ことばを鍛え、思考を磨く 

長野市の小さな「私塾」発信。要約力、思考力、説明力など「学ぶ力」を伸ばすことを目指しています。

間違ってもいいんだよ

2006年03月30日 | 学習一般
春期講習に来ている新小4の女の子...。
お母さんは、教育に対する関心がとても高そうな方です。

申し込みに来られたとき本人も一緒だったので、お母さんが手続きをされている間、ごく簡単なパズルをやらせてみました。
「たて・よこにたす」というパズルの入門編で、4マスだけ、使われている数字も3と4だけ...というシンプルなものです。→「たしざんパズル」

ところが、ルールを説明して理解したようなのですが、一向に鉛筆が動きません。
じっと紙を見つめて、鉛筆がかすかに揺れているだけです。
初めて塾に来た緊張感もあるのかな?と思い、何度も「こことここを足して3になるようにしてね」などとアドバイス...やっと1問できました。

難しすぎたのかな?とも思ったのですが、レベル的にはそうでもないし...。
ところが、そのあとお母さんと話していて、話の流れからふと気がついたのです。
で、その子に「間違ってもいいんだよ」と言ったとたん、彼女の顔がパッと明るくなったのです。
...これで大丈夫だと確信しました。

小学生や、中学生の女子にときどきこういう子がいます。
どちらかと言うと親に従順で、成績もよい子が多いようです。
正解しなければいけない、間違うのはいけないことという思いが強いのだと想像します。
だから、確実に正解とわかる「教えられたこと」以外には手が動きにくい、イコール頭が働きにくいということになるのではないでしょうか。

途中までの文の続きや、文中の空欄を自由な発想で書く形の問題に、ありきたりな答(模範解答的な答)ばかり書いてくる子もこの傾向があります。
「正解は決まっていないんだからできるだけ面白い内容にしてね」と言うのですが、大人が解いたときのようなつまらない答しか書きません。
もちろん想像力や生活習慣の不足に問題があるともいえますが、正解がないと不安なのかなぁ...という気もしています。

自分の頭で考える楽しさというのは、間違いを恐れず、試行錯誤を繰り返す過程からしか生まれません。
間違ったらやり直せばいいんです。

こうやったけど違ったのはどうしてだろう?
こう考えてダメだったんだから、今度はこうしてみよう...。
その繰り返しがきっと力になるからね!


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ニッポン、チャチャチャ...

2006年03月25日 | ことば・国語
少し前の朝日新聞に「日本」の正式な読み方は「ニホン」か「ニッポン」かという記事があった。
会社名などの固有名詞から普通名詞まで、正しい読み方をコツコツと調べてあるHPも紹介されていた。
なかなかの労作で、これを見ているだけでもいろいろな発見がある。→「音訳の部屋」

会社名など、当事者間でも読み方がマチマチなこともあるそうだ。
「ニッポン放送」のようにかなで書いてくれれば混乱がないのだが...。

現在では圧倒的に「ニホン」の方が多いようだが、元来は「ニッポン」だそうだ。
かな表記が生まれた平安時代にはまだ促音の「っ」がなく、「にほん」と書いて「ニッポン」と読ませていた。
それをそのまま「ニホン」と発音する人が出てきたのではないかという...。
(そう言えばトキの学術名ってNipponia Nipponnでしたよね?...関係ないか...)

今、最も「ニッポン」が使われるのはスポーツの世界だろう。
先日のトリノ五輪やWBCでもそうだったように、国を代表した個人やチームが外国を相手に戦うときは、圧倒的に「ニッポン」だ。
「ニッポン、チャチャチャ...」「ニッポン代表」「がんばれニッポン!」etc....。
長野オリンピックのジャンプ団体のときも、「金メダルを獲りました、ニッポン!」というアナウンスだった。

