ことばを鍛え、思考を磨く 

長野市の小さな「私塾」発信。要約力、思考力、説明力など「学ぶ力」を伸ばすことを目指しています。

ブログ休止→移転のお知らせ

2008年12月12日 | 日々雑感
ある事情で、1年半以上更新していませんでした。
その間に訪れていただいた皆様、誠に申し訳ありません。

この度、塾のホームページ作成に合わせて、タイトルも新たにブログを再開することにしました。
従ってこのブログは休止とします。
移転先はコチラ。→ 「ウサギはカメに勝てない」

今までのご訪問、ありがとうございました。
今後ともよろしくお願いします。

里山のある風景

2007年01月10日 | 日々雑感
今日は、学習とは何の関係もない我が家の暮らしの話だ。

実はここ何年か、引っ越し先を探していた。

今の町には自然養鶏をやるために十数年前に来た。
長野市の隣だが、過疎・高齢化が進む自然豊かな町である。
農場は1反歩(10アール)6000円/年で借り、古いけど広ーい一軒家も8000円/月という安価で貸してもらっている。

初めはもちろん養鶏に専念し、多いときには月1万個以上の自然卵を個人宅やスーパーなどに配達して回った。
ただ、それでも収入的には厳しいので、昔の仕事の経験を生かして家庭教師や塾の講師も掛け持ちするようになったのだ。

やがて鶏に病気が発生したり獣にやられたりして、配達する卵の数を確保するのが大変になってきた。
当然収入も減るので、教育関係の仕事の比重が増えていくことに...。

さらに鶏舎(パイプハウス)の屋根が台風で飛ばされたり、大雪でハウスが潰れたりという事故が重なり、次第に養鶏は縮小の方向に...。
鶏はもう長いこと補充していないので、今では自分の家で消費する卵にも事欠くほどだ。

引き継ぎで今の塾を始めてからは仕事場のメインは長野市になり、長い通勤距離が時間的にも経済的にも負担となってきた。
子どもたちも長野に通学するようになり、その定期代も馬鹿にならない。
この借家にいつまでもお世話になっているのも何だし、できればもう少し長野に近いところに家を探そうかということになった。

新築する金銭的余裕はないので、中古物件で広くて安めのものを探す。
幸いなことに長野県は都会から田舎暮らしをしに移住してくる人向けの物件も豊富なので、いわゆる古民家なども含め、ずいぶんいろいろ見に行ったものだ。

子どもたちは現代風の小綺麗な家がいいと言う。
町中で駅に近くて、トイレも水洗、「閑静な住宅街」的な立地がお好みのようだ。

だが私と妻は彼らとは違う。
何より敷地が広いこと、できれば地続きの畑があることが最優先。
住宅がひしめき合っているところはパス。
できれば里山が迫っている所がいい...。

新幹線に乗って東京へ行くとき、高崎が近くなってくると沿線に山が見えなくなる。
これがどうにも落ち着かないのだ。
四季折々の姿を見せる名もない小山の景色や風や鳥の声や...。
そんなものが無性に恋しくなってくる。

東京生まれの私だが、十数年の長野暮らしですっかり田舎の生活に馴染んでしまったようだ。
今では都会では絶対暮らせない。
長野市内で住宅地に住むのでは東京暮らしと大差ないような気がしている。

だから里山のある風景を探した。
家は少々古くてもいい。
しゃれた庭など要らないが、土地は150坪くらい欲しい。
そして春には一斉に咲く花々に、夏にはヒグラシの声に、秋には燃え立つような紅葉に囲まれて暮らしたい。で、職場に近ければ言うことなし...。

昨年暮れに懇意にしている不動産屋から連絡を受け、一つの物件を見に行った。
小さな川沿いの大きな家だ。
土地も広い。里山もある。
それでいて塾にも近い。
今の通勤距離の半分以下だ。
おまけに価格が安い!!

少し山の方に入った所なので、一日中日が当たるというわけにはいかないが、まあ許容範囲。
雪も今の場所と変わらない...。
私も妻も、もうこれだけの物件はなかなか出ないという考えで一致した。

というわけで、ようやく終の棲家を見つけた。
子どもの頃から父親や自分の仕事の関係で転居を繰り返してきた私も、実に21回目の引っ越しで落ち着くことになりそうだ。
家族それぞれの事情があるので、実際に移り住むのは早くても4月以降になると思うが、まずは一段落。

今の集落には、これまでの人生の中で一番長く(12年以上)住んだことになる。
高齢化が進み若い衆が少ないため、数年前にはついに自治会長の大役まで仰せつかった。
田舎ゆえの人付き合いの煩わしさもあったが、こちらから積極的にとけ込むことで徐々にでも受け入れてもらうことができたと思う。
新しい土地でもその姿勢を忘れずに、田舎暮らしを満喫したいものだ。


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立秋前なのに...

2006年08月03日 | 日々雑感
塾の夏期講習で疲れ切っていて、新しい記事がなかなかエントリーできません。
今日は、生きているということだけご報告!

