ことばを鍛え、思考を磨く 

長野市の小さな「私塾」発信。要約力、思考力、説明力など「学ぶ力」を伸ばすことを目指しています。

「暴風」のアクセント

2005年08月30日 | ことば・国語
台風シーズンになるといつも気になる言葉があります。
テレビやラジオでアナウンサー、レポーターが口にする「暴風」のアクセントがどうにも耳障りで、肝心の台風情報に注意が向かないのです。

(注)これから書くことは、あくまでも「標準語」としての読み方と解釈してください。関東と関西ではアクセントの位置が正反対になる例も多いのは承知しています。私自身も大学時代まで「坂」や「サンダル」は関西式に「さ」を高く読んでいましたから...。

「ぼうふう」の読み方は「口上」や「向上」と同じ平板なものになるはずです。
ところが、NHKのアナウンサーでもほとんどが「ぼ」にアクセントを置いた読み方をするのです。「工場」と同じです。
(こちらのブログにわかりやすく書いてあります。→「暴風」のアクセントが気になる

「暴風雨」と言うときは「ぼ」にアクセントが来ます。
「暴風域」でもそうですね。
たぶん、それと同じ意識で読んでいるのでしょうが、「暴風」だけのときは違うはず...。

地元FM局にも疑問をぶつけましたが、スッキリしない回答しかもらえません。
先日の台風12号でも、私が見聞きしたニュースの中で、正しいアクセントで読んでいたのは民放のレポーター1人だけでした。

「そんなのどっちでもいいじゃん」とか「言葉は変わるもの」といった声が聞こえてきそうですが、この場合はそう簡単に収めることはできません。
ニュースは必要な情報を的確に伝えるのが使命だからです。

「暴風」を「暴風雨」と同じアクセントで読まれては、どちらも「ぼーふー」に聞こえて区別がつきません。
風だけに注意すればいいのか、大雨に対する備えも必要なのかが音だけで判断できないのは不便です。
不便だけならまだしも、誤解を招くおそれもあります。危険です!
本来のアクセントで正しく読めば回避できる危険を、あえて放置していることになりませんか?


と、最後は少し大袈裟になりましたが、せひ改善してほしいものです。
NHKにもこの記事を送って回答を得たいと思います。


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ストリート・スマート

2005年08月28日 | 「教室だより」から
以下の文章は塾の「教室だより」9月号に載せたものです。
保護者、生徒向けなのでいつもの記事とは若干色合いが異なります。
その点ご了承願います。

------------------------------------------------------------------
 英語で「ブック・スマート」とか「アカデミック・スマート」という言い方があるそうです。日本語にすると「机上主義の人」「学校秀才」などにあたるでしょうか。知識はあるけれど頭でっかちで実用性に欠ける。決められたことはソツなく着実にこなすが、未経験のことに直面すると対処できない…というタイプです。社会の変化で今までのやり方が通用しなくなると、簡単に自信をなくしたり挫折しがちな面があります。

 対になる語は「ストリート・スマート」です。こちらは文字通り現場対応力の優れた人を指します。自分が身を以て体験したことを糧に、円滑な人間関係を築き上げ、実社会でたくましく生きていくことができる。新しい問題にぶつかっても、自分を信じて積極的に立ち向かい、なんとか切り抜けていくタイプです。世の中が変わっても、2、3回失敗してもくじけず、やがてチャンスをつかんでいく人たちです。

 さて、皆さんは親として、お子さんにどちらのタイプになってほしいですか?

 今までの日本の教育は明らかに「ブック・スマート」を育てるためのものでした。高度成長時代には成功事例をより多く知っている人、皆と足並みを揃えて調和を図れる人、決められたことを指示通りに効率的に処理できる人が求められていたと言えます。個人の意見や発想が重視されることは特殊な場合に限られ、業務によっては、それらはむしろ全体にとってマイナスに働くとさえ考えられてきたのではないでしょうか。

 しかし時代は変わりました。これまでのような、過去の実例を踏襲していれば事足れりの姿勢では通用しません。会社が何とかしてくれるという甘い考えの人物は、もうどこも採用してくれません。組織に頼らず起業しようというくらいのたくましさを持った人間を、企業側も求めているのです。ゆとり教育が目指した「生きる力」も、行き着く先は「ストリート・スマート」であるべきだと考えます。

 ここまで読んで、「じゃ、勉強しなくてもいいんだ!」と喜んでいる中高生、いませんか?…残念ながら、それは大きな間違いです!

