ことばを鍛え、思考を磨く 

長野市の小さな「私塾」発信。要約力、思考力、説明力など「学ぶ力」を伸ばすことを目指しています。

迷惑をかける

2006年09月27日 | ことば・国語
よく親が子どもに「人に迷惑をかけないようにしなさい」などと言いますね。
これがインドでは、「人に迷惑をかけていることを自覚して生きなさい」となるそうです。

考えてみれば、人間生きている限りは誰かのお世話になっているもの。
誰にも迷惑をかけずに生きることなんて不可能です。
みんながお互いに迷惑をかけ合っていると言ってもいい。
だったらインドの言い方の方が現実的かも...。

開き直っているようにも見えますが、この考え方なら「俺は誰にも迷惑をかけていない」という不遜な態度も戒められますね。

何より、「迷惑をかけないように」と小さくまとまってしまうより、周りにお世話になっているという感謝の気持ちは忘れずに、迷惑をかけつつ人生を切り開いていく方が前向きな感じがします
さすがにインドの言葉は奥が深い...。

ところでこの「迷惑をかける」という言葉、なかなか面白い表現です。
まずは「かける」から...。

「かける」にはいろいろな漢字がありますが、この場合は「掛ける」でしょう。
「掛ける」は「時計を掛ける」「腰を掛ける」「はかりに掛ける」などにも使いますね。
辞書には「あるものをあるところに支えとめるように置く」とあります。
「迷惑」の場合はこれとはちょっと違いますね。

で、「掛ける」のもう一つの使い方を見てみると、「あるものごとに作用や影響を及ぼす」とあり、例として「迷惑を掛ける」の他に「保険を掛ける」「わなに掛ける」「2に5を掛ける」などが載っていました。

なるほど、かけ算の「掛ける」と同じ意味だったんですね。
用法のさらに詳しい分類では「人に精神的な作用・影響を及ぼす」とあり、「心配を掛ける」が挙げられています。
「期待を掛ける」もこれですね。
イメージ的には「水を掛ける」「唾を掛ける」などとも同じだと思います。

一方、「迷惑」という漢字の意味は「迷う」「惑う」であり、どうしていいかわからない状態が浮かびます。
そういう面もありますが、どちらかというと「迷惑」の実態は不快感、嫌悪感であるような気がします。

「語源由来辞典」によると、昔はその原因が他人の行為でも自分行為でも「迷惑」と言っていたようです
それが次第に、相手の行為によって自分が困惑する意味が強くなり、現在の使われ方に変化してきたとのこと。
何だか自分のことは棚に上げ、他者に責任を押しつけているようで面白いです。
考えてみれば、相手の行為に原因があっても、自分がそう思わなければ「迷惑」じゃないですもんね。
冒頭のインドの言葉もそうですが、まさに考え方次第です

そう言えば、「惑」の字が入った「惑星」は、惑うような動きをすることからその名が付いたものです。
ご存知のように冥王星が惑星から降格し、来年の教科書からは記述が消えることになりましたね。
で、事のきっかけとなったいわゆる「第10惑星」の名前が決まったそうです。
その名を「エリス」
これはギリシア神話の「不和や争いの女神」だそうです。
お騒がせの原因星にこんな名を付けるところが何ともシャレていますね。

p.s.「惑星」には「その能力・人格の程度が一般の人に知られていないが、有力そうな人。ダーク・ホース」という意味もあるそうです。知らなかった...。


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噛みくだく力

2006年09月20日 | ことば・国語
食事の際に食べ物をよく噛むことの大切さは、今さら言うまでもない。
体にいいだけでなく、口の周りの筋肉を発達させることで表情も豊かになって発音もよくなる。
さらに、噛むという機械的な刺激が脳の活動を活発にするという。
詳しくはこち→「噛むこと」

ところが現代では、時間に追われて食事の時間も短くなった。
手軽に食べられる物、柔らかい食べ物が多くなった。
その結果、昔と比べて噛む回数は激減しているようだ。

これも上記のサイトによれば、おこわが主食だった弥生時代は食事に1時間近くもかけ、噛む回数も約4000回だったという。
その後、主食にうるち米や麦、副食に煮野菜や焼き魚という食生活に変わってからも、戦前までの長い間、食事時間は20~30分、噛む回数は約1400回とほぼ一定していたそうだ。