朝日の記事では、「とっても」「すっごい」など「っ」を入れることで強調した感じになる例を挙げ、外国を意識したときに「ニッポン」になるのでは、という分析を紹介している。
確かにそういう面もありそうだが、政治や経済、科学などの世界ではどうだろう?
「ニッポン経済」はわりとしっくり来るが、「ニッポン政府」「ニッポンの医療」よりは「ニホン政府」「ニホンの医療」の方がなじむ気がする。

スポーツの世界で特に「ニッポン」が優勢なのは、外国を意識することの他に、やはり「ニホン」よりリズムが感じられることが大きく影響しているのではないか。
さらに、発音したときに感情を込めやすい、すなわち大声で応援する(or絶叫する)のに適しているということもあると思う。
「ニホン、チャチャチャ...」ではなんかマヌケだし、「がんばれニホン」も語呂が悪い。
「行け、ニホン!」より「行け、ニッポン!」の方が力が入るし、「ニッポン世界一!」の方がより感動的に聞こえる。


プロ野球の「日本シリーズ」も、正式には「ニッポンシリーズ」だそうである。
スポーツの世界では、大いに「ニッポン」を使えばいい。
しかし間違っても、国を強く意識させシュプレヒコールに向いている「ニッポン」という呼称が、戦争などに利用されてはならない。
軍歌では「ニッポン男児」的な表現が多いのではないだろうか...。


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科学を疑え

2006年03月21日 | 学習一般
3月8日の記事で、疑問をすぐに解決せず考え続けることの大切さを書いた。
で、それからしばらく生徒を観察していてふと思った。
そもそも、学習の中でいろいろな疑問を感じている子が少ないのではないか...。

これはどういう意味だろうとか、なぜそうなるのだろうとか、幼い頃には見るもの聞くものすべてが疑問だらけだったはずである。
子どもの「なに?」「どうして?」の波状攻撃に音を上げた経験は、多くの親が持っているだろう。

それが大きくなるにつれ、質問が少なくなる。
大人が面倒になって適当な受け答えを繰り返しているうちに、あまりしつこく訊くのはいけないことなのだと思うようになるのかも知れない。
もちろん家庭や学校で様々な体験をし、知識も得て、「わかる」ことが増えてくることも一因であろうが、どうもそれは「わかったつもり」になっているだけのことが多いような気がする。

学校で先生に説明されて「わかりましたね」と言われると、本当はよくわからなくても、思わずみんなと一緒に「はーい!」と答えてしまう。
本や新聞を読んで「そうかな?」と疑問を感じることがあっても、みんながその意見に賛成しているようだと、自分もそう思わなくてはいけないような気になる。
そんな経験を積み重ねているうちに、いつしか疑問を感じたり疑ってみたり...ということ自体がなくなってくる。
そんなふうに考えられないだろうか...。

テレビや新聞の論調に簡単に染まってしまう。
誰かの意見を聞けば「その通り」とうなずき、正反対の主張の本を読めば「それもそうだ」と納得してしまう。
果ては、自分では全くいいと思わないのに、世の中で流行っているファッションや映画や本を、皆と同じように支持し絶賛する...。
これを「思考停止」と呼ぶ。
マスコミに簡単に洗脳されてしまう人間の増加は恐ろしい結果を生む...。

世の中で常識とされることを疑ってかかれ、本を読むときは批判的に読め、などはビジネスの世界では常識であろう。
ところが実は、もっとも疑問を差し挟む余地がないと思われている科学こそ、疑ってかかる必要がある...と訴える本がある。→竹内薫「99.9%は仮説~思いこみで判断しないための考え方」
私は新刊で新聞広告に載った日に即購入したのだが、現在までに18万部...結構売れているらしい。

帯のキャッチフレーズがまず衝撃的...「飛行機はなぜ飛ぶのか?科学では説明できない!」
え?!...と思った後に「やっぱり」とつぶやいてしまった。
私は飛行機大嫌い人間なのだ(会社勤めの頃、出張は札幌も熊本も前日から列車で行った...)。

「科学的にこうなる」と言われると無批判に「そうなのか」と納得してしまいがちだが、意外と「実はよくわかっていない」「別の説もある」という状況の方が多いのだという。
地動説に始まり、冥王星が惑星であるとか、麻酔はよく効くとか、マイナスイオンは体にいいとか、すべては仮説に過ぎないとのこと。

