私はめったに人に道を聞かない。
地図を見るのが好きということもあるが、初めての場所でも近くまで行ったらあとは勘で何とか目的地にたどり着く。
対して、すぐに誰かに道を聞きたがる人もいる。
妻もそうだ。
初めて行く場所が私の知っている所だと、まず出発前に念入りに私に道を聞く。
現地で少しでも迷ったら、道行く人に尋ねる。
この違いはどこから来ているのか?
社交的とか人見知りしないとか、性格的なことなのだろうか?
それもあるかも知れないが、私はとにかく自分の力で行きたいのである。
人に教えてもらってたどり着いたのでは達成感が乏しい。
地図というのは普通の理解力と方向感覚があれば迷わないようにできているはずである。
その地図に負けるのは甚だシャクなのだ。
「聞くは一時の恥」ということわざがある。
後に「聞かぬは一生の恥(or末代の恥)」と続く。
礼儀作法や仕事の進め方などがわからなければ恥を忍んで人に聞け、間違ったままでは一生恥をかくぞという意味である。
作法とか慣習などについては確かにその方がいいかも知れない。
失敗を重ねることにあまり寛容でない世界だからである。
しかし、こと学習に関しては、これは必ずしも薦められるべきものではないのではないか。
壁にぶつかるたびに人を頼っていたのでは、いつまでたっても地力はつかないのではないだろうか。
宮本哲也という人がいる。
中学受験の算数塾を主宰し、毎年8割以上の生徒を首都圏トップクラス高(開成、麻布、筑駒、フェリスなど)に合格させているという。
しかも入塾時の選抜試験はなく、無試験先着順で受けつけているそうだ。
決して初めから優秀な子どもたちのみを選んでいるわけではないのだ。
彼の著書「強育論」の中にこんな記述がある。
「聞くは一生の損」。
「人に質問して説明を受け、わかったような気になった問題は「済」の引き出しに入るので、頭はそれ以上その問題について考えようとはし」なくなる。
いくら考えても解けない問題は「未済」の引き出しに入り、頭の隅で常に考えているので、ある時ふとその答がひらめくと言うのだ。
だから「頭の中を疑問符でいっぱいにする」ことが大切だと説いている。
これには全面的に賛成である。
ちょっと考えてわからないからすぐに人に聞くとか答を見るという学習ばかりを続けていては、いくら勉強しても思考力は養われない。
考えて考えて考え抜いて、それでもわからない問題を抱え続けるという体験を多くの子どもにしてほしいと思う。
一般的に、質問をたくさんすることがよいこと、そしてその質問にたくさん答えてくれる先生がよい先生という誤解があるように感じる。
学習している内容が全くわかっていなければ質問のしようがない。
質問が出るというのは理解が深まり、さらにそのことを知りたいという積極的な姿勢の現れであろう。
だから上記のような思い込みが生まれるのだ。
学習の過程で疑問が生まれるのは当たり前である。
何の疑問もなく教わったことを丸飲みするよりは、ずっと好ましいことである。
常になぜ?だから?などと問う姿勢を持ち続けてもらいたい。
ただ、だからこそ、その疑問を大事にしてほしいのである。
正解をすぐ知るよりも、的外れでもいいから自分なりに考えて自分なりの答を出してほしいのだ。
もちろん疑問のレベルにもよる。
基礎にあたる部分で疑問だらけでは一向に進めない。
基本的な問題に関しては十分な理解ができるまで、ある程度助け船を出してあげることも必要かも知れない。
宮本氏の塾は質問は一切禁止だそうである。
私はとてもそこまでは徹底できないだろうが、質問に対してはできるだけ自分で考えさせるような受け答えをするよう心がけたいと思う。
もっとも、今は人に聞かなくてもネットで検索をかければたちどころに答が得られる。
これなら「一時の恥」もかかなくて済む。
で、そこから得た答を自分で消化することなく安易に「わかったつもり」になってしまう。
これが一番問題かも知れない....。
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地図を見るのが好きということもあるが、初めての場所でも近くまで行ったらあとは勘で何とか目的地にたどり着く。
対して、すぐに誰かに道を聞きたがる人もいる。
妻もそうだ。
初めて行く場所が私の知っている所だと、まず出発前に念入りに私に道を聞く。
現地で少しでも迷ったら、道行く人に尋ねる。
この違いはどこから来ているのか?