これが現代では、食事時間も噛む回数も戦前の半分以下に減ってしまったとのこと。
パンやハンバーグ、ラーメン、グラタンなど、あまり噛む必要がない柔らかい食べ物が主流になっていては当然の結果であろう。
そのうち、センベイやスルメを食べようとしたら歯が欠けたとか、顎が外れたなどという子どもが出てくるかも知れない...。


先日の新聞に、テレビと新聞による情報を食物に例えて「噛みくだく力」の重要性を訴えたコラムがあった(by高橋庄太郎)。
曰く、テレビによる情報は映像や音によっておいしそうに加工された流動食。
活字中心の新聞のそれは固形食である
という。

なるほど、そうなるとラジオは両者の中間、お粥とか離乳食に相当するか...。
さらに、活字情報である新聞記事や本は、その内容によって固さが変わってくることになる。

流動食なら誰でも、大した努力も要らずに摂取できるが、固形食は噛みくだく必要がある。
高橋氏は、この噛みくだく力を発達させることが「考える力」にも通じると主張する。
簡単に飲み込める流動食ばかりを求めていては、思考力は衰えるばかりであろう。

前にも書いたが、私は丁寧にわかりやすく教えることが理想だとは思っていない。
生徒がつまずかないよう手を取り足を取り教え込むのは、せっかくの固形食を十分に噛んでやってから与えることに他ならない。
これでは子どもの噛みくだく力は育たない。
柔らかい物ばかり欲しがる指示待ち人間を作り出してしまう。

わからないときでも自分で何度も噛んで飲み込むことができる、クルミの殻なら道具を使って割る知恵が働く...。
今の子どもたちにこそ、そんな逞しい思考力を育む事が急務だと考えている。


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辞書に頼る前に~推測力~

2006年09月13日 | ことば・国語
英文を読んでいて知らない単語に遭遇したとき、前後の文脈から判断してたぶんこんな意味だろうと推測できる力は大切である。

絵本から始めて英語を楽しみながらたくさん読む、という多読学習法を実践していた頃は、特にそれを感じたものだ。
SSS多読学習法では、「辞書は引かない」「わからない所は飛ばす」「つまらなくなったら(その本は)やめる」が三原則である。

単語の意味一つにいちいち立ち止まっていては、流れが途切れてストーリーが楽しめない。
物語上重要な単語は何回も出てくるので、類推によっておおよその意味はつかめるはず。
どうしても気になる単語は辞書を引いてもいいが、できれば一冊読み終わってからにする。

こんな読み方を2年ほど続けていたため、今でも読んでいる最中にはめったに辞書を引かない。
読んだ後に確認するときと生徒の質問に答えるときくらいだ...。

その場で意味を確認した方がスッキリすると思われる方も多かろうが、とりあえず保留にしておいて、もやもやを抱えながら読み進むうちに「あっ、もしかして!」とひらめいたときの快感は格別である。
あとで辞書で確かめて、「当たらずと言えども遠からず」レベルなら万々歳だ。

多読で読んだ本には、ネイティブの幼児や小学生が読む本も多かったのだが、これが馬鹿にできない。
日本の教科書英語ではお目にかかれないが、彼らにとってはごく日常的で易しい単語がどんどん出てくる。
特に感情や性格を表す形容詞が難しい。
次の2つは、しょっちゅう出てくるのに意味をつかむのに苦労した代表である。

She was cross.
They were fed up.