そう言えばトリノ五輪のときにも、「スケートがなぜ滑るかについては諸説があり、謎は解けていない」という新聞記事があった。
なぜ滑るかわからないんじゃスタッドレスタイヤも当てにできないと言うことか...。

科学は決して万能ではなく、むしろ「常に反証できるものであ」り、「決定的な証明などということは永遠にできない」のだそうだ。
だから、もっともらしい説明でも「本当にそうなのか」と疑ってみることが大切だと主張している。

新しく学ぶことすべてについて疑っていてはキリがないと思うが、絶対的に正しいものはない(数学以外)という視点を持って物事を考える姿勢は重要だと思う。
どんなに偉い専門家が発言しようが、どんなに大多数が賛同しようが、安易に丸め込まれることなく、自分の頭で相対的に考えたい。
そして「私はそうは思わない」(by佐野洋子)と主張できる人間でいたい。
塾で育てたいのもそんな人物である。


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究極の1教科入試

2006年03月16日 | 学習一般
数学1教科だけで5時間...。
東工大理学部が今秋からユニークな入試を実施するとのニュースがあった。
センター試験の結果は参考にせず、面接も行わないという。

午前と午後に2時間半ずつの制限時間を設け、それぞれ2問程度を出題。
ものごとを深く考え、じっくり課題に取り組む能力が落ちているとの見方から、公式や知識を問う難問ではなく考える力や解き方が重要な問題を出すそうだ。

こういう極端な制度については、それだけでトータルな学力が測れるのかとか、採点方法に公平性が確保できるのかとか、とかくマイナス面ばかりをあげつらう声が多くなりがちだ。
しかし、粘り強く考える力や解く過程の大切さを日頃から訴えている私としては、東工大の英断を高く評価したい。
注目する理由は2つある。

1つはよく練られた優れた入試問題が出題される可能性が高いこと。
「考える力や解き方が重要な問題」ということは、ただ単に計算が複雑だったり奇抜な発想が必要だったりという問題は出ないのではないか。
オーソドックスながら論理的な思考力や説明力(含・証明力)が問われる良問が期待される。

レベルは違うのだろうが、話題になった東大の「円周率が3.05以上であることを証明せよ」や東京理科大(違ったかな?)の「背理法とはどのような証明法であるか説明せよ」などを思い出す。
長野県トップクラスの長野高校でも、昨年の自己推薦入試で平行四辺形の定義を述べさせ、さらにその定理の1つを証明させる問題があった。
いずれも奇をてらった問題ではなく、どれだけ深い学習をしているかが問われる良問だと思う。
東工大が5月頃に発表するという想定問題と解答例が楽しみだ。

2つ目は数学の天才的な人物を発掘できる可能性が高いことである。
バランスのよい学力や一般常識も大事だが、今までの日本の教育はその面ばかりを追い求めすぎてきたのではないか。
義務教育の段階ならともかく、最高学府ではそんなことに捕らわれず、ある意味破天荒な人材を受け入れ、突出した能力をさらに伸ばす教育も必要ではないか。
と言っても「一芸入試」のようなキワモノには疑問を感じるが...。

先にも触れた長野県高校入試の自己推薦型入試(前期選抜)は、今年で3年目を迎えた。
試験の内容は高校により様々で、面接だけ、面接と作文、面接と小論文のところがある。
「小論文」の中味も実に多彩だ。
文章や資料を元に意見を書かせる基本形だけでなく、上位校ではそれに加えて数学、英語、あるいは理科、社会などそれぞれについて、ふつうのテスト形式で長目の記述式問題が出されている。
質、量ともかなり本格的だ。