 「ストリート・スマート」になるためにも知識や教養は豊かな方が有利に決まっています。理解力や思考力、自分の思いを人に伝える表現力も必要です。「ブック・スマート」と「ストリート・スマート」を二極的なものと捉えて、どちらを目指すかと考えるのではなく、これからはどちらも必要だと考えてください。単なる「ものしり」になるために勉強するのではなく、知識を知恵に昇華させる能力を磨いているのだと思ってください。そして机に向かうばかりでなく、もっと世の中を知ること、いろいろな実体験を積むことを心がけてください。

 今の日本は経済的には豊かでも、政治的にも社会的にもおかしなことがたくさんあります。戦後の発展の途中でどこかでレールを間違えたのではないかと思っている人が少なくありません。次代を担う子どもたちには、ぜひ2つの「スマート」を兼ね備えた人物になってほしい、そして日本を変えてほしいと切に希望しています。


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考え抜く体験

2005年08月26日 | 学習一般
学校で習ったことを使う問題だと多少難しくても解いてしまうのに、初めて目にするタイプの問題に接すると途端に「わかりませーん」を連発する子がいます。
考え方を説明すればするほどパニックになり「わからない」の繰り返し...。

中学では連立方程式で解く文章題を代数を使わずに考えるので、「仮定」の概念が小学生には難しいのかも知れません。
そのうち、例題の解き方だけをそっくりまねて、数値だけを置き換えて正解を出してきました。
意味をわかって解いているわけではないので、当然条件が少しでも変わると間違えます。
それでも足し算の部分を引き算に変えたりしてなんとか答を導き出しました。

でもね...できればいいというものではないのです。
と言うか、この問題、できるかどうかより考える過程の方が大切なのです。
本人にもそう話しましたが、今一納得していないようでした。
たぶん、彼女にとっては「できる」ことが最も価値のあることなのだと思います。

難しい問題を前にし、こうでもないああでもないとひたすら考える。
何日も考えて考えて、考え抜いて、ある日突然解き方がひらめく。
アルキメデスの例を出すまでもなく、立派な業績を残した人のエピソードにはそういう話が多いですね。
そこまで行かなくても、勉強でも仕事でも、似たような経験がある人は大勢いると思います。
私は特に図形問題にその類が多いですね...。

そういう考え抜く体験を、私は小学生のうちからもっと積んでほしいと思うのです。
習っていないから教えてもらう、少し考えてわからないとすぐ訊く...ではなく、自分の考え方を信じて、粘って粘って考えてほしい...。
それでもできなかったらそれでもいいんです。
初めから解き方を教えてもらって正解を出すよりずっと大切なものを、苦しんで考えている間に身につけているはずです。

別に勉強に限らず、クイズでもパズルでもなんでもいいから、とにかく考え抜く練習をしてほしい...。
テレビゲームやるのもいいけど、どうせなら「攻略本」に頼らず、できるだけ自力で試行錯誤してほしいものだと思っています。


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「女王」の読み方アンケート

2005年08月24日 | ことば・国語
私は一度も見たことがありませんが、「女王の教室」というTVドラマがいろいろ物議を醸しだしているようです。
学校の先生関係のブログでは結構採り上げられているようですね。

さて、この「女王」、みなさんは何と読んでいますか?

以前ラジオで話題になって、私は「じょおう」だと主張したのですが、アナウンサー(同年代・千葉県出身)は「表記はそうかも知れないけど、実際読むときには『じょうおう』ですよね」と強引に結論づけてしまい、その後もはっきり「じょうおう」と読んでいます。

辞書ではほとんど「じょおう」でしか載っていませんが、中には「じょうおう」を引くと「じょおう」を参照するよう指示があるものもあります。
ワープロの日本語変換システムによっても違いますね。
「じょうおう」でも変換されるものもあれば、「じょおう」しか受け付けないものも...。

どちらにしろ「じょおう」の方が優先的に採用されているのは間違いないので、自分の感覚に自信を持っていたのですが、いろいろなHPやブログを検索してみると、「じょうおう」派が予想以上に多いことがわかりました。
たとえばココ

そこで、「ことば」をテーマの一つの掲げているこのブログでも、みなさんの声を聞きたいと思います。
表記と読み方では違うという方もいらっしゃると思うので、選択肢は4つ作りました。

Q.「女王」に仮名を振るとどうなるか、また声に出して読むとどうなるか、番号でお答えください。

 ①表記も読みも「じょおう」
  
 ②表記も読みも「じょうおう」

 ③表記は「じょおう」、読みは「じょうおう」

 ④表記は「じょうおう」、読みは「じょおう」


私は間違いなく①です。
かすかな記憶では、子どもの頃は「じょうおう」と言っていたようにも思いますが...。
さすがに④はないかな...。

ご協力よろしくお願いします。


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宿題代行サービス

2005年08月22日 | 学習一般
ライブドアのニュースで「宿題代行サービス」なるものを目にしました。
1問500円からで、30万円で卒論も書いてくれるそうです。
当然のことながら、夏休みには問い合わせが普段の3倍に増えるとのこと...。