梅雨が明けて、さすがの信州も猛暑です。
それでも夕方にはぐんと涼しくなりますが...。

昨日、クマゼミやヒグラシに混ざって、1匹だけツクツクホウシが鳴いていました。
いつもこの蝉が鳴き出すと「夏も終わり」と感じるのですが、今年はまだ立秋前ですよ...。

いろいろなところで環境や生態が狂っているのでしょうか?
ま、1匹くらい変わり者がいても不思議はないですが...。

今朝もその鳴き声を確認...なんだか応援したくなりました...。

「ただ」の功罪

2006年07月13日 | 日々雑感
過去に2回ほど、救急車を呼んだことがある。
自宅に1回、塾に1回。
特に塾で生徒が倒れたときは、到着までの時間がずいぶん長く感じられた。

テキパキと対応してくれる救急隊員の態度に、ようやくホッと一息つけたことを思い出す。
半分パニックになっているときには、彼らの落ち着いた行動が実に頼もしい。
救急車のありがたさが身に染みる瞬間だ。

そんな大切な救急車を、タクシー代わりに利用するケースが増えているそうだ。
そのために、本当に緊急性の高い出動要請に支障を来すこともあるという。

「指を切った」とか「歯が痛い」、あるいは軽い風邪...。
中には「病院の場所がわからない」というふざけた理由まで、お気軽に救急車を使う例が各地で報告されている。

自力で、あるいは家族の協力で病院に行ける状況か否か、考えもせずに119番する...。
一度でも緊急で救急車のお世話になった経験があれば、こんなマネは絶対にできないし、許し難い行為だと思うに違いない。

つまるところ、「ただ」だから気軽に使ってしまうのだろう。
1回の出動で何万円もの経費がかかるそうだが、日本では何回呼ぼうが、何km走ろうが、公共の救急車は無料である。

税金を払っているのだから当然の権利だと言われるかも知れないが、他の国の例を見るとそうでもないことがわかる。
金額はそれこそ何万円という国から何百円程度の国まで様々だが、救急車は有料という国が多いようだ。

たとえわずかな金額でも、有料となればよく考えてから要請する人が増えるのではないか。
もちろん、そのために躊躇して手遅れになるようなことがあってはならないが、現状を打開するには有効な方法であろう。
すでに、自治体単位で有料化を検討するところも出始めている。

「平等」という観点からすれば、無料が一番であろう。
しかし、「ただ」であることは「ありがたみを感じない」という面も合わせ持つ。
サービスが「あたりまえ」になってくる。
だからこそ上述したような例が横行するわけだ。

日本では義務教育の間は教科書は無償提供される。
これだって同じことが言えないだろうか?
教科書を大切な物として扱っている生徒は、学年が進むにつれ少なくなるように思う。
ひょっとしたら親もそうかも知れない...。

原則有料にすれば、ずいぶん意識が変わるのではないか。
経済的理由で購入できない家庭は、申請をすれば無料で貰えるようにしてはどうか。
本当は子どもの小遣いから100円でも50円でも支払って購入する形にすれば、学習に対する真剣みも変わってくるのだろうが...。

今もあるのかどうか知らないが、昔公文に勤めていた頃、会費の全額免除制度というのがあった。
経済的理由で会費(月謝)が払えない生徒のための制度だったが、多くの場合、この制度の適用を受けた子どもは長続きしなかった。
「どうせ無料だから」という意識が親の深層にあると、子どもが気分が乗らないと気軽に休ませてしまったりしがちなのだ。

「ただ」には良い面と悪い面がある。
いろいろな場面でそのことを再認識し、無料を続けるべきか否か、基本的人権との兼ね合いの中で考えていくべき時代なのではなかろうか。


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「傘かしげ」の心

2006年07月02日 | 日々雑感
長野は雨の少ない所です。
雪国でありながら、年間降水量は県別でも県庁所在地別でも一、二を争う少なさ...。
全国平均のほぼ半分、最多の所の4分の1から3分の1しか降りません。

加えてほとんどの所に車で出かける生活を余儀なくされているため、傘をさすという行為が極めて少なくなっています。
一応車にも傘は積んであるのですが、めったに使いませんね...。

もちろん、東京にいた頃はよく傘を使いました。
なくした(置き忘れた)本数も数知れず...。

満員電車にみんなが濡れた傘を持ち込む、あの不快感は思い出すのも嫌です。
デパートなどの入り口でくれるあのビニール袋、駅でも配ってくれればいいのにといつも思っていました。
最近の事情は全く知りませんが、どうなんでしょう?

「傘かしげ」という言葉をご存知ですか?
狭い道で傘をさした人同士がすれ違う際に、互いの傘がぶつからないように自分の傘を外側に傾ける所作のことをこう呼ぶのだそうです。
自分が多少濡れても相手に雫がかからないようにそうするんですね。

先日地元紙の投稿で知り、調べてみたら「江戸しぐさ」という知恵の一つだということがわかりました。
これがなかなか面白いんです。
格言集のようなものですが、「傘かしげ」の他にも「肩引き」「こぶし腰浮かせ」などの作法を説いています。
詳しくはコチラ→江戸の賢者の知恵「江戸しぐさ」

