ことばを鍛え、思考を磨く 

長野市の小さな「私塾」発信。要約力、思考力、説明力など「学ぶ力」を伸ばすことを目指しています。

英語入門教材

2006年12月31日 | ことば・国語
少しだけ雪が降りましたが、例年に比べれば穏やかな長野です。
中3生が「雪がないと気持ちが引き締まらない。」と言っていました。
その気持ちわかります。年末に雪がないと何だかシャキッとしません...。

さてさて...。
前回の記事からずいぶん間が空いてしまいました。
冬期講習の前半が終わったので、久々のアップです。

実は冬期講習に間に合わせようと、英語入門のオリジナル教材を作成していたのです。
今の中学の英語教科書は初めから慣用的な会話表現が多く、文法の説明はほとんどありません。
「使える英語」を意識するあまり、たとえば I am も定着していない段階からすぐに I'm が登場します。
特に中1生の混乱ぶりは相当なものでした。

聞けば、「主語」や「動詞」についてもきちんと習っていない(あるいは忘れている)とのこと。
日本語でさえ「主語」がわかっていない子が大半でした。

既存の教材で使えるものを探したのですが、なかなかこれというものが見つからず、それならと自作することに...。
以前少し手がけてあったものを元に、日本語を使った「主語」「動詞」「目的語」の勉強からスタートする英語入門教材ができました。

と言っても、時間が足らずに未完の状態です。
英語の語順や人称代名詞を経て、be動詞、一般動詞(3単現含む)の否定文まではできたので、あとは疑問文だけなのですが...。
あ、それと前置詞の勉強も少し入れたいなぁ...。

冬期講習では中1はもちろん、中2にもやらせています。
まだ日本語だけの箇所を学習中の子が多いですが、予想通り「主語」「動詞」には苦労しています。
特に日本語で省略されている主語を補ったり、be動詞を付け足したりする作業が難しいようですね。
この日本語部分をかなり厚くしたつもりなのですが、基礎的な問題をもっと増やしてもいいくらいかな、と思っています。

何とか初歩の段階で、英語の構造や発想を少しでも体得してもらいたい。
そんな教材の完成を目指して、今後も生徒の反応や成果を見ながら修正を重ねていきたいと思います。

p.s.今年も1年、ご愛読ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。


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鼻濁音が消えていく

2006年10月19日 | ことば・国語
長野県は「鼻濁音保有地域」なのだそうです。
先日の信濃毎日新聞で読みました。
え?そうかぁ?...というのが正直な感想でした。

仕事柄、子どもとの会話が多いわけですが、鼻濁音を使っていない子が100%に近いと思います。
いつも意識しているわけではないので、見過ごしているだけかも知れませんが...。

たとえば「午後」の場合、正しくは初めの「ご」と後の「ご」は違う発音になります。
1つ目は[go]ですが、2つ目は[ŋo]になるのです。

鼻に抜ける感じ...これが鼻濁音ですね。

本来は語頭以外のガ行音節は、共通語では鼻濁音になることが多いそうです。
「小学校」「はがき」「いそぎんちゃく」「はまぐり」「雪化粧」などなど...。
でも現状ではこれらの言葉、ほとんどが[g]で発音されていませんか?

[g]と[ŋ]では聞いたときに違いがあります。
[ŋ]の方がソフトな、優しい感じがしませんか?
気になり出すと[g]の連発ははものすごく耳障りです。

実は私自身も、以前に比べたら圧倒的に鼻濁音の使用が少なくなっています。
普通に喋っていると[g]になっていることがほとんどです。
これはいったいどうしてなんでしょう?

テレビやラジオで鼻濁音を耳にする機会が減っているのかも知れません。
きちんとした訓練を受けたアナウンサーならともかく、いわゆるタレントや芸人の喋りには[g]音があふれているような気がします。
大声でわめくには、上品な[ŋ]より[g]の方がインパクトがあっていいのでしょう。
ひときわ音量が大きくなることが多いCMも、一役買っていると言えそうです。

さらに、日常会話に外来語が増えたことも、鼻濁音減少の一因となっていると思います。
たとえば「エレキギター」「プレイガイド」「オウンゴール」などは、日本語では一つの熟語のように扱っていますが、元はもちろん two words です。
従って、英語で考えれば当たり前なのですが、日本語では語頭でないのにすべて[g]音になっていると考えられるわけです。
この言い方が本来の日本語にも波及してきたとは考えられないでしょうか...。

かくして大人から鼻濁音が消えていけば、自然の結果として子どもも使わなくなります。
初めから[g]音だけで育つ子が増え、やがて鼻濁音は絶滅へ...。

共通語の母胎は東京であり当然鼻濁音も普通に使われていたはずですが、今では衰退が著しく、高年齢層に残るのみだそうです。
信州も同じようなものでしょう。
感情的には残したい思いですが、この流れは変わりそうもありません。

ちょっと皮肉な提案ですが、英語の発音指導で[ŋ]を復権させるというのも手ですね。
king や thing、ping-pong など、普通に読ませれば間違いなく[g]で発音します。
日本語には無頓着でも英語のリスニングや発音には熱心な子もいるので、ここで[g]と[ŋ]の違いを意識させるのはどうでしょう。

皆さんの地域ではどうですか?
ご自身は?お子さんは?
...各地の情報をお待ちしています。


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語彙を高める教材

2006年10月12日 | ことば・国語
語彙を豊かにするために最も有効なのは読書だと言われる。
確かに本を読んでいる子はそうでない子に比べて言葉を知っている。
しかし中には、本は好きだが語彙は貧弱という子も存在する。
読書の対象が狭い範囲に限られている場合が多いようだ。

従来のように読書を勧めるだけでいいのだろうか?
たとえ本が好きでも、言葉の微妙な使い分けを会得するまでに至るためには、幅広いジャンルの膨大な量の読書が必要になる。
まして本を読む習慣のない子に対しては、スタートラインに並ばせるだけでひと苦労であり、道のりは長いと言わざるを得ない。