どのくらい依頼があるものなんでしょう...。
大学生がレポートを頼むのは結構ありそうな気も...。
高校生が宿題を代行してもらって自分は受験勉強に専念...なんてのもありそうです。
まさか小中学生はいないと思いますが...。

別に宿題に限らず、世の中何でも代行業が流行っていますが、これってどうなんでしょう。
ちょっと知らない分野だったり手間がかかりそうだと思うと、自分で調べたり動いたりせず、すぐに人に頼む。
金で人に任せ、自分は頭も手も足も使わない。
これが文化的、現代的な生活ってやつでしょうか...。

なんだか、自分では何もできないというひ弱な人間がますます増殖しそうな風潮です。
前にも書きましたが、便利になればなるほど「生きる力」は失われて行きますね。

医学用語で「廃用性症候群」というのがあるそうです。
「心身の機能を十分に活用しないことにより、本来低下すべきでない機能が低下する状態」のことをそう称するとのこと。
寝たきりになると手足の筋肉が衰えたり関節が固まり、やがて動けなくなる...という現象がわかりやすい例です。

怖いのはこの用語の説明に「心身の機能」とあることですね。
使っていないと体も心も、もちろん頭も衰えるということでしょう。
たくさん動いてたくさん考えて、心身共にさび付かせないようにしたいものです。
私の年齢になると多少の活用では、衰えを少し遅らせるくらいの効果しかないかも知れませんが...。

もっとも、冒頭の宿題代行、大量の計算問題や漢字書き取りの宿題なら任せてもいいかも知れません。
それをやらなくて済む分、考える問題をじっくりできますから...。
でも、もし子どものために頼むとしたら、逆に難しそうな「考える問題」を任せて計算や漢字を自分でやらせる親が多いような気がしますけどね...。

いやはや、おかしな世の中になったものです...。


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「へ」と「に」

2005年08月20日 | ことば・国語
少し前の朝日新聞、作文の添削コーナーでこんなコメントがありました。

助詞の使い方について、「醸造学科入学した」は誤りで、行動の帰着点を表す「に」が正しいという指摘です。

なるほど...。
そこまで意識したことはありませんでしたが、言われてみれば...。

ということは、合格して入学する前、つまり受験勉強中は「醸造学科入ることを目指す」で、その結果「醸造学科入学」でいいんですかね...。

同様に、「駅へ行く」の結果「駅に着いた」、「彼女へ愛を送った」結果「彼女に愛が届いた」というのが正しいのでしょうか...。

どの例も、後者の「に」を「へ」にすると確かに若干の違和感がありますが、前者の「へ」を「に」にしてもそれは感じません。
前者でも「行動の(未来の)帰着点」を表しているのだから「に」でもいいのかなぁ...。

日本語の助詞は奥が深い...。

英語のfortoも同じように使い分けるのかと思って辞書で調べたら、確かにforは「~に向かって」の意味でtoは「到着点を表す」とありました。
でも、leave for New York go to New York の使い分けが今一わかりません。
しっくりくる組み合わせが動詞によって決まっている面もあるようです。

う~ん...英語の前置詞も奥が深い...。


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安全運転?

2005年08月18日 | 日々雑感
塾がある長野市内まで隣町の自宅から、毎日片道30km強を車で往復しています。
大半が郊外の国道で信号もほとんどないので、特に夜は30分ほどで帰って来られます。

私は車の免許を36歳で取りました。
それまで都会暮らしが多かったし、電車が好きなので、特に免許の必要を感じなかったのです。
ところが脱サラ&Iターンで信州に来ることになり、急遽車が必需品に...。
有休の残りをすべて使って合宿で免許を取得しました。

みんなそうでしょうが、初めは精々時速60kmまでしか出せないのに、慣れてくると田舎の道だと平気で80kmくらい出すようになります。
制限時速を守ってタラタラ走り後ろからあおられていた自分が、いつのまにか前を行く遅い車にイライラするようになっていました。

以前、ラジオで車の評論家が言っていた言葉を思い出しました。
「法定速度を守ればいいというものではない。それよりも流れに乗ることが大切。」
これについては異論もあると思います。
私も初心者の頃は法定速度を守りながら、「法律を守っているのに何が悪いのか」と思っていました。

でも今はこの言葉の意味がよくわかります。
ゆっくり走ることは必ずしも安全運転とイコールではないのです。
周りに他の車が全くいないのなら問題ありませんが...。

前を極端に遅い車が走っていると、とても運転しづらいのです。
思ってもいない所でブレーキランプが点いたり、カーブを曲がるときや右左折するときに想定以上のスピードダウンがあったりして、一瞬ドキッとします。