どれもたいそうなことではないですが、相手を思いやるちょっとした気配りが素敵ですね。
そういうことがさり気なくできるのが、江戸っ子の「粋」とされたのでしょう。

今のギスギスした世の中に一番欠けている精神ではないでしょうか。
街を歩けば点字ブロックの上に平気で置いてある自転車、障害者用の駐車スペースに堂々と駐車している車、詰めればもう一人座れるのに電車の座席を2人分占有している若者...。
自分さえよければ、という人間ばかりが目につきます。

小学校で英語を教えるより、愛国心をたたき込むより、「江戸しぐさ」を教える方が先決だと思いますよ。


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学校で朝ご飯

2006年06月15日 | 日々雑感
朝食を食べない子どもが増える中で、やむにやまれず学校で「朝ご飯給食」を出す動きが出始めているそうです。
先日の朝日新聞で読みました。

記事には岡山県と高知県、東京都八王子市などの例が載っていました。
中でも岡山県美咲町では、5月から全小中学校で、1時間目終了時にヨーグルトやチーズなどの乳製品を出していると書かれていました。
1200万円の予算を組んだそうです。

過疎化で小学校が統合され、スクールバスに乗るために午前6時台に家を出なければならない児童もいるという地域事情もあるようですが、町の調査では小中学生の2割が朝食を食べて来ず、お腹がすいて勉強に集中できないという子も多かったとのこと...。

目の前の子どもたちを見て、直接的な対策を取らざるを得なかったということでしょう。
ただ、校長も言っている通り、「町がこんなことまでするのは、本来の姿ではない。家で朝食を食べなくてもいい、となったら本末転倒。」ですね。

「愛国心」を採り上げたときにも書きましたが、人間を育てるという大きな意味での「教育」の基本は家庭、家族にあります。
学校や塾はその補完作業しかできません。

その家庭や家族がおかしくなってきているのは、昨今の日本のニュースを見るまでもなく、皆さん先刻ご承知の通りですね。
で、年齢や経験を考えたときに、これはやはり子より親の問題が大きいという結論に自然に導かれます。
子の側に存在する問題だって、結局は親に起因することが多いはずですから...。

私も小さな塾の長として、親の側に問題があるのでは?と思う例にも多く接してきました。
教科学習の理解度は別として、子どもの学習態度ややる気、集中力、粘り強さなどは、今までの家庭での教育、躾に負うところが大きいはずです。
学校や塾に預ければ何とかなる、あとはお任せというのは責任放棄と言ってもいいでしょう。
家庭でも改善すべき所は改善し、共に子どもを育てていくという態勢を作ることが重要なはずです。

というわけで、何とかそういう親の意識を変えようと努力しましたが、結局徒労に終わることも多かった気がします。
考えてみれば、自分なりの価値観を確立した一人前の大人を変えようとすること自体、無理があるようにも思います。
自分の意見で人を変えようなんて、傲慢な考えだとも言えます。

でも自分で気づけば、自らの意志があれば、大人になっても変わることができるはず...。
そのためには、大人より先に子どもを変えた方がいいのかも知れません。
子どもが変われば、その変容を目の当たりにした大人も成長できるのではないでしょうか。

冒頭の記事中でも、最後に女子栄養大の足立名誉教授がこんな発言をしています。

「朝食を学校で補完するより、家庭の努力を促してもらいたい」
「でも、作らない親に言ってもなかなか変わらないのが現実。
だったら、子ども自身で朝食を作る力を育てるよう、発想の転換も必要な時代ではないか。
小学校低学年でもご飯の準備はできる。
親が変わるのを待つより、子どもを変える方が早いかもそれない。」


それでもやはり、親を変える努力も並行して続けるべきだと思います。
あたりまえのことを粘り強く訴えていくべきだと思います。
なんと言っても子どもに一番影響力を持っているのは、間違いなく母親であり父親であるはずですから...。


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移動距離と寿命

2006年05月09日 | 日々雑感
これまで毎年花見は、ソメイヨシノが群れて咲く、いわゆる「名所」ばかり行ってきました。
何百本、何千本という数の多い所に憧れ、一面桜に覆われた背景で家族の写真を取り続けてきました。

ところが今年は家族の休みと名所の満開時期がうまく合わず、1本だけで見事な花を咲かせる「名木」を見てきました。
長野市周辺では結構有名な、樹高20mのオオヤマザクラです。

県道沿いで訪れやすく、またその日の朝刊でも紹介されたので、人が多くでビックリ!
でもちょうど満開の時期に当たったようで、ピンクの濃い素晴らしい姿を楽しめました。

屋台が出たり、宴会で賑やかな場所での花見もいいですが、これからはこういう名木、古木を訪ね歩くのも一興だねと、あとで妻と話しました。
桜だけでも、一目見ておきたい木が、信州にはまだまだたくさんあります。

もちろん桜に限らず、齢を重ねた樹木というのは風格があって圧倒されますね。
横綱は縄文杉でしょうが、そこまでいかなくても大木には神の存在を感じます。
「もののけ姫」がヒットした例を出すまでもなく、日本人の精神の奥底には、木霊(こだま)の存在を身近に感じる心が脈々と受け継がれているように思います。

先日新聞で、ジャーナリストむのたけじ氏の文章を読みました。
ちょっと引用します。

「このごろ、動物と植物の違いを考える。植物は根を下ろした場所から動けない。津波が来ても火事が起きても。それでいて樹齢何百年の木がざらだ。ところが、動物は百年が精いっぱい。ここなんだ。ちょろちょろ動き回って危険から身を隠したり、好きなものを捕ったり。これが命を養う基のように見えて、本当は違うんじゃないか。」
 