既存の教材でも語彙力アップを謳ったものはある。
しかしその多くは単に短文の穴埋めをする、あるいは短文作りをするといった形式で、肝心の言葉の意味についてはお座なり程度の説明があるだけだ。

これではその場では解けても、本当にその言葉のニュアンスを掴んでいるとは言い難いのではないか。
前後の文脈との関係で、ここではこういう言葉が適切だというレベルまで持って行けないものか...。
さらに以前の記事「辞書に頼る前に」でも触れたように、すぐ辞書を引くのではなく、ある程度意味を推測する力も育てたい。
そうすれば、辞書を引いたときにもその場に適確な意味を見つけやすいはずである。


ずっとそんな観点から、新しい語彙増強教材が作れないか考えてきた。
まだ試作の段階だが、今日はその一部をご紹介したい。

著作権の関係で漱石の「坊っちゃん」を題材にしている。
今の子どもたちには難解な表現も多いかと思う。
自分から読んでみようという子は少ないのかも知れない。
しかし、だからこそ、半ば強制的にでも名作に触れさせたいという思いで採用した。

以下はよく知られている「坊っちゃん」の冒頭部分についての教材である。
問題の前に1000字ほどの文章を読ませている。

------------------------------------

a・親ゆずりの無鉄砲で子供のときから損ばかりしている。 

問1:「無鉄砲」とはどういう意味だと思いますか。前後の文脈から想像してみましょう。
   次の中からイメージに近いものに○を付けなさい(いくつでも可)。

 ( 慎重な  かわいい  むちゃくちゃ  よい子  ガキ大将  行動的 )  

では、辞書で意味を確認してみましょう。

〈辞書の定義〉無鉄砲 =「どうなるか先のことをよく考えず強引に事を行うこと。
                また、そのさまや、そのような人。」



問2:言葉の意味がわかった上で、aの文を言い換えてみましょう。
   できるだけ別の言葉を使うこと。

 (                                    )


問3:次の語群の中で「無鉄砲」とほぼ同じ意味のものはどれでしょう。
   また、ほぼ反対の意味(相反する意味)の言葉はどれでしょう。
   それぞれ二つずつ選んで(  )の中に書きなさい。

   用意周到・向こう見ず・慎重・まじめ・無謀・凶暴・無意識

   同じ意味 (       )(       )
    反対の意味(       )(       )


問4:次の各文の空欄に当てはまる、最もふさわしい語を語群から選んで書き入れなさい。
   なお、「無鉄砲」以外の語句の意味は〈辞書の定義〉欄のいずれかです(順不同)。

   ア・若さに任せて(       )する。

   イ・あいつは(       )だから、何をしでかすかわからない。

   ウ・いい大人なのに(       )な行動を取る。

   エ・悪に対して(       )に立ち向かう。


     無分別  無鉄砲  勇敢  猪突猛進  

  〈辞書の定義〉

   ・「一つのことに向かって、向こう見ずに猛烈な勢いで、つき進むこと。」
   
   ・「分別がないこと。思慮がなく軽率なこと。また、そのさま。」

   ・「 勇気があり、危険や困難を恐れないこと。また、そのさま。」
 


問5:次のそれぞれの語句を使って、三十字以内の単文を作りなさい。

  ア・勇敢

    (                                         ) 


  イ・命知らず(「死を恐れないで事をすること。その人。」)

    (                                         )

------------------------------------

ざっとこんな感じである。
言葉を鍛える問題もまだ続くが、せっかく名作を使っているので、語彙を高めるためだけに用いるのはもったいない。
後には文章の背景を読む問題も登場する。
ご要望があればまたご紹介したいと思う。


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敬語の新分類

2006年10月04日 | ことば・国語
これは黙ってはいられない。
...昨日の新聞記事を見てそう思った。

文化審議会国語分科会の敬語小委員会(長い!)が、現在「尊敬・謙譲・丁寧」と三分類されている敬語を、新たに五つに分類する指針案をまとめたという。
え?!五つも種類があるの...?!

これまでの三つの他に、新しく「美化語」が登場!
「お酒」「お化粧」など「上品さを表すための言葉」をそう呼ぶそうだ。
すでに一部の教科書にも採用されているという。
ま、これはわかりやすいからいいだろう...。

何だかわからないのがもう一つの新分類。
これまでの「謙譲語」が二つに分かれ、「謙譲語Ⅰ」「謙譲語Ⅱ(丁重語)」となっている。
区別は、Ⅰが「動作の対象となる相手への敬意を表す」言葉、Ⅱが「自分の動作などを丁重に表現する」言葉である。

例として挙げられたものを見てみよう。

<謙譲語Ⅰ>
「伺う」「申し上げる」「存じ上げる」「拝見する」「頂く」「(相手に対する)お手紙、ご説明」

<謙譲語Ⅱ>
「参る」「申す」「存じる」「いたす」「小社」「愚見」



違い、わかりますか?
私はわかったような、わからないような...。
「伺う」に対する「参る」、「申し上げる」に対する「申す」などは理解しやすいが、では「拝見する」をⅡではどう言うのか、「いたす」をⅠでは何と表現するのか...。
両方あるとは限らないのか...。

そもそも、なぜ細分化する必要があるのかがわからない。
敬語の使い方の指針だというが、かえって混乱することになるのではないか。
尊敬語と謙譲語さえ満足に使い分けられない若者(とは限らないが...)が、謙譲語ⅠとⅡを自在に操れるとは考えられないのだ。

今回の指針案には、いわゆる「マニュアル敬語」や上司に対する「ご苦労様」「お疲れ様」などについての意見も盛り込まれていて、それなりに評価できる部分もあるようだが、やはりこの五分類化には抵抗がある。