国道はずっと追い越し禁止の黄色いセンターラインなのですが、バス停や「ゆずりゾーン」と称する駐停車スペースが頻繁にあり、「遅い車は道をゆずろう」という看板も目立ちます。
前述のように私も今は決して遅くはないのですが、それでも後ろの車が先に行きたがっているのを察したときはそういうスペースに車を止め、先に行かせます。
女房は「60kmなんか出せない」という運転ですが、その分、迷惑にならぬようしょっちゅう抜いてもらっています。

良いか悪いかと言えばもちろん悪いのでしょうが、現実問題として、郊外の道ではほとんどの車が法定速度を越えています。
中には荷主の都合で急いでいるトラックや、列車に間に合うかギリギリのビジネスマン、家族が急病で急いで帰宅する途中の人もいるかも知れません。
ちょっと止まって先に行かせてくれれば済むものを、中には登坂車線でも本線を譲らないマイペースな人もいます。

こういうドライバーには2つのパターンが考えられます。
一つは想像力が欠落or不足している人。
自分の車が他者から見てどんな存在なのか、他の車がどんなに迷惑しているか、視点を変えて見ることができないのでしょう。

想像力の欠如は車の運転にとって極めて危険です!
教習所でさんざん言われた「かも知れない運転」(歩行者が飛び出してくるかもetc.)は想像力なしには実践できません。
狭い生活道路でも幹線と同じように飛ばしたり、暗くなってもなかなかライトを点けない自己チューなバカ運転者は、想像力が極端に不足しているのでしょう。
そんな奴が免許を持っていてはいけません!

もう一つは、周りの状況はわかっているのに無視している人。
自分の車が渋滞を引き起こしていることはバックミラーで承知していて、それでもそのままのペースで走り続けるパターンです。
「自分は正しい」という信念を持っているので、後ろがイライラしていても道を譲ったりはしません。
これはこれで困りもの...。
「法定速度を守る」のは正しいことなので誰も文句が言えません。
正論なだけに始末が悪い...。

でも、いくら「自分は制限速度を守っているのだから正しい」と言っても、後続車がズラーッと並んでいるのを見ても「我関せず」と平然としているのはどうなんでしょう?
法律を遵守しようという気持ちは認めます。
それ自体を非難する気はありません。
ただ、他人にまでそれを強制するなと言いたいだけです。
人それぞれ都合があるのに、自分の都合に巻き込んでいいものなのか...。

もちろん、前の車が若葉マークや紅葉マークを付けていればまた別です。
こちらにも彼らの立場を思いやる想像力くらいあります。
それ以外で圧倒的に多いのはやはり「おばさん」...。
今日は珍しく若い人に行く手を阻まれ、いつもより10分くらい時間を食ってしまいました。

どなたかいい解決策ありませんか?


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秋の気配

2005年08月16日 | 日々雑感
信州では先週末頃からツクツクホウシの鳴き声を聞くようになりました。
まだ数は少なく、ミンミンゼミやエゾゼミの圧倒的な合唱に混じって時折聞こえるくらいですが、独特の「オーシーツクツク」はすぐにわかります。
毎年このセミの声を聞くと、夏の終わりをしみじみ感じますね...。
昨日の花火大会は少し肌寒いくらいでした。

西洋の人たちは、スズムシやコオロギなど秋の虫の鳴き声を雑音にしか感じないと言いますが、セミの声はどうなんでしょう。
日本人でもセミはうるさいだけだけだと思う人も多いでしょうが、種類によりますよね。
ミンミンゼミやアブラゼミは確かに暑さを助長するだけでうんざりですが、ヒグラシやツクツクホウシは風情があっていいですね...。

小さな草花や虫たちの移り変わり、風や雲のちょっとした変化に季節を察し「もののあはれ」を感じる。
そんな日本人的な(?)繊細な感覚を、次の世代の子どもたちにも受け継いで行ってもらいたいと思います。

ところで、有名な芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」、どんなセミの声だと思いますか?
私はやはりミンミンゼミが一番「しみ入る」と「閑かさ」にふさわしいと感じていますが...。


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「虐殺」の意味

2005年08月14日 | 日々雑感
今日の信濃毎日新聞に、同社主筆である中馬清福氏(元朝日新聞論説主幹)による「敗戦体験をどう生かすか」という論考が載っています。。
氏はこの文章の冒頭で「虐殺」という言葉についての体験を語っていますが、それを読んで感じたことを少し...。

1770年にボストンで駐留英軍が発砲し一般市民を殺傷した「ボストン虐殺」という事件があり、これが米国独立革命の導火線になったそうです。
中馬氏はこの事件の跡を訪れたときのことを次のように述べています。

「虐殺というから、犠牲者も多かったろう、装置も大掛かりだったろう、と思っていた。だが、死者はわずかに五人、場所もごくふつうの狭い街路だった。これで虐殺とは何と大げさな。そう思った。」

ここまで読んでどう思われましたか?
「虐殺」と聞くと大量の死者が出た一大事件のように感じませんか?
戦争にしろ殺人事件にしろ、あるいは事故にしろ、私たちも氏と同じように犠牲者の数でその重大さを判断することがないでしょうか?