マスコミに踊らされて行楽に走り回ったり、儲け話を耳にしては東奔西走する人たちを見ていると、氏の言葉が胸に響きます。
些細なことに一喜一憂せず、でんと構えて己の道を行く...。
そんな大樹のような人生を送りたいものです。

で思ったのですが、都道府県別で平均寿命を見たとき、上位に来るのは長野、沖縄、福井、熊本などのいわゆる「田舎」です。
東京や大阪などは決して高い順位ではありません。
この原因としては、もちろん空気や水がきれいだとか、農作業などで体を動かしている人が多いとか、人間関係のストレスが少ないなどの要因も挙げられるでしょう。

そんなことは百も承知で、田舎の方が長生きである理由の一つにあえて挙げたいのが「動かないこと」です。
「動かない」と言っても、「働かない」とか「体を動かさない」という意味ではありません。
必要以上にあちこち動き回らないということです。

多くの距離を動けばそれだけ危険にも晒されるし、ストレスも発生するはず...。
都会では長距離通勤をはじめとして、否応なく長い距離を移動させられことも多いし、好んで移動したがる傾向も強いように思います。
田舎だってスーパーや病院まで遠いなど個々の事情はあるでしょうが、総体的に移動距離は都会より少ないような気がします。
生まれた土地の周辺のごく狭い範囲だけで、いつも通りの毎日を送っている人の方が、長く生きるという点では有利なのではないでしょうか。

飛行機や新幹線で移動すれば長距離でも疲れないという意見もあるでしょう。
でも、これについては、私は昔から「移動時間と疲労は比例しない」という見解を持っています。
東京から札幌まで歩いて行く場合と飛行機で行く場合など、極端に時間が違う例はともかく、たとえば長野から東京まで新幹線なら1時間40分ですが、鈍行を乗り継いでも疲労度は変わらない気がするのです。
これは私が鉄道好きということもあるかも知れませんが、速い乗り物は無理して距離を縮めているようで、結局は疲れ方は移動距離に比例すると思っているのです。

だからどんなに時間が短縮されようが、最終的にはむやみに動かない人、人生における総移動距離の少ない人が長生きするのではないでしょうか?
職業で言えばやはり農家や商店主、医者、芸術家などでしょうか...。
...私も塾の近くに住んだ方が良さそうです。

p.s.試しに検索してみたら、同じようなことを考えている方がいらっしゃったのでご紹介しておきます。→「長生きは近距離生活」


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幸運の確率

2006年02月09日 | 日々雑感
富山市の主婦に届いたお年玉付き年賀はがき18枚の中から、なんと1等当選が2枚も出たというニュースがありました。
1等の当選確率は50万分の1!
確率大好きの私は、さっそく18枚中2枚(以上)が1等になる確率を計算してしまいました。

しかし...これが大変な作業なんです。
とにかく計算がハンパじゃない...。

「18枚中1等が2枚以上ある確率」は、「①1枚もない確率(これが圧倒的)」と「②1枚ある確率」を1から引いたものです。

(ここからの計算式は苦手な方は飛ばしてください。)
まず①を計算します。
式は簡単です。499,999/500,000の18乗=0.999964000612...になりました。
次に②です。(499,999/500,000)×(1/500,000)×18=0.000035998776...です。
で、①+②を1から引くと、0.000000000612...。
つまり0.0000000612%...なんじゃこりゃ!?

確率って簡単なようで、実は奥が深いんです。
たとえば5枚のうち1枚が当たりのくじを、5人家族が1人1枚ずつ引けば、1人は当たりそうに思いませんか?
誰も当たらないと、よほどついていないのかと思ってしまう...。
でもきちんと計算してみれば、5人のうち誰かが当たる確率は約3分の2。
つまり5人家族が3組いたら、そのうち1家族は誰も当たらないことになるのです。

そう言えば、年賀はがきのお年玉くじって、去年からだか今年からだか、4等(切手シート)の当選番号が2つに減りましたね。
前は3つ(100枚中3枚あたり)だったのに...。
もっと前は3等の「ふるさと小包」が下3ケタで当たったものです。
その当時1回だけ3等を当てたのが今までの最高成績。
今では下4ケタなので5000枚に1枚...絶望的です!
その分1等や2等が増えているらしいですが、庶民としては下等の当たりを増やしてほしいと思いませんか?

ところで、もしも冒頭の主婦のような大当たりをしたら、「ついてるから宝くじも当たるかも?」と考えますか?
それとも「運を使い果たした」と考えてしばらく自重しますか?