近い将来、テストで「次の謙譲語をⅠとⅡに分けなさい」などという問題が出るようになり、「覚えなきゃいけないこと」がさらに増えたりしないよう願うばかりである。


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迷惑をかける

2006年09月27日 | ことば・国語
よく親が子どもに「人に迷惑をかけないようにしなさい」などと言いますね。
これがインドでは、「人に迷惑をかけていることを自覚して生きなさい」となるそうです。

考えてみれば、人間生きている限りは誰かのお世話になっているもの。
誰にも迷惑をかけずに生きることなんて不可能です。
みんながお互いに迷惑をかけ合っていると言ってもいい。
だったらインドの言い方の方が現実的かも...。

開き直っているようにも見えますが、この考え方なら「俺は誰にも迷惑をかけていない」という不遜な態度も戒められますね。

何より、「迷惑をかけないように」と小さくまとまってしまうより、周りにお世話になっているという感謝の気持ちは忘れずに、迷惑をかけつつ人生を切り開いていく方が前向きな感じがします
さすがにインドの言葉は奥が深い...。

ところでこの「迷惑をかける」という言葉、なかなか面白い表現です。
まずは「かける」から...。

「かける」にはいろいろな漢字がありますが、この場合は「掛ける」でしょう。
「掛ける」は「時計を掛ける」「腰を掛ける」「はかりに掛ける」などにも使いますね。
辞書には「あるものをあるところに支えとめるように置く」とあります。
「迷惑」の場合はこれとはちょっと違いますね。

で、「掛ける」のもう一つの使い方を見てみると、「あるものごとに作用や影響を及ぼす」とあり、例として「迷惑を掛ける」の他に「保険を掛ける」「わなに掛ける」「2に5を掛ける」などが載っていました。

なるほど、かけ算の「掛ける」と同じ意味だったんですね。
用法のさらに詳しい分類では「人に精神的な作用・影響を及ぼす」とあり、「心配を掛ける」が挙げられています。
「期待を掛ける」もこれですね。
イメージ的には「水を掛ける」「唾を掛ける」などとも同じだと思います。

一方、「迷惑」という漢字の意味は「迷う」「惑う」であり、どうしていいかわからない状態が浮かびます。
そういう面もありますが、どちらかというと「迷惑」の実態は不快感、嫌悪感であるような気がします。

「語源由来辞典」によると、昔はその原因が他人の行為でも自分行為でも「迷惑」と言っていたようです
それが次第に、相手の行為によって自分が困惑する意味が強くなり、現在の使われ方に変化してきたとのこと。
何だか自分のことは棚に上げ、他者に責任を押しつけているようで面白いです。
考えてみれば、相手の行為に原因があっても、自分がそう思わなければ「迷惑」じゃないですもんね。
冒頭のインドの言葉もそうですが、まさに考え方次第です

そう言えば、「惑」の字が入った「惑星」は、惑うような動きをすることからその名が付いたものです。
ご存知のように冥王星が惑星から降格し、来年の教科書からは記述が消えることになりましたね。
で、事のきっかけとなったいわゆる「第10惑星」の名前が決まったそうです。
その名を「エリス」
これはギリシア神話の「不和や争いの女神」だそうです。
お騒がせの原因星にこんな名を付けるところが何ともシャレていますね。

p.s.「惑星」には「その能力・人格の程度が一般の人に知られていないが、有力そうな人。ダーク・ホース」という意味もあるそうです。知らなかった...。


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噛みくだく力

2006年09月20日 | ことば・国語
食事の際に食べ物をよく噛むことの大切さは、今さら言うまでもない。
体にいいだけでなく、口の周りの筋肉を発達させることで表情も豊かになって発音もよくなる。
さらに、噛むという機械的な刺激が脳の活動を活発にするという。
詳しくはこち→「噛むこと」

ところが現代では、時間に追われて食事の時間も短くなった。
手軽に食べられる物、柔らかい食べ物が多くなった。
その結果、昔と比べて噛む回数は激減しているようだ。

これも上記のサイトによれば、おこわが主食だった弥生時代は食事に1時間近くもかけ、噛む回数も約4000回だったという。
その後、主食にうるち米や麦、副食に煮野菜や焼き魚という食生活に変わってからも、戦前までの長い間、食事時間は20~30分、噛む回数は約1400回とほぼ一定していたそうだ。

これが現代では、食事時間も噛む回数も戦前の半分以下に減ってしまったとのこと。
パンやハンバーグ、ラーメン、グラタンなど、あまり噛む必要がない柔らかい食べ物が主流になっていては当然の結果であろう。
そのうち、センベイやスルメを食べようとしたら歯が欠けたとか、顎が外れたなどという子どもが出てくるかも知れない...。


先日の新聞に、テレビと新聞による情報を食物に例えて「噛みくだく力」の重要性を訴えたコラムがあった(by高橋庄太郎)。
曰く、テレビによる情報は映像や音によっておいしそうに加工された流動食。
活字中心の新聞のそれは固形食である
という。

なるほど、そうなるとラジオは両者の中間、お粥とか離乳食に相当するか...。
さらに、活字情報である新聞記事や本は、その内容によって固さが変わってくることになる。

流動食なら誰でも、大した努力も要らずに摂取できるが、固形食は噛みくだく必要がある。
高橋氏は、この噛みくだく力を発達させることが「考える力」にも通じると主張する。
簡単に飲み込める流動食ばかりを求めていては、思考力は衰えるばかりであろう。

前にも書いたが、私は丁寧にわかりやすく教えることが理想だとは思っていない。
生徒がつまずかないよう手を取り足を取り教え込むのは、せっかくの固形食を十分に噛んでやってから与えることに他ならない。
これでは子どもの噛みくだく力は育たない。
柔らかい物ばかり欲しがる指示待ち人間を作り出してしまう。

わからないときでも自分で何度も噛んで飲み込むことができる、クルミの殻なら道具を使って割る知恵が働く...。
今の子どもたちにこそ、そんな逞しい思考力を育む事が急務だと考えている。