しかし人ひとりの命という点で見れば、5000人の中の1人でも、2人の中の1人でも全く同じ重さのはずです。

中馬氏は次のように続けます。

「私は間違っていた。虐殺か否かを数で決めてはいけないのだ。被害者側からすれば、たとえ死者が数人であろうと、それが人々の運命を決するほどの惨事であれば、それはまぎれもなく虐殺なのだ。」

自分の身内が犠牲者になったときのことを想定すれば実感が湧くと思います。
1人だけしか死ななくても、重大なケガや精神的な後遺症を負っただけでも、当事者や家族にとっては大事件に違いありません。

以前、ビートたけし氏が著書でこんな言い方をしていました。

ニューヨークの同時多発テロで3000人が死んだのではなく、1人が死んだテロが3000件起きたと考えるべきではないか。

3000人が死んだと聞いても実感が伴いませんが、ひとり一人の生と死に思いを馳せる想像力があれば、他人事でなくよりリアルにテロの悲惨さを感じることができるのではないでしょうか。
たとえ犠牲者の人数が少なくても、その思いは変わりません。

日本軍のアジア各地での「虐殺」が、もっと少ない人数だったとか民間人は含まれないとか、いかに弁明しようと被害にあった国にとってはそんなことは関係ありません。
「虐殺」は虐殺です!
そんな言い方でごまかしている限り、根強く残る反日感情を理解することは永遠にできないと思います。

終戦の日を前にしてそんなことを感じた一日でした。


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「察し」に期待するな

2005年08月12日 | ことば・国語
先日読んだ本(田村秀行「だから、その日本語は通じない」青春出版社)にこんな話が載っています。

日本文化は「察し」で成り立っている。日本語も「察し」の言葉である。「察し」とは「言葉の上ですべてが言い表されていなくても、また語法的にかなりの揺らぎがあったとしても、相手の言いたいことを汲み取ることができる能力」のこと。俳句のような極端な省略詩が成立するのも、日本人にこの精神的特性があったからで、逆に、言わなくてもわかることまで念を押すように話す人は「しつこい」と思われる。(要約)

いわゆる「皆まで言うな」とか「真意を酌み取る」という類のコミュニケーションですね...。
女性に対する愛情表現をなかなか口にできない古き日本男児の性も、ここに原因を求められるかも知れません...(言い訳...)。
そう言えば、昔、会社勤めしていたとき、お詫びの文章の最後には「何卒事情をお察しいただき...」という決まり文句を便利に使っていました。

田村氏はこの「察し」の文化が国際間ではマイナスに働いていることも認めた上で、なお、日本人同士では「正直な」やり取りより「察し」を念頭に置いた話し方をすべきだと主張しています。

確かに日本文化にはこういう面があると思いますし、その良さも理解できますが、私は「察し」の力は情報を受信する際にこそ活用すべきものであって、発信する側に立ったときにはすべてをきちんと言葉にすべきだと思います。

家族や友だちとの他愛のない会話ならともかく、多少なりとも公的な要素がある場では、「これくらいは言わなくてもわかっているだろう」と省略した一つの言葉が、後々「言った」「言わない」「そんな意味とは思わなかった」などのトラブルを引き起こすことになりかねません。
特に世代を越えた相手とのコミュニケーションでは、常識や価値観などの違いから「察し」の対象や基準も異なってくると思われるので、なおさら注意が必要ですね。

やはりここは、相手の「察し」を勝手に期待せず、言うべきことは明確に言う方が誤解を招かずに済みそうです。
(そうは思ってもやはり「愛してるよ」は言えませんが...)