社交的とか人見知りしないとか、性格的なことなのだろうか?
それもあるかも知れないが、私はとにかく自分の力で行きたいのである。
人に教えてもらってたどり着いたのでは達成感が乏しい。
地図というのは普通の理解力と方向感覚があれば迷わないようにできているはずである。
その地図に負けるのは甚だシャクなのだ。
「聞くは一時の恥」ということわざがある。
後に「聞かぬは一生の恥(or末代の恥)」と続く。
礼儀作法や仕事の進め方などがわからなければ恥を忍んで人に聞け、間違ったままでは一生恥をかくぞという意味である。
作法とか慣習などについては確かにその方がいいかも知れない。
失敗を重ねることにあまり寛容でない世界だからである。
しかし、こと学習に関しては、これは必ずしも薦められるべきものではないのではないか。
壁にぶつかるたびに人を頼っていたのでは、いつまでたっても地力はつかないのではないだろうか。
宮本哲也という人がいる。
中学受験の算数塾を主宰し、毎年8割以上の生徒を首都圏トップクラス高(開成、麻布、筑駒、フェリスなど)に合格させているという。
しかも入塾時の選抜試験はなく、無試験先着順で受けつけているそうだ。
決して初めから優秀な子どもたちのみを選んでいるわけではないのだ。
彼の著書「強育論」の中にこんな記述がある。
「聞くは一生の損」。
「人に質問して説明を受け、わかったような気になった問題は「済」の引き出しに入るので、頭はそれ以上その問題について考えようとはし」なくなる。
いくら考えても解けない問題は「未済」の引き出しに入り、頭の隅で常に考えているので、ある時ふとその答がひらめくと言うのだ。
だから「頭の中を疑問符でいっぱいにする」ことが大切だと説いている。
これには全面的に賛成である。
ちょっと考えてわからないからすぐに人に聞くとか答を見るという学習ばかりを続けていては、いくら勉強しても思考力は養われない。
考えて考えて考え抜いて、それでもわからない問題を抱え続けるという体験を多くの子どもにしてほしいと思う。
一般的に、質問をたくさんすることがよいこと、そしてその質問にたくさん答えてくれる先生がよい先生という誤解があるように感じる。
学習している内容が全くわかっていなければ質問のしようがない。
質問が出るというのは理解が深まり、さらにそのことを知りたいという積極的な姿勢の現れであろう。
だから上記のような思い込みが生まれるのだ。
学習の過程で疑問が生まれるのは当たり前である。
何の疑問もなく教わったことを丸飲みするよりは、ずっと好ましいことである。
常になぜ?だから?などと問う姿勢を持ち続けてもらいたい。
ただ、だからこそ、その疑問を大事にしてほしいのである。
正解をすぐ知るよりも、的外れでもいいから自分なりに考えて自分なりの答を出してほしいのだ。
もちろん疑問のレベルにもよる。
基礎にあたる部分で疑問だらけでは一向に進めない。
基本的な問題に関しては十分な理解ができるまで、ある程度助け船を出してあげることも必要かも知れない。
宮本氏の塾は質問は一切禁止だそうである。
私はとてもそこまでは徹底できないだろうが、質問に対してはできるだけ自分で考えさせるような受け答えをするよう心がけたいと思う。
もっとも、今は人に聞かなくてもネットで検索をかければたちどころに答が得られる。
これなら「一時の恥」もかかなくて済む。
で、そこから得た答を自分で消化することなく安易に「わかったつもり」になってしまう。
これが一番問題かも知れない....。
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これは仕事に従事する社会でもいえることだと思います。今の若者はミスをすると「上司が教えてくれなかった。」「教えて貰ったことがない。」と言い訳ばかりする。その重きを良いわけにすがる。