本当はどちらでもないんですよね。
くじはこの前誰が当たったなんて記憶していませんから、大当たりした人もはずれた人も、次のくじで当たる確率は同じです。

飛行機事故って続けて起きるという印象を私は持っているのですが、これもデータを取ってみればたぶん間違いでしょう。
この場合は、一度事故があったら点検などが入念になるので、むしろ続けては起こりにくいと考えるべきでしょう。
これは、人間の努力によって確率をある程度支配できる例ですね。

それにしても、くじ関係の大当たりにはホント縁がないです。
たぶん人生をトータルしたら、誰でも良いときと悪いときがあり、プラスマイナスしたらゼロになると思います。
だから、これからの人生のどこかで「大当たり」に遭遇するのかも知れません。
その前に息が絶えないよう、粘って行きたいものですね。


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時間の使い方

2006年01月29日 | 日々雑感
部活と勉強をがんばって両立していた中学生が、3年で部活を引退した途端に勉強にも身が入らなくなってしまうことがある。
高校でも、帰宅部の子より部活に熱中している子の方が成績がよいことも多い。

もちろん、勉強ができなくなるまでくたくたに疲れる部活では本末転倒だが、少々忙しい方が時間を大切に使い、集中力も増すということだろう。

これは大人でもみんな経験していること。
仕事でも家事でも、あり余る時間があるときは「いつでもできる」という思いがあるためか、やるべきことがなかなか片づかない。
やることがいっぱいあるときの方が、集中して次から次へと課題をこなせる。
人間とは不思議なものである。

昨日の信濃毎日新聞の投書欄に、車の使用を半分にしたという佐久地方の男性(私と同い年)の話があった。
その中で気になった一節をご紹介する。

「いつでも出掛けられるという車ならではの利便性が、時間の使い方をルーズにしてしまったような気がします。」

時刻表を見る必要がないほど次々に電車が来る都会と違って、地方では公共交通機関は甚だ使い勝手が悪い。
私の町のように電車の駅そのものが存在しない(「最寄り」の駅まで20km以上)所もあるし、あっても1時間に1、2本しか列車が来ない所も多い。

長野市街から私の町に来るバスは1時間に1本。
それも町の中心部までで、私の住む集落には町営バスに乗り継がないと辿り着けない。
日曜日には町営バスは走らないので、車がないと動きが取れなくなる。

結局、長野市方面へ通勤する人はほぼ100%マイカー通勤。
高校などへの子どもの通学も、親が長野まで送迎している家庭もあるし、少なくとも町中心部までは車が頼りである。

特に私の仕事は夜が遅いので、バスはとっくになくなっている。
車がなければ1日も立ち行かない。

それがあたり前すぎて、時間の使い方など深く考えたこともなかった。
いや、逆に、車があるから効率的に時間が使えているのだと信じて疑わなかったのだ。
家を出る時刻が予定より4,5分遅くなっても、車なら大した遅れもなく塾に着ける。
バスや電車ではそうは行かない。
2,3分の遅れがたちまち1時間の遅れに広がってしまう...。

しかし、この投書を読んで改めて考えた。
多少時刻がずれてもいいという安心感が、密度の低い時間を作り出しているのではないか。
もう少し、もう少しとダラダラ仕事を続けていたり、けじめのない日常生活を送っているのではないか。


特に、教材を作ったり文章を書いたりという作業は、どこかで区切りをつけないと際限がなくなる。
もっとよいものをという思いがあればこそ、いくら時間があっても足りなくなるのだ。
私のような個人塾では、自分で締め切りを決めてそれを遵守するようにしないと大変なことになる。

現状では車を使わない生活は不可能だが、何時までには必ずこれを片づけるとか、何時を過ぎたら塾を出るとか、けじめをつけた生活を送ることを考えてみたい。

時間をかけさえすればいいものができるとは限らない。
むしろ短時間集中で行った作業の方が質の高いものを産むのではないだろうか。


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太陽がいっぱい

2006年01月18日 | 日々雑感
前にも書きましたが、雪国に暮らしていると太陽のありがたさが身に浸みます。
冬至を過ぎてから一日ごとに陽差しが強くなってきました。
寒気のせいで屋根の雪はまだ凍ったままの所もありますが、直射日光に当たる場所は早くも春の気配が漂います。
冷えきった古民家の中より外の方がずっと暖かい...。

人間が本来持っている1日の単位は25時間だそうですね。
それを毎日1時間早める、すなわち体内時計をリセットするためには太陽の光を浴びることが必要だということです。→「体内時計のネジをまこう!」
職業柄どうしても夜型、インドア型の生活になってしまうのですが、できるだけお日様の下で過ごす時間を確保したいと思っています。

なんと言っても太陽は偉大ですね。
体内時計のことだけでなく、日を浴びることで生命力が供給される気がします。
健康にいいのはもちろんですが、気分的にも前向きに明るくなれるのが素晴らしい!
オゾンホールの影響で思いっきり日光浴もできないニュージーランドやオーストラリアの人々が気の毒です。

動物や植物だって同じこと。
私は田舎暮らしに憧れて東京からIターンで(どこが「ターン」やねん!)信州に来ました。
そして自然卵養鶏をしたくて今の町に来たのです。
鶏をケージに閉じこめずに自由に動ける土の上で飼い(=平飼い)、太陽をたっぷり浴びさせる。
餌もできるだけ素性のはっきりした材料を自家配合して与え、緑草や野菜もたくさん食べさせる。
それが自然卵養鶏です。
(今は大幅に縮小して自家用程度しか飼っていませんが...。)