(さらに、意図的に相手に「察し」を求める手法もありますね。
上記の「事情をお察しいただき...」のように相手に甘えていたり、責任を半分相手に預けたりするような使い方です。
後者の場合、何かことが起こったときにも、自分は断言していないのに相手が勝手にそう取ったと...いう逃げ道が作れます。
ただ、こうした計画的な「察し」への期待は記事の趣旨と異なるのでここでは除外し、話の対象は「良心的」(?)なものに限ります。)

書き言葉の場合はさらに「察し」を期待してはいけません。
田村氏もこの点に触れ、「話すように書くから文章が伝わらない」という一章を設けて詳しく説明しています。
文章では相手が特定できないし、言語外情報(身振りやアイコンタクトなど)に頼ることもできないので当然ですね。

従って書くときには話すときに比べて格段の量の言葉が必要だし、だからこそ「書き言葉は、習得のために訓練しなければならない」という氏の主張には私も大賛成です。

とにかく文章を書くこと、それも自分のメモや日記、ケータイのメール程度のものではなく、不特定多数の読者がいることを意識して正確に伝わるように論理的に書くこと
この練習をすべての教科で実践していきたいという思いを改めて強くしています。
数学の証明問題などはこの練習に最適ですね。
論理を飛ばして独りよがりの説明を書いている子は、それを読む相手の存在を全く考えていないということです。

どうすれば伝わるかを考えながらきちんとした文章が書けてこそ、受身に回ったときの「察し」の能力も高まると考えるのは、あまりに都合良すぎるでしょうか?

p.s.情報を受信する場合には「察し」の力が重要と書きましたが、塾の講師として生徒に向かうときは話が別です。話し言葉でも、相手に頼らず自分の言いたいことを正確に伝える練習を生徒にしてほしいからです。生徒が単語だけで何かを伝えようとしても「それが?」「だから?」と聞き返します。ということで、塾ではものすごく鈍い「察し」の悪い先生になっています。


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著作権について思うこと

2005年08月10日 | ことば・国語
以前から子どもたちの言葉を豊かにするための教材を作ろうと、いろいろ工夫を重ね試行錯誤しています。
英単語なら身近な具体語を覚えるために機械的な暗記も有効でしょうが、小学校高学年や中学生が日本語で語彙を広げるときの対象は主に抽象語になります。
従って、一つ一つの語句の意味を文脈と切り離して学ぶのでは分かりにくく、また実用的でもありません。
そこで、最も映像が浮かびやすい小説を読みながら、その中に使われている言葉をイメージごと身につけようという教材を製作中です。

ここでどうしてもネックとなるのが著作権の問題です。
塾というのは著作権を無視している代表的存在だという話を聞いたことがあり、自分の経験でも否定できない部分が少なからずあります。
正直、コピーで教材費節約したり、教科書の文章を無断借用したりしてますもんね...。          (↑私だけ?

ただ、自分の塾の幹となる教材を作るにあたっては、できればどこからも文句のつかないものにしたい...ということで著作権フリーの題材を探してみました。

今のところ、青空文庫というサイトが充実しています。
小説、児童文学から随筆まで、実に多彩な多くの作品が保管されていて、ほとんど自由に利用できるのでとても助かります。

ただし、ご存知のように今は著作権が消滅するのは、原則として著者の死後50年経ってから...。
2005年では1955年までに亡くなっている作者ということですから、主に昭和初期生まれまでの人の作品に限られます。

生徒の親しみやすさを考えれば、本当は現在活躍している作家や少なくとも戦後生まれの作家の作品を使いたいのですが、それは望むべくもありません。
まあ、考え方を変えれば名作に触れるいい機会だと思い、今のところ漱石や太宰を利用していますが...。

ところで今、この著作権の保護期間を死後50年から70年に延長しようという動きがあるのをご存知ですか?
死んだ後のことですから、もちろん著者本人の意向というより遺族や子孫の意見だったり、存命中の作家が先々のことを考えての発言ということになりますが、皆さんはどう考えますか?

言葉による作品に限らず、作者の権利が保障されなければならないのは当然ですが、一方でそれが行き過ぎれば文化の自由な発展を阻害することになります。
子どもたちの学習に使える素材を選択する幅が狭められることは、後世のためにプラスとは言えないと私は考えています。

「青空文庫」でもこの著作権70年化に反対しています。
著作権が20年延びると、ざっと見ただけでも新たに太宰治や岡本かの子、泉鏡花などの作品が自由に使えなくなります。

外国では70年が一般的との意見もあるようですが、だから日本もそれに合わせようというのではあまりにも短絡的...。
延長によるプラス面とマイナス面を十分検討し、幅広い層の声を集約して考慮すべき問題だと思います。

参考:なにゆえの著作権保護期間70年延長か


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同じ文字なのに...

2005年08月08日 | ことば・国語
以前どなたかとのブログ上のやりとりで考えたことです。

私も多くの方と同じように本が好きです。
決して読むのは速くありませんし、内容もメモしておかないとすぐに忘れます。
衝動買いでほとんど手つかずの本もチラホラ...(でも、いいと思ったときすぐ買っておかないと、次に探したときにはもうないんですよね...)。
それでも凝りもせず、常に3~5冊の本を並行して読んでいます。

もちろんネットでHPやブログを見ていても、この文章はいいこと書いてあるなぁと思うこと度々ありますよね。
そんなとき皆さん画面で読むだけで気が済みますか?
リンク貼ったり、お気に入りに登録するだけで満足できますか?