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辞書に頼る前に~推測力~

2006年09月13日 | ことば・国語
英文を読んでいて知らない単語に遭遇したとき、前後の文脈から判断してたぶんこんな意味だろうと推測できる力は大切である。

絵本から始めて英語を楽しみながらたくさん読む、という多読学習法を実践していた頃は、特にそれを感じたものだ。
SSS多読学習法では、「辞書は引かない」「わからない所は飛ばす」「つまらなくなったら(その本は)やめる」が三原則である。

単語の意味一つにいちいち立ち止まっていては、流れが途切れてストーリーが楽しめない。
物語上重要な単語は何回も出てくるので、類推によっておおよその意味はつかめるはず。
どうしても気になる単語は辞書を引いてもいいが、できれば一冊読み終わってからにする。

こんな読み方を2年ほど続けていたため、今でも読んでいる最中にはめったに辞書を引かない。
読んだ後に確認するときと生徒の質問に答えるときくらいだ...。

その場で意味を確認した方がスッキリすると思われる方も多かろうが、とりあえず保留にしておいて、もやもやを抱えながら読み進むうちに「あっ、もしかして!」とひらめいたときの快感は格別である。
あとで辞書で確かめて、「当たらずと言えども遠からず」レベルなら万々歳だ。

多読で読んだ本には、ネイティブの幼児や小学生が読む本も多かったのだが、これが馬鹿にできない。
日本の教科書英語ではお目にかかれないが、彼らにとってはごく日常的で易しい単語がどんどん出てくる。
特に感情や性格を表す形容詞が難しい。
次の2つは、しょっちゅう出てくるのに意味をつかむのに苦労した代表である。

She was cross.
They were fed up.


こういう読み方ができるためには、もちろんある程度の単語力が必要であろう。
学習者の語彙と読む文章のレベルによる。
1ページに10も20も知らない単語があるのでは類推どころではない。

SSS学習法では、そういう場合は本のレベルを下げるよう指導している。
1ページに2、3文しか書いてない絵本なら、中学生でも「意味を推測する楽しみ」を味わえるのではなかろうか。
1語1語教科書の末尾を見て意味を確認し、無理やり不自然な日本語を構築する学校英語よりずっと楽しいはずである。
使い方のニュアンスも身につきやすい。

この推測力は、日本語の文章を読む上でも重要である。
「勉強」では、わからない言葉は必ず辞書で調べろと言われることが多い。
その結果子どもは、難しい言葉に出くわしたら無視して放っておくか、あるいは考える間もなく辞書を引く、大人に訊くという行動を取ることになる。

そのまま放っておくのは論外として、安易に正解を得るというのも如何なものかと思う。
英語と同じように文脈から類推する努力をするべきである。
「努力」と言うより、その楽しみを放棄するのはもったいない...。
日本語では、漢字からある程度の意味を推測できるという武器があるのだから尚更である。

自分なりに意味を推測した後で辞書を引けばいい。
日常生活では「だいたいこんな意味かな」で終わらせてしまうことが多いが、自分の推測がどの程度合っていたのか確かめることで、より実践的な語彙を獲得することができるのではないか。

この推測力をさらに広げると、先の記事にも書いた「文の背景を読む」ということになる。
5W1Hのうち、文章に表れていないものを推測する。
文脈から今後の話の展開を予測してみる。
英語、日本語を問わず、長文を読むときには大いに役立つ力であろう。


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主語と述語

2006年08月09日 | ことば・国語
夏期講習が終わり、ようやくいつものペースに戻りました。
今回はいくつか新しい試みも採り入れたのですが、その一つに中学生対象の「国語力増強講座」というのがありました。

国語のリスニング、おかしな日本語を直す、句読点の位置による意味の違いを考える...など、このブログでも話題にした題材の他、物語の続きを考えたり、漱石の「三四郎」を使って語彙を増やしたりという教材も作成し、幅広い面から国語力を鍛える講座です。

その中で、これはお決まりの「主語・述語を見つける」という問題もやらせたのですが、これがまあ、思った以上にできないのです。
使った教材自体も難しめなのですが...。

たとえばこんな問題です。
ためしに皆さんも主語と述語を答えてみてください。
なお、いずれも複数あったり、一つもない(省略されている)ものもあります。

1:モンゴルにはこんなことわざがある。
2:君こそ、この役にふさわしいよ。
3:激しい風に加え、雨さえ降り始めた。
4:こんなにたくさん、象だって食べられない。
5:生きているって、どういうことだろう。
6:私たちのクラスでは、ヒロミツ君しか休んでいません。
7:こんな遅くまでどこに行っていたんだ!
8:体にピッタリくっついているのに、蒸れないぞ。
9:今年の夏は、ハワイで休暇を過ごしたんだ、二週間。
10:虫歯予防には、食後の歯磨きをすすめます。
11:日本の郵便制度を始めたのは、前島密だ。
12:青森で有名な果物はリンゴだ。
13:ぼくはチャーハン!
14:聞こえるでしょう、ほら、笛の音が。
15:妹も姉も、かわいくてやさしい。
16:野球は、1872年にアメリカ人によって日本に伝えられた。
17:カエルには、ヘソがない。
18:おや、カズエさん、どちらへ?


さあ、いかがでしょう?スラスラできましたか?