都会の子どもの中には、卵もどこかの工場で作られていると思っている子もいるそうです。
その無知を笑うことは簡単ですが、実はあながち間違っているとも言えないのです。
今の日本に出回っている卵の大半は大手の養鶏業者が生産したもの。
「大手」ってどのくらいの規模だと思いますか?
1万羽飼っていても「大手」と呼ばれないんですよ!
ご存知のように、卵は何十年もほとんど価格が上昇していない物価の優等生です。
それを支えているのが薄利多売システムなんですね。

何万羽、何十万羽の飼育は平飼いでは不可能です。
6段も7段も積み重なったケージの列が何十メートルも続き、それが何列もあって一つの鶏舎で5千羽、1万羽いることも...。
病気の発生を抑えるため完全隔離された鶏舎には窓もなく、光も温度もすべて機械でコントロールされています。
給餌も集卵もすべて自動。
中枢部分を生き物がまかなっているということ以外、全自動化された工場と変わりません。

一生、太陽の光を浴びたこともそよ風に吹かれたこともない、ミミズをつついたり砂浴びをしたこともない鶏たち。
そんな鶏が産んだ卵と自然卵養鶏の卵、どちらがおいしいと思いますか?

先日、大手町だか霞ヶ関だかのビルの地下で育てた稲の収穫のニュースを見ました。
銀行の地下金庫だった広大なスペースに田を作り、人工の太陽と空調で栽培したそうです。
これも卵と同じですね。
見た目は立派な稲を、背広姿のおじさん達が刈り取っている光景を見て、「なんだかなァ」という思いを強くしました。

私は多少見てくれは悪かろうが、太陽の恵みを受けた農産物を食したいですね。
早寝早起きをし、そういう物を腹八分目に食べ、お日様の光をたっぷり浴びて働く....それが本当の人間の生活だと思います。
今のところ全然実行できていませんが...。
少なくとも「お天道様に顔向けできない」身にはならないよう、太陽がいっぱいの人生を送りたいものですね。


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二宮金次郎

2006年01月12日 | 日々雑感
以前の記事でちょっとだけ二宮金次郎の銅像について触れたことがあります。
真面目に勉学に励むことを「ダサい」と見なすような風潮と共に小学校の金次郎像も消えてきたという内容でした。

昨日新聞の地域面を見ていたら、「二宮金次郎像「代替わり」」という記事を見つけました。
場所は長野市の小学校。
65年前の初代銅像から数えて3代目だそうです。
2代目のコンクリート像は老朽化で倒壊の恐れが出てきたため、昨年9月に撤去。
それ以来土台だけ残っていた所に、地元の有力者が石像を寄贈したとのことです。

全国からどんどんなくなっていくものだとばかり思っていたら、こんな形で復活している所もあるんですね。
ちょっとビックリ&感激でした。

二宮金次郎像は昭和の初め頃から全国の学校に置かれました。
修身教育において「勤勉」の象徴として採り上げられたことから、学校現場に設置するにふさわしいと考えられたようです。
どこの像も同じかと思ったら、どちらの足が前かとか、もんぺを履いているかなど微妙な違いがあるとのこと。→「実在しない二宮金次郎と銅像の検証」

戦時中の金属供出で撤去され、その後再建したものはコンクリート像や石像で時と共に風化し、いつかと数が少なくなってきたようです。
また、薪を背負いながら本を読んでいるあのポーズが歴史的事実に基づいていない、子どもがマネをすると交通事故につながるなどの要素も、像再建へのマイナス要因となったとのこと。
もっとも地域差もかなりあるようで、さすがにゆかりの地では100%の小学校に現存するとか....。

金次郎はもちろん後の二宮尊徳。
農村復興運動の指導で有名で、飢饉の兆候をいち早く捉えて村を救った(一人の餓死者も出さなかった)とか、藩内の一斗マスを統一規格化して役人の不正を防いだとかの逸話が残っています。
農家の出ですが勉学に励み、数々の功が認められて武士にまでなっています(その時から苗字が付いて「二宮尊徳」)。
そのあたりが「勤勉」の象徴たるゆえんなんでしょうね。

さらに注目すべきはその「報徳思想」です。
Wikipediaによれば「経済と道徳の融和を訴え、私利私欲に走るのではなく社会に貢献すれば、いずれ自らに還元されると説く」とのこと。
マネーゲームに明け暮れたり、詐欺まがいのことをしてまで儲けようとする今の日本の大人たちに少しでもかじってもらいたい考え方です。

「勤勉」にしろ「報徳」にしろ、古くさいなどと言っていないで今こそその価値を考え直さなければいけないときではないでしょうか。
金次郎像を受け継いでいくと共に、その生き様や思想にも多くの人に関心を持ってもらいたいと思います。


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GNH(国民総幸福量)

2006年01月02日 | 日々雑感
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。


元日に届いた年賀状を読んでいたら、会社勤めをしていた頃の後輩(女性)からの1枚が目に留まりました。
毎年写真と共に手書きでビッシリと近況が書いてあるのですが、昨年はブータンに行って来たということです。

ブータンについては私も前から少し興味があったのですが、いつもコメントを頂くJack Amanoさんから「幸福量を国家目標の指標にしている」国だと教えてもらってから、ますます詳しく知りたくなったのです。