私は特に、気合い入れて読もうとする文章や参考にしたい文章は、モニター上の文字を読むだけでは何か心もとなく、プリントアウトしてしまいます。

ネットだって、聴くときのように情報が瞬時に消えて行ってしまうわけではなく、文字として何度も読み返すことができる。
検索機能を駆使すれば、データベースとしてはむしろITの方が優れている。

そんなことは十分承知の上で、それでもやはり紙の上に印刷された文字を読まないと読み込んだ気がしない...物足りないのです。
画面の文字を追っているだけでは頭に入ってこないし、考えもまとまらない...。

これはなぜなんでしょう?
こんな思いを感じているのは私だけですか?

小さいときからパソコンが身近な最近の子どもや若い人たちは、こんなこと感じないのかも知れませんね...。

たぶん私は未だに無意識のうちに、ITの世界をどこか刹那的で怪しげな、浮き草的存在だと感じているのだと思います。
だからもっと確かな形に残しておきたいという...。
あるいはモニター上の文字は、「読んでいる」のではなく「見ている」状態に勝手に脳が切り替えているのか...。

どうも理由ははっきりしませんが、活字中毒はやはり紙の上の文字を読まないと癒されない...ということだけは間違いないようです。


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高校野球は教育の一環?

2005年08月06日 | 日々雑感
毎日新聞によると、

「第87回全国高校野球選手権大会に出場する広島代表の高陽東が、6日午前8時15分の原爆投下時刻を前に、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で、開会式に備えて集合した他の48チームの選手たちに黙とうを提案しようとしたところ、日本高校野球連盟の関係者に止められ、同校ナインだけで黙とうした。」とのことです。

高野連側にもいろいろ事情はあったと思いますが、「広島の長崎もまとめて終戦記念日に黙祷しているから」というのは今一納得いきません。
まとめていいものなんですか?!

おまけに上記の記事では「原爆は広島だけのこと」だから「みんなを巻き込むのは良くない」という発言があったとか...。
「広島だけ」はまずいんじゃないですか?
そんな他人事のような言い方は、提案した高陽東の生徒に失礼ではないでしょうか。

勝利至上の高校野球の現状そのものにも問題はあります。
野球留学で他県(or他国)からの部員ばかりが多く、郷土の代表とは呼べない高校。
星陵の松井全打席敬遠を指示した強豪校の監督。
相手の選手に露骨なヤジを浴びせる部員の保護者たち...。
「ひたむき」「さわやかさ」などとは縁遠い現状が随所に見受けられます。

ただ、それとは別に私が今日問いたいのは高野連のあり方です。

今回の明徳義塾の異例の出場辞退にしても、監督や学校側の対応のまずさばかり指摘されていますが、そもそもなぜ連帯責任なのか、なぜ出場辞退なのかという議論は少ないような気がします。
喫煙も暴行ももちろん悪いけど、今回の場合、まじめに努力してきた生徒まで巻き込まなければいけないほどのことでしょうか?
「五人組」じゃあるまいし...。

高野連の言う「教育の一環」という論理を、皆さんもっともだと納得しているのでしょうか?

大きな声であいさつし、身なりも高校生らしく、勉強にも励み、もちろん悪さはしない...。
そんな「高校球児」の理想像を演じている奥底には「連帯責任」の影がちらついていると考えるのはひねくれすぎでしょうか?
みんなに迷惑がかかるからいい子でいようと思わせる...それは教育と言えるのでしょうか?

少年野球から何年も野球漬けの生活を送ってきて、やっと夢の甲子園に出場が決まったのに直前になって連帯責任で辞退...という仕打ちが教育なのですか?
その現実を受け入れろというのが教育なのですか?

原爆の悲惨さを忘れないため、世界に核廃絶を訴えるために全員で黙祷をしようという提案を、大会運営を優先して認めないことが教育なのですか?