私はこの自己推薦型入試が導入されたとき、これで暗記型の受験勉強が少しは改善されるのでは?...と大いに期待していた。
面接だけのところはともかく、特に小論文を採用しているところでは、ふだんの成績などには現れにくい力も積極的に評価してくれるものと思っていた。
ところがこの3年間を見る限り、若干の例外はあるが、結局は日頃の成績がいい生徒が合格しているように思う。
しかも、どちらかというとある教科に突出した学力を持つ子より、トータルなバランスの取れた生徒が受かっているようだ。
つまり、後期の一般選抜でも受かるであろう子が、早めに受かっているにすぎないのだ。
これでは前期選抜の意味がないのではないか。

長野県では前期選抜について様々な意見が交わされている。
特に多いのは「合格の基準がわかりにくい」という声だ。
でも、私はこの制度はそれでいいと思っている。
後期選抜のように試験の点数が良かった順に受かる、あるいはこれまでの学校推薦のように、日頃の成績が良かったり部活動や生徒会活動で顕著な活躍をした子が受かる...という「わかりやすい」制度では前期選抜の存在意義はない。

むしろ前期選抜ならではの観点をもっと強く打ち出すべきではないか。
1教科でも90点以上なら合格とか、試験官と議論をして勝ったら合格とか、そんな観点をアピールする高校があってもいいのではなかろうか。
高校入試の段階ではいささか冒険的に過ぎるのかも知れないが...。

東工大の試みが全国の大学入試、高校入試に波紋を投じ、制度や問題の見直しが広がることを期待したい。

(追記)中学入試でも、全国的に有名な学校は、やはりそれなりの問題を出す。知識の暗記や公式丸覚えだけでは、到底太刀打ちできない。そう言えば、あの灘中は入試教科に社会がないという話を聞いて調べたら、灘高の入試にもなくて驚いた(数・英・国・理)。覚えればいいという勉強に対する無言のアンチテーゼであろう。


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敬語は難しい

2006年03月12日 | ことば・国語
私はこのブログの記事を書くとき、内容によって「デス・マス体」「デアル体」を使い分けています。
いや、「内容によって」と言うより、「気分によって」あるいは「書き出しの自然さによって」の方が近いかな...。

どちらの場合も文末表現に最も気を使いますね。
同じ表現があまり繰り返されないように、微妙に変えたりしています。
「デス・マス体」の中に、あえて「デアル体」を混在させることもしばしば...。
できるだけ読みやすい流れになるよう、苦労しているつもりですが、なかなか難しいときもあります。

毎月一度信濃毎日新聞に、信州大名誉教授の馬瀬良雄氏のコラムが掲載されます。
「言葉・コトバ」というタイトルなので、いつもブログのネタにならないかと楽しみに読んでいるのですが...。
今回は「ぎこちない敬語」という話題でした。
副題に「「マス体」最後以外は省いたら」とあります。

かかりつけの医院に、次のような貼り紙があったそうです。

「診察券を出されましてもお呼びしました時に居られない場合は後まわしになります。」

一読して「ぎこちない」「まわりくどい」と感じますね。
敬語の使い方もさることながら、読点の打ち方(一つもないので読みにくい!)、漢字と仮名の使い分けにも問題があると思います。

で、氏は受診を待つ間に、この貼り紙の文言をどう変えたらよいか考えたそうです。
いろいろ変えるべき所を解説している中で、中心になるのは副題にもあるとおり「マス体」の使いすぎ...。
記事の最後に氏の添削した模範例文が載っています。

「診察券をお出しになっても、お呼びした時においでにならない場合は、後回しになります。」

どうでしょう?
初めの貼り紙よりはずっと良くなったと思いますが、今度は「お」が多すぎるのが気になりませんか?
妻も私と同意見でした。

塾で教室だよりやチラシを作成する際にも、敬語の使い方に悩むことがよくあります。
特に「お」や「ご」が連続するのはくどい感じがして、何とか他の言い方にできないか工夫しています。
「ご家庭のご事情」は「ご」の付け過ぎなので「ご家庭の事情」にとどめる方がいいでしょう。
「ご遠慮なくご相談ください」よりは「お気軽にご相談ください」の方がなめらかです。

ということで、恐れ多くも信大名誉教授に対抗して、私なりの模範例文を...。

「診察券を出されても、お呼びした際にご不在の場合は後回しになります。」

これでどうだ!
...もっといいのがあれば、ジャンジャン送って来てください。


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疑問は即解決すべきか?