年賀状にも「GNH」という言葉がありました。
GNPの「P」の代わりに「H」、つまりhappinessですね。
「国民総幸福量」というところでしょうか。
国家目標としてこんな素敵なことを掲げている国があるんですね。

経済優先、効率化オンリーで進んできた先進国を反面教師とし、自然環境や人間関係の濃密さ、精神的な豊かさを重んじる。
正にスローライフの思想ですね。
今話題の映画「ALWAYS 三丁目の夕日」の世界です。

もちろんブータンでも経済発展を全く無視しているわけではありません。
GNPの増加も大事な目標の一つになっています。
でも、だからといって急がない....。
GNHのアップとの両立を目指しているのでしょう。
もっとも、最近はテレビやインターネットの普及で、若者たちの間では華やかな経済大国への憧れも増大しているようですが....。

大晦日の信濃毎日新聞に書いてあったことですが、明治の初めの日本には「大国主義と小国主義の両方の選択肢が示されていた」そうです。
岩倉使節団の記録には、ベルギーやオランダ、スイスなど小国にも高い関心と評価が記されているとのこと。
また、自由民権運動時に植木枝盛が作った憲法草案も、小国を目指したものだったようです。

しかし結局、日本は大国主義の道を歩み、大きな犠牲を払いながらも世界屈指の経済大国になりました。
高い収入、溢れる「物」、便利な暮らし、....。
でも一方でいろいろな歪みが出てきている今の日本を見て、このままでいいのかと多くの人が考え始めています。
上にも書いたスローライフが注目されたり、古き良き昭和30年代を描いた映画が人気を博したりするのも、そうした潮流の現れでしょう。

これも信濃毎日新聞(2006.1.1)に載っていたデータ。
洗剤メーカーがネット上で行ったアンケートの結果です。
「今後も社会は経済成長を重視すべきか」という問に対し、「大いに思う」+「思う」が最も少なかったのは、なんと40代でした(43.1%)。
かたや「あまり思わない」+「思わない」は49.0%。

5割近くが経済成長に疑問を投げかけていることになります。

「思う」派は60代以上で60.0%、50代で52.8%。で、40代で最低になります。
そこまではわかるのですが、以外だったのが30代からまた「思う」派が増えること。
20代で6割近くまで増え、10代では60代以上を上回る64.5%が経済成長を支持しているのです。
これはどういうことでしょう。
昨今の「勝ち組・負け組」思想も少なからず影響しているのかも知れません。
どうも我々の世代がGNPからGNHへの舵をきらないと、また終わりのない拡大再生産に突っ走ることになりそうですね。

以前、作家の高橋源一郎さんがこんなことを言っていました。
「世界に冠たる国を作るとか、新しい歴史を作るとか、安保理の常任理事国になるとか、そんな余計なことはしなくて結構。そんなことより、小さく、静かで、たそがれた国を目指す方が、なんだか楽しそうではありませんか。」

甘いとか、軟弱と言われるかも知れませんが、私はこの意見を支持します。
そんな「愛国心」があってもいいのでは?と思うのです。
今年はブータンのこと、そしてGNHのこと、じっくり勉強してみるつもりです。
GNH-STUDY.COM


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雪と戦う

2005年12月19日 | 日々雑感
今日は新しい記事をアップするつもりだったのですが、予定が狂ってしまいました。
そう、大寒波!のせいです。

各地で12月としては記録的な大雪になっているようですね。
当地(長野県北部と中部の境目)では、昨日まで大したことなかったのですが、昨夜から新たに降り積もって今20cmくらい...。
さらにどんどん降ってきます。

県のもっと北部や北陸に比べれば可愛いものですが、それでも労働が増えます。
家の屋根は大丈夫ですが、パイプハウス(鶏舎)は雪に弱いので朝から雪下ろし。
実は数年前の大雪で、ハウスを4棟潰しているのです。

鶏舎がある所はすぐ裏が山なので、場所によっては30~40cmくらい積もっています。
屋根の上の方は雪が凍っているので簡単には落ちてこないし、その分重くなって頂部をへこませているので容易に除去できません。
もちろん中には支えの柱を数本入れてあるのですが、その柱と柱の間でさえ頂部のパイプが湾曲している状態です。

20坪2棟と40坪1棟を終える頃には、体は汗をかいているのに指はかじかみ、全身クタクタになってしまいました。
...ということで今日は難しい話はお休みです。

太陽が短時間でも出てくれると、あんなに苦労する雪が溶けてサーッと屋根をすべり落ちてくれます。
やはり太陽のエネルギーは大したもの!
雪国の冬は本当に太陽のありがたさを実感しますよ。

そういえば昔長岡に住んでいたとき、冬に出張で大宮まで新幹線に乗ると、向こうは大雪だったのが群馬県に入ったとたん、みごとな冬晴れで唖然とすることが常でした。
逆に大清水トンネルを抜けて越後湯沢に出たときは、みごとなまでに「トンエルを抜けるとそこは雪国だった」の世界です。
出張に行くときは長岡駅のコインロッカーに長靴を預け、革靴に履き替えたものでした。
駅では「貸長靴」というのもありましたね...。