どなたか私に教えてください!


p.s.今日高校入試の模試を受けていた中3に「今日何の日か知ってるよね?」と聞いたら、知っていたのは5名中1人だけ。「終戦記念日は何日?」も正解はその子だけでした。ちょっとなぁ...。


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国語のリスニング

2005年08月05日 | ことば・国語
このところのイメージする力、想像力の話題に関するやりとりの中で、madographosさんが「子どもたちの聴き取り能力の低下」を指摘されていました。

これについては私も常々考えていました。
「読んでわかる」の前段階として、あるいはそれと並行して、「聴いてわかる」力の育成にもっと関心が向けられる必要があると...。

イメージする力を育てる練習には、読む素材よりまずは聴く素材の方が馴染みやすいのではないでしょうか。
自分で本を読むより人に読んでもらったのを聴く方が想像が膨らむ...子どもに対する読み聞かせの効用の一つもこれですね。
大人になっても、プロの読んだ朗読を聴くと独特の心地よさに浸れます。
文字を追う必要がないので視覚を遮断できることが、想像力の広がりにプラスに働きます。
さらに、文字のように読み返すことができず聞いたそばから言葉が消えて行ってしまうので、その分集中して聴くことが想像力にもいい結果をもたらすのかも知れません。

madographosさんはまた、落語、講談などの「語りの文化」を味わうことを子どもたちに体験させては?...と提案されています。
これはいいですね...。
朗読の鑑賞と共にこれらもぜひ国語学習に採り入れたいと思っています。

で、ここからはまたテツさんのコメントから考えたこと。
ラジオの野球中継のアナウンサーも、落語や講談の演じ手も、もちろん本の著者やその朗読者も、映像がない分、その情報を受け取る人たちのイメージが膨らむよう表現に工夫を凝らしますよね。
同じような場面の描写なのにこの人の話は絵が浮かびやすいとか、細かいことまでわかるとか、発信者によって微妙な違いがあるはずです。

聴き手の立場に立った気配り...いわば話し手、書き手側の想像力とも言えると思います。
それを体感することも勉強になるのではないでしょうか。
以前書いた、絵や図形、マンガのあらすじや地図をわかりやすく説明する力を高めるためにも有効なのではないかと期待しています。

ともあれ、お盆休み明けからいろいろなジャンルの作品を対象に、しばらく国語のリスニングを実践してみることにします。
また随時経過をご報告したいと思います。お楽しみに...。


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テレビは想像力の敵か?

2005年08月03日 | 学習一般
前回の「イメージする力」の記事にテツさんからこんなコメントをいただきました。

 >想像力の欠落は、溢れる情報量によって、幾らかの想像がつくからでしょうか?私は決してそうは思いません。より想像が豊かにふくらむと考えています。

これに関連したことを私も記事を書きながら考えていました。
溢れる情報の中でも想像力とは対極に位置するであろう映像について...。
特に悪名高きテレビについて、よくあるような「テレビやビデオは想像力の発展を阻害する」と書こうとして、待てよ...と思ってやめたのです。
テレビも想像力にプラスの面もあるのではないかと...。

私は野球中継をラジオで聴くのが嫌いではありません。
長野では阪神戦をなかなかテレビでやってくれないからという事情もあるのですが、ラジオ特有の緊迫感が好きです(雑音と戦いながら大阪のABC聴いてます)。
ホームランや3塁打が出たとき、サヨナラヒットのときなどは、選手の動きや球場の様子が目に見えるように伝わってきます。

でも、野球を生でもテレビでも一度も見たことがない人は、いくら想像力が豊かでもラジオを聴いただけで絵が浮かぶことはないですよね。
「...大きいぞ!...ライトバック、ライトバック...見送った...入った、ホームラン!」
という実況を聴いて目に浮かぶ映像は、よほど球場に日参している人でない限り、テレビで見たことのあるそれだと思います。

戦国時代の戦いのシーンにしてもマグマやプレートの動きにしても、動く映像を見たことがある方が、その話を聞いたり読んだりしたときに、よりリアルなイメージ化が可能です。
そして頭の中の映像が鮮明であればあるほど、さらなる想像を膨らますことも容易になるのではないでしょうか。

ただ、だからと言って映像ばかりに頼りきっていては、もちろん思考力も想像力も育まれません。
基礎知識として視覚から得た情報があって、あとはむしろ視覚を遮断して思いを巡らすのが最良なのでしょうか...。

結局、映像にしてもその他の種種雑多な情報にしても、自分がどれだけ能動的に積極的に関われるかが、想像力を働かせることのできる余地を左右する気がします。
受身ではそれらの情報に表面的に現れていることを直接的に、発信者の思惑通りに受け取って終わりになってしまいます。思うつぼです。
映像情報は特にそうなる危険性が高いので要注意!ということですね...。

テレビを「ああ、そうなんだ」とボーッと見ているだけでなく、「なるほど」と納得しているばかりでなく、「あそこに見えるあれは何なのか」「この表の説明はおかしいのではないか」、さらに「なぜここでこの映像を出したのか」などまで考えながら見れば、そこから想像力も広がると思います。
もっとも、いつもこんな風にテレビ見てたら疲れるだけですけどね...。


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