2006年03月08日 | 学習一般
最近よく生徒にパズルをやらせている。
パズルと一口に言ってもいろいろなものがあるが、塾で使うのはいわゆるペンシルパズル...紙と鉛筆だけで解くシンプルなものである。

使うのは、以前にも少し触れた宮本哲也氏作のもの、ネットで探したもの、新聞から拾ったものなど。
小学生はもちろん、中学生にもウォーミングアップ用に使ったりしている。
もっとも、ときに妙に難しい問題があり、ウォーミングアップに時間を食いすぎてしまうこともあるのだが...。

パズルをさせる狙いは3つある。
1つは集中力をつけること。
勉強だと10分も集中力が続かない子でも、パズルとなるとけっこう長い時間一つのことに取り組んでくれる。

2つ目は試行錯誤の体験を積ませること。
算数の勉強で、わからないと何もせずボーッとしている子がいる。
見かねた大人(=私)が救いの手を差し伸べてくれるのを待っているのだ。

こういうとき、私は放っておく。
「何か書け」と言う。
何でもいいから手を動かさない限り、決して教えない。
まずは見当はずれでもいいから、自分で「ああでもない、こうでもない」「こうやってみたらどうか?」と考えてほしいのだ。

これを実践させるのにパズルは最適だ。
初めは当てずっぽうでいろいろやってみるしかない。
考え方をつかむまでは試行錯誤あるのみだ。
もう一歩で完成というところまで行って、やっぱり違っていて一からやり直し...。
机には消しカスばかりが山のように溜まっていく...。
これがいいのだ!

3つ目は、この試行錯誤にも関連するが、粘り強さを養うこと。
何回も消しては書き、書いては消しを繰り返し、何分も何十分も格闘しても解けない...。
悔しいからと家に持って帰ってやる子もいる。
次の学習日に回す子もいる。
で、次のときにやってみると案外あっさりできたり...。

教科の学習ではなかなかこうは行かない。
どの教科でも、知識や理解度は、少なくとも小中学生よりは私の方が上である。
どうしても彼らは「生徒」の立場になってしまう。
意識するとしないに関わらず、正解なり、やり方なりを教えてもらう立場に立ってしまうのだ。

もちろん私は、上にも書いたように簡単に教えることはしないが、正解もそこへ至る解法も模範的なものがすでに用意されている。
教科書や参考書、辞書を見ればすぐにわかる問題も多い。
最後まで自分の頭で考えなくても、逃げ道はいくらでもあるのだ。

パズルではそれがない。
正解はあるが、何かを参考にすればわかるわけではない。
私に助けを求めても無駄である。
第一、ちょっと難しくなると私だってすぐには解けないものばかりなのだ。
せいぜい一緒に悩むくらいしかできない...。

「わからない」のは決して悪いことではない。
むしろこれは大切な体験であろう。
これがなければ「わかろう」とする気持ちも起こらない。


わからない状態を経験させまいと、先回りして手取り足取り教えるのは最悪である。
助けを求めてきたからといって、すぐに教えるのも禁物。
結局は一人では何もできず、すぐに人に頼る人間を育てることになる。

問題はそのあとだ。
今まで私は、「わからないときになんとか自分の力で調べることができる」ということを指導目標の大きな柱の一つにしてきた。
しかし最近、それは少し違うんじゃないかと思い始めた。

疑問は本当にすぐ解決するのがいいのだろうか?
ずっとそれについて考え続けることも必要なんじゃないだろうか?
たちどころに答が見つかってはつまらないんじゃなかろうか...?