今は雪は止んでいますが、昨日に続いて真冬日になりそうで道路の凍結が心配です。
これから3月まで先は長いなぁ...。


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新潮文庫

2005年12月07日 | 日々雑感
そのうち読もうとずっと思っていた「博士の愛した数式」(by小川洋子)が文庫化されたので、さっそく手に入れて読み始めた。
なるほど、第一回本屋大賞を受賞しただけあって面白い!
正月には映画も公開されるそうだ。

で、昨晩2時近くまで読んでいて、さあもう寝ようと本を閉じたときに思った。
ああ、新潮文庫だ.....。
何も改めて出版社を確認したわけではない。
そう、あの「しおり」用の紐である。
文庫であの紐が付いているのは、今や新潮社だけなのだ。

業界用語では「スピン」と言うらしい。
昔は他にもこれを付けた文庫があったと思うが、コストや手間の関係で徐々に短冊形の紙製のしおりに替わってきたようだ。
「新潮文庫のささやかな秘密」によると、今でもスピンを付けるのは手作業で、原価は 10円程度、価格には上乗せしていないという。
また、これを付けるために天の部分の最後の裁断ができず、新潮文庫特有のギザギザが残ってしまうそうだ。

作る側にしてみれば当然廃止した方が楽なのだろうが、新潮社には今のところやめる予定はないらしい。
私もそうだが、やはり根強いファンが多いようだ。
出版社としての矜持もかいま見える。
安価な文庫であろうが「蔵書」として大切にしてほしいという思いが伝わってくる。

紙の短冊しおりはどうも味気ない。
広告スペースもとれるので重宝がられるのだろうが、なくすことあるし、どこか軽薄な感じが好きになれない。
文学作品を読むときより、お手軽な実用書を読むときに似合う。
そう言えば新書にはスピン付きのものはないような.....。
中には紙のしおりさえ付いていない新書もあり、本屋から貰うこともある。

その点、紐しおりは高級感がある。(「スピン」と言うと重みが薄れる気がするので、ここからは「紐しおり」で行く。)
専門書や事典類で紐が2本も3本も付いていると、それだけで嬉しくなってしまう。
本を開いて読んでいる背から紐がスーッと垂れている様子は絵になる。
読みさしの箇所に紐をはさみ本を閉じる様も「いとをかし」である。

紙ではこうは行かない.....。

読み進むのが惜しくなるような本、何度も読み返す愛読書には、やはり紐のしおりがふさわしい。
新潮社にはぜひこの伝統を長く守り続けてもらいたいと願っている。


追記(その1):「しおり」の語源に関しては「枝折り」説が有力。木の枝を折って道しるべにしたのが、手引きとか案内、さらには目印の意味になったということである。「栞」という漢字にも「木の枝を切る」意味があるそうだ。

追記(その2):昔、旺文社文庫だけはケースが付いていたのをご記憶だろうか。あれはあれで高級感があって好きだった。いつかとなくなってしまったが、続けてほしかった。


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小学生にプロテイン?

2005年11月18日 | 日々雑感
小6で地区のスポーツクラブに入り、県下でも強豪に数えられる子が塾に来ている。
先日その子と雑談をしていて驚いたことがある。
筋肉を増すためにプロテインを飲んでいるそうだ。

プロテインは長男が高校野球をやっているときに飲んでいたから知っている。
でも、精々高校生以上が利用するものだと思っていた。
小学生が飲んでいると知って検索をかけてみると.....。
結構使われているようである。
初めから「小学生用」と謳っている商品まである。

成分についてはよく知らないが、決して害になるものではないのだろう。
しかし私は、いわゆるサプリメントで栄養を補うことにも抵抗がある人間だ。
本来食事をバランスよく摂れば事足りるものを、その部分を手抜きして「薬」で辻褄を合わせるのは本末転倒ではないか?

子どもなら尚更である。
毎日の食事を好き嫌いなく、よく噛んでよく味わって食べること。
そして何より、家族や友だちと語らいながら食事を楽しむこと。
これ以外に何が必要だろう.....。

若者の中に、食事は栄養を摂る手段に過ぎないと考える者が増えているそうだ。
時間に追われて朝食は抜き、昼はファストフード、夜はカップ麺。
栄養面が気になればウィダー・イン・ゼリーやカロリーメイト、その他諸々の補助食品.....。
食文化を考え直し、子どもたちに「食育」を進めることが急務だと感じている。

かなり脱線したので、小学生のプロテインに話を戻す。
ネットで得た情報によると、激しい練習に対応するためにプロテインの摂取は有効なのだそうである。
そこまでして練習しなければいけないのか。
普通の食事だけでついていける練習ではダメなのか。


それだけの練習をするためには、当然多くの時間が費やされているだろう。
勉強の時間も、友だちと遊ぶ時間も、一人本を読む時間も犠牲になっているはずだ。
そして先に触れた食事を含む家族とのゆったりした時間、睡眠時間までも.....。

イチローや松井、中田や中村を始め、様々なスポーツで世界を舞台に活躍する日本人が増えてきた。
その影響か、部活も含め、スポーツで強くなるためには何でもありという風潮がジワジワと蔓延しているように思う。
行きすぎた練習で事故が起きたというニュースに触れるたびに、勝利至上の日本の青少年スポーツ指導を、根本から考え直す必要を強く感じている。

学力はどうでもいいのか!?.....については次回に。


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