生徒の書く文章を見ていても、主語と述語がねじれているためにおかしな文になっているものが少なくありません。
そして言うまでもなく、英語を学ぶ上で主語と動詞についての意識と理解度の差は、その上達を大きく左右しますね。

だからこそこれらの問題をやらせたのですが、多くの教材ではまず主語を見つける練習をするようです。
で、そのあとに述語を抜き出す練習...。

この順番ってどうなんでしょう?
実際に解いてみればわかりますが、難問になればなるほど、述語を先に見つけた方がわかりやすいような気がします。

たとえば1:の文では、「モンゴルには」を主語とする子が少なくないのですが、述語「ある」に対する主語を考えれば、自然と「ことわざが」が主語だとわかると思うんです。
9:でも、述語が「過ごしたんだ」だとわかれば、「夏は」が主語ではなく、省略されている「私は」が主語だと思い至るはずです。

13:や18:のように述語がない場合はどうしようもありませんが、一般的には述語を探し出す練習を先に徹底する方がいいように思います。

もう一つ気がついたことがあります。
主語や述語が省略されているものでは特にそうですが、>英語ではどう言うかを考えると日本語の主語・述語が明確になるのです。

10:ではIを補わないと英文にならないし、13:もwantなりlikeがないと意味が通じません(まさかamじゃないですよね...)。
主語も述語もない18:では、さらにそのことが実感できます。
これを英語で言おうとしたらyouやgoが必要ですよね...。

先にも書いたように、日本語で主語・述語を意識することは英語の学習にも役立ちます。
と同時に、どうも英語で考えると日本語の主述関係にも敏感になってくるということが言えそうですね。
そしてそのことで、日本語の難しさに比べて、いかに英語の構造が論理的でわかりやすいか実感できると思うのです。

英語で考えるという体験の第一歩を、こんな形で始めるのも悪くないかなと考えています。


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文の背景を読む

2006年07月19日 | ことば・国語
彼はこう言った。

これは事実だけしか述べていない。
話者の気持ちも、「彼」を取り巻く前後の状況もわからない。

なんと彼はこう言った。

これだと、「彼」が発言した内容が話者にとっては意外だったことがわかる。
単なる事実以上の情報が読み取れる。

やはり彼はこう言った。

今度は先ほどの逆で、「彼」の発言は話者の予想通りだったということだ。
たった一言で、話し手(or書き手)の心の中まで探ることができるのだ。

それだけでなく、「彼」が発言した前後の状況を推測することもできる。

ところが彼はこう言った。

これも話者の「想定外」のことが起こったことを意味している。
話の流れから行けば当然そうなる...と予測したことが外れたわけだ。
「なんと」ほど驚きはなく、客観的な意外性という感じがする。

ついに彼はこう言った。

ここから読み取れるのは、それまで「彼」が沈黙を続けていたか、少なくとも重要な発言はしなかったこと、そしてこれから決定的な発言をするということだ。
当然、このあとの「彼」の言葉には大いに注目する必要がある。

さらに彼はこう言った。

「ついに」と違って、すでに「彼」は中身のある発言をしている。
しかし、このあとの言葉に重みがある点は同様である。
それまでいくら喋っていようが、これから発せられる言葉が結論に近いものになる可能性は高い。

それでも彼はこう言った。

ここまでの「彼」の立場を想像してみよう。
形勢不利、孤軍奮闘という感じが伝わってこないだろうか。
そんな中でなお主張を貫こうとする、「彼」の必死な態度が伝わってくる。

すると彼はこう言った。

これはなかなか面白い。
「すると」自体の意味を辞書で引くと、次のように載っている。

 (1)前の事柄に続いて次の事柄が起こることを示す。
  「ドアの前に立った。―ひとりでに開いた」
 (2)前の事柄の当然の結果として次の事柄が導かれることを示す。
  「―あなたは会議には出なかったのですね」


「すると彼はこう言った。」のニュアンスは少し違うようだ。
(2)の「当然の結果として」ではもちろんないし、単なる時の経過を示す(1)とも異なる。
どちらかというと、これも話者にとって意外な発言だったときに使われることが多いのではないだろうか。

同じ文の先頭に付いた言葉が少し変わっただけで、その裏に読み取れるものがこれだけ違ってくる。
こういった短い文の比較をすることは、文章を読んだり書いたりするいい練習になるのでないか。
そんな教材も作りたいと思っている。


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句読点の重み

2006年06月20日 | ことば・国語
中学で初めて英語を習った子どもたち。
大文字と小文字の区別がつかなかったり、単語同士がくっついてしまったり、英文を書くという作業に苦労している。

中でも目立つのがピリオドの脱落である。
口を酸っぱくして注意しても直らない子がいる。
日本語の「。」と同じで、それがないと文が終わらないと強調しているのだが...。

そういう子の日本語を見てみると、案の定「。」がない。
「、」さえなかったり、あってもいいか加減な所に打たれている。
字数制限のある要約問題で、最後のマスぎりぎりまで文字で埋めてくる。
文中から該当箇所を抜き出す問題でも、平気で句読点を落として写す。

中2や中3になると、うるさく言われるせいか、英語のピリオドの脱落こそ少なくなってくるが、日本語の「。」「、」に関してはあまり改善されないように思う。
より大切な母国語を書くときに、句読点の付け方を考えている子がどれくらいいるだろうか。

そもそも教える側も、句読点の付け方について十分な指導をしていないのではないか。
小学校で作文の書き方的なことは機械的に教わっても、点一つで変わってしまう文の意味やニュアンスについて、十分な時間を割いた指導がなされているとは思えない。
国語のテストでは、「、」や「。」について英語ほど厳しく減点されないのではないだろうか...。

西洋ではプラトンの昔から句読法が盛んに研究されてきたという。
ピリオドやカンマの他にも、コロン、セミコロン、ハイフンなど種類も多い。
かたや日本語は、平安時代にはまだ句読点がなかった。
元になった漢文にそれらがなかったためであろう。

それがいつ頃から今のような「。」「、」が使われ出したのか。
明治期には、「国文にもきちんとした句読法を確立せよ」という動きもあったそうだが、未だに「法」と呼べるものはできあがっていない。

日本語の場合、多くの言語と違って単語ごとの分かち書きをしない。
また、文法による語順の制約も少ない。
その分、読みやすくする、あるいは誤解を避けるために、特に読点が果たす役割は大きいと言えよう。

