもある。
たとえば「震」
地震も気象庁の守備範囲だが、「気象」とは言えないのではないか。
「ふるえる」と降水にどんな関係があるのか、予想がつきますか?

辞典によれば「震」はもともと雷のことだそうである。
雷が鳴って大気がビリビリと動く様を表していると言う。
近くに雷が落ちれば、地震のときのように地面も震えますね。

雷と言えば「電」
雷が電気であることをフランクリンが発見する遙か前からこの漢字は存在したはずである。
「電」を調べると「稲妻、稲光」とある。
「電気」という言葉が先にあって、それが18世紀に雷の正体だとわかったということなら、中国人の先見の明に感心するが、そうではないだろう。
ということは「電気」という熟語は、雷=電気がわかった後に生まれた、比較的新しい言葉ということになる。
中国でも「電気」と書くのだろうか?いつ頃から使われているのだろうか?

「需」という字の意味は「もとめる」「まつ」とある。
これまた気象とは縁遠い感じがするが、「而」は「柔らかなひげ」で、「雨」+「而」で「雨水にしっとり濡れて柔らかくなり、動きが鈍ること。動かず、何かをあてにして待つ意。」になるのだそうだ。
冷たい雨に打たれて全身ずぶぬれで震えている子犬の映像が目に浮かぶ。

「霊」にも「雨」が付く。
元々は「雨」の下に丸を表す□を3つ書き、「連なった清らかな水玉」を意味しているそうだ。
そこから、「水玉のように冷たく清らかな神の力や魂」を表す字になったと言う。
何となく、占いなどに使う水晶玉を連想してしまう話だ。
今では元の意味ではほとんど使われないが、こんな源があったとは驚きである。

この「霊」と同じ音の「零」「水玉、しずく」というのが原義だそうだが、こちらは今では数字の0=「ゼロ・れい」を表す漢字としておなじみである。
考えてみると、「れい」という言葉自体「霊」に通じるところがあり、ゼロの持つ神秘性と無縁ではないような気もする。

「雪」をきっかけに、しばし漢字字典を熟読した土曜の午後であった。


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新潮文庫

2005年12月07日 | 日々雑感
そのうち読もうとずっと思っていた「博士の愛した数式」(by小川洋子)が文庫化されたので、さっそく手に入れて読み始めた。
なるほど、第一回本屋大賞を受賞しただけあって面白い!
正月には映画も公開されるそうだ。

で、昨晩2時近くまで読んでいて、さあもう寝ようと本を閉じたときに思った。
ああ、新潮文庫だ.....。
何も改めて出版社を確認したわけではない。
そう、あの「しおり」用の紐である。
文庫であの紐が付いているのは、今や新潮社だけなのだ。

業界用語では「スピン」と言うらしい。
昔は他にもこれを付けた文庫があったと思うが、コストや手間の関係で徐々に短冊形の紙製のしおりに替わってきたようだ。
「新潮文庫のささやかな秘密」によると、今でもスピンを付けるのは手作業で、原価は 10円程度、価格には上乗せしていないという。
また、これを付けるために天の部分の最後の裁断ができず、新潮文庫特有のギザギザが残ってしまうそうだ。

作る側にしてみれば当然廃止した方が楽なのだろうが、新潮社には今のところやめる予定はないらしい。
私もそうだが、やはり根強いファンが多いようだ。
出版社としての矜持もかいま見える。
安価な文庫であろうが「蔵書」として大切にしてほしいという思いが伝わってくる。

紙の短冊しおりはどうも味気ない。
広告スペースもとれるので重宝がられるのだろうが、なくすことあるし、どこか軽薄な感じが好きになれない。
文学作品を読むときより、お手軽な実用書を読むときに似合う。
そう言えば新書にはスピン付きのものはないような.....。
中には紙のしおりさえ付いていない新書もあり、本屋から貰うこともある。

その点、紐しおりは高級感がある。(「スピン」と言うと重みが薄れる気がするので、ここからは「紐しおり」で行く。)
専門書や事典類で紐が2本も3本も付いていると、それだけで嬉しくなってしまう。
本を開いて読んでいる背から紐がスーッと垂れている様子は絵になる。
読みさしの箇所に紐をはさみ本を閉じる様も「いとをかし」である。

紙ではこうは行かない.....。

読み進むのが惜しくなるような本、何度も読み返す愛読書には、やはり紐のしおりがふさわしい。
新潮社にはぜひこの伝統を長く守り続けてもらいたいと願っている。


追記(その1):「しおり」の語源に関しては「枝折り」説が有力。木の枝を折って道しるべにしたのが、手引きとか案内、さらには目印の意味になったということである。「栞」という漢字にも「木の枝を切る」意味があるそうだ。

追記(その2):昔、旺文社文庫だけはケースが付いていたのをご記憶だろうか。あれはあれで高級感があって好きだった。いつかとなくなってしまったが、続けてほしかった。


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「考える」を考える

2005年12月04日 | 学習一般
私が生徒に身につけさせたいのは知識よりも思考力である。
「わからない」と言ってくる生徒にはまず「考えろ」と答える。
10月からは「考える学習をすすめる会」のメンバーにもなった。

ところでこの「考える」とはいったいどういうことだろう?
気軽に使うわりに、具体的に説明しようとすると難しい。
「思う」との違いはどこにあるのか?
英語では両方ともthinkだし、「思考」という言葉もあるし.....。
それこそ、考えれば考えるほど「考える」がわからない。

とりあえずgooの辞書を引いてみると、実にたくさんの意味が載っていた。→「かんが・える」
教育や学習の場面では、
 (1)物事について、論理的に筋道を追って答えを出そうとする。思考する。
 (2)さまざまなことを材料として結論・判断・評価などを導き出そうとする。

あたりが妥当な解釈だろうか.....。

教科学習を通して「考える力」を養うのが一般的な方法だが、私はそれ以外に「考え方」を学ぶ教材を作りたいと思っている。
従って「考える」についても私なりの定義を確立したいと、ずっと模索しているのである。

イメージすること、図化すること、計画すること、推理すること、仮定&検証、抽象化&具体化、特殊化&一般化.....どれも「考える」ことと言えるが、その一面でしかない。

今のところ私の中では、「考える」とは「ものごとを分析して関連づけ、まとめたり分類したりして整理すること」であるという意識が強い。
新しい知識や情報を得たら、自分が今持っているそれらとどう関係するのか、しないのか判断する。
これはあれと同じこと、これとこれは逆のこと、これがあれの原因などと頭の中を整理することこそ、「考える」ということなのではないか。
その過程で、イメージしたり仮定したり抽象化したりという作業が必要になるのだと思う。

もう一つ、先日絵本作家の五味太郎氏が「考える」を一言で表している言葉に出会った。→編集長の直球コラム
いわく「それはよく見るってことだな。それもいろんな角度から見る」
分析する段階の「考える」として、ぜひこれも採用したい。

もちろんこれだけで「考える」を定義することは無謀であろう。
これは一つのたたき台である。
ぜひみなさんの考える「考える」をお聞きしたいと思っている。

ご意見をお待ちしています!


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8cmの円の中に

2005年12月01日 | 忙中有閑(クイズ他)
師走に入り、みなさんお忙しいことと思います。
こういうときこそゆとりが大切.....。

ということで、久々のクイズ!
これもこちらのサイトからの拝借です。→ヒラメケ!

【問】1円玉の直径はちょうど2cmです。
   直径8cmの円の中に、重ならないようにできるだけ多く1円玉を並べます。
   最大何枚入るでしょう?

  (実際にやってみればわかりますが、できれば紙と鉛筆だけで解いてみてください。)


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