昔から、先輩の仕事を盗めということがよく言われる。しかし今の若者は、自分の教育からかすぐに教えてと聞く...。で、上記の済or未済のことである。
正直、私は今の仕事に就く気が無かった。別の道のことをやっていた。ちなみに流行のITです。父上がガンで倒れてから、至急この道へと猛勉強に入った....。したがって、誰も教えを被る人はなく、それが結果としてよかったと思う。
桐先生の考え方であるが、久々に神髄まで感じるものにであった。
長文失礼です。
私も桐さん同様、肝腎なことはまさにここだと思います。
私の塾では、私は教材内容や掲示板のレスとは全く別人になります。
意地悪・意地悪の連続。「意地悪先生(じいさん?)」と思われています。
大切なことですね。
私は人から教わるというのが苦手でして、学生時代は大抵のことはなんとか自力で解決してきました。でも社会に出たときはそれが通用せず、とても苦労しました。
だから、教わり上手な人をすごくうらやましく思います。
ある奥さんに聞いたのですが、夫婦で車で出かけて道に迷ったときに「こういうときは誰かに尋ねればいいのに、夫は私に対して意地をはってるのか、地図だけで道を探しているのよ」と言っていました。こういう話を聞くと、奥さんのほうが自然でいいなあと思います。
まあこれは学校教育の話とはちがいますが。
最近、自動車での移動はカーナビ任せになって、こりゃ便利だ便利だと喜んでいたら、道がまったく覚えられなくなりました。
文明の利器というものは、人類を確実に退化させてくれます。
話は飛んでしまいますが、僕はよく外国の方に道を聞かれます。なぜか日本の方に道を聞かれることはめったにありません。なぜでしょう?
とくに数学などの授業では、いかに「教えないか=自力で解かせるか」に知恵を絞っております。
個別指導などでは、質問に即答できることを売りにしていますが、マニュアル本通りにRPGゲームをクリアしてるみたいでもったいないなと思ってしまいます。
ちなみに、地図に関する男女差は脳の違いだって本が流行りましたよね。「地図を読めない女と人の話を聞かない男」でしたっけ?
お気遣いありがとうございます。雪は県の北部に比べればないに等しいです。寒さはメチャクチャ厳しいですが...(部屋をを少し暖めてからでないとプリンタが動きません)。
そう、仕事でも同じですね。私も仕事も趣味もほとんど独学です。自分なりの納得、自分なりのこだわりを大事にしたいものですね。
そうですね。生徒に対しては意地悪=善だと思います。徹底的に意地悪で行きましょう!
その奥さんの話のご主人、そっくりそのまま私です。家族で出かけて迷っても決して聞きません。一番快感なのは、ここを行けばたぶんあの辺に出るだろうと知らない道を進んでみごとに当たったとき。これがあるからカーナビには頼りたくないのです。
因みに投扇興も独学(「学」と言えるか?)ですよ。
車を買い換えたとき、新古車でカーナビ付きしかなかったのでそれに乗っていますが、道を探すのにはほとんど使いません。やはり地図です。カーナビはオーディオとして使うのが専らで、いつもは3D画面にして変わり行く前方風景を楽しんでいます。
外国人によく道を訊かれるのは、Jackさんが彼らの描く「親切な日本人」の典型である容貌をされてるからでは?と想像します。
>個別指導などでは、質問に即答できることを売りにしていますが、マニュアル本通りにRPGゲームをクリアしてるみたいでもったいないなと思ってしまいます。
そう、本当に「もったいない」と思います。同じような思いで教育に携わっていらっしゃる方が多くて嬉しいです。地味かも知れませんが、粘り強くコツコツと活動を続けていきましょう。