句読法を確立するのは難しくても、いろいろな例文を題材に、句読点をどう駆使すれば読みやすくなるのか、また意味がどう変わるのかなどを学ぶ機会はもっとあって然るべきだと思う。

「私は父と、母の墓参りに行った。」
「私は、父と母の墓参りに行った。」


読点の位置一つで「父」が健在か否かまで変わってしまうことの重みを、中学生や高校生にじっくり味わってもらいたい。
それは「伝える力」(6月10日記事参照)を磨くことにもつながるはずだから...。


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伝える力

2006年06月10日 | ことば・国語
以前にも書きましたが、塾で使っているオリジナル教材の中に、図形や漢字を言葉だけで人に適確に説明する、というプリントがあります。

図は私が適当に作ったもの、漢字はたとえば「薔薇」や「盥(たらい)」などの複雑なものです。 これらを、電話の向こうの相手に伝えるつもりで説明させるのです。

自分では目で見てよくわかっているものを、言葉だけで、しかも文章で正確に伝えるというのは、慣れないとかなり難しいようです。

たとえば写真のような図形、あなたならどう説明しますか?
試しに文章にしてみてください。
そして、それをそのまま読んで人に聞かせ、図を描いてもらってください。
...どうですか?正確に伝わりましたか?

この問題をクリアするために最も重要なのは、相手の立場に立った想像力です。
言葉を多く知っているに越したことはありませんが、いくら正しい言葉で伝えても、相手がその言葉を理解できなければ意味がありません。
小学生相手なら「楕円」よりも「長丸」の方がいいでしょうし、正確な位置を座標で表現しても、普段から数学に接している人以外はピンとこないでしょう。

「長方形があり...」と言っただけでは、縦の方が長い長方形を描くかも知れません。
自分の中では「長方形」と聞いたら横長のものが自然だと思っていても、それが万人の共通認識だとは言えないのですから...。

塾では説明を書かせたあと、他の生徒(もちろんまだこの問題に接していない生徒)に私がその文を読んで聞かせ、図形を描いてもらいます。
すると、みごとなくらいに元とは違う図形が現れ、説明を書いた本人は愕然とするのです。
当然伝わるだろう、相手はこう解釈してくれるだろうというのは勝手な思い込みだったということに気づくのです。

生徒は帰るときに、その日に学習したこととそれに対する感想、コメントなどを個別ファイルの1ページに書いて行きます。
図形説明のプリントに初めて取り組んだ生徒は、必ずと言っていいほど「人に説明するのは大変だった」と記します。

実はそのことを自覚してもらうことが、このプリントの大きな目的の一つなのです。
コミュニケーション力の根本は言葉の力です。
すぐにキレる子どもたちの中には、国語力の不足が原因で自分の考えや思いをうまく伝えられない、という子も多いのではないでしょうか。

人に情報を正確に伝えるためにはどうしたらいいのか?
語彙も高める必要があるし、誤解のないようわかりやすく表現する力も磨かなければならない。
そして何より、相手の立場に立って言葉を選ばなければならない...。

まずは言葉についてのそんな認識を持ってもらえればと思っています。


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書き写すという快楽

2006年06月01日 | ことば・国語
先日の記事で、教師の板書をそのまま写すというノートの取り方を批判しましたが、今日はじっくり時間をかけて書き写すお話です。

ひと月ほど前、新聞で全面広告を見てさっそく買い求めたのが、「えんぴつで奥の細道」という本です。
その時点でも結構売れていたようですが、その後も売れ行きを伸ばしているようで、最近は大きな書店のベストの場所に平積みされています。

内容はごくシンプルなもので、「奥の細道」の全文と現代語の要約、語句の解説、ペン字のアドバイスなどが載っているだけです。
で、「一日目」から「五十日目」までに分けられた程良い長さの原文を、ひと文字ずつ丁寧に、芭蕉の文や俳句を味わいながら書き写しましょうというコンセプト。
「書き写す」というより、薄く印刷された文字を「なぞる」作業です。

私が本屋で見つけたときは「書道・ペン字」のコーナーにありました。
字が下手なことにコンプレックスがある私は、ついでに少しで文字がうまくなれば、という思いも持ちつつ始めたのです。
もちろん第一の目的は作品を味わうことですが...。

実際始めてみると、これが実に気持ちいいのです。
高校時代に勉強として読んでいたときとは違う、深い趣が感じられます。
ゆったりとした贅沢なひとときを過ごせるのです。

夜中にちょっと時間を作って書き始めるのですが、特に気分が落ち込んだり荒んだりしているときには、就寝前に精神を安定させる良い薬になるようです。
ただ、睡魔が勝ってしまうと、味わう余裕がなくなって「なぞる」という機械的な作業に終わってしまうので、もったいないことになります。

それにしても、ただなぞっているだけなのに、心地よい気分になれるのは不思議です。
「写経」などにも通じるものがあるのでしょうが、やはり文章の内容が優れていることと、心を込めて丁寧な字を書くことが大きく影響しているように思います。

「考える学習をすすめる会」では、語彙を高め国語力をつける一つの方法として、新聞の投書写し→要約を推奨していますが、一般の人が書いた文章でも書き写すことでずいぶん味わいが深まるものです。

まして、鑑賞に堪えうる古今の名文を書き写すという「学び」は、大きな効果を生み出すことでしょう。
これこそ「まなぶ」の語源、「まねぶ」ですね。

考えてみれば、コピーも写真も存在しない時代の古人は、先人の書を1つ1つ文字を書き写して学ぶしかなかったわけです。
そのことが結果として、著者の考えや主張を深く理解することにつながっていったのだと思います。
何もかもお手軽にコピーで済ませてしまって、結局ろくに読んでいないということが、現代人には多すぎるのではないでしょうか。

よく「書いて覚える」と言いますが、書くことにより必然的に文をよく読むことになるので、ただ文章を眺めているより記憶の定着がよくなるのは当然です。
また、小学校では文章の書き方のルールを学ぶために、書き写し用のワークブックを使っている例もあります。

どうやら書き写しには様々な効用があるようですね。
「よく読む」ことは、すなわち「よく書く」ことにもつながります。
単なる作業にならないよう注意することは必要ですが、中学や高校でも名文の書き写しをもっと採り入れてはどうでしょうか?