もちろん自力で調べられる力があることは素晴らしい。
自分で調べもせず、人から聞いたことを丸飲み込みするだけの輩よりはずっと好ましい。
しかし、だからといって、難問にぶつかったらすぐに調べればいいではいけないのではないか...。
特に、大した労力をかけずとも何でも即座に疑問を解消してくれるインターネットは曲者(くせもの)である。
ホイホイ調べてわかったつもりになり、スイスイ忘れてしまいそうだ。
それなら、わからない状態のままずっと考え続けている方が、まだマシではないか...。

懇切丁寧な参考書やフォローたっぷりの問題集なども、使い方を誤ると危険な気がする。
そんなことまで書いちゃったら自分で考えるところないじゃん!という代物も存在するのだ。

教材作りでも、丁寧に説明すべき所とヒントに留めておく所、答だけ書かない所、中には答も載せない所など、微妙な匙加減で調整する必要がある。
誰でも使えるようにという「親切」な教材は、自分であれこれ考えたり、これはなぜ?という疑問を持ったりする貴重な機会を奪う教材でもある。
あえて不親切な部分を残す教材を作ってみたいと思う。



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「春」によせて

2006年03月04日 | ことば・国語
まさに三寒四温の日々ですが、信州でも着実に春が近づいてきています。
今週は久々に雪も降りましたが、昼には屋根からの雪解け水のポタポタという音がにぎやかです。
今年は全国的に、桜の開花も早めのようですね。

田舎、それも雪国に住んでいると、四季の移り変わりを否応なく強烈に実感させられます。
メリハリがあると言うか、極端と言うか...。
これは都会では味わえない特典だと思って楽しんでいます。

信州の四季に関して敢えて不満な点を挙げれば、秋が短すぎることかな?
ここ数年、特にそれを感じます。
やっと暑さが一段落したと思ったら、程なくストーブが恋しくなる...(トシのせい?)。
私の中では、当地の春夏秋冬の比率は2:2:1:3くらいです。

ところで「春」という漢字の成り立ちを知っていますか?
この字には「ぬくもり」「幸せ」「希望」「若さ」などのイメージを感じます。
昔の歌に「春という字は「三人の日」と書きます」というのがありましたが、これは関係ないでしょうね...。

元の意味を調べてみると、「地中に陽気がこもり、草木が生え出る季節を示す。ずっしり重く、中に力がこもる意を含む。」とありました。
う~ん、なかなか奥が深いですね...。
冬至を過ぎてからジワジワと陽差し地中に蓄積され、植物にエネルギーを与えていく...そして臨界に達すると、ここでもそこでも草木が芽吹き出す...。
そんな自然界のドラマが脳裏で展開されます。

動物たちにとっての「啓蟄」のイメージと同じですね。
虫たちは冬籠もり中、自分の発育限界温度とその日の最高気温(最低気温だったかな?)との差を積算していて、それがある値を超えると地上に這い出てくるのだそうです。
思わず、計算機を片手に持った虫の姿を想像してしまいますが...。

漢字の意味がわかったところで、次は語源についてです。
実はこの記事を書こうと思ったきっかけはこちらの方なんです。

春という言葉を耳にすることが多くなり、「はる」の語源に興味が湧いたのです。
ネットで調べればすぐわかるのですが、それでは味気ないので、その前に自分なりに考察してみることにしました。
で、真っ先に思いついたのが「張る」
植物も動物も、もちろん人間も、エネルギーがみなぎってくる季節なので...。
漢字の意味からも、風船がパンパンに張った状態が連想されますもんね...。

で、調べてみたらほぼ正解でビックリ!
「草木の芽が「張る」」から来ているようです。
他にもいくつか説があるようですが...。→語源由来辞典

ついでに「秋」も、木の葉が「赤くなる」→「あく」→「あき」ではどうかと気軽に考えてみたら、これも一説とはそう遠くないようです。
因みに「夏」と「冬」はお手上げでしたが...。

疑問を解決しようとする姿勢は重要ですが、すぐに答を得ようと情報を追い求めるばかりでは、結局は考えない習慣がついてしまうように思います。。
ときには疑問を持ち続けること、そしてそれを自分の頭で考え続けることも大切ですね。


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