こういう読み方ができるためには、もちろんある程度の単語力が必要であろう。
学習者の語彙と読む文章のレベルによる。
1ページに10も20も知らない単語があるのでは類推どころではない。

SSS学習法では、そういう場合は本のレベルを下げるよう指導している。
1ページに2、3文しか書いてない絵本なら、中学生でも「意味を推測する楽しみ」を味わえるのではなかろうか。
1語1語教科書の末尾を見て意味を確認し、無理やり不自然な日本語を構築する学校英語よりずっと楽しいはずである。
使い方のニュアンスも身につきやすい。

この推測力は、日本語の文章を読む上でも重要である。
「勉強」では、わからない言葉は必ず辞書で調べろと言われることが多い。
その結果子どもは、難しい言葉に出くわしたら無視して放っておくか、あるいは考える間もなく辞書を引く、大人に訊くという行動を取ることになる。

そのまま放っておくのは論外として、安易に正解を得るというのも如何なものかと思う。
英語と同じように文脈から類推する努力をするべきである。
「努力」と言うより、その楽しみを放棄するのはもったいない...。
日本語では、漢字からある程度の意味を推測できるという武器があるのだから尚更である。

自分なりに意味を推測した後で辞書を引けばいい。
日常生活では「だいたいこんな意味かな」で終わらせてしまうことが多いが、自分の推測がどの程度合っていたのか確かめることで、より実践的な語彙を獲得することができるのではないか。

この推測力をさらに広げると、先の記事にも書いた「文の背景を読む」ということになる。
5W1Hのうち、文章に表れていないものを推測する。
文脈から今後の話の展開を予測してみる。
英語、日本語を問わず、長文を読むときには大いに役立つ力であろう。


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必要悪?

2006年09月06日 | 学習一般
今や中学生の通塾率は7割と聞く。
もちろん「塾」の中身は様々だろうが、学校に通いながら何らかの「塾」にも行っている子が一般的ということになる。
大都市圏では、小学生の通塾率も相当な高さになっていることだろう。

広義にとらえれば、「教育」は本来家庭で行われべきものである。
日常生活で不自由しない、人間としてまっとうに生きて行く、というレベルまでの教育は家庭の責任であろう。

それ以上の「学問」は、かつては限られた層のものに過ぎなかった。
ところが時代が進み、庶民の間にも「読み・書き・そろばん」などのいわゆる「学力」を子どもに身につけさせたいという親が増えてきたのだ。

親に学があれば、それでも家庭教育で対処できたであろうが、そうでない親たちは寺子屋を始めとする外部教育機関に子どもを預けることとなった。
それがやがて学校に発展していく。

育児放棄や不登校などが増加しているとはいえ、現代の日本では100%に近い子どもが義務教育を受けている。
要求される学力を授業料無料の学校だけでつけることができれば、他の教育機関は不要のはずであった。

ところが大学進学を頂点とした「受験戦争」によって、「学校だけでは不十分」という不安が広がり始めた。
いわゆる「進学塾」がその不安をあおった面も多かろう。
一方で、マンモス学級による「新幹線授業」について行けなくなった子どもたちを対象に「補習塾」も登場する。

私が中学生の頃は、大都市はいざ知らず、地方都市では「塾」に通っている子などほとんどいなかった。
それが今では、小さな町にまで何らかの「塾」がある。
かつては敵視していた学校側も、共存を提唱しているところが珍しくなくなってきた。
学校の先生の子どもが塾に通っているという例も多いと聞く。

今や塾は必要悪なのであろうか?
進学塾にしろ補習塾にしろ、学校が改革されればなくてもいいものなのだろうか?

これにはYESと答える人が多いと思う。
学校ですべて事足れりとなれば、所得格差による不平等も生じないし、塾など不要になる...。

本当にそうだろうか?
塾など所詮それだけのものなのだろうか?
いつまでも日陰産業の域を出ないのだろうか?


むろん、そうである塾も多かろう。
しかし、学校教育がどれだけ充実しようが、親がお金を払ってでも子どもを通わせたい、あるいは子ども自身が通いたいと思うような塾もあるはずである。

進学に関する独自の情報網を持っている、各教科の知識が飛び抜けている、どんな子どもに対しても意欲を引き出すのがうまい...。
要は、学校が簡単にはマネのできない強みをどれだけ持っているかであろう。

私もそんな「必要善」としての塾を作っていきたい。
ただ、強みをどこに置くかは、上に書いたようなものと少し方向が違う。

キーワードは「学ぶ力」「教養」「研究」の3つ。
このうち要約力、論理的思考力、説明力などの「学ぶ力」については、このブログでも繰り返し述べてきた。
残りの2つについては、近いうちに記事を改めて言及したいと思う。
乞うご期待!


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