さて「奥の細道」、購入してから1ヶ月になります。
1日にこれくらいの分量なら楽勝だろうと思って始めたのですが、やはり毎日続けるというのは大変ですね。
字がさっぱりうまくならないのは置いておくとして、1ヶ月でまだ「五日目」までしか進んでいません。
江戸を発ってようやく日光まで来たところです。
「奥」に入るまでにもだいぶあります。

この調子だと大垣までに10ヶ月かかることに...。
実際の芭蕉の旅より長くなってしまいます。
月も変わったことだし、ここらで少しペースを上げましょうか...。


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始まりは0?

2006年05月27日 | ことば・国語
前回の記事へひょうさんから頂いたコメントに、こんなことが書いてありました。
さっそく今日のネタに使わせていただきます。
ひょうさん、いつもありがとうございます!

「ところで、最近「ゼロからスタート」とよく言いますよね。手首折った松井も言ったようですが、「一からやり直す」「一から再出発」という方がしっくりくるのですが。「ゼロから」っていうのはおかしいんじゃないのーと話してたんですよ。


なるほど、「ゼロから」も「一から」もよく耳にしますね。
直感的にはひょうさんの言われるように、「一から」が正しい気もしますが...。

ということで取りあえずYahooで検索してみると...。
「一(1)から始める」が16万件に対し、「ゼロ(0)から始める」は130万件!
...「ゼロから」の圧勝です。

辞書には「一から始める」という用例はありましたが、「ゼロから」は見あたりません。
従来の日本語では、「一から十まで」で「すべて」を表すように、「一」に「物事の始め」という意味を持たせていたのです。
たとえば新しく何かを始めようと計画を立てるときは「1:○○、2:××...」と1から始めるし、本のページや章だって1からですよね。
自然数の世界では1がスタートです。

それがなぜ「ゼロから」に押されてきたのでしょう?

もちろん、数学的に考えれば0から1までの間にも数は存在するわけで、「1から」と言うとその部分が抜け落ちてしまうことになります。
「1から」始めるためにはある程度の基礎知識なり経験が必要、というニュアンスでとらえる人が増えてきたのでしょうか?

上で触れた箇条書きや章立てでも、ときに「0」から始まるものもあります。
そのとき「0」に書かれていることは、やはり「1」からの内容を理解するための基礎や前提であることが多いようですね。

本のタイトルには「ゼロから」があふれていますが、読者の上記のようなイメージに訴える効果を期待しているのでしょう。
「ゼロから始める」の方が、内容が初心者向けでやさしそうな感じがしませんか?

ただ、ここまでのように物事を新しく始める場合と、ひょうさんのコメント中の松井選手のように「やり直す」「再出発」の場合とは、分けて考える必要があるのではないでしょうか。

「ゼロからやり直す」と聞いて私がまず連想するのは、ゲームや様々な機械のリセットボタンです。
それを押したとたんにそれまでの積み重ねが、成功も失敗も含めてすべてご破算になってしまうイメージですね。
心機一転、始めから「出直す」といっても、これは少々冒険が過ぎるのではないでしょうか?

松井選手が「ゼロから出直す」と言っても、少年野球を始めた頃に戻るわけではないですね。
メジャーにデビューした時期に戻るという意味でしょうが、それでも今までの経験をすべてリセットして無にするということではありません。
仮にそう望んだとしても、現実的には無理な話です。

もちろんその頃の新鮮な気持ちを思い出してひたむきに、という意味で使っているのでしょうが、精神面でさえ完全にリセットすることは難しいでしょう。
やはりここは「一から出直す」の方がふさわしい気がします。

「始める」では「ゼロから」が圧倒的に優勢だったネットの世界でも、「やり直す」「出直す」で検索してみると「一(1)から」9万に対し「ゼロ(0)から」は3千と立場が逆転します。
このあたり、使う側の微妙な心理が投影されていて興味深いですね。

因みに英語でどう言うか調べてみたら、「始める」の方はよくわからず、「出直す」では「0」も「1」も登場しません。
「一から出直す」は start again from the beginning で、「ゼロから出直す」は start again from the very beginning でした!
なるほど...。very の一言にいろいろな意味が込められているように思います。

結論:「始める」は「ゼロから」、「出直す」「やり直す」は「一から」。

オマケの雑学:駅のホームの「1番線」「2番線」などは、駅長室に近い順に付けられていますが、あとから増線した場合、駅長室と1番線の間や駅長室の反対側に作られたホームは、仕方がないので「0番線」になります。結構あちこちにあるようですね。


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迷惑の受け身

2006年05月14日 | ことば・国語
高3の生徒が英語の文法問題を解いていました。
受動態の所で、いろいろな書き換え問題がありました。
いつもの通り、ときどき質問を受けたり、逆に私が口を挟んだり...。
英語の表現について話し合い、ときには一緒に悩んだり調べたりしながらも、彼は順調に問題をこなしていました。

そのうち、何がきっかけだったか、英語と日本語の受け身についての違いの話になりました。
例えば「トムはその椅子を作った。」は、椅子を主語にして受け身にすれば「その椅子はトムによって作られた。」になります。
これは英語でも同じこと。

英語で言う第Ⅳ文型の文では、2種類の受動態の文を作ることができます。
「ルーシーはマイクにプレゼントを贈った。」は、
「マイクはルーシーによってプレゼントを贈られた。」とも、
「そのプレゼントはルーシーによってマイクに贈られた。」とも言いかえが可能。
これも和・英共通の現象です。

ところがいろいろな例を考えていくうちに、日本語には英語にない受け身表現が存在することに気づいたのです。
例えば「子どもに泣かれて困った」「犯人に逃げられる」「雨に降られる」などがそうです。

本来、受け身の形が作れるのは他動詞を使った文だけのはずです。
後に「~を」という目的語を伴う動詞のことですね。
人が物を「隠す」場合、物を主語にして「隠される」と言い換えられます。
一方、人が「隠れる」は自動詞なので、受け身にしようにも主語となる物がないので不可能です。
...と説明したら、生徒が言いました。
「隠れられる」という言い方もあるのでは...?
そこから他の例を探したら、先に挙げたように「泣かれる」「逃げられる」など、自動詞なのに受け身で使われるものが次々に出てきたわけです。

で、まず自分なりに考えてみました。
他動詞の受け身と違って、自動詞の場合、相手の行為によって自分が害を被るという感じが強いのではないか...。

その後調べたら、直感で考えたことがほぼ合っていました。
ちゃんとあるんですね、こういう形が...。
「間接受身」というもので、「間接的に影響を被るものを主語に立てる表現」だそうです。(by Wikipedia 「日本語の受身」
「迷惑の受身」などとも呼ばれるとのこと。
なるほど...「迷惑」には納得です。

しかし考えてみると不思議な表現です。
Wikipedia にも「多くの言語には直訳できないことで知られている。」とありました。
そりゃあそうでしょう。
「私は雨によって降られる」なんて、絶対英語にできません。

受け身というのは他の人や物との関係に注目した言い方ですよね。
因果関係も含まれていることが多いようです。
他動詞は自分以外の人や物に影響を与るので受け身にできますが、自動詞は文字通り自己完結しています。

歩こうが走ろうが個人の自由であり、その人の責任において行動しているかぎり、他人がとやかく口出しすべきではない。
他者の行動で自分が不快な思いをしても、それはそう感じている自分の問題で、他者に責を負わせるべきものではない。

そんな個人主義の考え方が、世界のほとんどの言語に「迷惑の受け身」が存在しない現象の根底にあるのではないでしょうか。
日本では他者(自然も含む)との関係が濃密であったがために、子どもが泣いたことで自分が被った迷惑、雨に降られたことによる損害までも、責任を自己の外に求めてきたのでは、と思うのです。

しかし一方で、「犯人に逃げられる」は「犯人が逃げた」と言うよりも自分の責任を痛感しているニュアンスも感じます。
この「迷惑の受け身」、日本人の気質、心意にも関わる興味深い問題なので、今後も引き続き考えて行きたいと思います。


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意外な「以外」

2006年05月04日 | ことば・国語
世はゴールデンウィークとやらで浮かれ気味である。
当ブログも今回は半ば休眠状態...つまらない話題でお茶を濁す。

数学で「10以下」と言ったら10を含む。つまり「≦10」。
「10未満」と言ったら含まない。つまり「<10」だ。

「10以上」ももちろん10を含む(「≧10)。
こちらには「未満」のような便利な言葉がないので、「>10」は「10より大きい」と言うしかない。

ところで「「以上」の反対は?」と聞かれたらどう答えるだろう?
「以下」?....ではない!
「10以上の整数」を集合Aとすると、Aの補集合に10は含まれない。
従って「以上」の反対は「未満」ということになる。

「以」という漢字は「鋤(スキ)」と「人」の組み合わせで、「手で道具を用いて仕事をする」という意味を表すそうだ。
そこから何かを用いて」という「「~で」「~をもって」などの意を示す前置詞になったと言う。
英語の with と通じるところがある。

「今月末を以て閉店します。」
これは、閉店のために「今月末」を用いると解釈できる。
今月末で区切りをつけるわけだ。
このとき、今月の末日になったとたん店をやめるわけではない。
末日の営業時間が終わるまでは店は存続している。
言いかえれば「来月1日を以て営業しない」ということであり、今月の末日は「営業」に、来月1日は「非営業」に含まれる。

このあたりに、「以上」や「以下」における「以」の使われ方のルーツがあるのではないか...。

「以」が付く他の言葉も見てみると、「以前」「以後」「以降」「以来」「以遠」「以北」など、やはりどれもその前に来る「基準となるもの」を含むと考えて良さそうだ。
「16世紀以降」は16世紀を含むし、「長野県以北」と言えば長野県も含まれる。

ただ、「近代以前」「2000年以前」という言い方をするときは、近代や2000年が含まれていないことも多いような気がする。
「それ以前は」とか、単に「以前は」と使う場合も、「それ」や「最近」は含まれていないはずである。

「以後」だと含まれると思うのだが...。
「以後、気をつけます。」には「今」も入っているだろう。
「前」と「後」で微妙な違いがあるのが面白いところである。

さらに大きく違うのが「以内」「以外」
「内」と「外」という正反対の意味の漢字が使われているが、この2つは使われ方が全く異なる。
「10分以内」には10分ギリギリも含まれる。
で、それを1秒でも超えたら「10分以外」になるかと思うとならない。

「以外」は全く別の場面で使われ、「以内」とは決して対にならないのである。
そして「以外」は、「以前」よりもっと明確に「基準となるもの」を含まないのだ。
「日曜日以外は不在です。」
「漢字以外は不正解とする。」
「関係者以外立ち入り禁止。」

...いずれも「日曜日」や「漢字」「関係者」は「以外」に含まれない。
当たり前だ!含んでしまったら年中不在、全部不正解、全員立ち入り禁止になってしまう...。

何が言いたいかといえば、数学で使う「以上」や「以下」の「以」の意味は、すべての「以」を含む言葉に適用されるわけではないということだ。
しかし、それだけのことで読者にこんな長い記事を読ませるなど、それこそ

「以て」の「外(ほか)」 である!

...お後がよろしいようで...。


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